八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

備前の歌人 平賀元義

2014-05-31 03:05:23 | シーパラダイス

 

かつての美しい児島湾を 

詠んだ歌を探してみると、

2a

  

備前の歌人 平賀元義 に突き当たる。

Miyanoura

 

 柞葉(ははそは)の母をおもへば児島の海

 逢崎(あふさき)の磯なみたち騒ぐ

 

 病の母を思えば、児島の海に突き出た

 逢崎(八浜町大崎)の磯に波が立ち騒ぐ

            ・・・・という意。

 

Hachihama

 

「母」と「児」の漢字が

対になって母子の強い絆を表し、

立ち騒ぐ磯の波と

元義自身の胸騒ぎが重なり合う。

 

今ではすっかり干拓地となって

海の情感が失われた八浜町大崎であるが、

 

江戸時代の、磯の波が打ち寄せる

美しい大崎の風景がよみがえる。

 

Nadasaki

  

平賀元義が児島湾を詠んだ歌は他に・・・・

 

 射干玉(ぬばたま)の月おもしろみ彦崎ゆ

 逢崎さして吾磯づたふ

 

 妹に恋ひ汗入(あせり)の山をこえ来れば

 春の月夜に雁なき渡る

 

などがある。 

  

平賀元義の人生は面白い。

 A

 

寛政12年(1800)、

下道郡陶村(現倉敷市玉島)で生まれ、

岡山城下で育ち、学問は独学。

家督を継がず、奇矯な振舞いを重ねる。

 

文政3年(1832)年に脱藩し、

諸国を彷徨し、女人遍歴数知れず。

とにもかくにも、女たらしで手が早い。

 

たびたび歌の中に登場する

吾妹子(わぎもこ)とは、

逢瀬を彩った愛人のことだという。

 

平賀元義の生涯は、困窮につぐ困窮。

最期は路傍の溝にはまって頓死したという。

 

後年、正岡子規によって発掘され、

 萬葉以後一千年の久しき間に萬葉の眞價を認めて

 萬葉を模倣し萬葉調の歌を世に殘したる者實に

 備前の歌人平賀元義一人のみ (墨汁一滴)

と評されて広く知られるようになった。

 

正岡子規が、

吾妹子先生と呼んで絶賛する

平賀元義の数ある歌の中では、

 

岡山城下五番町石橋の上の

吾妹子を読んだ歌が好きである。

 

 五番町石橋のうへに我が麻羅を

 手草にとりし吾妹子あはれ

 

 五番町石橋の上で立ちションしてる最中、

 いきなり男根を掴んできた可愛い女よ。

           ・・・・という意。

 

江戸時代、

確かに八浜の町を歩いた 平賀元義

 

また憧れる人が増えてしまって、 

・・・・困った。

 

参考: 先人の風景 平賀元義(山陽新聞)

 

 


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