豪腕 川村貞次郎(1870~1947) のこと。
1906(明治39)年 三井物産 船舶部長に就任
1917(大正6)年 三井物産 造船部(三井造船㈱の前身)を創設
1921(大正10)年 ㈱神戸海運集会所(?日本海運集会所の前身)を創立
1934(昭和9)年 三井物産 代表取締役に就任
川村貞次郎 は、
大正5年6月、三井物産本社に造船部設立を提案するが、
賛同を得られず。
しかし、
すぐに工場敷地候補地を探し求め・・・・
大正6年1月、候補地を玉(玉野市)に決定。
〃 6月、本社の許可を得て、買入に着手。
〃 10月、候補地買入大部分の登記を完了。
実はこの時、
候補地の買入と同時進行で、
宇野の敷地借入を岡山県に許可され、
見切り発車で仮工場の建設に着手。
大正6年7月、鉄材・機械類の購入、小型造船台の築造、
木造船建造受負人選定。
大正6年8月、木工・木挽職の募集を開始。
木造船 海正丸(1200トン) の建造着手。
翌7年には、
職工数2000人を超える大工場となる。
川村貞次郎 の、
スピード、豪腕さ、イニシアチブからか、
宇野に建設された仮工場は 川村造船所 と称された。
大正8年、
玉に出来上がった新工場に機能は移され、
三井物産造船部は、のちの三井造船㈱となり
玉野市とともに発展を遂げてゆく。
(参考資料 第1次大戦前後の日本の造船業(3) 小池重喜)
http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/44_4/koike.pdf
まさに、
幻の 川村造船所 であるが、
その後、この地は、
裕次郎と浅丘ルリ子が熱演した
『憎いあンちくしょう』 (日活1962年) の舞台となり・・・・
現在は、
玉野魚市場 シーサイドマート 東山ビル 等で賑わっている。
http://www.tamanouoitiba.co.jp/
そうやって、
宇野港の歴史 は連綿とつながれてゆく。
【追記】
斉藤章夫氏から補足のコメントが寄せられました。
済みません。ちょっと補足を、、、
川村造船所は『幻』ではなく、僅か2年間だけでしたが、現実に存在したものです。
『幻』っていうと、構想だけあって実際には造られなかったような
イメージがあるんですが、、、。
当時の切迫した世界の状況から、一刻も早く造船所を造る必要に迫られた彼は、
三井物産㈱の取締役会の承認前に稼働を始めたんですよね。
なので、玉に造船所を築造する前に、県が所有する宇野の土地を借りて
船の建造を始めたんです。
本社の正式承認が得られるまでの暫定期間の名前として、
彼の名前を付けたんですね。
第1船は、「海正丸」という木造貨物船でした。
木造とはいえ大型貨物船の進水というのは、岡山では初めてのことで、
凄い人出だったようです。
当時、物産の船舶部長だった彼は、玉に造船所ができてから
初代の造船部長になりました。
物産の承認が得られたのは、大正6年(1917)11月14日のことです。
この日を、三井造船の創立記念日としていて、
今も造船所の昼食弁当には赤飯が出されています。
4年後には、100周年になります。