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=聖句=

だがパリサイ派の僧侶を意識して彼らはそのことを公に現さなかった。会堂から追い出されるのを恐れたからである。
彼らは創主からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのだ」(12章42~3節)

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~~聖句は前回と同じです。
今回は、この政府筋の人間は、福音で言うところの「救い」(死後に天の創主王国に入れること)を
受けられるかどうかを考えましょう。
これは、大きな問題ですね。マルティン・ルターの有名な「信仰による救い」からいくと、
彼らもまた、信じたのだから救われることになります。

けれども一方で、イエスは~~
「信じてバプテスマを受けるものは、救われます」(マルコによる福音書、16章16節)
~~と言っています。
これによれば、救われないことになるようにも見えます。
彼ら政府権威筋はバプテスマを受けないだろうと思われますので。
だけどこれだけで断定するのも難しそうです。この聖句には続いて~~
「信じない者は、罪に定められます」
~~とありますけれど、
「信じてバプテスマを受けないもの(信仰を表明しない者)」については、書かれておりませんからね。

政府筋の権威者たちは、この「信じたけれどバプテスマは受けない」グループにはいる人々なんですね。
これはどうなるかをもう少し追求しますと、この「ヨハネ伝」12章の47節の聖句にぶつかります。
「私の言葉を聞いてそれを守らない者を、私は裁かない。
わたしはこの世を裁くために来たのではなく、救うために来たのだ」(47節)。
ウ~ン、ここに答えがあるようにも見えるんですね。
ここで私(イエス)の言葉を「聞く」というのは、「受け入れる、信じる」と言う意味でしょう。
「守る」というのは「それに従う(特に行為が)」ということでしょう。
ここでは「信じていて、行いがイエスの言葉に従っていない人」については、「裁かない」といっています。
裁きというのは、最後の審判のときになされます。
この裁きを受けないというのは、「裁きをバイパスする」と解せます。
するとこの人は天国に行かれる(これがいわゆる「救い」)ことになります。
これが聖書の論理であると春平太は解しています。

ただし、天国は広大な空間です。そこには創主の家があるということになっています。
天の創主王国に行かれても、その家に入れる人と入れない人とが出る、という思想を聖書は持っています。
すると入れない人は、「創造主の家」の外、門の外におかれることになります。
どうも、信じたうえでそれに「(行動が)従う」かどうかは、
天国において創主の家に入れるかどうかを決めるものなようにみえるのです。
またそれは天国で「賞」を受けられるかどうかも決めるように思われます。
ではその創主の家とはどんなものでしょうか。
「黙示録」(21章)には、天国にもエルサレムがあることが記されています。
地上のエルサレムは創主の家という想定ですよね。
すると、天における創主の家も、この「天国のエルサレム」ではないかと推定できます。

天のエルサレムについてはヨハネがその幻を見せられています。
地上のエルサレムは城壁都市ですが、天国のエルサレムも城壁で囲まれたは立方体の都市だと記されています。
それは四つの側面が宝石をちりばめた美しい城壁で囲われている、と。
立方体の一辺の長さは、黙示録の記述から計算すると、日本列島の縦の長さよりすこし長いくらいです。
となると、面積も巨大ですが、高さがすごいですよね。日本列島を縦にした高さですから。
(地上のエルサレムは、上方から見た四角形の一辺が約1キロメートルです。
天国のエルサレムの一辺は、日本列島以上の長さ。同じエルサレムにこれだけの差があります。
天の創主王国~天国~はそれを含むのですから、如何に巨大なことか・・・)
創造主の家は、そのように広大ではありますが、天国に入れた人の全員が入れるほどではないように思われます。
入れない人も天国でたくさん出るのではないか、と思われる。
ユダヤ政府筋でイエスの教えを信じた人々は、天国には入れるかも知れない。
でも、創造主の家には入れないだろうなあ、という感じですね。
