限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第114回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その49)』

2013-04-04 22:06:46 | 日記
 第5章「人間力を鍛える」(より豊かな人間形成の話)

以前のブログ
 沂風詠録:(第173回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その4)』
で私は教養を『修養』として学ぶことには賛同しない、と述べた。
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 なぜなら、人間を磨くのが目的なら、何も学問や芸術などに頼る必要はないからである。『畳の上の水練』という言葉が示すように、実践を伴わない知識は役立たない。つまり、本の知識だけで人の品性が向上することはない。ただ、教養を磨く過程で過去・現代問わず、世の中の凄い人々のことを知るので、自ずと自分の未熟さや小ささを知ることはある。その結果、多少なりとも謙虚になる可能性は考えられる。しかし、これはあくまでも随伴現象(by-product)であって、いつもいつもそうなる訳ではない。
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私が本からの知識によって教養を磨くには限界がある、と考えているのは、私の考える教養とは、文化のコアを自分でつかみとるという能動的行為を必要とするからである。つまり、知識というのは、知っていても行動に移さない単なる物知りでは何もならないが、かと言って、全て自己流、あるいは自分の体験からしか学ぶものがないと考えるのも狭い了見だ。とりわけ、グローバルな状況というのはなかなか経験しにくいものであるから、他人の経験と雖も傾聴すべきであろう。

とりわけ中国は、生存競争が昔も今も、日本とは比較にならないほど熾烈である。賭け事もレートが高くなれば否が応でも真剣度が増し、深く読むようになるであろう。ましてや自分や家族全員の命が懸っているならなおさらである。掛け値なしに生きるか死ぬかの真剣勝負をくぐり抜けるために獲得した知恵が中国の古典にはつまっている。倫理的な良しあしはともかくとして、不気味な強靭さを秘めている。そういった中国人の知恵に耳を傾けてみよう。

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 『5.01  人が知らないと思って後ろめたいことをしていないか?』

以前のブログでは論語について、次のような意見を述べた。
 中国の哲学書・思想書と言えば、たいていは『論語』が挙がる。私は論語自体を否定する訳ではないが、論語を生み出した時代背景を知ることを勧めたい。。。中国の古典にたとえてみると、旧約は春秋左氏伝に相当し、新約は論語に相当すると言えよう。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第199回目)『リベラルアーツとしての哲学(その11)』
 百論簇出:(第6回目)『旧約聖書、新約聖書の感想』

論語に限らず中国の古典には、必ず歴史的事実が載せられている。(私の読んだ範囲では、唯一の例外が易経だ。易経はあたかもユークリッドの幾何学原論のように、時代背景を暗示するような語句はただの一字も見当たらない。)



これら歴史的事実の中核をなしているのが、春秋左氏伝(以下、左伝という)である。つまり、中国の古典というのは読者は左伝を熟知しているものとして論旨を展開している。逆に言うと、左伝を理解していないと、古典の文章を読んでいても台詞が半分しか理解できない外国映画を見ているような感じになる。

例えば、論語の『先進篇』に次の句が見える。
 南容は『白珪の詩』を(一日に)3回口ずさんでいた。孔子は兄の子(姪)を南容に嫁がせた。
 (南容三復白珪,孔子以其兄之子妻之。)

自分の姪を嫁にやる位であるから、孔子がいかに南容を高く評価していたか分かる。しかし、その理由が、『白珪の詩』をいつも口ずさんでいた、との事だが、『白珪の詩』が何かが分からないことには、全体の意味の理解に苦しむだろう。

『白珪の詩』とは、詩経の大雅・抑篇に見える次の内容だ。
 白珪之玷・尚可磨也・斯言之玷・不可爲也
 (白い玉はキズは磨けばよいが、言葉はキズは直らない。)

語句の意味が分かったとしても、まだこれでも『白珪の詩』がなぜそれほどに重要か分からないだろう。しかし、この言葉が実際に使われた場面を知ることができればこの語句の真の意味が理解できるだろう。

時は、紀元前651年、僖公・9年の左伝にこの『白珪の詩』が引用されているが、ここでは左伝の文を若干書き改めた(rewrite)史記の文を示す。

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史記(中華書局):巻39・晋世家(P.1648)

晋の献公がまた病気が再発したので、引き返したが、かなり重症であった。そこで、荀息にこう言った。「私は、奚斉に後を継がせたいのだが、まだ子供なので、大臣たちが服さず、乱を起こすのではないかと恐れている。あなたは奚斉を守ってくれるか?」荀息は「できますとも」と答えた。献公が言った。「何か確証はあるか?」荀息が応えて言った。「死者がまた生き返ったとしても、生きている私が恥ずかしくないようにするのが、確証です。」こういうことで、奚斉を荀息に託し、荀息が宰相となって、国を治めた。秋九月に献公が死去した。奚斉に反対する里克と邳鄭は重耳(後の晋・文公)を国外から呼び戻そうとして三公子の家来とクーデターを起こそうとし、まず荀息に言った。「三公子たちが反乱をおこし、秦と晋の国人もこれに賛同している。あなたはどうするつもりか?」荀息が答えた「私は亡くなられた献公に誓を立てていますので、その言葉に背く訳にはいきません。」十月、里克は奚斉を喪次において暗殺した。献公の葬儀がまだ終わっていなかったのだが、荀息は責任を感じて死のうとした。しかし、ある人が、死ぬより奚斉の弟の悼子を立ててお守りするほうが良いと忠告したので、荀息は悼子を国君に立てて献公の葬儀を行った。十一月、里克が悼子を朝廷内で暗殺した。荀息は悼子に殉死した。世間の君子たちは:「詩にいう『白珪之玷,猶可磨也,斯言之玷,不可為也』(白い玉はキズは磨けばよいが、言葉はキズは直らない)とは荀息のことだな!自分の言葉を守り通した。」

獻公亦病,復還歸.病甚,乃謂荀息曰:「吾以奚齊爲後,年少,諸大臣不服,恐亂起,子能立之乎?」荀息曰:「能.」獻公曰:「何以爲驗?」對曰:「使死者復生,生者不慙,爲之驗.」於是遂屬奚齊於荀息.荀息爲相,主國政.秋九月,獻公卒.里克、邳鄭欲内重耳,以三公子之徒作亂,謂荀息曰:「三怨將起,秦、晉輔之,子將何如?」荀息曰:「吾不可負先君言.」十月,里克殺奚齊于喪次,獻公未葬也.荀息將死之,或曰不如立奚齊弟悼子而傅之,荀息立悼子而葬獻公.十一月,里克弑悼子于朝,荀息死之.君子曰:「詩所謂『白珪之玷,猶可磨也,斯言之玷,不可爲也』,其荀息之謂乎!不負其言.」

献公、また病み、復た還帰す。病、甚だし。すなわち荀息にいいて曰く:「吾、奚斉をもって後と為さんとするも年少。諸大臣、服せず。乱の起きるを恐る。子、よくこれを立つるか?」荀息、曰く:「能し.」献公、曰く:「何をもって験となすや?」対えて曰く:「死者をして復た生くとも,生者は慙ず。これを験となす.」ここに於て、ついに奚斉を荀息に属す。荀息、相たりて、国政をつかさどる。秋九月,献公、卒す。里克、邳鄭、重耳をいれんと欲し三公子の徒をもって乱を作さんとし、荀息にいいて曰く:「三怨、まさに起らんとし、秦、晋、これを輔く。子、はたいかん?」荀息、曰く:「吾は先君の言にそむくべからず.」十月,里克、奚斉を喪次に殺す。献公、未だ葬らざるなり。荀息、まさにこれに死せんとす。或るひと曰く、奚斉の弟、悼子を立てこれに傅たるにしかず。荀息、悼子を立て、献公を葬る。十一月,里克、悼子を朝に弑す。荀息、これに死す。君子、曰く:「詩にいう所の『白珪之玷,猶可磨也,斯言之玷,不可為也』,それ荀息の謂いか!その言にそむかず。」
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この事件が起こったのは、BC651年であるが、それから350年ほどして、また似たような事件がおこった。

趙の主父(武霊王)が長男の章を退けて弟の何(恵文王)を太子に立てた。兄の章はその処遇に腹をたて、家来の田不礼と、弟の恵文王を殺そうと秘かに計画を立てた。それを察知した李兌が、何の宰相であった肥義に辞職した方がよいと忠告したが、肥義は次のように答えた。

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資治通鑑(中華書局):巻4・周紀4(P.118)

「むかし、武霊王は恵文王を私に託してこういった。『お前の節義を変えるな。お前の心慮を変えるな。ただ終生、一心を守り通せ。』と。私はこの言葉を受け取り、書き留めた。今、田不礼を恐れて、書き留めたことを忘れたならこれ以上の変心はあるまい。諺に言うではないか『死者復生、生者不愧。』(死者がまた生き返っても、生きているものが恥じない)と。私はわが身の安全よりもこの言葉を全うしたい。あなたは本当に心の底から私を心配して忠告してくれたが、私の誓は終生変えないつもりだ!」

「昔者主父以王屬義也。曰:『毋變而度,毋易而慮。堅守一心,以歿而世!』義再拜受命而籍之。今畏不禮之難而忘吾籍,變孰大焉!諺曰:『死者復生,生者不愧。』吾欲全吾言,安得全吾身乎!子則有賜而忠我矣。雖然,吾言已在前矣,終不敢失!」

「昔は、主父、王をもって義に属して曰く:『度を変じるなかれ、慮を易えるなかれ。一心を堅守し、もって世を歿せよ!』義、再拝して命を受けこれを籍す。今、不礼の難をおそれて吾が籍を忘れるは、変、孰んぞ大ならん!諺に曰く:『死者、復た生くとも、生者は愧ず。』吾、吾が言をまっとうせんとす。安んぞ吾が身をまっとうするを得んや!子、すなわち我に忠を賜うあり。然るといえども、吾が言はすでに前にあり。ついに敢えて失わじ!」
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このように言って、肥義は恵文王を守るために命を懸ける決意の変わらないことを述べた。後日、はたして章と田不礼が乱を起こして、武霊王の命と偽って恵文王を呼び出した時、肥義は章の身代わりに姿を現したため、殺されてしまった。

肥義が『死者復生,生者不愧』と言った時、荀息の場合と異なり誓いを述べた相手の武霊王はまだ生きてはいた。しかし命に代えても誓の言葉を守る意志を示すため、この『白珪の詩』の言葉を引用したのだ。

現代の中国では高官の巨額賄賂や農民や民工への極端な差別、搾取、虐待(SSG)など没義道の行いが目にあまるが、かつての中国には自分の言葉に命を懸けた義の人がいたのだ。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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