探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原光康  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-01 16:34:33 | 歴史

  松尾 

 小笠原光康

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小笠原光康
時代 室町時代
生誕 不明
死没 不明
別名 伊奈六郎(通称)
官位 遠江守、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 小笠原政康
兄弟 宗康、光康
子 家長

守護在任
1446年~1450年 - 小笠原光康
1451年~1453年 - 小笠原持長(府中)
1453年~1461年 - 小笠原光康

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小笠原光康

小笠原光康は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。
小笠原政康の3男。松尾城主。松尾小笠原家の祖。


父の死後、小笠原氏惣領職を巡って光康の兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。
文安3年(1446)、光康は兄に後援を頼まれ、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決めをした。・・・小笠原政康の遺言によると、・・「小笠原家の事は宗康と光康に任せる。伊賀良荘(飯田市付近)は光康に与える。また、もし兄の長秀に実子ができればこの遺言状は無効であり、政康に実子がない場合は兄の長将の嫡男に譲るものとする。」・・。小笠原持長は府中(松本市付近)を基盤とし、小笠原宗康は伊賀良(飯田市付近)を基盤としていました。しかし、小笠原長秀には実子ができなかった為、持長が長将の嫡男である自分に相続権があると主張したことにより、政康の嫡男である宗康との間に相続争いが発生しました。・・宗康は漆田原(長野市)で持長と戦ったが敗れ討死。、約束通り家督は光康に譲られ、幕府もまた信濃守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。
しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の小笠原政秀もまた勢力をもち(鈴岡)、政秀と光康の子家長もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。
関東で享徳の乱が発生した時、光康は幕府から駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定と共に関東出陣を度々命じられたが、これに従ったかは不明。

 

 



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