石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
これまでは増田弘『石橋湛山』を読んで、湛山の人生と政治思想について学んできました。
さらに、もう少し湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
■第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第1章 オションボリ
(つづきです)
石橋省三が、父親の住む増穂村青柳の昌福寺にやってきたのは明治24年(1891)10月1日のことであった。この日から省三は増穂村尋常高等小学校第3学年に編入した。省三、7歳であった。
昌福寺は、他のお寺同様に何度か火災に遭っているが、その都度再建されている。省三が初めて足を踏み入れた本堂や庫裏は百年前、江戸時代の再建であった。境内にはそれ以上に古い樹齢数百年の杉木立があった。
しかし、省三母子はこの昌福寺の中には住まなかった。
湛誓は宗門の教えを憚って、山門の内に妻子を入れて生活を共にすることを制したのである。省三母子は昌福寺正面にある総門の入り口北側に別宅を与えられてそこに住んだ。
もっともこの方法は代々の住職が取ったやり方で、この別宅を「お新宅」と称した。省三が母親きん方に入籍したのも、姓を杉田という父方の姓でなく石橋と母方を名乗ったのもこういう事情によった。
尋常科3年生に編入した省三は、甲府よりも田舎での暮らしがもっと面白くなった。周りの子供たちは遠慮を知らない。明け透けにものを言うし、すばしこく、腕白ぞろいであった。それがかえって省三には気持ちよく、すぐに打ち解けて遊ぶことが出来た。
同級生は木綿縞の筒っぽ姿に頭もほとんどが坊主刈り。ところが省三は違った。省三の格好はいつも紬に黒の羽織であった。しかも色白で卵に目鼻がついたという感じの愛らしい顔つきをしていた。だから容姿容貌ともに、転校してすぐに目立った存在になった。
「おい、オションボリ」
同級生の遊び仲間に傘屋の倅がいた。増太郎という。オションボリとは、省三の髪型を指した。
稚児髷のことである。髪を結んで後ろに垂らす髪型で、周りの腕白たちは、省三がそんな髪型をしているのは「昌福寺さんの子供だから」と理解してはいた。
だが、からかい半分に「オションボリ」などとも呼んだ。
「何だい? 増やん」
省三は、そう呼ばれても気にもせずに話したし、遊んだ。一般には「~さん」でなく、「~ちゃん」か「~やん」。それも名前のすべてを言わず、半分だけである。増太郎は「増やん」、万吉は「万ちゃん」、豊三は「豊ちゃん」、新一郎は「新やん」という具合であった。みんな同級生だが、早く小学校に入学した分だけ、実は省三のほうが二歳年下になる。
省三も「オションボリ」のほかに、普段は「省やん」と呼ばれている。
「オションボリのお寺には、たあちっこ、がいっぺえいるずら」
たあちっことは雀や雲雀の雛をいう。「巣立つ子供」というような意味であろう。つまり「昌福寺には雀の雛がたくさんいるだろう」と言うのである。
「うん。朝からぴいぴい鳴いて、うるさいくらいだよ」
「じゃあ、後で行くから屋根に上って捕るか」
「そりゃあいい、待ってるよ」
省三は、増太郎と二人で本堂の屋根に上って、雀の雛を何羽も捕った。梯子を掛けて登る時にはなんともないが、さて降りる段になったら増太郎が震えだした。
「駄目だ、省やん。俺ぁ、足が震えている。おっかなくて降りられん」
「増やん、何を言ってるんだい? こうやって雛を左手に抱えて右手で梯子を握って、ゆっくり降りればいい。登れたんだから決して降りれないことはないんだよ。登る時と同じ降り方をすればいいのだから」
これ以上に合理的な説明はない。だが、それでも増やんは、恐怖で足がすくんでいる。省三は先に降りて、下から増やんを励ました。
こうして捕獲した雀の雛は、二人の秘密になった。小さな鳥籠をどこからか探してきた増太郎が「一緒に飼おうや」と言ったからである。
だが、本堂の屋根に上って雀の雛を捕ったことが分かった時に、湛誓は省三を呼んでひどく叱った。
「落ちたらどうする?」
省三は、大丈夫とは答えなかった。現に増やんは怖くてなかなか降りることが出来なかったからである。
「雀の子を捕るなんて、慈悲の道に外れておる。それも分からないのか。もし、おまえが生まれたばかりで母親と離れ離れにされたらどうだ? おまえに母雀の代わりが務まるのか」
言われてみるとそのとおりである。省三は黙り込むばかりであった。湛誓は、以後省三に木登りや屋根上りをすることを禁じた。
湛誓は幼い省三に木登りと水泳は禁じていた。起居動作についてもうるさかった。湛誓の日常は昌福寺の住職であったが、時折り、草鞋履きで行脚に出ては多くの人に「人間は正直であれ。勉強をする心のない者は堕落する。信心を深くすることは大事だ」と、語っては歩いた。湛誓の信念である「宗門の生命は布教にあり」を常に実践していたのである。
暴れん坊で八方破れだと思われていた増太郎が寺の大屋根を怖がって、オションボリの省三が平然としていた、という話は子供たちにすぐに知れた。そんなことがきっかけになって、省三は腕白仲間のリーダー的な存在になった。
腕白なばかりでなく、 省三は成績も良かった。
「昌福寺さんの子供だもの」
そんなふうに言われもした。だから、省三は立ちんぼを食わされることもなかった。増やんとか新やんが、立ちんぼの筆頭であった。
ある日省三は、立たされるってどういうことだろう、とふと思った。いつも増太郎や新一郎が困ったような、悲しいような顔をして廊下に立ったまま、居残りをさせられているが、あの気持ちは どうだろうか。
省三は、あれこれ思い浮かべるよりも自分が経験してみればすぐに分かる、そう考えて実行に移した。
「増やん、忠やんへお菓子買いに行こう」
「えっ」
品行方正の省三が買い食いを言い出したから、増太郎は驚いた。その直後、省三の手に小銭があるのを見て、増太郎はにやりとした。
忠やんというのは、小学校のすぐ裏にある駄菓子屋兼文房具屋である。ちゃんとした店名はあったが、店主が「忠三」という名前なので、いつからか「忠やん」と半ば愛称で呼ばれるようになっていた。
二人は休み時間に学校の柵を乗り越えた。忠やんでアメ菓子や都コンブを買って教室に戻ると、担任が呆気にとられたような顔をした。買い食いの犯人が省三であったからだ。
「放課後、二人とも職員室の廊下に立っていろ」
放課後いつになっても担任は「帰ってよい」とは言わない。
職員室と廊下を隔てている障子に、夕日が当たって真っ赤になってきた。烏が群れをなして昌福寺の方角に戻っていくのが見えた。そのうちに増太郎が、くすんくすんと泣き出した。
「俺ぁお母ちゃんに、二度と立たされないし、残されないって約束したんだ」
がらりと職員室の戸が開いて担任が出てきたが、省三は黙って担任を睨んだ。担任も二人を睨みつけると再び職員室に入ってしまった。増太郎が泣いているのは分かったが、省三が謝らないので、ますます腹を立てたらしい。
「さ、増やん。帰ろう」
担任が便所に行ったのを見計らって省三は、増太郎を促した。
「だって……」
「いいんだ。もうこれくらい立たされたらもういい。帰ろう。家で心配しているよ」
二人は学校から走って出た。
途中まで来ると、増太郎の母親が心配して迎えにきた。二人を見て目を丸くした。
「うちの増太郎が立たされたのはともかくとして、省三さんも一緒とは」
秋の夕暮れは早い。櫛形山に落ちた夕日は、山の端を真っ赤に染めるが、すぐに絵筆を水の中で洗った後のような混沌とした色になっていく。
「昌福寺さんの息子が、こんな増太郎なんかと一緒に立たされ、残されてどうするんですか。駄目じゃあありませんか」
増太郎の母親は、自分の息子のことなど放っておいて省三にお説教をした。
だが、放課後に残されて立たされることの気分の悪さを、省三は味わえて、それはそれでいい経験であったと思った。こんな幼時から省三には、のちの湛山の精神の骨格ともいえる部分が形成されていたのだった。この「体験することの大切さ」を幼時に養った湛山ゆえに、早稲田大学で田中王堂のプラグマティズム哲学に出会い、自分の膚に合った思想として傾倒していくのである。
(つづく)
【解説】
放課後に残されて立たされることの気分の悪さを、省三は味わえて、それはそれでいい経験であったと思った。こんな幼時から省三には、のちの湛山の精神の骨格ともいえる部分が形成されていたのだった。この「体験することの大切さ」を幼時に養った湛山ゆえに、早稲田大学で田中王堂のプラグマティズム哲学に出会い、自分の膚に合った思想として傾倒していくのである。
なるほど、子どもの時の性格が将来の思想へと繋がったのですね。
獅子風蓮