限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第450回目)『古代から延々と続く中国人の巨大願望』

2024-08-04 08:50:40 | 日記
中国で何らかの事件が報道されると決まって、建国の父「毛沢東」の肖像画が掲げられている北京の天安門広場が映る。いつ見ても広場の広さには溜息がつく。この広場は何も、中国共産党が作ったものでなく、明の成祖・永楽帝が都を南京から移した時にすでに概要が備わっていたといわれる。

ところで、日本は2000年前から中国から哲学、宗教などの精神面だけでなく、多くの文物を取り入れている。その影響は計り知れないはずだが、しかし、『地大物博』を誇る中国とは全てのスケールが違う。とりわけ、建築や船などの大型建造物にたいする感覚がまるで異なっている。一番有名な例は隋の煬帝が開削させた大運河と完成の暁にそこを下って南方まで巡遊した時の大型船のスケールには度肝を抜かれる。(興味のある方は、『本当に残酷な中国史』P.157-159 を参照頂きたい。)



隋の煬帝の巡行は7世紀の話であるが、それより800年も前の前漢にもすでに、大規模な苑園があったと、『西京雑記』(せいけいざっき)が伝える。もっともこの記事の内容はどの程度信用できるか、疑問視する専門家もいるとのことだが、話半分でも聞いて頂きたい。

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 西京雑記 巻3-73 《袁広漢園林之侈》

茂陵に袁広漢という大富豪がいた。蔵には巨万の銭が蓄えられ、下僕が九百人ほども住み込んでいた。北邙山の麓に東西が2Km、南北が2.5Kmもの大庭園を築いた。園内には川から大量の流水を引き込み、石を積み重ねて高さ30メートル、長さは数キロにもおよぶ丘を築いた。白オウムや、紫色の鴛鴛、ヤク、青サイ、などの珍獣・猛獣を飼育していた。砂浜を積み上げて、池に岸を作り、風で波が打ち寄せた。池にはカモメや海鳥が棲みつき、雛が繁殖し、池一杯にあふれた。見たこともないような珍しい草木で満ちていた。建物の廊下は長く連らなり、ぶらぶらと歩き回ることができるが、とれも一日では巡りきれない。

しかし、袁広漢が有罪になって、財産が没収されたあと、これらの珍しい珍獣や草木はすべて漢の宮廷の上林苑に移し植えられた。

茂陵富人袁広漢、蔵鏹巨万、家僮八九百人。於北邙山下築園、東西四里、南北五里、激流水注其內。構石為山、高十余丈、連延数里。養白鸚鵡、紫鴛鴛、氂牛、青兕、奇獣怪禽、委積其間。積沙為洲嶼、激水為波潮、其中致江鷗海鶴、孕雛產鷇、延漫林池。奇樹異草、靡不具植。屋皆徘徊連属、重閣修廊、行之、移晷不能徧也。広漢後有罪誅、沒入官園、鳥獣草木、皆移植上林苑中。
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袁広漢が贅を尽くして作り上げたみごとな苑庭も没落後は、全ての珍獣嘉木が国家に召し上げられて王宮の庭園である上林苑に移されたという。中国での高官の地位の危うさ、儚さを象徴する一駒だ。

ところで、隋の煬帝が大運河を完成の暁に、そこを下って南方まで巡遊した時の大型船のスケールには度肝を抜かれる。そもそも、私が本格的に資治通鑑を読もうとしたのは、30歳のころ、煬帝の巡行を紹介する一文を新聞で読み、その出典が資治通鑑にあると知り、早速該当部分を見つけて、そのあまりの豪華さ、巨大さに度肝を抜かれたことが一因となっている。(興味のある方は、ぜひ『本当に残酷な中国史』P.157-159 をご参照を!)
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