鹿島春平太チャーチ

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米国への無知を正す41 ~ハイエク「暗」の部分を明るみに出す~

2015年10月03日 | 米国への無知を正す





前回、マルクス理論の「明」の部分の扇情力が、わずか半世紀余の間に世界を二分したことを示した。

この動向が続いたら、世界全体が全体主義の暗黒時代に突入することもあり得た。




<『隷従への道』>

だが、そのなかで一人の学者がマルクス理論の「暗」の部分を明るみに出した。

経済学者ハイエクがその人で、彼はそれを著書 『隷従への道』("the Road to Serfdom”) の中で、論理的に順を追って明かしていった。

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この本は1944年に米国で出版された。

1944年といえば、太平洋戦争終結のわずか1年前である。

マルクス理論はすでに19世紀に世に出ている。

あまりに遅きに失した観があるが、それほどにマルクス思想の「明」の部分の扇情力が強かったということだろう。

がともかく、遅ればせながらこのハイエクの本が出た。




<モンペルランソサエティー>

ハイエクは高度に論理的な思考の人であって、その内容を理解できたのは、世界においても一部の人であった。

だが、その一部の人たちは学者や、知識があり行動的な資産家だった。

1947年、彼らはスイスの小さな保養地、モンペルランで「ハイエクセミナー」を開いた。

39人の参集者はモンペルランソサエティーという学会を形成し、ハイエクの洞察を広める決意をした。

彼等は世界のあちこちで研究会(カンファレンス)を毎年開くことで合意した。
また、個人的には日常にも様々な啓蒙活動を試みた。




<みんなが「社会主義的」に>


ハイエクは著書の中で、「いまや全ての人の社会思想は程度の差こそあれ社会主義的になっている」と嘆いた。

戦後米国の大学でもそうであって、東海岸のアイビーリーグと称された銘柄大学の教師はみなそうなっていた。

中西部のシカゴ大学だけが例外で、ハイエクは、戦時中ナチスの迫害を逃れて、この大学に身を置いていた。

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ハイエクの影響の中で、国家の危機を強く感じた上院議員もでた。

マッカーシー〔1946年当選)である。

この議員の予備調査では、公的機関の要職に就いている人々の多くが、すでに密かに社会主義的な思想を持って働くに至っていた。





<マッカーシー旋風>

彼は、1950年2月に「国務省には205人のスパイがいる」と宣言し、レッド・パージ(共産主義者追放)運動を開始した。

日本では赤狩り、とも呼ばれたこの運動は強烈だった。

それは全国的に展開され、マッカーシー旋風とも呼ばれた。

赤狩りはGHQという日本の支局にも及び、そこでも徹底した調査と追放がなされた。

米国ではそれは大学教員にも及んだ。

当時ハーバード大学にいた日本人経済学者・都留重人氏が、逮捕逃れのために仲間を売った、と噂されたのもこの頃である。





<今もワルモノイメージが強いが>

マッカーシーの運動で、米国の公職から、社会主義思想に染まった人物はほぼ一掃された。

だが、その運動の徹底ぶりが米国人に衝撃を与えたこともあって、彼には今もワルモノのイメージが強い。

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もちろん、評価の声もある。

たとえば後年、筆者が身を置いた米国のとあるシンクタンクでの、中心的研究者たちはそうであった。
彼等が「マッカーシーの働きがなかったら、米国はどうなっていたかわからない」と語っていたのを、筆者は憶えている。

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その一方で、筆者の友人だった別の研究者は「マッカーシーは凶暴・残忍な人物」と吐き捨てていた。

彼は、身の回りの公務員が過酷に調べ上げられたただ中にいた。
その時の心の傷が1980年代になっても残っていたのだ。

そしてこの心情の方が米国では一般的であった。
いまもそうだろう。

それほどに、赤狩りは全国的で、かつ、熾烈を極めたのだ。

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ともあれ、ハイエクの鋭い洞察は、まずは二つの動きを米国に引き起こした。

モンペルラン協会の発足・拡大と、マッカーシー旋風がそれであった。









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