限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第10回目)『大日本史の読後感』

2009-07-20 08:42:26 | 日記
以前(百論簇出:(第7回目)『読まれざる三大史書』)大日本史を山路愛山の漢文書き下し文で読んだ、ということを書いた。



その本は、『譯文大日本史』というタイトルで、春秋社が昭和15年(1940年)に刊行したものである。愛山のこの譯文は、明治末年に出版されたものである。(漢文の原文は、Webに部分的に掲載されている。)



さて、読後の感想であるが、一言で言って中国の史書よりずいぶん味気ない。それは、史書というものの概念が異なるからだと感じる。つまり、中国の場合、ちょっとした言行(エピソード)でもその人となりをずばり表すことがある、と考えているので、エピソードを丹念に集めて、巧妙にちりばめてある。(ギリシャのプルタークもその対比列伝の中で同じくエピソードの重要性を述べている。)一方日本では、そのような意識が希薄であるようだ。これ以外にも感じたまま挙げると:

【1】哀しい話が多い。旧約聖書もそうだし、現代の新聞の三面記事でもそうだが、事件性のある事柄はたいてい、殺人、不倫、悪事がらみだ。従って、歴史を記述する、というのは、必然的に哀しい話が多くなるのは避けられないのかもしれない。

【2】中国では女でも、宋の山陰公主の様に男妾30人を囲った豪傑がいた。このような大らかな話が大日本史にはない。

この話は、宋書巻七、本紀・廃帝に出ている。

『山陰公主淫恣過度、謂帝曰:「妾與陛下、雖男女有殊、倶託體先帝。陛下六宮萬數、而妾唯(馬+付)馬一人。事不均平、一何至此!」帝乃爲主置面首左右三十人。』
(山陰公主が兄の帝に向かって言うには、『同じ親の血を分けた兄妹といっても、あなたには数多くの宮人がいるのに、私に夫が一人というのは、不公平でしょう!』。兄帝は妹のために部下からイケメン30人を選んで与えた。)

【3】世説新語に、高さ二尺の珊瑚という貴重な品を叩き割ったという話があったが、その様な桁外れの逸話が少ない。これは世説新語の汰侈篇に石崇と王が贅沢を競うと話にでてくる。(石崇與王爭豪、並窮綺麗、以飾輿服。)

王はある時、武帝から二尺の大きな珊瑚樹をもらい、それを石崇に自慢して見せた。石崇はじっと見てから、金槌で叩き割った。石崇が怒ると蔵から三尺、四尺の珊瑚樹をずらっと取り出して見せた。石崇はその豪華さに茫然自失した。

【4】道長の治世などに見られる様に誰ひとりとして硬骨の臣がいない。皆権力にへつらう。

【5】帝の后に、異母姉妹を娶ることが頻繁に行われている。これが日本古来の風習だとしたら、当然中国の禮とは合わないはずだ。六世紀半ばに百済から日本に儒教が伝わったといい、その総元締めが天皇家でありながら、儒教の根幹の教えを公然と無視している。これでは、近世に至るまで日本に儒教が定着しなかったはずだ。

【6】親王や内親王は、後代になるほど、ほとんどが僧や尼にさせられている。

【7】性におおらかな国民性のせいであろうか、私通が多くあった(ように書かれている)。特に伊勢の斎宮で、巫女の私通もあった。これを咎められて自殺したというケースはあるものの、処刑はなかった。この点で、ローマのVestaの巫女の場合、私通が見つかると、広場に生き埋めにされたとLiviusのローマ建国史に書いてある。この点を比較すると、日本の方がローマより遥かに刑が緩やかである、と言える。

【8】江戸以前の武士には学が全くない!仏典の唱句を多少知っている程度の粗末なものだ。これでは武士が公家から馬鹿にされていたのも無理はない。

【9】日本では、才能があっても登用されない。大江朝綱は若いころから、文才に恵まれ、学問も広く修めた。(該博宏瞻、詞藻典麗)かつて、渤海使が来日したときに詩をつくり、それによって渤海にその学才が知られるようになった。その後暫くして、渤海からまた別の使節が来日した。そして、朝綱がすでに三公(大臣)になったか、と尋ねた。それに対して、まだだ、と答えると、『日本では、才能を重んじないのですな!我々、渤海では、朝綱の学識がこれほど高く評価されているのに!』と渤海の使節はあきれた、と言う。
(渤海人謂本朝人曰:「朝綱既昇三公乎?」答曰:「未也。」曰:「上邦何不重才乎?其傳譽異域如此。」)

大江朝綱は60歳になってようやく、昇殿が許される身分となった。72歳まで、長生きし、最後は、参議正四位下、讃岐権守となった。この例でも分かるように、日本では文の才が全く尊重されず、血筋が全てであった。
コメント
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