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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.177『ユダヤ政府関係者は多数信じたが』(12章)

2006年09月24日 | ヨハネ伝解読


~~出張から帰りました。
 仕事が終了後、2~3日、フーテンの寅さん的な気まぐれ寄り道をして遅くなりました。
ではマドンナは・・・、これがね・・・又機会あれば書きます。

 ヨハネ伝、続けますね。

                   

                 

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=聖句=
 「とはいえその時にも、ユダヤ政府筋の人間には(イエスの話を)信じた者が数多くいた。

だがパリサイ派の僧侶を意識して彼らはそのことを公に現さなかった。会堂から追い出されるのを恐れたからである。

彼らは創造神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのだ」(12章42~3節)
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前回、ヨハネは「イエスの奇跡を見ても(群衆は)信じなかった」(37節)といってました。

ところが「政府筋のユダヤ人はたくさんがイエス(の言うこと)を信じた」(42節)ともここで書いています。

 群衆と政府関係(僧侶、神殿の守衛など)の人々とは別のグループだととらえているんでしょうかね。

そうでないと筋が通りませんよね。

 ともあれ、政府関係の権威筋には、信じた人も多かったという。

この人々には旧約聖書の言葉が頭に入っています。イエスの話は、旧訳聖書の新しい解釈として説かれています。

だから話が知的に理解できた。理解できたから、そのうちの多くが信じられたんでしょう。

他方一般民衆は、そういう教養がありません。だからイエスの教えは理解がむずかしかったのでしょうね。

もちろん彼らのうちにも信じた人はいたでしょう。一時的には。

奇跡を見て、論理的には漠然としたままで信じた、というのはあったでしょう。

でもそれにはいわゆる「知」が伴っていないんですね。すると信頼心は長続きしにくいんですね。



                  


 なお、聖書は他のところで、イエスはそれを「権威を持って」教えた、といっています。

人々はこれを「権威ある新しい教えだ」といったと記録しています。

 ともあれ政府筋人間の信じ方には、比較的知的な確信がともなっていたわけです。

 ところがです。ところがヨハネは「しかし彼らは、そのことを口に出して言わなかった」(42節)と記しています。

そして「それは、(ありのままを)告白してシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)から追い出されるのを恐れたからだ」(42節)という。

 そうした彼らをヨハネはこう断じています。

 「彼らは創主の承認を受けるよりも、人間に承認されることを好んだのだ」(43節)



                  


 ~~こういう評価の仕方は注目しておくべきでしょうね。

ここでは「創主から見て正しいことと、世での正しいこととは対立関係にある」という福音の大命題が踏まえられているのです。

 これはイエスの教えのベースにあるものです。

ヨハネはそれを十分に身につけているからこういう評価が出てくるわけです。

 「天と世との絶対的対立」
 
 ~~この関係を踏まえないで、聖書を読んだら空しいです。気の抜けたビールのような味しかしないです。



                  

<信仰とは天の言葉が世の言葉に勝っている状態>


 それだけではありません。天と世とが絶対的な対立関係にあるという聖書の大原則は、一般にいう「信仰」(鹿嶋はそれを「信頼心」といいますが)の実体を鋭く正確に定義して
くれます。

 聖書を学ぶと、その人の心には「天の言葉」「天の論理」が入ります。

しかし当人はこの「世」に生きてきていますから、その意識には「世の論理」も存在しています。

結果的に心の中で両者が併存するようになるのですね。

 天の論理と世の論理とは重なるところもあります。だが、異なり、対立するところも多々あるのです。

そこで、聖書を学び始めた人の心にはまず、両者の対立が生じます。

この葛藤が苦しくて、聖書を止めてしまう人もあります。

 とりわけ日本ではこのケースが多いです。

日本は無常観を踏まえた知恵に充ちた国です。

それが「世に恵まれた人」には、まあ、百年くらいは楽しみを供給してくれるのです。

 日本での世の論理、世の知恵は多く、それによって成り立っています。

いつかは消えゆく人生、桜の花のように、美しく咲いて美しく散ろうぜ。

この意識をベースにした一瞬のきらめきの美しい文化が花開き、伝統として残されています。

これで百年くらいは楽しめるのです。



 ところが天の論理は永遠をベースにした論理なのです。

人間は永続するぞ、死んでおしまいではないぞ。わびしがる必要などないぞ。

永遠の美、永遠の栄光、永遠の幸福を確保しよう。

・・・天の論理が優越する世界では、この世の文化も、そういう意識から醸成されています。

 これのベースが本来日本人の心に全然心にフィットしない。

適合しません。

その隙間に、律法・道徳を守らねばならない、という「自己強迫観念」が入ってきます。

それで楽しくなくなって止めてしまうのです。



                  



 それでも教会生活にとどまる人もいます。

でも、この人たちがいわゆる「信仰」があるかどうかは一概には言えません。

聖書の言葉を「世の論理に合わせる」ような理解をするケースが非常に多いのです。

そうすると、一応、苦しさはとれますから。

 その典型的な例が、この世をよく生きるための知恵とか道徳知識として理解する方法です。

鹿嶋が道徳キリスト教というのは、それです。ニッポンの教会にはそれが多いのです。

なぜなら、牧師さんが教会員を増やしたいが故に道徳教をしますから。

 また、多くの教会がそうなりますと、牧師を養成する神学校もそれに合わせるようになります。

日本の権威筋の神学校には、そういう神学中心なところがとても多いです。

ニッポンキリスト教が絶望的なゆえんです。ホントにもう世的なんだから・・・。

 これは信仰ある状態とは言い難いです。

信仰とは当人の心の中で、聖書の天の論理が世の論理に「勝っている」状態をいいますから。

この春平太チャーチのコメンターの中に「石ころ」という人がいましたね。

鹿嶋はこの人の中に、聖書の言葉が世の言葉に勝っている状態を見ました。

「くりまん」さんにもそれを見ました。




                  



<「しるし」が現れる時>


 聖書の論理が世の論理に勝った状態になると、「しるし」は自然に現れるようです。

これは聖書の論理として当然なことですが、春平太はそれを事実としてたくさん見てきました。

奇跡が現れるのは論理的には簡単なのですね。天の論理が世の論理に勝つようにすればいい。

 春平太は信仰(信頼心)が余り強くない理屈屋です。

でも、それでも、天の論理が勝つ心理状態になるときがすこ~しあります。

そしてその時、「しるし」が現れる体験をスコ~シしました。

でも、すこ~しですけど、それは鹿嶋の聖句への信頼心を飛躍的に強めました。

創造神は間違いなくいる、昔も今も生きて働いておられる、という確信が突然深まりました。

もちろん、信仰の強い人に現れる「しるし」を観察した経験(これはたくさんあります)も信頼を強めてくれましたけど。


                  


 ともあれ、そういうことに気づくには、聖書では「天の論理」と「世の論理」が絶対的な対立関係にあることを知るのが先決です。

ヨハネはそれをここで示しています。

そして、この前提から世界を見ると、従来見えなかった真理と呼んで良さそうなものが、次々に見えてもくるんですね。

聖書の言葉は~~

「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い。

それは魂と霊の接するところを、また関節と骨髄とが接するところを切り離す。

それは人の欲求と心の思いとを判別する」(ヘブル人への手紙、4章12節)

~~という聖句があります。


そのことを実感できるようになります。

こういう入り口から聖句への信頼が高まっていくルートもあるんでしょうね。




                  






コメント (18)
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