鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.9   2章 いくつかの自由吟味グループ

2016年09月16日 | バプテスト自由吟味者の道




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(訳者解説)

  ミードは次に、英国近代バプティストの生成に関連性の高いグループを三つあげて説明します。


  他にも聖句自由吟味グループは沢山ありました。

  カタリ派もその一つで、箒木蓬生『聖灰の暗号』は、彼らが受けた悲劇的な連続火刑を描いています。


 だが、自由吟味者の集団は、その存在が認知されにくいです。

 集団が固定的な管理階層組織をもたないし、豪華な教会堂を建てたりもしないからです。


  彼らの集団は、流動的な草の根的存在です。

 名称も、外部の人々が思いつきでつけるニックネームのようなのが、ほとんどだからです。

  そうした中でミードはここで、ワルド派、アナバプティスト派、メノナイト派の三つを説明しています。

では、本文に参りましょう。

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【ワルド派聖句主義者】


 最初の上質な反国教主義者は、ワルド派の人々(ワルデンシアン)です。

  彼らは、12世紀にローマカトリック教会と異なる歩調をとりました。

  以来いかなる拷問を受けても、国教であるローマカトリック教会と歩調を合わせることはありませんでした。


  ワルド派の名は、フランスの都市リヨンのピーター・ワルドに由来しています。

  彼は財産家でしたが、聖書の中のイエスの言葉を読んで、その全てをうち捨てました。

  その言葉とは、若い資産家の青年指導者に向かってイエスが与えたもので、「財産を捨てて私に従え」という命令でした。

  ワルドは清貧の重要さを悟りました。


  彼は、伝道はその地の住民たち自身が使っている言葉でなすべきと確信しました。

  それゆえ、各地で翻訳できる者をみつけ、聖書を住民たちが読める言葉に訳させました。

  そして自分がしてきた伝道活動を土地の人に引き継がせたのです。

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  彼は多くの弟子を作り、厳格な規律を課しました。

  そしてローマカトリック権力に拷問を受けても所説を変えない、頑固な異端者(カトリックからしたら)に育て上げました。

  それまでにカトリック権力から拷問された人の中で、彼らほど頑固な異端者はなかったでしょう。

  彼らはカトリック教団勢力によって、アルプス山脈の洞窟や谷間に追い込まれました。

  だがローマカトリックが迫害行動に疲れてくると、街に出てきて自らの信ずるところを説教しました。

  今日もワルド派の人々はは一万五千人ほどいます。





【ワルド派の思想】

 ワルド派のおきてや原則をひとまとめにして示すのは難しいことです。

 彼らの信条は単一ではないからです。

  教師や説教者や監督者には、カトリックのやり方をそのまま援用するグループもありました。

  かと思うと会衆主義的な運営形態をとり、高度に福音主義的に(新約聖書の聖句を中心とするやりかたで)活動する集団もありました。

  この人たちは化体説を否定しました。

化体説とは~
    教会での聖餐式でパンと葡萄酒をイエスの肉と血であるとして食すると、信徒の身体のうちでそのようになるとする説です(訳者註)。


  カトリック教会の言う秘跡も全てみとめませんでした。

  秘跡という語は、「心に与えられる恩寵の、目に見える有形なしるし」を意味しています。
  カトリックでは洗礼、堅信、聖体、婚姻、告解・悔悛、叙階、終油を七秘跡としています(訳者註)。

  幼児洗礼も否定しました。

 彼らはスイスやドイツに、まるで水が浸みだしていくかのように出て行きました。

  そしてアナバプテストと呼ばれていた人々に深い影響を与えました。




【アナバプテスト自由吟味者】


   アナバプテストは極左の宗教改革運動家でした。

 アナは「再び」バプテストは「洗礼者」で、言葉の意味は再洗礼する人々です(訳者注)。

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  彼らは風に乗って種として舞い散る、流浪の種子でした。

  そしてローマカトリックの農地に生える毒草(カトリックからしたら)として、いたるところで予期せざる形で突然芽を出したのです。

彼らに敵対する者は、はじめは笑いとばしてすまそうとした。

 だが、まもなくそんな甘いものでないことを悟りました。

  アナバプテストは単なる笑いものを超えた危険人物だったのです。

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  彼らは共産主義、平和主義、死刑廃止を唱道し、幼児洗礼を聖書に反するとして拒否し、魂と良心の自由を力説しました。

  また、教会と国家の分離を要求し、法廷での宣誓を拒否しました。

  官職に就くことさえをも拒否し、納税と金利にも反対しました。

  まさに極左中の極左だったのです。

  彼らは単にカトリック国教会にとっての異端であるだけでなく、国家への反逆者でもありました。

  法王も君主諸侯も火と剣を手にして彼らを追いかけ回りました。

  プロテスタント宗教改革の大物もみんな彼らを非難しました。




【ドイツ農民戦争とアナバプテスト】


ドイツに農民戦争が起きた1525年、アナバプテストはそれに加勢しました。

  そのときルターは彼らを呪い「たたき殺し、絞め殺し、突き殺せ」という、なんとも無慈悲な叫び声を上げました。

  まあ、彼の気持ちはよくわかります。

  ルターは自らの宗教改革運動の最中に内戦が起きることを、何よりも恐れたのです。
 
  だが、アナバプテストの行動原理に照らせば、とるべき行動は「加勢」となります。

  彼らはこのヒューマンライツ(人権)に関わる大動乱を目にしたら、抑圧された側に加勢しないではいられなかったのです。

 ルターはたしかに偉大ではありました。

  だが彼の意識の中では、教会は、国家という花馬車の車輪につながれた機関でした。

  アナバプテストはそれが我慢できなかった。
 
  だから小作人とともに戦ったし、ルター派やツイングリ派(宗教改革運動の一派)と袂を分かって、孤立の道を歩みました。

  彼らは独特の精神遺産を守り、「勝利か、さもなくば死か」の決意で自らの企てをしたのでした。





【スイスのアナバプテスト】

スイスのアナバプテストは穏健で思慮深く、学究的でした。

 指導者たちの姿勢も建設的でした。

  聖書を最初にドイツ語に翻訳したのは世上ルターということにされていますが、実はそうではありません。

  ルターが翻訳を目論む何年も前に、彼らは旧約聖書のドイツ語訳をつくっています。

  そしてスイスを迫害で追われた時には、モラビア(旧チェコスロバキア中部のモラビア地方)で著作し説教しています。




   【 イタリアのアナバプティスト】

 
   イタリアで活躍したアナバプテストは短命でした。

  おそらくカトリックのお膝元だったからでしょう。

  彼らはポーランドに逃げ、そして姿を消しました。




【オランダのアナバプテスト】


 オランダのアナバプテストは、ウルトララディカル(超急進的)でした。

  メルコワール・ホフマンをリーダーとする一派は、ミュンスターで過激な暴力行動を続けました。

  こういう狂信は醜態にみえるものです。

  この行動によってアナバプテスト活動者全体に「恥知らずな連中」というイメージが出来てしまいました。
  なんとも報いのない行為でした。

  その結果、オランダのアナバプテストは破局的な戦争をし、流血の死に至ることになりました。

  そして残った者は、メノナイト自由吟味者の群れに合流しました。





【メノナイト自由吟味者】


そのメノナイトと呼ばれる自由吟味者に話を移しましょう。

  時代は17世紀です。

  彼らは、いわゆるバプテスト(ジョン・スミスに始まる英国バプティスト)の直接の祖先です。


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  この自由吟味グループの指導者は、メノ・シモンズという人でした。

  彼はカトリックの僧侶でしたが、1536年にアナバプテスト自由吟味者に転向しました。

  彼は人間の信仰と実践の基盤として権威あるのは、聖句だけだと確信しました。

  バプテスマ(洗礼)は、信じる者だけが受けられる特権だともしました。

  教会の規律は、職業の場においても、家庭生活においても、個人生活の全ての局面で厳格に実施さるべきともしました。

  この極端な行動規律はこっけいですらありましたが、それはそれとして、メノナイト派の人々の性格を形づくりました。

  いまもそうですけど、彼らは紳士的で、平和志向で、遵法精神に富み、美徳溢れる人々になりました。

  彼らはロシアの凍てつく土地を耕し、スイスの山々に登り、ライプチッヒの街の通りやアムステルダムの堤防で信じるところを説きました。


(アムステルダムは海面下の土地が多く、海水をせき止める高くて広い堤防が人々の通路やたむろし場になっていた・・・訳者註)

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  そしておそらくこの堤防の近くのどこかで、彼らは英国を亡命してきていた分離主義者に対面したでしょう。

  ジョン・スミス、トーマス・へルウィ、ジョン・モートンがその分離主義者でした。





(Vol.9   2章 いくつかの自由吟味グループ    完)








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