限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第200回目)『リベラルアーツとしての哲学(補遺)』

2013-02-17 15:20:41 | 日記
前回、墨子について私の高い評価を述べ、さらには中国人の精神構造を理解する上でも墨子を読む必要があるとも述べた。

その後、調べると唐宋八大家の一人、韓愈も墨子を高く評価していることが分かったので紹介かたがた、現代中国に関する私の考えをまとめて述べておきたい。

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 『韓昌黎文集』第一卷、『読墨子』

儒譏墨以上同、兼愛、上賢、明鬼。

而孔子畏大人,居是邦不非其大夫,《春秋》譏專臣,不「上同」哉?孔子泛愛親仁,以博施濟衆為聖,不「兼愛」哉?孔子賢賢,以四科進褒弟子,疾歿世而名不稱,不「上賢」哉?孔子祭如在,譏祭如不祭者,曰:「我祭則受福」,不「明鬼」哉?

儒墨同是堯舜,同非桀紂,同修身正心以治天下國家,奚不相如是哉?

余以為辯生於末學,各務售其師之説,非二師之道本然也。孔子必用墨子,墨子必用孔子,不相用,不足為孔墨。

【意訳】儒者は墨子の一派を誹るが、それは主に彼らの『尚同』『兼愛』『尚賢』『明鬼』を非難している。

しかし、よく見ると孔子の墨子の考えは似ている。例えば、孔子はその著書の《春秋》で権力を独占する臣を非難しているが、これは『尚同』ではないのか?孔子は、『泛愛親仁』(人類愛・同胞愛)を主張しているが、これは『兼愛』ではないのか?孔子は、賢者を尊敬し、弟子たちが学問に励み、名を揚げることを奨励しているが、これは『尚賢』ではないのか?孔子は、先祖を祭らない者を非難し、先祖を祭る者は福を受けると言っているが、これは『明鬼』ではないのか?

孔子も墨子もどちらも聖人の堯舜を誉め、暴君の桀紂を誹る。自己を律し、公平な政治を行うことを目指す。これほど似通っているのだから、同志と言えよう。

思うに、派閥争いは後継者たちが、師の説だけを正しいと思い込むからおこる。これは孔子、墨子いづれも望んでいなかったに違いない。孔子はきっと墨子の意見に賛同するし、逆に墨子は孔子の意見に賛同するはずだ。互いに相手の意見を受け入れないようであれば、孔子・墨子と尊称されるにふさわしくない。
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韓愈は名文家であると同時にかなり硬骨の儒者であった。旧唐書には、『発言は真率、畏避する所なし』(発言真率、無所畏避)と評されている。その真骨頂を発揮したのが、『論佛骨表』である。時の皇帝・憲宗が仏骨を祭った事にたいして、徹底的に非難したので、即刻、僻地へ左遷させられた。言ってみれば、儒者の極右とも言うべき、その韓愈が孟子以来、不倶戴天の敵としてきた墨子を容認しただけでなく、孔子と同じ考えをしていると公言したのだから、世人は仰天したはずだ。


【出典】元・鮮于樞 『韓愈進學解』

しかし、私には韓愈の意図がよく理解できる。それは、いみじくも韓愈が最後の節で指摘しているように、孔子と墨子の反目は、孔子と墨子という創始者の意見の対立というより、それぞれの教団の後継者が、団体としての勢力争いの結果として起こったことなのだ。結局、教団というのは、創始者の思惑とは無関係に自派の伸張を目的として活動するのが使命であるから、教義論争などは二の次なのだ。

墨子教団は墨子亡き後、後継者に人を得なかったため、急速に失墜したのに反し、儒派はそれこそ多士済々であり、戦国の各国で指導的地位に就き、儒派の勢力を不動のものとした。墨子教団の消滅を人的要因に帰すことを妥当と考えるかもしれないが、私はやはり、墨子の唱えた公共性重視という観点が中国人には生理的に受け入れ難かったという点に真の理由が存在するように感じる。狭い範囲 -- 血縁の範囲 -- では自分の命を犠牲にしてでも義を貫く中国人は、その範囲を超えた他人はもはや人間ではないと考えているように私には映る。

この視点をもって現代中国のさまざまな問題 -- 環境破壊、政治腐敗、農村問題、人権問題、少数民族 -- を眺めると、問題の本質が明らかになってくるだろう。つまり現在の中国の問題の原因は『共産党』にあるのでもなければ、『一党独裁』にあるのでもない。ましてや『社会主義市場経済』のせいではない。問題の本質は他人の命をないがしろにする、という中国の伝統的な考えそのものにあるのだ。墨子が一生、それこそ文字通り身を粉にして頑張ったにも拘らず、中国人は結局、儒の規定する血の結束を越えた公共性を獲得するには至らなかった。私の想像するに、今、墨子が生き返ったなら、きっとこういうだろう:
 『嗚呼、我が中国は、二千年経ってもちっともよくなっていない!』

【参照ブログ】
 百論簇出:(第117回目)『国際人に必要なグローバル視点』
 百論簇出:(第118回目)『宗教の開祖と宗教団体は別物』
 百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』
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