限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第11回目)『麻薬言語にご注意あそばせ!』

2009-07-04 00:29:44 | 日記
幕末、明治維新の歴史を読むと当時のアジアの他の諸国、とりわけ中国と比べると日本は非常に恵まれた条件での国際社会への仲間入りが許されています。そういった背景には幕末の物騒な日本に果敢に乗り込んできた欧米の先駆者達がいたからです。私はいつも幕末のものを読むたびに彼らに感謝せずにはいられません。考えて見て下さい、今イスラエルではパレスチナの自爆テロで戦々恐々としてますが、あなたは会社からイスラエルへ出張、あるいは駐在を命ぜられたら喜んで行くでしょうか?当時の日本は夷狄を目の仇にしていた、武士がうようよしていて、欧米人にとってはまさに現在の中近東に匹敵するような物騒な国であったのです。

そういった一人にイギリス人のロバート・フォーチュンがいます。彼の書いた『幕末日本探訪記』(講談社学術文庫)には文化背景が違うにもかかわらず日本の文化風習に対してかなり公平な姿勢での記述がうかがえます。その中の一文に、日本の封建制はスコットランドのそれに類似していると述べています。日本ではイングランドと北のスコットランドは大差がないと思い勝ちですが、実際にスコットランドを旅行してみるとスコットランド人はイングランドとは異なった(否、むしろ優れている)国だ、という虐げられていたが故の屈折した意識が強く見られます。

18世紀イギリスのエッセイスト、サミュエル・ジョンソンの作った英語の辞書にはスコットランド人を揶揄した有名な言葉が載っています。それは oats (からす麦)という単語を『A grain, which in England is generally given to horses, but in Schotland supports the people 』(からす麦はイングランドでは概して馬のえさであるが、スコットランドでは人間にとって欠かせない糧となっている穀物)と定義しているのです。(しかるにそのジョンソンの伝記はスコットランド人のボズウェルが書き、伝記物としては不朽の名著となっているのはなんとも皮肉な巡りあわせではあります。)

このような背景から考えると、ロバート・フォーチュンが言った日本の封建制がスコットランドのそれに似ているというのはヨーロッパ人特有の二枚舌的(double-meaning)なトゲが隠れていそうな気がしませんか?


<出典:Wikipedia : http://de.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Schliemann>

さて日本に来た西洋人の一人にかのトロヤ遺跡の発見者シュリーマンがいます。彼はご存知のように子供のころに読んだイリアスに心酔し、トロヤ発見を終生の目標とします。商人になってクリミア戦争などで莫大な富を築いた彼は、40歳を過ぎいよいよトロヤ発掘という畢生の大事業に乗り出す前に世界一周をしています。そして、アジアを回ってアメリカへ行く前に幕末(1865年)の日本に立ち寄っているのです。

彼は、『日本人は世界で一番清潔な国民である』と誉めています。ある時、銭湯の前を通り、のれん越しに混浴の浴場で三、四十人の全裸の男女を目にした時『何と清らかな素朴さであろう!』と思わず感嘆しています。しかしその直後、湯につかっていた男女が通りを歩いているシュリーマンの時計の鎖に付いている大きな紅珊瑚の飾りを間近に見ようとしてあわてて浴場を飛び出してきた時、衣服を身に着けていないことに恥じらいを感じずにいた日本人にシュリーマンは仰天してしまいます。

さてそのシュリーマンはギリシャ語を学びたいとう願望を子供のころからずっと抱きつづけていました。しかし、トロヤ発掘のための資金がそろうまで、それを学ぶのを控えていたのです。それは『このすばらしい言語の強烈な魔力にとりつかれて商人としての関心がそらされてしまうのを恐れたからだ』と自伝で告白しています。

34歳の時に充分金がたまったと確信したので、ようやく念願のギリシャ語を学び始めます。結局26年間ずっと辛抱していたことになります。その代わりマスターするスピードも早く先ず現代ギリシャ語を『辞書を引くという不要な作業はせず、一分たりとも時間を無駄にするようなことはしなかった』と言うように六週間でマスターしています。それから、直ちに古典ギリシャ語にうつり、三ヶ月で本を読むのに必要な知識を得た後は、もっぱら古典ギリシャ文学に没頭しました。その甲斐あって難解といわれる古典ギリシャ語をわずか二年であたかも現代語のように正確に読み書きかつ話すことができるようになったのでした。それほどまでに入れ込んだのはギリシャ語が彼にとって『麻薬言語』だったからです。

私も十年前に古典ギリシャ語を学び始めました。シュリーマンに倣ったわけではありませんが、結果的には学生の時から勘定して22年間もの間ずっとこの言語を学びたいという願望を温めていたことになります。まだ必ずしも文法的規則を完全にマスターした訳ではありませんが、最近二年かけてプルターク英雄伝をギリシャ語で読み終えました。Loeb Classical Libraryという英語とギリシャ語の対訳本で全部で11巻、6000ページの大冊です。(ということで、結局半分は英語の勉強なのですが。)私はこの本は歴史書というより逸話集、古代人の生きざま(まさに本来の意味の bio+graphy=人生の記述)を知るという観点で読んでいます。

内容もさることながら、読んでいてギリシャ語の特性や逆に日本語の特性を考えさせられました。ギリシャ語の特徴の一つは『重畳(ちょうじょう)した文章を作れる言語』にあると思います。音楽でたとえると単音ではなくシンフォニックな和音を聞いているような感じがするのです。日本語でそのような例を示せば、講談の口調に近いと言えます:『分厚い牛皮で作った盾で身を守りながら、将軍の乗っている馬の目元を槍で突き上げつつ、すばやく後ろに回りこんだ百人隊長は、えいっとばかり、敵の将軍を討ち取った。』

これは現在日本で幅をきかせている『分かり易い日本語の文章とは短文をつなぐ』という安直な教えと真っ向から対立する作文作法なのです。私は文章の味わいというのはやはり輻輳した概念や情景描写があたかも温泉場の湯気が互いにまとわりつつ、やがて大きな一塊の雲となって成長していくような重畳感あふれるリズムにあると常々思っています。

一方単語の観点からギリシャ語を見てみると、その豊かな造語力・表現力に驚きます。日本では、西洋語というと、ついアルファベットという表音文字で綴られているため、漢字に比較してニュアンスの表現力が貧弱である、という偏見をよく耳にします。しかし、私が学生時代熱中したドイツ語にも増してもギリシャ語の造語力・表現力はまったく論理的でかつ表情豊かです。漢字は森羅万象を『偏』といういわば視覚的な観点(例:草がんむりは草類を、さんずい偏は水に関連する、など)から分類したのに対して、ギリシャ語(をはじめインドヨーロッパ語族)は動作方向を表わす前置詞(例:pro は前方へ、peri は巡って、など)で分類しているのです。つまりヨーロッパ人にとって、世の中の現象の分類基準が動作とその方向性なのです。

ギリシャ語は英語よりこのヨーロッパ語族の根源的な視点を色濃く残しています。つまり、動作を表わすことば、つまり動詞の派生語が文中に幾つも重なって出てくることがよくあります。それがため英語で読むよりも動作が生き生きとイメージできるのです。(もっとも私のギリシャ語の読解力は正直なところ英語やドイツ語という補助輪がついている三輪車程度でしかありませんが。)

さらにギリシャ語のもう一つの特徴は単語に時制を含ませることができる点にあります。たとえば『落下物注意』の意味を考えてみてください。漢字には時制がありませんので落下物はいつ落ちたものかは分かりません。通常このコンテキストでは『未来に落下するだろう物』であって『既に落下しているもの』でも『現在落下しつつあるもの』でもない、と判断するでしょう。しかし反面『落下物をどける』という文における落下物とは『既に落下したもの』を指しますね。つまり、時制を欠落した、あるいは時制を表現しようのない漢語ではこういったニュアンスはコンテキストから判断するしかないのです。

これに反して、ギリシャ語は(そして我が日本語も!)時制を内包した名詞あるいは名詞句を容易に作ることができる、というとても素晴らしい麻薬的魅力をもっている言語なのです。
コメント (2)
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