鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.14   7章 連合会創設と西部への宣教

2016年09月21日 | バプテスト自由吟味者の道






【連合会の必要性増す】


1800年1月1日時点でに、バプテスト教会の数は1100個に、教会員の数は10万人になっていました。

  だが今日のような州の連盟は、当時はありませんでした。

  バプティスト自由吟味者は~

レギュラー・バプティスト、
フリーウイル・バプティスト、
セブンスデー・バプティスト、
シックスス・プリンシプル・バプティスト

  ~の四つの派に別れていました。

  それらをまとめる超教派全国組織は、存在していませんでした。

小さな地域の、断片的な「連盟」は、いくつか存在していたのですが。


+++

そうした小規模連盟の多くは、対外宣教活動に対して、明白な反対姿勢を持っていました。

  教会員が加速度的に増大し、それどころではなかったのです。

  教会堂のスモールグループ活動用小部屋が足りなくなりました。

無理に詰め込んだら、壁が内側から押されて壊れそうになるくらいでした。

かくのごとくにバプティスト教会が膨張する直前には、合衆国は西部方面に突進するかの如き進展を開始していました。




  この頃のバプティスト信徒の姿は、訳がわからないままで突然大人扱いされ始めた不器用な若者に喩えられます。

  自分がどういう力をもっているかがわからないのです。

新規採用された屈強な軍人たちが、個々バラバラで野営テントにいるような状態に喩えることも出来るでしょう。

  とにかく彼らには全員を結束させる何かが必要でした。

  そして・・・彼らはそれを得ることになるのです。




【宣教連盟を結成する】

  1812年、偉大なる老軍艦コンスティテューションが、海上で英国の戦艦ゲリエールを捜索していました。

  そのとき、他方では、軍艦に比べたらみすぼらくみえる二艘の客船がインドに向けて航海していました。

  デッキには初のアメリカ人宣教師が近代軍人の如き姿で乗船していました。

アドニラム・ジャドソンとルーサー・ライスがその人でした。


  彼らは積み藁を世話するボランティアとしてカルカッタに向かっていました。

 そしてカルカッタで彼らは、バプテスト自由吟味者の話を聞いて、バプテストに転向しました。


+++

ライスは帰国後、自らの転向体験をバプテスト教会を回って語りました。

自由吟味方式を伝える宣教活動の大切さを説き、支援を要請しました。

  彼は全国を遊説し、消えかかっていた昔の宣教の情熱をあおりました。

彼は素晴らしい活動報告をしました。

話し方をよく知っていたのです。




  バプテスト教会は反宣教主義の穴倉から出てきて、ライスを支援するようになりました。

  勢いづいたライスはバプテスト教会に宣教の大義を与え、人々を奮い立たせました。

こうして国中に宣教団体を造っていきました。

  若き巨人、バプテスト集団は、こうして自らの力を自覚し始めていったのです。

むかし、利口なフランス国王がこう言ったことがあります。

「国内に革命運動が育ってきたら、外国との戦争をあおれ」~と。

そうすると人民の意識は外に向かって高揚し、国内での革命熱は下がっていく、というわけです。

  この対外戦争に向かう人民に似たような心理が、バプテスト教団内で働きました。

その仕掛け人がルーサー・ライスだったわけです。


+++

こうした努力によって、1814年までには、バプテストの海外宣教連盟が活動状態に入っていました。

バプテスト教派海外宣教米国総会、というのがその名でした。

  名前も長かったのですが組織も大規模でした。

  連盟は、3年ごとに総会を開催しました。

人々はそれを「トリエニアル(3年毎の)会議」と呼びました。




この総会から良き果実が生まれました。

海外宣教協会だけでなく、国内宣教協会もできたのです。

  加えて~

バプテスト出版協会、
アメリカアプテスト歴史学会、
教育協会、
若者連盟

   ~も出来ました。


 活動を多様化するために、神学校もいくつか設立されました。


 トリエニアル会議は緩やかな連合体でしたが、バプテスト自由吟味者の活動にリズムとアイデンティティをもたらしました。

  言ってみればそれはドラムでした。

人々はその上でそろって足踏みし、それをたたき、リズミカルな行進をしました。

  総会はまた「自分たちは一つの教派を形成している」という意識を、バプテスト自由吟味者の心に作りました。

 この意識は、以前より強く求められていたものでした。




【西部フロンティア宣教に乗り出す】


  その頃アメリカ合衆国の西方のフロンティアは、躍動するかの如くに西漸運動を続けていました。

 バプテスト自由吟味者は、そのフロンティアを追うようにして西に進み、開拓住民を真理の言葉に導きました。

  西部の無人地帯に 「”硫黄の”ダニエル・ブーン」と呼ばれた荒れくれ男がいました

   (米国の開拓者。特にケンタッキー地方を開拓した。・・・訳者註)

この地にはブーンの名を持つ「素封家」が複数いましたが、彼はその一人でした。

  またその弟もそうでして、彼は同時にバプテストの説教者でもありました。


若きアブラハム・リンカーン(後の米国大6第大統領)の両親もバプテストでした。

 母は、信仰堅き自由吟味言者であり、父はビジョン・クリークでのバプテスト教会建設を援助しました。




  バプテストは無人の荒野にも馬で踏み込んでいきました。

  荒野にはぽつんと孤立して存在する町もありました。

通常そこは乱暴者の多い無法地域です。

  だが、彼らはそこにも入っていきました。

  ケンタッキー、オハイオ、インディアナ、イリノイ、アイオワなどの新しい州では、例外なくバプテストの宣教者が説教し、集会所を建設していました。

+++

  彼らはどんな地域にも向かいました。

 そこに酒を飲んでのどんちゃん騒ぎ、喧嘩、賭博、殺人、馬泥棒、競馬(馬泥棒より悪いとされていた)があれば、彼らはそれと戦い、組み伏せました。

  厳格な規律で抑え込みました。

孤立しても法と秩序を押し立て続けました。

怒声、いやみ、毒気の根も抜きました。

  バプテストが荒野の小道に立ち寄れば、そこに教会が残りました。

 それ以後、教会は活動し続けました。




【教会員への姿勢】

  ケンタッキー州にあったサウス・エルクホーンという旧い教会の日記帳には~
  「ロバート・ヒックリンは競馬をしたかどで教会を除名された」
               ~と記されています。

  またこういうのもあります~。

 「ポリー・エドリントン姉妹に告発がなされた。 件名は、数人の隣人たちが互いに口げんかするように、告げ口し回ったことである。彼女はその件で除名された」~と。


  (キリスト教会では、女性会員の名に姉妹をつけて呼び、男性会員をの名には兄弟を付けて呼ぶ。・・・訳者註)


  さらに~

 「以前ウィリアム・フィッツジェラルドの奴隷だった黒人教会員のモリーもまた除名された。理由は嘘をついたことである」~という記録もあります。

  けれども、当人が正直に悔悟した時には、フロンティア地域のバプテスト教会員たちは哀れみ深く応じました。

  ケンタッキー州のマウント・タボル教会のアーネット姉妹は、飲酒のかどで召喚されましたが、教会日記には~

「彼女は謙虚な姿勢で自分のしたことを謝罪したので教会は彼女との交わりを復活させた」

      ~と記されています。






【巡回伝道者】


  西部開拓地とは、 アルゲニー山脈から太平洋岸にいたるまでの全域をさします。

  福音がそこにあまねく行き渡るには100年の歳月がかりました。

 そしてそれは、巡回伝道者の働きなしには実現し得ないことでした。

+++

  巡回伝道者の中には、時によっては凶暴になるものもいました。

 文字の読めないものいました。

 よごれた身なりの者、唇にタバコのやにをつけた者、舌がアルコールで腫れ上がった者もいました。

  そうした人物も含めながら、巡回伝道者の総集団は、多くの魂を救いました。


+++

  彼らはフロンティアに住む”ガラガラヘビたち”に対峙し、その罪の毒牙を抜きました。

 彼らはこうした野人の心に平等感を植え付け、米国に民主社会の土壌を作りました。

 この働きで、西部開拓地はついに ”オールド・ヒッコリー” をホワイトハウスに送り込むまでになったのでした。

(“オールド・ヒッコリー”は米国第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンのニックネーム。・・・訳者註)



+++

  これらはバプティスト教会の輝かしき面ですが、そうでない面もありました。

  牧場の羊が囲いを破って大量に脱出するような事態も起きたのです。

(羊とは教会員のこと。キリスト教界では一般信徒を羊と呼ぶことも多い。・・・訳者註)


 1825年から1865年までの間に、おもだった教会を出て小教派をつくる動きにでた信徒の数は、膨大でした。

  だが大教会は、それをもちこたえて存続しました。

  教会を脅かしたこの分裂動向を耐えきったことは、バプテスト自由吟味者がなした、19世紀最大の功績でしょう。




  大教会にとっては災害的で、破壊的だった分裂運動には、次のようなものもありました。

  一つは、 ハードシェル運動です。

 これは自己の信仰の純粋を保つためには、外部者との交わりを避け、堅いからに閉じこもるべきと主張した運動でした。

 ディサイプル運動というのもありました。

 これはキャンベル牧師に率いられたもので~

 「信徒はイエスの使徒たちのようになるべき」

     ~として厳格な訓練を課す活動でした。


  バプテスト連盟の南北分裂もありました。

 これには南北戦争も追い打ちをかけました。




  これほど多くの面から乱打されたら、バプテスト自由吟味者はちりじりバラバラになると、誰もが予想するでしょう。

ところがなんと、彼らはこれらによってさらに力を付けたのです。

  ハードシェル運動は、カルバンの予定説神学を従来より一層厳格に解釈して賛同者を得ました。

  キャンベル主義者たちは、キリスト信仰への転向や、バプテスマ(洗礼)に関して独特の見解を展開して歓迎を受けました。

  これらの運動に賛同して母教会から20万人の教会員が脱退しました。

 これは掛け値なしの数字です。


  けれども 1845年でみるとこれら母教会は、南部で126パーセントの会員増を達成しているのです。

 また全国での増加率は、プラス175パーセントとなっていました!


(Vol.14   7章 連合会創設と西部への宣教   完)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする