老子に、学問と道の学び方における差を端的に言い表した言葉がある。
『為学日益,為道日損。損之又損,以至於無為。無為而無不為。』(第48章)
(学問をすると日ごとに知識が増していく。道を行うときは日ごとにすべきことが減っていく。減らした上にまた減らし、ついに何もすることがなくなる。何もすることがなくなって初めて、全てをなしてとげることが出来るのだ。)
同じく第36章には、
『将欲歙之、必固張之』
(まさにこれを歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばらく)くこれを張る。)という言葉がある。言う意味は、『縮めようとするなら、縮めよう、縮めよう、とせず、先ずは逆にうんと広げてやることが必要だ』
この言葉は、一般的には『伸びんと欲すればまず屈せよ』と言い慣わされている。
この二つの言葉は、私の教育方針を端的に表している。
以前も書いたように私は現在、京都大学の一般教養課程で『国際人のグローバル・リテラシー』(Global Literacy for Cosmopolitans)の授業をしている。そこでの授業の仕方は、通常と変わっている、というより逆である。通常の授業では、学生は毎回の何かしらの知識を増やしていく。そして、一学期経つと、いくばくかの知的満足を感じる、という仕掛けになっている。
私の授業では、老子の言葉のように、毎回どんどん知識が減っていくのだ。学生は、毎回の授業で何らかの知識を得るというより、逆に、自分の知らないことが如何に多いかを知る。つまり、自分が知っていた知識がみるみる減っていくような錯覚に陥り、一学期終わる頃には、『自分が知っている、と思っていたことは一体何だっただろうか?ほんの少ししか知らなかっただけではないか!』と愕然とする。
これが私の意図する教育である。豊穣な教養溢れる知識を得るためには、まず全く逆の境遇、つまり知的飢餓の状態に落とすことが必要と考える。老子の言葉をもじって言うと、『将欲増之、必固減之』(まさにこれを増さんと欲すれば、必ず固(しばらく)くこれを減ず。)好む好まないにかかわらず、あたかもフォアグラを作るように上からこぼれるばかりの知識を強制的に与えるのではなく、学生自らが知識を渇望するような教育が必要とされている。渇望感から自ら求め得た知識は本物だ、と私は確信している。
『為学日益,為道日損。損之又損,以至於無為。無為而無不為。』(第48章)
(学問をすると日ごとに知識が増していく。道を行うときは日ごとにすべきことが減っていく。減らした上にまた減らし、ついに何もすることがなくなる。何もすることがなくなって初めて、全てをなしてとげることが出来るのだ。)
同じく第36章には、
『将欲歙之、必固張之』
(まさにこれを歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばらく)くこれを張る。)という言葉がある。言う意味は、『縮めようとするなら、縮めよう、縮めよう、とせず、先ずは逆にうんと広げてやることが必要だ』
この言葉は、一般的には『伸びんと欲すればまず屈せよ』と言い慣わされている。
この二つの言葉は、私の教育方針を端的に表している。
以前も書いたように私は現在、京都大学の一般教養課程で『国際人のグローバル・リテラシー』(Global Literacy for Cosmopolitans)の授業をしている。そこでの授業の仕方は、通常と変わっている、というより逆である。通常の授業では、学生は毎回の何かしらの知識を増やしていく。そして、一学期経つと、いくばくかの知的満足を感じる、という仕掛けになっている。
私の授業では、老子の言葉のように、毎回どんどん知識が減っていくのだ。学生は、毎回の授業で何らかの知識を得るというより、逆に、自分の知らないことが如何に多いかを知る。つまり、自分が知っていた知識がみるみる減っていくような錯覚に陥り、一学期終わる頃には、『自分が知っている、と思っていたことは一体何だっただろうか?ほんの少ししか知らなかっただけではないか!』と愕然とする。
これが私の意図する教育である。豊穣な教養溢れる知識を得るためには、まず全く逆の境遇、つまり知的飢餓の状態に落とすことが必要と考える。老子の言葉をもじって言うと、『将欲増之、必固減之』(まさにこれを増さんと欲すれば、必ず固(しばらく)くこれを減ず。)好む好まないにかかわらず、あたかもフォアグラを作るように上からこぼれるばかりの知識を強制的に与えるのではなく、学生自らが知識を渇望するような教育が必要とされている。渇望感から自ら求め得た知識は本物だ、と私は確信している。