獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その8

2024-03-31 01:22:19 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF8-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その8) 
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月28日 投稿


【除染の具体的な姿】

ここで、「除染」のことについて、少し触れたいと思います。ことばだけは、広く知られていると思いますが、その内容はあまり知られていないかと思います。

除染は、環境省のガイドラインに沿って進められます。

このガイドラインは「平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境汚染への対処に関する特別措置法」(名前が長い!)の、第四十条第一項において定められた、「土壌等の除染等の措置の基準に関する環境省令」(名前が長い!)を具体的に進めるために定められたものです。


ここでガイドラインを見ることができます。
http://www.env.go.jp/jishin/rmp/attach/josen-gl02_ver2.pdf

 

だいたい、表土は5センチ(線量が高い場合はもっと深く)はぎ取っていくのですが、飯舘村だけで、除染の対象区域は56平方キロメートル、山手線の内側よりほんの少し狭いぐらいです。
山手線の内側の表土を5センチはぎ取る作業がどれほどか、例えばビルがないとして、その広大さを想像してみてください。またそこから出る残土・瓦礫はどれほどか、想像してみてください。
でも、除染されたのは村の総面積の4分の1です。あと4分の3は除染されません。 飯舘村のほとんどを占める森林は、除染対象ではないのです(道路や家の周囲20メートルの森林は除染対象ですが、それはごくわずかです)。

 

県道12号(原町~川俣線)という、幹線道路に面した草野地区(公民館などがあった)は、2012年(平成24年)6月から、調査先行除染が行われていて、その時から、除染の模様を見続けてきました。
除染は、例えば、田畑ならば薬剤を散布して固めて、表土をはぎ取ります。そして、遠くの山を切り崩して運んできた土砂を上に撒きます。建物の場合は、建設用の足場を組み、屋根から順に下へ、雨どいとかも、隅まで細いブラシで洗浄していきます。 最後は側溝へと作業は降りていきます。

(写真:家の除染 これは飯舘村ではありませんが、一般的にこの感じです)

高圧洗浄を行う場合もありますが、基本は家を傷めないように、布でふき取ったり、サンドペーパーで表面を削ったりします。どうしても、線量が下らないときには、高圧洗浄が行われますが、高圧洗浄は、逆に飛散の可能性が高まるので、家にはあまり使われません。
逆に、果樹は高圧洗浄機が使われることが多く、果樹園には、樹皮がはぎ取られた白い幹の木が並んでいて、驚きの風景です。

 

ちなみに、道路はブラシや高圧洗浄を行いますが、しばしば見かけるのは、「ショットブラスト」です。鉄やセラミックの小さな球を道路面に吹きつけて、表面をはぎ取ります。

(写真:道路のショットブラスト これも飯舘村ではありません。最も一般的な形)


道路に面した土地は20メートルまでしか除染されません。家の周囲も20メートルです。つまり、家のすぐ裏の林などは、除染されていないのです。
人口6000人の飯舘村の住民は、全村避難していましたが、そこに多いときは1万人の除染作業員さんがいました。

1トンと少し入るフレコン(だから「トン袋」とも呼ばれる)が、村中に置かれています(200万個以上)。でも、これはあくまで、仮置き場、仮仮置き場です。


飯舘村20地区の一つ、蕨平地区に減容化施設があります。

(写真:蕨平地区の減容化施設)


この蕨平地区の西隣が長泥地区で、ここが浪江町の津島地区の北に接するところ。線量が特に高くて、「帰還困難区域」になっています。
蕨平の減容化施設は、山を一つ削って作られたもので、建設費は400数十億円とも言われています。
同じような減容化施設は、富岡町(仏浜)や浪江町(冒頭の棚塩集会所周辺)など、 各自治体にあります。

仏浜の減容化施設については、このドローンによる空撮をごらんください。これは富岡町だけの、フレコン置き場とその焼却施設です。

https://www.youtube.com/watch?t=21&v=UCP7PFT9coU

他地域が、海辺の「津波浸水区域」に建てられているのに対し、飯舘村の蕨平は、山の中なので、そこに毎日、おびただしい数のトラックが行き来します。細い山道を切り開き、トラックがすれ違う幅にする工事も、かなり長い期間行われてきました。

 


解説
「除染」のことについて、少し触れたいと思います。ことばだけは、広く知られていると思いますが、その内容はあまり知られていないかと思います。
(中略)
だいたい、表土は5センチ(線量が高い場合はもっと深く)はぎ取っていくのですが、飯舘村だけで、除染の対象区域は56平方キロメートル、山手線の内側よりほんの少し狭いぐらいです。
山手線の内側の表土を5センチはぎ取る作業がどれほどか、例えばビルがないとして、その広大さを想像してみてください。またそこから出る残土・瓦礫はどれほどか、想像してみてください。

本当に、「除染」のことについて、具体的内容についてまったく知りませんでした。
おどろくばかりです。

 

獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その7

2024-03-30 01:58:06 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF7-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その7)
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月25日 投稿

【1990年代 バラマキと丸投げ】

1990年代の飯舘村を象徴することばは「バラマキと丸投げ」です。一般的に使われる「バラマキと丸投げ」ではなく、“飯舘村の”バラマキと丸投げです。
地域地域の住民を信頼した「サポート・バット・ノー・コントロール(支援はするが口はださない)」の思い切った施策です。

全国的に中山間地振興が叫ばれるようになった1990年代。でも、実態は、バブルの夢をまだ追い求めるような巨大開発や産廃場、ゴルフ場開発などの、「住民本位」ではない「振興策」の花火が、まだまだ全国各地で打ち上げられていました。

しかし、1990年(平成2年)、飯舘村は「快適環境づくり条例」を作ります。「産廃とゴルフ場開発への道」は、そのなかで、明確に否定されました。

そして、村は、20地区に100万円ずつ交付(バラマキ)をしまた。何をするかは「自主的」に決める。村は口を出さない(丸投げ)。「やまびこ運動」と名づけられたこの活動により、伝統芸能の保存や、「地区白書」の作成など、20地区ごとに、さまざまな事業が進みます。

さらに、1994年に、第四次総合振興計画を策定。
村は1000万円の事業費を保証しましたが、やはり、何をするかは20の地区に任せられました。「バラマキと丸投げ」です。ただし、事業費の1割は地元負担とし、これにより各地区の事業案を住民が責任を持って審査するように促すようにもなっていました。

でも、当時、区長をされていたかたに話をうかがうと、「みんな競争して、いい案を考えた。負げらんねからね。楽しい競争だ。あの時はわくわくしたね。いろんな案がどんどん出てくるんだもの」と語られていました。
また、「企画には、どんどん若者も参加してもらった。今、中堅で自主的に村の活動をやっているメンバーは、このときの企画に携わった若手が多いね」とも。

自主・自立の風土は十二分に育成されていて、「促す仕組み」は必要なかったのかもしれません。

 

これ以来、飯舘村、また各地区の事業は、つぎつぎと高い評価を受けます。

特に、1990年(平成2年度)、「魅力ある農村楽園(カントリーパラダイス)づくり」で、過疎地域活性化優良事例表彰(国土庁長官賞)2005年(平成17年度)、「『大いなる田舎までいライフいいたて』を目指して」で、過疎地域自立活性化優良事例表彰(総務大臣賞)が、特筆すべきものでしょう。

特に、未来を担う子どもたちへの施策にも、飯舘村の先見性が見えます。あくまで子どもを「当事者」、「主体」と考える施策です。冒頭に挙げた、飯樋小学校の意匠にもそれが現われています。

小学校入学から中学校卒業までの子どもを、地域ぐるみで育てようという、「子供育成会」。地方で盛んな、婦人会、老人会、消防団と並ぶコミュニティ活動として、村民みんなが、その重要性について共通認識を持っている活動です。

他に、例えば、「いいたてエンジェル・プラン」。
少子化対策といっても、女性に負担を押し付ける「産めよ増やせよ」政策ではいけないでしょう。そこには、「男女共同参画社会づくり」の観点が必要です。そこで始められたのが、このプラン。まず、女性・男性が「手をとり合って社会を作る」ことが重要という考えが基本となっています。2003年に誕生し、全国初の取り組みとして、注目されました。また、全国2例目という、村の男性職員の育児休暇もあります。

それから、飯舘村には、村営の「本屋さん」があったのです。
よく、公営図書館を、民間業者に事業委託をするという話が、ここ数年、ニュースでとり上げられていますが、飯舘村は逆。「民営の図書館」ではなく、「村営の本屋さん」です。

センター地区と呼ばれる村の地理的中心に、緑のとんがり屋根のかわいらしい建物があります。これが本屋さん、「ほんの森いいたて」。

住民の意見聴き取りで、図書館を望む声が多かった。公民館には図書室はあるが小さい。財政的に「十分な施設」ができない。それで考えられたのが、村営「書店」です (1995年に開店)。在庫約1万冊のうち、児童書が3分の1。机やイスも置いていて、「図書館」と変わりません。立ち読み、座り読み大歓迎。
汚れて売り物にならなくなった本は、村が買い取り、公民館の図書室で閲覧・貸し出ししてくれるのです。

(写真:「ほんの森いいたて」)


【「までい」の村づくり】

「過疎地域で最も恐い問題は人口の減少ではなく、村民が自分たちの村を自分たちの力で興そうという『自立・自助』を失った 『心の過疎』である」
――「いいたて村までい企業組合」のホームページにある飯舘村の「村づくりの理念」です。
http://www.iitate-madei.com/village05.html


「までい」は、飯舘村の「住民参加の地域づくり」のキーワードです。漢字にすると「真手い」となるのでしょうか?「丹精込めて」「丁寧に」「手間ひま惜しまず」という意味です。

最初、村は、自分たちが現代社会に提供・提案できる一つの「理想の生き方」を表すことばとして、「スロー・ライフ」を考えていましたが、まだ、当時「スロー・ライフ」は、日本国内では一般的でなかった。ところが、足下に泉あり。ちょうど、村で昔から使われていた「までい」が、絶妙なまでに「スロー・ライフ」と同じニュアンスを持っていたのです。
そこで「までい」を、飯舘村の暮らしをアピールすることばとして使うようになりました。いや、飯舘村をアピールするというより、飯舘村が模範となり、全国に発信する新しい時代の姿を示すことばです。

正式に「までい」が村全体のテーマとして掲げられるのは、2000年代にはいって、「平成の大合併」で、南相馬市などとの合併で、村が大揺れになったときです。その議論のなかで、「飯舘村とは何か?」が、真剣に検討されました。そして、合併を選ばず、「までいライフいいたて」と題された第五次総合振興計画が策定され、村は合併協議会から離脱したのです。議論の深まりのなかで、飯舘村の歴史への理解がさらに深まり、「までい」のことばが、飯舘村を象徴するものとされたのです。

むろん、江戸時代以来、また戦後開拓以来の村の歴史そのものが、「丹精込めて村を作る」という「までい」の歴史でした。そして、上記、第三次総合振興計画以来(次に述べる第四次総合振興計画、そして今は、第五次)の歩みは、「までい」の伝統の確認と進化(深化)と位置づけることができると思います。
「丹精を込める」という観点に、自分たちが責任を持って、村を丁寧に作っていくという、住民参加、自主・自立・自治の観点が付け加わったのです。

 

【「日本で最も美しい村」の今】

このような努力を積み重ね、2010年9月、飯舘村は「日本で最も美しい村」に加盟することができました。全国、34番目です。

(写真:「日本で最も美しい村」飯舘 「負げねど飯舘!!」 提供)

「日本で最も美しい村」は、NPO法人「日本で最も美しい村」連合が、スタートさせたもので、地域資源や伝統、美しい自然を持ちながら、過疎などの問題を抱える村が、将来にわたってその美しさを維持しながら、住民による地域づくり、地域の活性化を行うことなどを目的としていて、5年ごとに資格の審査があります。
もとは、フランスで始まった活動です。

http://utsukushii-mura.jp

飯舘村の人たちの多くが暮らす福島市の松川仮設住宅の交流スペースにお邪魔したとき、「避難指示解除が出たら、一番先に帰るんだ」と仰っていた70代の男性。

「何十年も土を耕したんだ。『日本一美しい村』を目指して、みんなでがんばった。暮らしもやっと楽になった。東京から移住する人も出てきた。でも、今じゃその田圃が、黒い『トン袋』だらけになってよ。それで日本中に有名になっちゃった。これからだっていう時にだ。
でも、わしの村だから帰るんだ。若い人は来なくていい。子どももだ。わしら『後期高齢者』が、がんばればいい。また開拓だ」

男性が言った「トン袋」とは、原発事故後有名になった「フレコン・バッグ」のことです。
「フレキシブル・コンテナ」が正式な名称ですが、もともと、家畜飼料や工業原料を入れたり、土を入れたりすることも多いので、家畜もやっていたその男性には、「トン袋」が馴染の名前なのでしょう。飯舘村の平地には、おびただしい数のフレコンバッグが置かれています。

「日本一美しい村」が、黒いフレコンバッグだらけになってしまったのです。200万個以上ともいわれます。

(写真:飯舘村のあちこちに積まれたフレコン)

(写真:長期野積みになっているところには、緑のカバーがかけられている)

 


解説
地域地域の住民を信頼した「サポート・バット・ノー・コントロール(支援はするが口はださない)」の思い切った施策です。

飯舘村の人たちは、誇りをもって「日本一美しい村」作りのために努力したのですね。
その「日本一美しい村」が、黒いフレコンバッグだらけになってしまったのです。
なんという悲劇でしょう。

 

獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その6

2024-03-29 01:52:02 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF6-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その6) 
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月21日 投稿


【飯舘村 各地域の自治・自立】

1970年(昭和45年)。おりしも、大阪万博が開かれ、田中角栄首相の「日本列島改造論」が、世論を沸かせました。高度経済成長の最後のピークと言ってもいいかもしれません。
水資源開発のため、全国各地に巨大ダムができ、福島県にも三春ダム、四時ダムなどが計画・着工されていました。そして、飯舘村にも、村の東北の端、大倉地区で、村を流れる真野川をせき止める「真野ダム」が計画されたのです。

ダムの建設について、問題となったのは「地域住民の分断」でした。もちろん、ダムが出来て、地域の一部が水没するということもありますが、もっと危惧されたのは、 補助金・補償金などの名目でばらまかれる「金」による、住民間の対立、離間でした。

飯舘村大倉地区の住民の代表が、参考のためにと、関東地方で建設が進むダムの見学に行った時のことです。
「一人暮らしのおばあさんがいて、みんなに支えられて暮らしていた。またそのおばあさんも、地域の人の子守をして、重宝され大事にされて いた。 しかし、建設が決まり、業者や行政から『金』の話が出てきて、村の団結が切り崩された。おばあさんは見捨てられ自殺した」というのです。

それで、「1人も見捨てない計画」、「先祖に申し訳が立ち、子孫から感謝される生活再建」を目標に、徹底的に地域住民で話し合いました。その熱意に行政も動かされ、ほとんど類例のない、住民本位の移転合意にこぎ着けたのです。
1980年(昭和55年)に合意は締結します。建設省(当時)内でも、「真野ダム方式」と呼ばれるモデル・ケースとなり、その時交渉に当たった村民の代表は、全国のダム予定地の住民の集まりに招かれて、講演・指導を行うほどの影響力をもったのです。

 

1980年(昭和55年)の作況指数7%という記録的な冷害への対応は、前述のように、「飯舘牛」のブランド化へとつながりましたが、より広く、「住民参加の地域づくり」の機運を飯舘村に広げていきました。このままでは、村は立ち行かなくなる、 若い人がいなくなる――今、全国各地の農村地帯で喫緊の課題となっていることです。
飯舘村は、その課題にいち早く取り組んだのです。

名産・特産を作るということは、確かに、産業としては大切です。村外の人にアピールすることはとても大切です。しかし、まず、村内の人たちが誇れる村、住み続けたいと思う村、「自分たちの村」を作ろう、という機運が起こったのです。

「村の主体は行政ではなく、自分たち。役場任せではいけない」という自覚の深化です。

若手職員、若手農家、いわゆる「肩書き」のない人たちを中心に代表を集めて、第三次総合振興計画が1983年から始まりました。それ以前から振興計画はあったのですが、「住民参加の地域づくり」が本格的に始まったのは、この第三次からです。

 

他地域のことで恐縮ですが、 日本で最も乳児死亡率が高かった岩手県の沢内村(湯田町と合併して、今は西和賀町)のことをご紹介しましょう。
深澤晟雄さんが1957年(昭和32年)に村長となり、全国に初めて乳児死亡率を0とした、後に「沢内生命行政」と高く評価される諸施策を行いました。村長が行ったことは多彩ですが、2つのことが特に評価できると思います。

1)「中央とパイプ」をたどって「東京詣で」をする代わりに、毎日、村内を歩き、青年会、婦人会、公民館活動を活性化した。
2)村内22の地区で、各地区1人を選び、保健委員会を作る。

2)についてですが、最初選ばれたのは、地域の「エラい」人たちばかりでした。
そこで、村長と、保健管理課の課長であり、国保沢内病院の副院長であった増田進ドクター(後に院長。 今もお元気で、旧沢内村村内に、 小さなクリニックを開いておられます)は、肩書きに関係なく、村に対して積極的に関わってくれる人という条件で、選び直しをしてもらいました。
すると、全員が女性となったのです。とても、示唆に富んだエピソードです。

これらの施策により、村人のなかに村の運営に主体的積極的に関わる雰囲気が醸成され、「沢内生命行政」と言われる画期的な仕組みができていったのです。

 

飯舘村でも同じでした。
「~地区長」などの肩書きは、代表する地域や団体の枠に縛られがちです。肩書きなく語り合う議論は、全員が地域や団体ではなく、「村の代表」の自覚に立つことを促していくでしょう。実際、この第三次総合振興計画の時、委員となったかたがたにうかがってみると、本音の飛び交う議論となったと、当時を述懐してくださいました。

飯舘村の「住民参加の地域づくり」が、1980年代から始まっていることは、注目に値すると思われます。なぜならば、それは、日本全体の方向とは「逆行」、今になってみれば、「先行」していたからです。

バブルへの山を猛スピードで登っていた日本社会は、「リゾート法(総合保養地域整備法)」を作り、多額の補助金が「バラマキ」され、「田舎」を、都市の「保養地」 として「開発」をしていったのです。“ゼネコン”や“コンサル”に「丸投げ」した、類似の大規模開発が日本各地で繰り広げられました。
同じような景観、同じようなホテルや別荘地、スキー場、ゴルフ場。そして、地元食材ではない、外国産のカニやビーフなどが並ぶブュッフェ。

それらの「リゾート地」の多くが、今、どうなっているかをみれば、「整備」というものの本質がどのようなものかが分かるでしょう。第一、当初の方向性からして、「都市住民」の保養用「リゾート」を作るというのです。地方住民は、そこには「主体」として視野にはいっていません。「都市住民」に「非日常」を提供するリゾートは、地域住民の「日常」からかけ離れたものだったのです。

飯舘村の場合は、住民が誇りを持って「飯舘村出身」と言えるような村を作ろうという、「村民主体」の計画を立てました。まず、そのためには、計画実行のプロセス自体に対して、村民が主体として参加すべきだと考えました。それが第三次総合振興計画でした。

1986年(昭和61年)、「いいたて夢創塾」が、村民によって自発的に出来ます。 若い村民が自由に村の将来を議論し、イベントなどの企画を行う場です。菅野典雄現村長は、このとき、若き酪農家であり、「夢創塾」の初代の塾長でした。
荒唐無稽な案も出ました。実現するかどうかは関係なく、ともかくでっかい夢を語ろうと、「新春ホラ吹き大会」(1987年から1998年まで続いた)を企画しましたが「瓢箪から駒」。現実のものとなり、そして村を変えた「ホラ」も出てきたのです。


【若妻の翼】

1988年の「新春ホラ吹き大会」で、1人の女性が「21世紀には、飯舘村には『村営主婦の翼』が飛んでいる」という「ホラ」を吹いたのです。そして、21世紀を待たずに、これが実現されたのです。

農繁期に、「農家のヨメ」を、村の費用で、海外に研修に行ってもらおうという企画です。しかも、11日間の研修先はヨーロッパです。「イエ」のしばりが強い田舎の農家、しかも農繁期。反対も多かったのですが、村は決行しました。以来、5回、91人の「農家のヨメ」がヨーロッパ各地へ出発しました。


このプロジェクトは、とても大きな成果をあげました。もちろん、村会議員や、村の各地区を代表する人材がどんどん、「若妻の翼」から出てきたのは、いわずもがなです。
さらに――。
「農家に嫁いだヨメは、嫁ぎ先のもの」という古い考えに揺さぶりをかけた。

参加した方々に「ヨーロッパで学んだのはどんなことですか」とお聴きすると、頻繁に返ってくることばは、「自治」「自立」「参加」「人権」「環境」。
「ヨメ」は、家の所有物ではなく、村の一員であり、それどころか、女性が積極的に発言することこそ、村をよくするのだという意識が共有されました。村に新しい風が吹き込んだのです。

飯舘村のかたがたの前で、釜ヶ崎の「紙芝居劇むすび」のおっちゃん達と一緒に公演をするとき、いつも、アドリブで、飯舘村の「小字(こあざ)」地名や、商店の名前、坂の名前などをセリフに入れ込んでいます。
あるときの公演で、「母さんが『若妻の翼』でドイツさー行ぐって言った時、大反対してごめん」と、夫役のアドリブを入れたのです。
びっくりするほどの大拍手が起こりました。男性からもです。

(写真:飯舘村の人々の前で公演する釜ヶ崎の「紙芝居劇むすび」)

終わってから、「私、二期生だったのよ」「私は一期生、そうそう、大反対だった」と何人もの人に声をかけられ、それぞれかなり長く想い出を語ってくださいました。
それほど、「若妻の翼」は、みんなの心に刻まれた大きなできごとだっ たのです。

「私自身も、『女は家を守るもの』っていう考え方だったけど、ドイツに行って、議会とか、農家の集まりで、女性のほうが積極的に発言しているのを見て、考え方が180度変わった」

「酪農家のところに行ったんだけど、搾りたてのミルクって、牛の体温の温かさでしょう。それを腐らないようにって、日本では電気代かけて、冷蔵庫で冷やす。でもね、見学行った先では、その電気代がもったいないと、搾りたてのミルクの熱で発電するシステムを作ってるの。たまげたよー。こういう細かいことから、未来は始まるんだなって。でっかいことは、もういらない。原発のこと考えても、もう日本も気づかなくてはならないときよねー」


その時、声をかけてくださった1人が、佐野ハツノさんでした。

ハツノさんは、第一回「若妻の翼」のメンバー。
周囲からいろいろ言われた。「ヨメは体が丈夫なだけでいい(労働力と跡継ぎを生むこと)、頭がよくなるとろくなヨメにはならない」と陰口も聞こえた。しかし、家族が後押しをしてくれた。

夫の幸正さんは、2013年まで村議会議員で、でも尊大なところが一つもなく、朴訥で、いつも、「むすび」の公演のときに、ニコニコとした顔で、無言の励ましをおくってくださっていました。忘れられないご夫妻です……。

ハツノさんは帰国後、生き方が変わった、と言います。

「進歩した暮らしって、都会にあるもんだと思ってたけれど、『翼』でヨーロッパいって気づいたんですよ。どこでも、健康で文化的な暮らしは出来るし、私たちがつくっていかないと」

「翼」プロジェクトで、ドイツのバイエルンの農家に泊まったとき、環境にも配慮し、家族内や近隣との平等な人間関係、また最先端技術も導入した「田舎暮らし」を目の当たりにし、「グリーンツーリズム」の可能性を実感された、といいます。
そして、飯舘村の飯樋に、農家暮らしを経験してもらう農家民宿「どうげ」(飯樋地区の地名、同慶より)をつくられました。

ハツノさんは、全国初の女性農業委員会会長にもなっています。また、「平成の大合併」に伴い、全国的に農業委員の縮小が危惧されていたとき、2004年(平成16年)4月14日、第159回国会農林水産委員会で審議された、「農業委員会等に関する法律の一部を改正する法律案(内閣提出第四九号)」で、全国の農業委員会の代表として、参考人意見を述べられています。

農村の女性の「未来の姿」そのものでした。

しかし、震災、原発事故、全村避難……。

避難してからは、福島市の松川仮設の管理者を務められました。急激な環境の変化で、認知症が進んだり、足腰が急に弱くなったりされた高齢者を支え続けられました。

「今、仮設で『までい着』づくりみんなでやっててね」と、微笑みながら語ってくださったハツノさん。

飯舘村では、着物を粗末にせず、古くなっても縫い直して着ていました。仮設には、そういう経験を積んだ、和裁の得意な高齢者がたくさんいました。古い着物を縫い直し、上着とズボンに別れた、日常にも「八レ」の日にも着られる「までい着」にするのです。
「までい」ということばについては、次に詳しく述べますが、「丹精込める」「大事にする」というような意味です。
ハツノさんの「までい着」は、「までい」の心を代表するものともいえるかもしれません。

「までい着」づくりは、生き甲斐の場、交流の場となりました。

着やすく、作りのしっかりした「までい着」は評判となり、東京の百貨店の催事でも人気になりました。内閣府の「女性のチャレンジ賞」にも選ばれました。

しかし、長く続く避難生活、先行きの見えない不安――心労のためか、ハツノさんは体調を崩され、2017年の8月26日、朝日が昇るとき息を引き取られました、享年70歳でした。


解説
飯舘村の「住民参加の地域づくり」が、1980年代から始まっていることは、注目に値すると思われます。なぜならば、それは、日本全体の方向とは「逆行」、今になってみれば、「先行」していたからです。

いろいろ勉強になります。
このように、努力をしてきた飯舘村の人々が、原発の事故によって故郷を追われたのですね。
残念なことです。

 

獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その5

2024-03-28 01:38:00 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF5-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その5) 
アクティビスト、 ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月18日 投稿

 


【飯舘村の戦後開拓】

飯舘村の戦後開拓を見てみたいと思います。
飯舘村の前田地区豊栄には「豊栄開拓の礎」があります(飯舘村史編纂委員会『飯舘村史』第一巻)。
前述の、飯舘村のかたがたの避難先、福島市松川の仮設住宅で耳にした、「とんぐぁ」と「しほんこ」で、「石ばかり」の土地を拓いてきた人々の歴史がここに綴られています。

 

此の豊栄開拓地は山形県出身満州開拓引揚者の入植予定地として農林省中央指定地区の認定を受けし前田国有林四六、四七林班内五十年生赤松林の昼尚暗き造林地なりき。昭和二十三年十一月一日元満州国開拓者及海外引揚者同志相集ひ自活の場又将来の墳墓の地と定め戦後の食糧危機と物資不足の中艱難辛苦欠乏に耐え組合長を中心に相励し相扶け只管に開拓の道に昼夜の分けなく専念し自活と子孫繁栄の礎石たらんと共存共栄を旗として筆舌に尽し難きこの百難を克服し今日に至る。此の間時勢は変転し止むなく離農せる者亦志半にして病に斃るゝ者あり。こゝに入植二十五周年を迎えるに当り此の開拓地の歴史を永久に子々孫々に伝えんと入植せる者を記名して此の碑を建立す。

昭和四十八年十一月一日之建

福島県開拓農協連合会長
吾妻千代吉謹書

(写真:「豊栄開拓の礎」)

「艱難辛苦欠乏に耐え」
「自活の場又将来の墳墓の地と定め」
「相励し相扶け只管に開拓の道に昼夜の分けなく専念し自活と子孫繁栄の礎石たらん」
「共存共栄を旗として筆舌に尽し難きこの百難を克服し今日に至る」 
――のことばが、やはりここでも目に焼き付きます。
自分たちの、また子孫たちの、永住の“故郷”を作ろうとしたのです。

飯舘村には、1960年(昭和35年)豊栄、大倉、八木沢、蕨平、長泥、比曽、二枚橋、古今明など、村内各地に開拓地がありました。このうち、飯舘村前田にある豊栄は、開拓地として成功したほうだとされています。

最初、ここに来たのが、開沼幸栄さんと大江一男さん。1948年(昭和23年)にまず視察に来られました。開沼さんは、1928年(昭和3年)に山形県の村木沢(現・山形市)から満蒙開拓団で旧満州へ。
そして、敗戦。シベリア抑留。帰国して、国内開拓へ。

「シベリア帰りは『アカ』だ」という偏見が根強くあり、入植地はなかなか決まらなかったのですが、最終的に飯舘村の北前田に決まりました。
現地は一面の松林で、「途方にくれた」といいます。しかし、まったくの偶然、現地の山津見神社の宮司の息子さんが「少年義勇隊」で満州に往き、そこで亡くなっていた。
そういう共通の境遇もあり、宮司さんたちを中心に何の偏見もなく、歓待してくれたといいます。

開沼さんたちは、柱や梁になる木を切り出し、集団で居住する笹小屋をつくる。やがて、二家族で一棟の小屋を建てていく。屋根を葺く杉皮は、遠くの山まで歩いて取りに行き、背負って持ってきた。
土地は、荒地でリン酸などの養分が欠乏しており、乏しい資金を工面しては、何度も何度も肥料をまいた。
農林省推薦の多収穫種の米づくりを行ったが、冷害に弱く、1953年、54年の冷害にひとたまりもなかった。自分たちが食べる物も底をついたこともある。出稼ぎにも行った。冷害にも強い早稲の「藤阪5号」をつくったりの工夫が続いた。


だいたい、多くの開拓農家さんは、最初の二年ほどは割り当てられた開拓地にある立木を伐り、炭を焼いて現金収入にしています。木を手斧で切り倒し、伸びた草を刈る。なにせ、着の身着のまま、ほとんど準備もなしに、開拓地に来たのです。草刈り用の鎌もなく、持ってきた生け花用のハサミで、伸びた草を刈ったというお話も耳にしました。

「炭焼きに、たばこ、養蚕もやってたなぁ」

「炭焼きの窯も自分たちで作った」

「最初は馬でよ、(隣町の)川俣まで売りに行った。わしの父親のころはよ」

やがて、森林鉄道のトロッコが出来て、原町(現在は、南相馬市原町)につながった。でも、トロッコとは言っても、動力は人力です。軌道の上に乗るトロッコを人力で引くのです。

いろんな作物を植えた。しかし、何しろ、消費地まで、山道を峠越えをして何十キロも運ばねばならなかった。労働はいとわなかったが、多量に運ぶことができないので、もうけは少なかった。


白米は、正月しか食べられない貴重品で、精米法は「臼と杵でつくンだ」と言います。子どものころ、この精米をよく手伝ったというお話も聴きました。最初は勝手が分からず、細かく砕いてしまったりしましたが、何回かやっているうちにコツを覚えるのだけれど、正月や「ハレ」の祝いの日だけしかしないので、うまくなるのに、何年もかかったとか。

 

ここで、飯舘村の土壌の特徴について、少し述べておかねばなりません。
飯舘村を開墾していったとき、花崗岩の小石、大石が出て、とても苦労したそうです。阿武隈山系で、このあたりの岩盤は、下部白亜系花崗岩、阿武隈花崗岩類に分類される花崗閃緑岩で、長い年月と花崗岩の特徴から、マサ化(花崗岩の岩盤が割れて、 石になっていく)が深くまで進んでいます。

固い岩盤だと、その上に長い年月とともに、堆積物が厚く積もる。つまり、柔らかい土壌が深くまで続くわけですが、マサ化が深く進行しているので、ずーっと、石だらけ岩だらけの土が深くまで続いているのです。
どこまで掘っても石だらけ、岩だらけ。浪江町山間部まで、この地質は続いています。

「毎日、毎日、石がいっぺえでる。石がながなが、なぐならねぇのさ」

高度経済成長期になり、経済的余裕が出てきた村民のなかには、石材加工業に転じる人も出てきました。動力で深く掘ると、良質な花崗岩の岩盤に届くのです。少し青みがかって、高い評価を受けました。

「もうかるのは石屋と医者」

と言われたほどです。

 

原発事故前、飯舘の「田舎暮らし」にあこがれて、Iターンしてきた人も何人かいらっしゃいます。お一人に、福島市内でお会いしました。

「定年してから、夫婦で飯舘に引っ越してきて、農業をして余生を送ろうと思ったわけですよ。ビックリしたのが、飯舘の土の柔らかさ。鍬がすっとはいるんですよ。先人のご苦労の結果が恵みとなって結晶している。村中美しくて、カメラが趣味なんですが、飯舘はどこにレンズを向けても絵になる」

(写真:震災前の飯舘村 「負げねど飯舘!!」提供)

福島市内松川にある仮設住宅で、このように語ってくださったかたもいらっしゃいます。

福島(市)に避難してきて、やることなくて気がめいる。村だったら、土いじりをして、野菜とか作れて、それがいい運動にもなるし、気分もいい。冬から春へ、フキノトウどっさりとれるしさ。春にはワラビ、タラノメとかの山菜も、そこら中に生えてる。秋はイノハナ、クリタケ。自分ところの畑、近隣からのおすそわけ、そしてすぐ近くの山に入るだけで、食べ物はほとんど買わずにすんだ。
それが今は、スーパーで買う。体も鈍るので、近くに土地を借りて農業しようと思ったけど、でも、こっちは土が固くてさ。飯舘村だと楽に土が掘れる、ふわふわしててさ、手で掘れるぐらい柔らかい。

 

借りたのは、つい最近まで農地だったところだそうです。でも、固いというのです。それほど飯舘村の土地が「ふわふわ」だったということでしょう。

このように、石を取り除き、土を起こし、石だらけの固い土から、“ふわふわの飯舘村”が作られていったのです。

 

【さらに、村を育てる】

幾多の苦労をへて、 開拓が軌道に乗りつつあった1970年代。時代の大波が開拓農家に押し寄せました。

1960年代末から、開拓農政が一般農政に統合されていったのです。
1975年に、完全に統合されました。冷害で収穫が不振なときの税の減免措置や負債対策などがなくなり、またそういうときに支え合うための開拓農業協同組合も、解散を余儀なくされたのです。

そして、その上、今まで「米作り」が奨励されてきたのに、「減反政策」は、開拓地にも一律に適応されました。「葉たばこ」も、国内での生産過剰のために、生産中止を余儀なくされた農家さんもいらっしゃいます。

でも飯舘村は、負けませんでした。気温が、海側の町より5度ほど低いという「不利」をアドバンテージに変えて、高冷地農業の可能性を探っていきます。

トマト(大手食品メーカー用の加工トマトにも使われていました)、サヤインゲン、夏美濃・春美濃・秋美濃・大倉大根などのダイコン。いずれも、高品質なものを生みだしていきました。マッシュルームやブロッコリー栽培を手がける農家もあり、林業では、シイタケのほだぎ生産も始められました。

その外、特に有名なのは、トルコキキョウなどの花卉栽培。震災以後は、冷涼な気候を利用して、全国でも飯舘村だけと言われるカスミソウの露地栽培に乗り出している農家さんたちもいます。露地なので、陽の光がよく当たる、にもかかわらず高温にはならない、という飯舘村の立地を活かした特産品になるのでは、と、期待されています。

(写真:震災前の飯舘村 「負げねど飯舘!!」提供)

1980年(昭和55年)冷害は、作況指数7%という記録的な凶作でした。それで、季節にあまり影響ない農業をと考え、しかも飯舘村には、牛や馬の牧畜の長い歴史があったので、「畜産」を振興することになりました。村営牧場、加工開発、販路拡大まで一貫して取り組み(今よく使われることばで言えば「六次産業化」です)「飯舘牛」のブランド化に成功したのです。

ちなみに、畜産振興により、1987年(昭和62年)村は自治大臣表彰を受けています。

 

不利な条件のある場所で、なんとか生き残るためには、助け合い、支え合い、そして事態に対応する工夫と努力が必要でした。だから、飯舘村には、「山中郷」の時代からの地域地域のまとまりが、とても強かった。そして、戦後開拓もあった。

「飯舘村として」のまとまりよりも、「開拓地単位」といってもいいような、より小規模なまとまりがとても強かったのです。後に、時として村の中心施設をどこに作るかについて、喧々諤々とした論争になったこともありますが、次に述べるように、1970年代以降に、その「地域自治のちから」は発揮されました。

 


解説
飯舘村の戦後開拓を担われた農家の方々に頭の下がる思いです。

 

 

獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その4

2024-03-27 01:05:46 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF4-「故郷」をつくること「故郷」を失うこと
  ――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その4)
アクティビスト、 ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月14日 投稿

【二人の開拓者】

浪江町の“開拓者群像”のなかには、おそらく、多くの皆さんがご存知のお二人がいらっしゃいます。

一人は、三瓶明雄さん。もう一人は吉沢正巳さんです。

三瓶明雄さんは、テレビ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」(以下、「DASH!!」)で、農業知識だけではなく、炭焼きや、石垣、保存食など、いろいろな知識を教える「スーパー農家さん」として登場します。
明雄さんは、前に『沢先開拓誌』で挙げた浪江町津島の開拓農民だったのです。最初、そのことを知らず、たまたま津島の資料の一つを見ていて、二ヶ所に「三瓶明雄」の名を見つけたときには、「やはり、そうか!」と、明雄さんの知識の豊富さに納得が行きました。

明雄さんの、汲めどもつきぬ生きるための知識――作物の生産から、炭焼き、食べ物の保存法、病害虫から作物を守るときの「自然農薬」の使い方、稲藁(いなわら)で、縄を綯(な)い、草鞋などの生活用具を作るなどなど、それは、開拓農民の生きるか死ぬかの日々によって、自然に身に付いたものだったのです。

「DASH!!」で、井戸を掘ることになり、水脈があるかどうかを調べたとき、明雄さんは、土に鳥の羽根を刺し、それを風呂桶で蓋をしていったのです。そうすると、土地に水分が多い(地下に水脈がある)ならば、鳥の羽根に水分が凝結し、それが風呂桶で蓋をされているので、蒸発せず地面に落ちて行く。どんどん地面が湿っていくのです。
まさに、これは、自ら自分たちで手に入れてきた開拓民の知恵の一端でした。

その明雄さんは、開拓初期の状態について、番組スタッフに「犬に投げる土もなかった」と表現していたそうです。
開拓地には、土地はあるけど土はない。矛盾したことばのようですが、固くて、一握りも手にとることの出来ない地面があるだけなのです。農家にとっては、耕して、空気を入れ、肥やして、初めて「地面」が「土」になる。土を育てて、育てた土が作物や牛を育てるのです。


福島第一原発から14キロのところで、牛を育て続ける吉沢牧場(希望の牧場)の吉沢正巳さん。正巳さんのお父さん、正三さんも、満蒙開拓団でした。3年間のシベリアから帰国後、国内開拓へ。さまざまな苦労の末、今の吉沢牧場のあるところに着いたのです。

正三さんは、旧満州から引揚げるとき、動けなくなった母親と二人の娘(正巳さんの祖母と姉にあたる)を手にかけている。満蒙開拓団の証言集や資料集にしばしば言及されている「集団自決」の悲劇です。

まだ浪江町に「立ち入り制限」(昨年、3月31日まで)があったころから、吉沢牧場には、時々立ち寄っていました。なぜならば、南相馬市の原町に、有名な「相馬野馬追い」の馬主さんをしている知り合いがいて、そこから吉沢牧場が比較的近かったからです。
そして、吉沢牧場は、入り口だけがたまたま、当時、立ち入り制限があった浪江町ではなく、立ち入り制限のない南相馬市の小高にあって、立ち入りができたのです。入り口を入って、すぐに浪江町になるのですが、そこは、「吉沢牧場」の私有地なので、入れます。

吉沢正巳さんところには、見学者のかたがたが全国からよく来られます。吉沢さんは、その方々に現状について語られるとき、しばしば「棄民」ということばを使われていました。そのことばを口にされるとき、吉沢さんは、少し下を向き、吐き捨てるように、そして、自分に言い聞かせるように、強く声にされていまいた。

「浪江は、原発を作らせなかった。交付金いらないって。農業と漁業でやるってがんばってきた。でも、それが原発事故で、完全にやられた。大熊・双葉は、事故直後に情報が出て、すぐに避難できたんだ。道路が混んでて、実際は渋滞だったけど。でも、浪江も飯舘は、放っとかれたんだ。それで、あとから突然『出て行け』って、牛も殺処分だって。人を見捨てたんだ。棄民だよな。牛も見捨てろって。でも、俺はベコ農家だから、ベコを見捨てることはできない。それだけだ」

満蒙開拓、戦後開拓、そして原発事故――それは、吉沢さんが語る「棄民」の歴史そのものだったのではないでしょうか?

(写真:吉沢牧場の真ん中には、福島幹線と呼ばれる原発と東京を結ぶ高圧線が)

(写真:見学者に思いを語る吉沢正巳さん)


【冷害と飢饉の山中郷】

浪江町の山間部と、飯舘村、葛尾村は、江戸時代に相馬藩の「山中郷三十村」と言われた地域にほぼ相当します。(そして、それは今の「帰還困難区域」がすっぽりその中にはいります!)。そのうち18村が、今の飯舘村の20行政区にほぼ重なっています。
「山中郷」は、「さんちゅうごう」と読みます。比較的豊かな太平洋沿岸地域から比べると、過酷な自然のため、戦後開拓以前に、開拓可能だったところですら、生活は厳しく、「さんちゅう」のことばには、若干差別的ニュアンスが含まれていると聞きました。

山中郷は、阿武隈山系の高原地帯で、だいたい年平均気温が10度。初霜が10月、晩霜は5月、夏は涼しいけれど、冬は厳しく、長い。
しばしば、冷害・飢饉に見舞われ、宝暦(1754年)・天明(1783~1887年)・天保(1833~1838年) 飢饉で、多くの被害をだしました。例えば、天明飢饉では、人口約5000人のうち、6人に1人が餓死、逃散が千人を越えています。

まったくの偶然なのですが、仙台から大阪に帰るとき、飛行機の機内オーディオ・サービスを聴いていました。仙台空港から東へ太平洋にでて、そしてゆるいUターンで西に戻る。
新地町の相馬共同火力発電と南相馬の原町火力発電所の大煙突を2つ見ながら、相馬市から飯舘村上空にさしかかりました(福島県は、原発の外、火力発電所でも、水力発電所でも、日本一、二を争う発電所を複数有しています。もちろん、発電された電力は主に首都圏に送られます)。
飯舘村の「はやま湖」が見えてきたとき、民謡歌手、原田直之さんの歌声がイヤホンから流れてきたのです。

原田直之さんは、浪江町出身で、双葉町にある福島県立双葉高校卒業です。単なる偶然ですが、あまりのタイミングの良さに、ぞくっとしました。

しかも、歌った民謡は「相馬二遍返し」

天明の飢饉で大きな被害を受けた相馬藩が、越後、越中、越前に、移民を募ったときの、宣伝歌といわれています。
「民謡」は、概して歌が伝承された地域によって歌詞が違い、どれが「原典」とか「正統」とかいうのは難しく、地域の違いを鑑賞することも鑑賞の醍醐味だと言えますが、代表的な歌詞を紹介します。


相馬相馬と 木萱もなびく
なびく木萱に 花が咲く 花が咲く

相馬恋しや お妙見様よ
離れまいとの つなぎ駒 つなぎ駒

駒に跨り 両手に手綱
野馬追い帰りの 程のよさ 程のよさ

二遍返しですまないならば
お国自慢の流山 流山


この他――

「二遍返しは ままにもなるが
三度返しは ままならぬ ままならぬ」
と歌われるヴァージョン。

「鮎は瀬にすむ 鳥は木にとまる
人は情けの下による 下による」
の詞が入るバージョンがあります。

ちなみに、この「鮎は瀬にすむ 鳥は木にとまる人は情けの下による」は、青森県津軽あいや節、岩手県久慈盆踊歌、同南部杜氏酒屋歌、富山県越中五箇山麦や節、福岡県宗像郡田草取り歌など、日本各地に広く分布しています。
労働、子守りなど、人々の日常的な心情によほど寄り添ったものだったのでしょう。

日本の「児童福祉の父」石井十次。岡山に千人規模の孤児院を作り、また彼の時代(一世紀前)には東京を超えて、日本最大の都市であった大阪の巨大スラム・長町(名護町とも言われた)で、子どもから高齢者までの施設をつくった石井十次が、いつも口ずさんだ一節でもあります。今、釜ヶ崎にある石井十次にルーツを持つ施設で、お手伝いをしているので、この一節にはとても親しみがあります。

曲名の「二遍返し」の由来は、歌詞の第四句の五文字を反復するところからついたとする説が有力ですが、飢饉の荒廃から復興したいとの気概との解釈もあります。

実際のところ、江戸時代には、寺請制度で、人々は職業、住所、身分の変更は固く禁じられていました。他地域にいくのは「御禁制」の「逃散」「欠け落ち」とみなされる可能性が大きいので、移住はなかなかむずかしかったのです。が、文化10年(1813年)から30年間で、8943人が移住してきたと言われています。

移住してきた人たちは、荒れ果てた田畑を耕し、相馬中村藩の石高6万石の半分に当たる三万石以上の土地を生みだしたとされています(千秋謙治「砺波農民の相馬中村藩への移民」『砺波散村地域研究所紀要第26号』)。

しかし、冷害は、以後、何度も襲いかかりました。

「二遍返しは ままにもなるが
三度返しは ままならぬ ままならぬ」
――しかし、三度も、四度も、何度でも、人々は土を耕し返したのです。


解説
三瓶明雄さんは、テレビ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」(以下、「DASH!!」)で、農業知識だけではなく、炭焼きや、石垣、保存食など、いろいろな知識を教える「スーパー農家さん」として登場します。
明雄さんは、前に『沢先開拓誌』で挙げた浪江町津島の開拓農民だったのです。(中略)明雄さんの、汲めどもつきぬ生きるための知識――作物の生産から、炭焼き、食べ物の保存法、病害虫から作物を守るときの「自然農薬」の使い方、稲藁(いなわら)で、縄を綯(な)い、草鞋などの生活用具を作るなどなど、それは、開拓農民の生きるか死ぬかの日々によって、自然に身に付いたものだったのです。

三瓶明雄さん、懐かしいです。
「ザ!鉄腕!DASH!!」観てました。

調べてみました。

三瓶明雄
三瓶明雄は、日本の農業従事者。日本テレビ系のテレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』においてTOKIOのメンバーに農業指導を行った。
2011年、「DASH村」のロケ中に東日本大震災が発生、それにより引き起こされた福島第一原子力発電所事故によりDASH村の村域が計画的避難区域(のちに帰還困難区域)に指定され、「DASH村」の企画が中断。自身も浪江町を離れざるをえなくなり、福島市内の借り上げ住宅に避難しつつ、不定期企画「出張DASH村」にてTOKIOとともに日本各地の農家を訪問し、様々な作物の農業技術や調理法の紹介を行っていたが、2014年1月19日の放送を最後に出演がなくなっていた。 三瓶はこのころから入院しており、入院期間中にTOKIOの城島茂と山口達也(当時)が慰問に訪れたことが2014年8月31日の「24時間テレビ37」で判明した。
2014年6月6日、福島県伊達市の病院で急性骨髄性白血病により死去。84歳没。死因については、福島民報では「急性骨髄性白血病」と報じられたが在京各紙では死因は不明と報じられている。TOKIOを始め、関係者はその訃報に大変なショックを受けたという。
「まだまだ」が口癖で、これは「物事は常に新しくなっていくので、現状に満足して停滞してはいけない。」という自身への戒めを込めたものであったとのこと。
(Wikipediaより)

三瓶明雄さんは、急性骨髄性白血病で亡くなられたのですね。
原発事故の影響がどの程度あったのか不明ですが、ご冥福をお祈りいたします。

私も、三瓶明雄さんの言葉を胸に、現状に満足せず、停滞せず、一歩一歩進んでいきたい。

まだまだ!
まだまだ!

獅子風蓮