かつての美しい児島湾を
詠んだ歌を探してみると、
備前の歌人 平賀元義 に突き当たる。
柞葉(ははそは)の母をおもへば児島の海
逢崎(あふさき)の磯なみたち騒ぐ
病の母を思えば、児島の海に突き出た
逢崎(八浜町大崎)の磯に波が立ち騒ぐ
・・・・という意。
「母」と「児」の漢字が
対になって母子の強い絆を表し、
立ち騒ぐ磯の波と
元義自身の胸騒ぎが重なり合う。
今ではすっかり干拓地となって
海の情感が失われた八浜町大崎であるが、
江戸時代の、磯の波が打ち寄せる
美しい大崎の風景がよみがえる。
平賀元義が児島湾を詠んだ歌は他に・・・・
射干玉(ぬばたま)の月おもしろみ彦崎ゆ
逢崎さして吾磯づたふ
妹に恋ひ汗入(あせり)の山をこえ来れば
春の月夜に雁なき渡る
などがある。
平賀元義の人生は面白い。
寛政12年(1800)、
下道郡陶村(現倉敷市玉島)で生まれ、
岡山城下で育ち、学問は独学。
家督を継がず、奇矯な振舞いを重ねる。
文政3年(1832)年に脱藩し、
諸国を彷徨し、女人遍歴数知れず。
とにもかくにも、女たらしで手が早い。
たびたび歌の中に登場する
吾妹子(わぎもこ)とは、
逢瀬を彩った愛人のことだという。
平賀元義の生涯は、困窮につぐ困窮。
最期は路傍の溝にはまって頓死したという。
後年、正岡子規によって発掘され、
萬葉以後一千年の久しき間に萬葉の眞價を認めて
萬葉を模倣し萬葉調の歌を世に殘したる者實に
備前の歌人平賀元義一人のみ (墨汁一滴)
と評されて広く知られるようになった。
正岡子規が、
吾妹子先生と呼んで絶賛する
平賀元義の数ある歌の中では、
岡山城下五番町石橋の上の
吾妹子を読んだ歌が好きである。
五番町石橋のうへに我が麻羅を
手草にとりし吾妹子あはれ
五番町石橋の上で立ちションしてる最中、
いきなり男根を掴んできた可愛い女よ。
・・・・という意。
江戸時代、
確かに八浜の町を歩いた 平賀元義
また憧れる人が増えてしまって、
・・・・困った。