自由吟味教会と教理統一教会、
・・・この両者は、深いところで、水と油と言えるほどに相対立する性格を持っています。
【個々人に聖句解釈の自由を認める】
自由吟味教会ではまず第一に、個人の聖書解釈を自由にしています。
個々の教会員が,聖句に直接対面しその意味を常時思案するのを許している。
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第二に、数人のスモールグループをつくって互いに解釈を吟味し合います。
個々人が自由に吟味した後に、それを持ち寄ってつきあわせ、検討しあうのです。
やってみるとわかりますが、実際上、基本的な論理の解釈には一致が見出されていきます。
のみならず、この一致は、グループ討議によって一層深まるのです。
これは、体験したものだけが悟れることです。
体験のない外部者は、逆の事態を想像します。
聖句解釈を自由にしたら、各々勝手な解釈に分かれ、教会はバラバラになってしまう、と思うのです。
この誤った常識は、現代においても大勢を占めています。
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第三に、一般信徒と牧師など職業僧侶との間に権威の上下を認めません。
これは「個人の聖書解釈自由」という第一原則から繋がって出てくる原理です。
もし権威の上下をつければ、教会員の聖句解釈は実質上、自由でなくなるのです。
日本ではこの原則を「万人祭司」といったしゃれた言葉で邦訳しています。
祭司とは、カトリック教会での教職者の呼び名です。
それを使って「もし教職者である祭司が権威ある存在だというのなら、一般信徒みな祭司だ」といっているわけです。
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第四に、教会の間にも権威の上下をおきません。
これもまた、第一原則を実質上有効に機能させるために、論理上出てくる原理です。
教会は連盟を作って運営されていくことが多いです。
その場合、所属教会に権威の上下を認めれば、上位の教会の会員の意見が、下位の教会の人の解釈より無条件に優位に立っていくことになります。
そうなれば、第一原則~個人の聖句解釈自由~が機能しなくなってしまいます。
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たとえば教会が外部に、新しい教会を開拓していくことがあります。
こういうとき、もとの教会を母教会、新しい教会を支教会と呼んだりします。
母教会は、支教会が建ち上がっていく過程で、資金や人材で援助するのが普通です。
そのとき母教会の見解がなにかにつけ、支教会より上位に扱われやすい。
だがそうなれば、連盟に属する教会の信徒の聖書自由原則はは成り立たなくなります。
そこで、個々の教会の独立を基本的に認めます。
これは各個教会独立の原理と称されます。
これは、万人祭司原理と同じ発想の原理です。
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このように、個人の聖句解釈自由という原則が実質上機能するためには、関連する他の様々な局面のあり方も規定されていきます。
それらが全体として、聖句自由吟味運動を維持していくためのルールの体系をなしているわけです。
【教団教理以外の解釈を許さない】
次は正統教理統一教会です。
ここでは、一般信徒に自由な聖書解釈を赦しません。
それをさせないために、聖書を直接読むことをも禁じます。
人間、読めば疑問を持ったり、色々考えるものだからです。
だからもちろん、スモールグループも禁止です。
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聖書吟味は、プロの職業僧侶だけが行います。
彼らが会議で合意した解釈を、教団の正統教理として、一般信徒に供給します。
こうして、職業僧侶が上位の権威をもって信徒を導くのです。
ここでは万人祭司などとんでもない戯言となります。
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一般信徒だけではない。
職業僧侶自身も、明確な管理階層を形成して、上下秩序ある行動をとります。
教会においても、各地区教会は司教が管理し、司教が管理する地域の教会群はまた、大司教に管理されます。
その頂点に教団本部があって、そこには、たとえば教皇などが最高権威をもって統率します。
各個教会の独立? そんなものは異端の言うたわごとだ、となります。
教理統一教会では、こうした原理の体系で教会を組織化し、統率のとれた教会運営をしていきます。
【学問知識の修得法でいえば】
二つの活動方式は、現代の中での学問知識の習得方法に対比させると、また新たな側面が見えてきます。
教理統一方式は、義務教育過程における学校教育(とりわけ日本の)に対応しています。
そこでは生徒に教科書を与え、それが正しい知識を示しているとして学ばせています。
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だが実際には、教科書に載る知識は、その時期に学界で優勢になっている定説知識であるにすぎません。
学会では、いろんな説を述べる学者がいて、各々が自説を吟味し研究を続けています。
教理統一教会では、教会員はこの小・中学校の生徒に対応しています。
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この視点から見ると、自由吟味教会の教会員は、学会の学者に対応しています。
個々人が自由に聖句探究をし、小グループで吟味し合うのですから。
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「でも一般信徒は、学者のように知的に卓越してはいないのでは・・・」との思いを抱く人もいるでしょう。
だが、少なくとも神学的知識、聖句解読の知識に関してはその直感は正しくありません。
訳者は、米国南部の神学大学院に訪問研究者として一年間籍を置き、その一方で、三つの自由吟味教会に出入りさせてもらいました。
大学院ではもちろん聖句解読の講義があります。
他方、聖句吟味教会では、熟達した教会員に神学講義を毎週,夕方にさせていました。
教会員は、それに自由に出席して議論するわけです。
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その教会での講義は、神学大学院の教授の講義に少しも遜色のないものでした。
素人だろうと、有給の職業研究者であろうと、聖書解読においては優劣のない状態になることを、訳者はこの目で確認しました。
おそらく、他の知識分野に於いても、ことは同じでしょう。
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ともあれ以上でわかるように、自由吟味方式の教会と教理統一方式の教会とでは、その活動状態は水と油になります。
前者が後者に吸収併合されることなど、あり得ないのです。
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余談です。
近代国家の政治運営法としてとられている民主制度は、この自由吟味制度を母体にして出来ているものです。
そこでは言論の自由、個人の思想信条の自由などの原理がセットとして守られています。
本書はそれらが、この自由吟味主義の土壌に育ち開いた花であることをも明かしていきます。
その意味でも、自由吟味活動を黙殺しないキリスト教史の知識を持つのは、大切なことなのです。
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(Vol.6 <訳者解説>5 ~二つの教会は水と油~ 完)