鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.110『私(イエス)は世の光』(8章)

2006年01月01日 | ヨハネ伝解読


~~2006年の新年に入りました。
  皆様、おめでとうございます。

 鹿嶋は残されたこの世での時間を、刻一刻と消費しております。


                    


 新年ですので、気分を一新して、「ヨハネ伝解読」を再開してみましょう。

 題8章が「姦淫の女」の場で華やかに幕を開けたところで、中断いたしました。
本日は、その次に入ります。

 ここから話は、突如一転してイエスの深い教えに入ります。それはヨハネ神学の深いところでもあります。

 ここから話があまりに一転するので、第8章では冒頭の「姦淫の女」の話は、ヨハネ伝が書かれた後で、他の人が挿入したんではないか、という説があるくらいです。


                                


~~では、始めましょう。
 ご自分の聖書を開かれることをおすすめします。



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=聖句=
「私(イエス)は世の光です。私に従ってくるものは、闇のうちをあるくことがなく、いのちの光を持ちます」(8章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


 イエスはまず、「私は世の光だ」と宣言します(12節)。そして、自分だけではなく、「自分(イエス)に従うものもまた、いのちの光を持つ」というのです。


+++

 ここで、聖書に出てくる光という言葉の意味を知っておくことが必要になります。聖書のなかの「光」という言葉には二つの意味があるのです。

 一つは、我々の肉眼でみるところの光です。この実体は光子(こうし)という、とても軽い素粒子であることが物理学では見出されています。英語ではライト(light)です。


                    

 第二は、栄光という光です。英語ではグローリー(glory)ですね。これは創造主から放射される「いのち」というエネルギーが発する光と言っていいでしょう。

 いのちエネルギー自体がそういう明るさを持っているとイメージして差し支えありません。だからイエスは「いのちの光」というわけです。

+++

 この第二の光も、人間はある程度感知できているのではなかと思われます。

 よく「根暗」とか「ネアカ」とか言うでしょう。根が暗い、根が明るい、という意味です。これは肉眼には直接感じられないけれども、その人の内側(根)から発するものが、なにか暗い感じがする、あるいは、明るい感じがする、ということを言っている。

 そういうものを、一般の人間でも感じるんですね。このとき感知されているものは何か。聖書の論理ではこの「いのちの光」、栄光の光ということになるでしょう。

 なお、この光は創主の王国である天国から、宇宙を突き抜けて地球に届くのに、一秒もかからないほど速いという理屈に、聖書ではなります。そうすると創主への人の祈りはこの光によって天国に届けられると言うイメージでしょうか。


                    


 対して、素粒子の光は、進行速度がゆっくりです。球体である宇宙の外からその中心部に届くのに750億年かかるとか1000億年かかるとか物理学では推定されているようです。

 これで祈りが伝えられるんでは遅すぎますよね。祈りが伝わる前に、祈った人は死んでしまいますからね。いま光ファイバーによる超高速通信が話題になっていますけれども、栄光といういのちエネルギーの光に比べたら、超ゆっくり通信となるでしょう。

 そして、イエスは「自分(の言葉)に従うものもまたこの光を持つ」といいます。これは栄光の光です。だから「いのちというエネルギーを持つ」というのと実質同じですね。イエスの言葉に従うものの霊には、いのちエネルギーが吸収される。これは聖書の鉄則であります。



                     



 ~~元旦ですのでもう一つ進みましょうね。

<私(イエス)は被造物と違うんだ>

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=聖句=
「私のことで証言するのは私自身です。そして私を(この世に)つかわされた父もまた私のことを証言します」(8章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                     

 さらにイエスは、本質的なところをズバリ口にします。「すなわち自分は諸君らのような人間とは違うんだ、創造主の子なんだ」と宣言するのです(18節)。

 さきほどイエスが「私は世の光だ」と言ったことを示しましたね。これに対して、ユダヤ教パリサイ派の人々はいいます。「ああ、あなたは自分で自分のことを証言している。そういう場合、その言葉は無効なんだ」と(13節)。

 この人たちが言いたいのは、ユダヤ人の社会では無効だということです。どうしてかというと、それは(旧約)聖書に「二人による証言がある場合、それは真実として扱われる」というルールが書いてあるからです。イエスもそのことは認めています(17節)。


                    

 ところが、その次からのイエスがいう主旨が画期的であります。「だがそれは、諸君ら被造物なる人間に対してのルールなんだよ」「私は創造者の側の存在なんだよ。諸君らとは違うんだよ」が、それです。

 だが、この主旨を省略してイエスはこういっています。「まあ、二人の証人が必要というのなら、一人は私自身、そしてもう一人は私の父なる創造主ということにでもなるんだろうけどね」と(18節)。


                    


 これはジョークではありません。イエスは他の箇所で「私の語るところは、父が語るのを聞いてそのまま語っているのだ」といっています。そして、真理の源は創造主であるというのが、聖書の絶対の鉄則なのです。だから、要するに創主から出た言葉は、真実そのものということになる。


                    


 では「二人の証人がいる場合、その言葉は真実」という(旧約)聖書のルールはそれとどういう関係にあるでしょうか。

 結論から言うと、それは「不完全な人間社会で、人の言葉の真実、不真実を判定しながら社会を運営して行くには、まあ、その程度でやっていきなさい」というものなのです。

 もちろん人間が、創主のなされる善悪の判断を感知できるのならば、話は変わってきますよ。

 しかし、アダムが原罪を犯して以来、人類は創主の思いをほとんど感知できなくなった、というのが聖書の論理です。だから、自分の言葉を真実と主張するには二人の証言を得よ、というルールが下された。それが実状なんだよ、というのがイエスの言の背景にあるわけです。

                    



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1 コメント

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ことしもよろしくおねがいします (じゅん)
2006-01-15 00:22:31
あけましておめでとうございます。

先生の執筆活動

ますますのっていますね!!

今年も健康でがんばってください。

主にあって
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