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=聖句=


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聖句は前回と同じです。
今回は、「全ての人を私に引きつけます」(32節)の意味するところを考えます。
これは、詳細に見ると、結構考慮すべきことがたくさん出てくるんですね。
まず、「この地から上げられるときには」の「とき」は、どういうときかです。
「上げられたまさにその時」なのか、あるいはもう少し広く「十字架に上げられるとき以後」という意味なのか、です。
前者の「十字架に掲げられたその時」ですと、それ以後については論究していないことになります。そうすると比較的意味が浅くなるように感じます。イエスが言うのは通常もう少し深いことですから、ここではまず後者の「十字架に上げられてからは」と解しておきましょう。

<「イエスの名のある圏内に」ではない>
そうしておいて「引きつける」の意味を考えます。
一つの解釈は「私(イエス)の名のある領域に吸引してしまう」というものです。
これではなさそうですね。もしそうだと、全ての人を「その領域に入ってしまう」つまり、イエスを受け入れてイエスの側に入ってしまうことになります。そうなればみんな聖書用語でいうところの「救い」を受けてしまうとことになります。
すると、イエスが十字架死をした段階で創主の描いたドラマは完了、めでたしめでたし、となりますが、実際にはそうなりません。イエスの死後、弟子たちは伝道に踏み出します。そして、多くのところで迫害を受け、大半が殉教(教えに殉じて死ぬこと)していきます。
ということは、迫害する人はなくならないと言うことで、この人たちはイエスの側に引きつけられていない人ですからね。

<人の意識を引きつける>
ここはやはり「関心(意識)を引きつけられるようになる」と解すべきでしょう。注意を引きつけられるといってもいい。アテンション・プリーズのあのアテンション、これを引きつけるわけですね。
すると、イエスの領域に全ての人が入ってこなくても、~~「世」の側に留まる人がいても~~彼らも含めてみんなが十字架にかけて掲げられたイエスという存在に注意を向けるようにはなる、という意味になります。
これは事実に沿っています。後に人々はイエスがどういう人か、詳しく知らなくても、とにかくみな、その名と十字架は知るようになります。そして少なくとも「悪い人ではない」、というイメージくらいは持つようになりますから。

<田舎の村の一青年>
「なぁ~んだ、その程度のことか・・・」とお思いですか。いや、よく考えてみると、これは大変なことなんですね。普通では起きえないことです。
考えてみてください。イエスは一介の、それもナザレという村の田舎の若者です。大工の倅ですよ。これがエルサレムの都に来て、神殿の中庭で構造改革を説き始めました。伝統あるユダヤ国家宗教の構造改革を始めました。政府筋のユダヤ教僧侶たちやその信仰者たちの聖書解釈は、根本的に間違っている~~とイエスは説きだしました。
ても、普通なら、誰が注意を向けますか。ああ、また政治マニア、宗教マニアが自説をぶってるなぁ・・・と、大半は横目で眺めて忘れていっておしまいです。

<奇跡は行ったが>
もちろんイエス青年は次々に癒しをはじめとするしるしを現しました。それはユダヤ人の思想では、創造主でしかなしえないものでした。一定の人々は創主が彼と共に働いておられると判断するようになっていきました。
しるしは続きました。イエスのいうことを真理だと受け入れる人は増えていきました。社会的に地位も権力もなく、情報メディアにも恵まれない人が、自説に注目させる方法は奇跡以外にありません。しるしというものが伝道にいかに有効であるかを、ここはよく示しています。
このようにして、イエスの教えは広がり始めました。しかし、これはユダヤ国家内だけのことです。
これを超えてギリシャへ、ローマ帝国へと広がるのは、使徒たちの宣教活動が成功してからです。だがそれでも紀元後2世紀の歴史家は、イエスのことをほんの一寸述べているだけですよ。「一部でキリスト教徒活動というのも行われているけれど、これは、イエスとか言うのが十字架で殺されて、その教えを弟子たちが 宣べ伝えているようだ」といったような程度です。
それでも希なことなのに、これがイスラエル社会、ギリシャ・ヨーロッパ社会を超えて、広く全世界の人類のアテンションをうるのは大変なことなのです。
いま、キリスト教圏の人口は、全人類の33%を占めていて第一位です。第二位はイスラム教で20%。三位はヒンズー教の13%。仏教は四位で6%です。
そして見逃すべからざるのは、キリスト教圏以外の67%の人々も、ほとんどがイエスの名と十字架については全く知らないことはない、ということです。よく知らなくても、十字架のネックレスやイヤリングを付けたりしている。全ての人の意識が引きつけられるに至っているのです。
愕くべきことです。そういう結果だけでも愕くべきなのに、イエスは上記の聖句で、まだ十字架にかけられる前に預言しているのですね。

<小泉改革は国家権力使って行ったもの>
ついでに付言すれば、小泉純一郎さんも構造改革を叫んで、日本全国で注目されました。だけど、かれはイエスのように田舎の村の一青年として叫んだのではありませんよ。国家の総理大臣としてその権力を使いまくって改革をやり始めたんで、マスコミも、連日それを報じました。
それで注意は引きつけたのですが、それだって日本国内だけのことですよ。またこの構造改革は百年もしないうちに忘却されていくでしょう。イエスの名と十字架はこれからも人々の意識を引きつけ続けるでしょう。

なぜそうなるのか?
それは、これからヨハネが示していくでしょう。
楽しみに読んでまいりましょう。
