八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

幻の 『川村造船所 宇野工場』

2013-02-19 01:05:24 | シーパラダイス

 

豪腕 川村貞次郎(1870~1947) のこと。

 

1203history_kawa_s 0904project_ph08(小磯良平 画)

1906(明治39)年 三井物産 船舶部長に就任

1917(大正6)年  三井物産 造船部(三井造船㈱の前身)を創設

1921(大正10)年 ㈱神戸海運集会所(?日本海運集会所の前身)を創立

1934(昭和9)年  三井物産 代表取締役に就任

 

川村貞次郎 は、

大正5年6月、三井物産本社に造船部設立を提案するが、

         賛同を得られず。

 

しかし、

すぐに工場敷地候補地を探し求め・・・・

 

大正6年1月、候補地を玉(玉野市)に決定。

  〃  6月、本社の許可を得て、買入に着手。

  〃 10月、候補地買入大部分の登記を完了。

 

実はこの時、

 

候補地の買入と同時進行で、

宇野の敷地借入を岡山県に許可され、 

見切り発車で仮工場の建設に着手。

  

V8069

 

大正6年7月、鉄材・機械類の購入、小型造船台の築造、

         木造船建造受負人選定。

 

V9229

 

大正6年8月、木工・木挽職の募集を開始。

         木造船 海正丸(1200トン) の建造着手。

 

Kawamura (海正丸)

 

翌7年には、

職工数2000人を超える大工場となる。

 

川村貞次郎 の、

スピード、豪腕さ、イニシアチブからか、

宇野に建設された仮工場は 川村造船所 と称された。

 

大正8年、

玉に出来上がった新工場に機能は移され、

 

三井物産造船部は、のちの三井造船㈱となり

玉野市とともに発展を遂げてゆく。 

(参考資料 第1次大戦前後の日本の造船業(3) 小池重喜)

http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/44_4/koike.pdf

 

 

まさに、

幻の 川村造船所 であるが、

 

その後、この地は、

 

裕次郎と浅丘ルリ子が熱演した

『憎いあンちくしょう』 (日活1962年) の舞台となり・・・・ 

 

 

現在は、

玉野魚市場 シーサイドマート 東山ビル 等で賑わっている。

http://www.tamanouoitiba.co.jp/

 

 

そうやって、

宇野港の歴史 は連綿とつながれてゆく。 

 

 

 

【追記】

斉藤章夫氏から補足のコメントが寄せられました。

 

 済みません。ちょっと補足を、、、

 川村造船所は『幻』ではなく、僅か2年間だけでしたが、現実に存在したものです。

 『幻』っていうと、構想だけあって実際には造られなかったような

 イメージがあるんですが、、、。

 当時の切迫した世界の状況から、一刻も早く造船所を造る必要に迫られた彼は、

 三井物産㈱の取締役会の承認前に稼働を始めたんですよね。

 なので、玉に造船所を築造する前に、県が所有する宇野の土地を借りて

 船の建造を始めたんです。

 本社の正式承認が得られるまでの暫定期間の名前として、

 彼の名前を付けたんですね。

 第1船は、「海正丸」という木造貨物船でした。

 木造とはいえ大型貨物船の進水というのは、岡山では初めてのことで、

 凄い人出だったようです。

 当時、物産の船舶部長だった彼は、玉に造船所ができてから

 初代の造船部長になりました。

 物産の承認が得られたのは、大正6年(1917)11月14日のことです。

 この日を、三井造船の創立記念日としていて、

 今も造船所の昼食弁当には赤飯が出されています。

 4年後には、100周年になります。

                                


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