獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その27)

2024-04-30 01:14:35 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
■5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

 


5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

1956年(昭和31)8月、鳩山首相は軽井沢の別荘に政府・与党首脳会議を招集し、席上、日ソ国交回復を機に退陣する旨を表明した。この会合の結果、後継総裁候補は岸幹事長、石井総務会長、石橋通産相の三者に絞られた。11月、日ソ国交回復を実現して帰国した鳩山は、予定通り退陣を表明したが、後継者については明言を避けた。そのため、前年11月の保守合同によって成立した自由民主党(自民党)としては、実質上初の総裁選挙戦が岸、石井、石橋3候補の間で繰り広げられることになった。
ところでわずか数名の側近しか持たない石橋が、なぜ大派閥を擁する岸や石井の対抗馬となり得たのであろうか。石橋の懐刀で選挙参謀である石田博英は、「鳩山政権の後は緒方(竹虎)政権樹立に協力して石橋を主要閣僚とし、政治的影響力と資金力を維持しつつ次のチャンスを待つ」と当初考えていたところ、56年(同31)1月緒方が急死したため、「時節到来と思った」という。ただし鳩山内閣の執権ともいうべき三木武吉と河野一郎は岸との関係を強めており、石橋を推す可能性は皆無に等しかった。そこで石田はまず旧改進党系の領袖三木武夫に接近し、三木や松村謙三をはじめとする旧改進党勢力を味方とすることに成功した。次いで石田は吉田派の池田勇人と石橋との関係修復に乗り出し、松永安左ェ門を仲介者として3月以降会合を重ね、11月には両者の関係回復と総裁選での協力がほぼ出来上った。こうして石田は三木および池田との信頼関係を強めていき、もし石橋政権が誕生する場合には、これら戦後派の実力者と組んで政権を維持していく構想を抱くようになった。この間石橋派自体も拡大していった。夏頃には鳩山派内で河野と反りのあわなかった大久保留次郎、 加藤常太郎、世耕弘一、山本勝市、北玲吉、花村四郎ら十数名が石橋陣営に加わった。ここに石橋派は20名程度の規模となり、派閥らしい体裁を整えるに至った。しかも大野伴睦も石橋支持に固まりつつあった。以上の諸事情により、石田は石橋擁立に終始強気の姿勢で臨むことができたのである(前掲「石橋政権と石橋派」40~3頁参照)。
さて12月14日に行なわれた選挙では、岸223票、石橋151票、石井137票でいずれも過半数に達せず、第二回投票が行なわれた。その結果、石橋が258票を獲得し、岸にわずか7票の僅差で当選した。強固な派閥をもたない石橋側が石井派と二、三位連合を組み、本命視されていた岸に逆転勝利を収めたのである。まさに石田らの戦略・戦術が奇跡をもたらしたのである。ここに湛山は自民党第二代総裁に就任した。戦後初の私学出身、しかも初のジャーナリスト出身の宰相が登場したことに国民世論は政界の変化を感じ取り、温かく迎えた。ただし国民は、この新総理が戦前の言論人時代に、時の政府や軍部に抗しながら小日本主義を提唱するなど、前戦後を通じてわが国出色の哲人宰相であることにどれほど気付いていただろう。
もちろん中国は石橋新内閣に注目した。同月25日の『人民日報』は、「中日関係の正常化は両国人民共通の願いである。石橋内閣がこの重要な問題で、あらゆる困難を排除し日本民族の利益と願望にかなう政策を実行できるか否か。石橋内閣にとって、これは重大な試練であろう」とその期待を表明した。続いて27日の同紙社説は、北京と上海で開かれた日本商品展覧会が290余万人の中国人参観者を集めるなど盛況であった意義と合わせて、「石橋湛山氏は中日貿易に比較的深い理解の持ち主であり、強力に中日貿易を推進していく旨表明している。石橋首相のこうした積極的態度を、われわれは歓迎する」と論じた。戦後の日中関係史を通じて、これほど中国から歓迎されて登場した保守党内閣はほかに存在しなかった(鮫島敬治著『8億の友人たち・日中国交回復への道』30~2頁)。
しかし逆にアメリカ側の反応は冷淡であった。21日の『ニューヨーク・タイムズ』 (New York Times) は、「東京の新首班には幅広い支持がある」との見出しを掲げながらも、湛山がかつて占領軍当局の経済政策を声高に反対した人物であり、それゆえ前任者の鳩山以上に米国に対して非協力的であろうし、また通産相時代に「共産中国」(Red China) との貿易拡大に好意的であったので、米国が極東で利益を損なうとしても、彼はこの政策を引き続き促進するであろう、と不安材料を挙げた。また同紙は別の記事で、湛山の生立ちから家族までを紹介し、湛山を「ナショナリスト」と断定し、三人の総裁候補者中、湛山がもっとも反米的で、米国にとって好ましくない人物であり、湛山の首相就任は「アメリカ人にとって有利ではない」と懸念を表明した。 わが国では稀な生粋のリベラリストをナショナリストとアメリカが誤認したことは、湛山にとっても日米双方にとっても不幸であり、歴史の皮肉でもあった。
なおごく最近、石橋内閣誕生時におけるアメリカ政府の狼狽ぶりを伝える外交文書がイギリス公文書館から解禁された。それは在ワシントン英国大使館のド・ラメア公使が、米国務省のハワード・パーソンズ北東アジア局長との会見直後にイギリス外務省極東部へ送った同年12月31日付の秘密報告書である。その中でパーソンズ局長は、湛山について、「きわめて有能だがとても頑固で、日本占領時代に公職追放された個人的な怨念を決して忘れてない」と語っている。国務省がもっとも危惧したのは、湛山が公的に明らかにしていた対中国貿易拡大など日中関係改善の路線であった。ラメア公使は、この国務省の状況を「米側は石橋の総理就任に疑いなく狼狽している」と総括した上で、「彼ら(米側)は岸信介に投資し続けており (They had put their money on Kishi)、岸が石橋内閣の外相として石橋にブレーキをかけることになお望みを託している。彼らは結局、岸が石橋の後を継ぐよう望んでおり、パーソンズ自身『われわれにツキがあれば石橋は長く続かないかも知れない』と私に語った」と報告を締め括っている。結局当時の国務省の希望的観測に合致するように、石橋首相は病気のためわずか2ヵ月で退陣し、岸が代わって首相、自民党総裁となり親米路線を敷いていくことになる(『読売新聞』1995年2月3日朝刊)。恐らく岸をワシントンにいわば売り込んだのは、日米関係の裏面に通じたハリー・カーンであったろう。
反湛山の空気はアメリカばかりでなく、自民党内にも存在した。岸、石井、大野各派の処遇をめぐり水面下で激烈な争いが起こるなど、総裁選挙の後遺症は長く尾を引き、閣僚および党役員人事が停滞した。それでも岸の外相入閣が決定してから組閣が進展し、23日、湛山が首相のまま複数の閣僚のポストを兼任する異例の認証式を済ませて、ようやく石橋内閣は船出した。72歳の高齢に加え、新内閣成立までの難航ぶりがその前途を暗くした。
以上の経緯もあってか、総理総裁としての湛山の発言は慎重であった。石橋新内閣の基本方針が「自主外交」の推進と「積極経済政策」の実施にあり、自主外交に関しては「アメリカと提携するが向米一辺倒にはならない」、また「今後も中国との経済的関係を深めていく」との二大方針を表明(24日の初の記者会見)しながらも、湛山は、安保条約の改定は「日本が自衛態勢を確立するという義務を果たせるようになってから取り上げるべき」であるし、「中国との国交回復はきわめて難しく、当面の課題にはならないだろう」と述べて、日米・日中の関係改善の限度にも論及した(14日の総裁就任記者会見、以上『全集⑭』)。また日本の国連加盟が実現した点について、「国連に加盟して国際的に口をきくためには、義務を負わなければならない。国連の保護だけ要求して、協力はイヤだというのでは、日本は国際間に一人前に立ってゆくことはできません」、「このままゆけば、第三次大戦が起こらないという保証はない……。だから日本は微力ではあろうが戦争を防止するという努力をすべきだと思います。両陣営の冷戦をどうやって緩和するか。ソ連にはむろん反省してもらわねばならないが、同時にアメリカにも反省してもらう点がある」と持論を繰り返した(「石橋湛山大いに語る」『全集⑭』)。
以上のように表面は慎重な姿勢を示したが、その実、湛山は日中国交回復までを視野に収めた上での両国の経済貿易拡大を目指す方針を固めていた。すなわち、25日午後に開かれた閣議で、積極経済政策と並んで対中国政策が中心議題となり、その結果、①中国との国交回復は国連および自由主義国家との調整がついたのちに行なう、②中国との貿易は従来より積極的に拡大していく、③そのための具体策として、中国および自由主義諸国と話し合い、ココムの制限緩和を目指し、特認制度などの活用を図る、④中国貿易促進のため自民党内に新たな機構を設け、また民間にある中国貿易関係団体を統合し日本側窓口の一本化に努め、近い将来民間通商代表部を交換することを目指す、との方針を決定した。岸外相もこのような石橋首相の立場に同意していた。そして湛山は石田博英内閣官房長官に、「対中国関係の窓口というなら高碕達之助君などが適任と思うから、君が話してみなさい」と指示したという。また湛山は年末に石田に対し、吉田茂を訪て日中国交回復政策への了解を得てくるよう命じた。石田に面会した吉田は、「それは結構なことだと思う。ただ……中ソはいま一枚岩のように言われているが、あの二つはいつか喧嘩するよ」と語ったという(前掲『石橋政権七十一日」158~9頁)。
さて新内閣の基本目標は、翌57年(同32)1月8日に湛山が自民党の演説会で発表した「わが『五つの誓い』」(『全集⑭』)の中に示された。これは明治天皇の「五ヵ条の御誓文」にならったもので、(1)国会運営の正常化、(2)政界官界の綱紀粛正、 (3)雇用と生産の増大、(4)福祉国家の建設、(5)世界平和の確立を掲げていた。(3)は先に挙げた積極経済政策の具体的な一大目標であり、湛山は「経済を拡大させながらインフレを起さずにすませる自信がある。経済の拡大―完全雇用の実現は私の理想である」(前年12月14日の総裁就任記者会見)と明言して憚らなかった。この「完全雇用の実現」と併せて、「一千億減税・一千億施策」を内政上のスローガンとしたことは周知のとおりである。また、(5)は湛山の戦前以来の外交思想を体現した大胆な提言であった。湛山は日本の国連加盟の実現という新しい局面を踏まえ、「私どもはこの、幸いに東西に開けた窓、国連に加入したということを力にしまして、これを舞台にしましてどうか世界に平和をもたらしたい。このためには全力を注ぎたい」と述べているが、一般政治家の単なる美辞麗句とは違い、言論人時代から培った思想家湛山の重みが感じられる。ここに標榜された湛山哲学に基づく独自外交こそが、もう一つの石橋内閣の可能性として指摘されなければならない。
この時期に湛山が願望したことは、世界平和のための共存共栄の道を米ソ両超大国はもとより全世界の諸国が理解し、日本が率先してその土台作りに貢献することであった。湛山が1月25日に外国人記者クラブで講演を予定していた「プレスクラブ演説草案」(『全集⑭』)には、そのような彼の意向を汲み取ることができる。この中で湛山は、冷戦が世界の不安定要因となっており、米ソ両国は相互に疑心暗鬼を捨てるべきであると論じたのち、次のように主張した。「人間の幸福」が最後の目的である点では資本主義も共産主義も同様である。イデオロギーは人間に奉仕するものであるにもかかわらず、今は逆に我々の生活をイデオロギーに奉仕させる傾向が強く、これが世界の緊張や対立の原因となっている。いかなる主義・主張もそれが人類の幸福を増進するものならば、忌み嫌う理由はない。たとえ共産主義を国是とする国であろうとも共存共栄の道を歩んでいくべきだ。
また日米関係について湛山は、「アメリカとは緊密に協調関係を保持する。しかし向米一辺倒といった自主性なき態度は取らない。率直に米国にわが国の要求をぶつける」と述べ、リベラルな政治家としての性格を如実に示している。ソ連のフルシチョフ首相が画期的な「米ソ平和共存路線」を提起したのは前年2月のことであり、湛山が日本の政治家として冷戦脱却の必要性を説いた画期的意義を軽視してはならないであろう。
ところで石橋政権を支えたのは、三木武夫幹事長と池田勇人蔵相と石田官房長官の三者であった。これら首脳が頭に描いていたことは、早期に議会を解散し、総選挙によって政界を再編して政治的安定を確保することであった(前掲『私の政界昭和史』95頁)。それ以外に混迷した政局から離脱する方策はなかった。そのため湛山は、先のような新政策・スローガンを発表して全国遊説に乗り出し、東奔西走した。しかし老齢を押しての無理な遊説は湛山を疲労困憊させ、1月25日、風邪から脳血栓を引き起こして倒れる緊急事態となった。医師団の診断では「2ヵ月の休養を要する」との最悪な結果であった。湛山はかつて言論人時代に、凶弾に倒れて登院が不可能に陥った浜口雄幸首相に対して鋭く辞任を迫ったことがあったが、今度は自らが浜口の立場に置かれることになった。湛山は国会答弁が不可能となった時点で、潔く首相辞任を決意した。こうして辞任の書簡が三木幹事長によって認められた。「私は新内閣の首相としてもっとも重要な予算審議に一日も出席できないことがあきらかになりました以上は首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」との文面であった。こうして2月23日、石橋内閣は総辞職するに至った。わずか2ヵ月で石橋内閣の命脈は尽きたのである。
したがって、石橋内閣成立時に国内で澎湃として起こった日中国交正常化への気運も潮が引くように去っていった。もしも石橋内閣が2年存続できたならば、両国の国交回復は早かったであろうとの見解がいぜん根強い。アメリカの厳しい監視と圧力の下で自主性を全うすることがはたして可能であったろうか。極論すれば、総選挙で勝利を収め、自民党ならびに自陣の権力基盤を固めた上で、湛山のリーダーシップが発揮される状況が生まれた場合、そのときこそ、日中関係の進展が大いに期待できたと想定できる。とすれば、その後の岸内閣時代に直面した日中関係の断絶といった最悪の事態も回避されたであろうし、あるいは安保騒動も別の形態を取ったであろうし、現実とは大きく異なった戦後が形成されたであろう。石橋内閣の短命化が戦後史の重要な屈折点といわれる所以である。

 

 


解説
日中国交正常化をも視野に入れて国内外のかじ取りに乗り出した矢先の病に倒れ、湛山の内閣は短期に終わることになりました。

もし、湛山内閣が数年間続いたなら、日中国交正常化はもっと早く実現し、アメリカに従属しない、自主的な外交が行える国になっていたかもしれません。

残念なことです。

 


獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その26)

2024-04-29 01:05:51 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
■4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

 


4)鳩山内閣通産大臣

鳩山政権が誕生した場合、湛山は経済財政政策の要である蔵相就任を自他ともに認めていた。しかし閣僚人事では湛山に通産相が割り振られる結果となった。この間、鳩山派内部では三木・河野が台頭著しい岸信介と提携を深めつつあり、次第に湛山と疎隔する政治状況を生じていたのである。吉田内閣の打倒に邁進し、鳩山政権成立に功績のあった湛山の処遇としては、明らかに配慮を欠いた人事ともいえたが、他面、現実の権力政治に対する湛山の淡泊な気質にも問題があった。またアメリカ政府が石橋財政を嫌ったことも、湛山起用を困難とした一因であった。1954年(昭和29)12月8日の『朝日新聞』夕刊は、「対共産圏接近を懸念、米『短期、鳩山内閣』を予想」との見出しを掲げ、懸念材料として「鳩山自身の右顧左眄型の性格」、「重光外交の意識的な反吉田性」、「反米的な石橋財政」を挙げ、「万一、石橋財政が出現するとすれば米国として非常に困難な立場に立たされるであろう」と報じている。加えて、日本の経済界にも石橋積極財政を不安視する向きもあった(『同』同月11日)し、湛山では資金不足に陥っていた鳩山派の財源を潤すことができないとの判断もあったと伝えられている。
以上の諸要因により、鳩山や三木はあえて本命視されていた湛山を蔵相人事から外し、日銀総裁の一万田尚登に白羽の矢を立てたわけである。こうして湛山は信じて疑わなかった蔵相のポストを得られず、不本意ながら通産相を受諾せざるをえなかった。したがって鳩山内閣期の湛山は、政権中枢から一定の距離を置くことになったが、通産相として対共産圏問題、とりわけ日中関係の改善に尽力したことは特記されなければならない。
さて鳩山新内閣は、日米協調関係を維持すると同時に、中ソ両国との関係改善を積極的に推進する基本方針を掲げた。対米自主外交の確立と、中ソとの国交正常化達成とは表裏一体化しており、鳩山首相が共産圏との国交回復によって吉田外交との相違性を際立たせようとしたことは明白であった。世論はこのような新政権の基本姿勢を歓迎したが、アメリカ側からは直ちに反発を招いた。翌55年(同30)1月、ダレスは、鳩山首相や重光葵外相が繰り返し強調する、中ソ両国との通商関係促進およびソ連との国交正常化は、アメリカ政府の対日援助計画に支障を来す懸念がある、と牽制した(樋渡由美著『戦後政治と日米関係』119~20頁)。アメリカ側の厳しい対日態度を前にして、重光は「中共を国府とともに二つの独立国として認める意向は少しもない」と鳩山の発言を否定する(『朝日新聞』1月16日夕刊)など、早くも日本政府の外交方針に矛盾が生じた。
とはいえ、鳩山発言以来、国内の貿易業者の間では「中共行きのバスに乗り遅れるな」といった合言葉が流行し、中小の商社ばかりか、従来アメリカや台湾を恐れて躊躇していた大商社も本腰を入れはじめた。そのため中ソ貿易推進の窓口である国貿促には、連日、これら業者が押し掛けて混雑する有様となった。まさに国貿促は「中共ブームに乗ってわが世の春」をうたうほどとなった。また中国貿易の実績でも、1954年(同29)に日本の輸出が2000万ドル弱、輸入が4000万ドル強に達し、1953年(同28)に比べて輸出が4倍強の増加をみせた。しかも第三次日中民間貿易協定の交渉のため中国から使節団が来日することが決定し、第二次協定覚書に規定された「貿易代表部」設置問題がにわかに脚光を浴びることとなった。中国側は鳩山内閣成立を好機ととらえ、日本との国交正常化の実現を企図したのであるが、日本側は「政経分離の原則」を堅持する態度を示すなど、両国政府の交渉に臨む基本姿勢には相当なギャップが存在していた。
ところで湛山は、1955年(同30)2月下旬に実施された鳩山政権下初の総選挙 (第二七回衆議院総選挙)でトップ当選し、第二次鳩山内閣でも通産相として留任したが、その直後の記者会見で、「中共貿易は進めるが、政治的にも経済的にも問題があるから、あまり多くを期待するのは危険である」と慎重論を述べた。実はこの時期、来日したアメリカ政府高官や駐日米大使館から、日中貿易に関連した非公式の警告が発せられ、日本政府は業界に注意を促さざるをえなかった(『同』3月6日)。しかし国貿促が第三次協定締結という大問題に主要な役割を担っている以上、その成立以来深く関わる湛山が背後から国貿促を支援しないはずがなかった。しかも今次の日中交渉は鳩山内閣の外交方針を占う試金石でもあり、湛山がこの点に十分留意していたことはいうまでもなかった。
3月末、雷任民(中国国際貿易促進委員会首席代理・対外貿易部副部長)を団長とする中国通商使節団の一行が来日した。新中国からは前年秋の李徳全一行に次ぐ二番目の訪日団であるが、30名を超える大規模な通商使節団を迎えるのは異例であった。こうして日中交渉は友好と親善を基礎とする和やかな雰囲気の中で開始されたものの、やはり日本側は政経分離の観点から、現実の制限の範囲内で貿易量を最大限に伸ばそうとしたのに対し、中国側は「輸出制限の突破」という政治的問題をむしろ主要目標としたため、双方のズレが明確となった。具体的には、通商代表部の相互設置、輸出入商品の分類、決済方式の三問題で、交渉はとうとう暗礁に乗り上げた。中国側は決済問題で両国通貨による直接決済方式を要求し、また通商代表部については相互設置を強く主張し、しかも政府代表もしくはそれに準ずる権限に固執した。これに対して日本側は決済での政府保証を困難とし、通商代表部については民間貿易代表の交換を提案したのである。唯一合意できたのは、双方の商品見本市を開催することだけであった(『同』4月15日)。
湛山が表舞台に登場したのはそうした折であった。4月、湛山は東京芝の八芳園での中国通商使節団歓迎昼食会に出席し、雷らと懇談したのである。これは中国使節団が来日して以来、日本政府閣僚との初の会談であったばかりでなく、戦後日本の現職閣僚としては初の中国要人との接触でもあった。湛山は、「現在のところ日本政府としては貿易協定を結ぶことはできないが、中国側も日本の立場をよく理解して、日本のやりやすいようにしてくれることが日中両国のためになる」との意見を中国側に述べておいた、と語った。交渉の前途が不確定であった時点で湛山が雷と懇談したこと自体、中国側に希望をもたせたに違いなかった(『同』同月16日および国貿促相談役平井博二氏の証言)。
一方、鳩山は揺れ動いていた。鳩山自身は政府間協定を望んでいたが、最後の大詰め段階で重光を通じてアメリカの意向がこれに猛反対であることを知らされ、断念せざるをえなくなった。このとき湛山はアメリカ政府の意向を無視せよと進言したという(前掲『日中戦後関係史』15~6頁および平井氏の証言)。ついに鳩山内閣は石橋・高碕達之助経済審議庁(現経済企画庁)長官ら積極派と、重光らの消極派とに二分される事態となった。その後の日ソ交渉をめぐる党内分裂の、いわば前哨戦的性格をもったともいえる。ここで日中議員連盟の池田正之輔代議士が仲介役を果たすことになった。結局4月末、池田・鳩山間で鳩山首相が日本側代表に第三次協定への「支持と協力」を表明し、この内容を文書化する形式を取るとの妥協が図られたのである。
5月、「第三次日中民間貿易協定」が調印され、貿易総額片道3000万ポンド(8400万ドル=約30〇億円)としたほか、決済方法の改善、双方の見本市の開催、通商代表部の設置、さらに政府間協定の締結が初めて協定本文に規定されるなど画期的内容となった(外務省中国課監修『日中関係基本資料集』83~7ページ参照)。 通商代表部の規定が政府代表か民間代表か明確さを欠いたとはいえ、この協定によって両国が日中国交回復に向けて第一歩を踏み出したことは間違いなかった。
以降、湛山はココムの対中国禁輸緩和に努める(『朝日新聞』8月19日、10月6日)とともに、中国からの大豆輸入を促進したり、また台湾側が中国貿易に携わった日本商社に対して取引停止をすると、これに厳重に抗議するなど尽力した(『同』6月3日)。さらに11月の「日中輸出入組合」設立や、翌56年(同31)秋に行なわれた北京、上海の日本商品見本市でも支援した。湛山は、同年6月25日の『日本経済新聞』に掲載された論文「日中貿易を促進せよ」(『全集⑭』)で次のような論点を提起している。

(1)中国は日本の必要とする原材料の供給源として、また日本製品の市場として古くから大切な地域であった。このような歴史からみても、日中経済関係の緊密化は、今後も日本の方針として避けられないし、またそれは中国にとっても同じく利益になる。
(2)冷戦により日中間の経済交通が著しく妨げられていることは遺憾である。東西両陣営の抗争が早急に解消できるように努力したい。それには日中両国が経済・文化交流の回復に努力することが必要である。
(3)西側諸国は日本の対中国貿易の推進に疑惑を持つが、日中貿易の増進は、日本が政治的、思想的に共産陣営と同調することを意味しない。両国の経済関係の存続は日本の産業界にとって死活問題であり、政府としてもこの切実な要求を無視できない。しかも現在日本の経済的存立を保つ上で、東南アジア、中南米、中近東諸国は中国に代替するに足りない。また西欧諸国はガット三五条を援用して日本との貿易に差別待遇を与えているし、米国でさえ日本商品をボイコットする動きが盛んである。このような欧米諸国の状態は、日本政府を非常に困難な地位に追い込み、中国貿易促進の世論を激化させている。
(4)中国側は、日本を共産化するために経済・文化交流関係を利用しないよう厳に注意してもらいたい。日本としてはココムの輸出制限の緩和、解除を深く希望しているが、かかる協定が存する限り、日本としてはこれに従っていく覚悟であることを了解してもらいたい。貿易代表の交換についても、まだ国交回復のない現状では日本駐在の代表者に外交官特権待遇を与えられないが、通商上の便宜を極力与えたい。今後は国貿促や日中貿易促進議員連盟の協力も得ながら、日中輸出入組合で貿易協定その他の一切を処理し、従来よりも一層実際的な貿易促進措置が行なわれるものと期待している。

当時の保守党要人の中で、湛山ほどの明確な対中国態度を持っていた人物は見当らず、このような政治姿勢が、日中関係正常化を期待する世論の間で、次第に湛山待望論を生むことになる。

 


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その25)

2024-04-28 01:38:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
■3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生


3)日中貿易促進論

戦後の日本経済は、敗戦までに壊滅的打撃を被り、しかも失業者の増大と食糧危機の進行、物不足によるインフレによって破綻寸前の状態にあった。この窮状から脱するため、生産回復・不況克服の切札として関心を集めたのが日中貿易であった。というのも戦前における日本の対中国貿易は、輸出全体の約2割強を占め、また輸入も1割を超えるなど、有力な市場であったからである。日中貿易再開の動きは中華人民共和国誕生直前の1949年(昭和24)春から日本側にあり、野党や労組、学者や文化人などを中心に「中日貿易促進会」、また超党派の国会議員三百余名による「中日貿易促進議員連盟」が相次いで結成され、軽金属や農産物を主体とする日中貿易が再スタートを切った。ところが翌50年(同25)6月25日に発生した朝鮮戦争が東アジア情勢を極度に悪化させ、しかも晩秋には米中両軍が交戦する事態へと進んだため、年末に日中貿易は停止を余儀なくされるに至った。
さて湛山は、冷戦の出現により世界的な自由貿易システムが阻害され、しかも日本にとって死活的な対中国貿易がさまざまな制約を受ける現状を首肯できなかった。また朝鮮戦争が第三次世界大戦へと発展する危険性についても憂慮せざるをえなかった。それゆえ、1951年(同26)7月に朝鮮休戦交渉が開始されると、湛山は、アメリカによる中国封鎖政策が多少緩和され、日中貿易も漸次回復の方向へと進むのではないかとの期待を抱いた。しかし根本的には自由主義陣営と共産主義陣営との対立が解消されなければ、世界の安定は実現せず、各国間の貿易も自由には行なわれないとの認識を示し、二度の世界大戦の結果が明示するとおり、戦争は両陣営にとって何の利益もない、と持説を繰り返した。同時に、ソ連の秘密主義を批判し、ソ連の実情が良いとわかれば、世界は黙っていてもソ連の真似をする、そのためにもソ連は鉄のカーテンを開くべきだ、となれば第三次世界大戦の危機も去る、と主張した(7月21日号~28日号「日本再建の方途」『全集⑭』)。
1952年(同27)初頭、前参議院議員(緑風会のち社会党)の帆足計が湛山を訪ね、4月に開催されるモスクワ国際経済会議に出席したい意向を伝えて協力を求めた。当時アメリカ政府は、ソ連陣営がこの国際会議をテコに巻返しを図るものとみなして警戒を強めていた。これに対して湛山は、モスクワ会議を肯定的にとらえ、帆足の支援を決意した。ドムニッキー (A. Domnitsky) ソ連通商代表と会見し、経済界の村田省蔵(大阪商船会長)や北村徳太郎(親和銀行頭取のち衆議院議員[改進党])と協議したのち、1月末に「国際経済懇話会」を結成した(「湛山日記」『自由思想』第六号所収41~2頁)。この懇話会には、村田、平塚常次郎(日魯漁業社長のち衆議院議員[自由党])、安川第五郎(安川電機会長)、風見章(衆議院議員[社会党])、帆足などが参画し、対共産圏貿易の拡大だけでなく、日中関係の正常化まで視野に入れた超党派的組織であった(古川万太郎著『日中戦後関係史』36~8頁)。
しかし帆足ら代表団をモスクワへ派遣するとの懇話会の方針は、アメリカの意向を深慮する日本政府により阻止された。外務省がビザの発行を認めなかったのである。湛山は、「あそこ(モスクワ)に行ってすぐに効果があるとは思わない、効果はないだろうけれども、……この目でソ連も見たいし、帰りには中共にも寄れるという話もあったのだから、特に中共の、北京だけでも見て、向うの人と話してみたいという考えを持っていたんだ。(中ソとの貿易はまだ機が熟していないが)、もしソ連なり、中共なりが貿易関係を日本と、そのほかの国と結ぼうというならそういう不安を持たせないようにしなければ、やはりだめなんだ」と述べて政府の方針を批判した(「日本経済の臨床報告」『文芸春秋』同年6月号)。
やむなく湛山らは、3月、会議への参加断念を決定したが、4月、帆足、宮腰喜助(改進党)、高良(こうら)とみ(緑風会)の3政治家が密かにモスクワ入りし、高良が日本代表として会議参加を果たし、総額2億ドル以上の契約が成立するなどの成果があった(『毎日新聞』4月14日夕刊)。また三者は、帰路、日本の政治家として初めて新中国に入り、6月に北京で「第一次日中民間貿易協定」を調印し、日本国内に衝撃を与えた。すでに国内では通商の自主性回復とともに、対中国貿易政策を再検討すべしとの声が高まっており、しかも不況にあえぐ業界では、景気の突破策として日中貿易の再建を渇望する気運が強まっていた。
他方、中国側でも、モスクワ会議によって生じた新情勢と朝鮮休戦の見通しにより、対日貿易政策を転換しようとする動きがあった。たとえばアメリカの対中国禁輸措置に対抗して中国は輸入先行のバーター貿易を原則としてきたが、これを取り止め、香港ドルや英ポンドなどによる現金決済方式を認めるとか、日本商船の上海、天津、広東などへの入港を認める等の措置である(『毎日新聞』5月11日)。このような日中双方の国内事情からして、今回の日中民間貿易協定はタイミング良く締結されたといえる。湛山自身も、この新局面を歓迎したであろうことは疑問の余地がない。湛山ら懇話会グループとしては、このような地道な努力を重ねて日中・日ソ両関係を改善するとともに、吉田政権の対米一辺倒路線の軌道修正を促し、日本外交を自主独立の方向へと導くことを意図していた。
1953年(同28)1月、アメリカでアイゼンハワー (Dwight D. Eisenhower) 共和党政権が誕生し、対日講和の推進者であるダレスが国務長官に就任した。また3月、ソ連のスターリンが死去すると、にわかに朝鮮休戦の動きが生じ、7月、休戦協定が調印された。戦争の終結は極東に再び平和をもたらしたものの、ドッジ・ラインの苦渋から逃れ、経済復興のきっかけを得たばかりの日本の経済界にとって、年間8億ドルという膨大な朝鮮特需を失うことは大きな痛手であった。となれば、経済界は日中貿易によりその空白を埋める可能性を考慮せざるをえなかったが、徹底した反共主義を掲げるダレスが日本の中国接近を容易に認めるはずがなかった。事実、5月、難局の末に第五次吉田内閣が成立すると、ダレスはこれを歓迎する一方、「日本は中共との貿易なしでも海外に広大な市場があるから結構やっていける」と言明し、日本の対中国貿易の拡大気運を牽制した。吉田首相も国会で、日中貿易に大きく期待できない旨答弁し、アメリカ側と歩調を合わせた。
ここでアメリカ側は「MSA援助」という切札を日本側に提示した。MSA援助とは、「相互安全保障法」に基づく軍事、経済、技術を総合化した対外援助であり、被援助国には自国の防衛力強化の義務が課せられた。日米両国政府にとってMSA援助は、朝鮮特需後に経済復興の希望を託すものであったばかりでなく、日中貿易を渇望する日本の経済界を宥め、ひいては日本の中ソ接近をも遠ざける狙いもあった。こうして日中貿易の拡大と、MSA援助の受諾とは相反関係に立つことになった。つまりその二者択一は、吉田側の「親米路線」か、鳩山側の「自主独立路線」か、社会党など野党の「反米路線」か、といった政治路線をめぐる対立へと転化する様相を呈した。しかもこの時期、国内では占領体制からの解放感も手伝って、内灘事件など米軍基地問題が相次ぎ発生し、反米感情が高まったことも火に油を注ぐ役割を果たした。では湛山はこれにどう対応したのか。
概して湛山のアメリカ外交に関する評価は辛かった。湛山は、村田省蔵らとの座談会で、アメリカの共産圏諸国への態度は英仏と違って「狭量」であり、しかも「日本にきてもアメリカからこれだけ慈善を施しておるのに、アメリカのいうことを聞かぬのは怪しからんという」とその対日姿勢を批判した。また「封じ込め政策」についても、それは両陣営ともに損をする、その中で最も被害を受けているのは日本人だ、日本はこのままではやっていけない、またこの政策は中共をますますソ連側へ追いやることになる、との村田の見解とほとんど同一であった。村田はさらに、アメリカが日本に対して中国の代りに東南アジアとの貿易を促している点について、「日本としては東南アジアも、支那も両方とも貿易しなければやっていけない。(吉田首相のように)支那とやっても大したものではないというのは、開発されない支那の時分の話で、これからどんどん開発されれば、支那というものは大きな市場だ」と発言しているが、懇話会以来の湛山と村田との関係からすれば、この点も両者の共通認識であったといえる(『新報』1952年5月3日号、33~9頁)。
また湛山は、「米国の諸君に、その対日占領政策が史上に例なき寛大なものであったなどという独りよがりの考えをやめてもらいたい……。こういうところに実は反米感情を刺激する元がある」、「民主主義も、押しつけたのでは民主主義であるまい……私は米国が日本を民主化しようと意図したことが間違っていたとは思わない。だが、その米国自身は実は決して民主主義に徹底していなかったことに間違いがあった」とアメリカの占領時代の誤謬を突いた。そして日本人の反米感情が激化した点について、基地とか演習地の問題は大した事ではなく、重視すべきはアメリカ側の思想であり、「世界の強者であり、富者であり、勝者である米国の態度こそ、これを良くも悪くも導く力だ」と説いた(論文「反米感情発生の理由」『中央公論』1953年11月号『全集⑭』)。
このように、湛山は日中貿易の拡大を力で抑止しようとするアメリカの対日姿勢に反省を促し、また日米政府間で交渉を進めつつあるMSA援助がいわゆるヒモ付きであれば「反米感情は猛然とあおられるであろう」と牽制したのである。再軍備に消極的な吉田派にとって、MSA援助は軍事援助としてではなく、経済復興を助ける特需の代替物でしかなかったのに対して、改進党や鳩山自由党がこの援助受け入れに賛成したのは、MSA援助によって日本の軍隊を増加させ、米軍撤退と自主防衛を実現する好機となるとの判断があった。とすれば、湛山の立場は日本の自律性に重点を置き、MSA援助に依存せずに日中貿易拡大を目指す点で、吉田路線とも鳩山自由党の見地とも明確なズレを示していよう。
さて湛山は、1954年(同29)9月22日に「日本国際貿易促進協会」(いわゆる国貿促)の結成に関与することにより、日中関係改善への自己の政治的立場を一層明確にした。同協会設立の推進者が湛山をはじめ、村田、平塚、北村らの懇話会グループであったことはいうまでもない。彼らは対中貿易の拡大を意図して懇話会を結成したものの、現実にはココムおよびチンコムが障害となって貿易が伸びず、そこで国際貿易促進のための政策提言グループを作り、さらに企業を参加させて、実際の活動を活性化させようとしたわけである。こうして国貿促が設立され、初代会長には村田が就任した。しかも前年10月に「第二次日中民間貿易協定」が締結され、その覚書は相互に通商代表部の設置を実現する旨を規定していた。中国側は政経不可分の原則に依拠した「積み上げ方式」によって、日本との国交正常化の実現を企図していた。したがって国貿促は、実務面から、日中経済貿易関係の正常化を促す役割を担ったといえる。
すでに朝鮮戦争は休戦となり、インドシナ休戦協定も成立(1954年7月)して世界的な緊張緩和ムードが漂っていたし、国内でも日中・日ソ国交回復への期待が高まりつつあった。そうした折、長期に及んだ吉田政権が崩壊し、鳩山内閣が成立した。 そして湛山が通産相として日中貿易の陣頭指揮に当たることになったのである。


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その24)

2024-04-27 01:32:12 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
■2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

 


2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争

政界へ復帰した湛山は、直ちに政治活動を再開した。かつての党首鳩山も湛山に2ヶ月遅れて追放解除となり、自由党に復党した。さらに三木武吉や河野一郎など実力のある政治家が続々と政界に復帰するに従い、党内では官僚出身政治家で固めた吉田派と、改めて主導権を握ろうとする党人主体の鳩山派との間で、政権授受をめぐる政治摩擦が生じた。湛山自身は追放中も鳩山と親密な関係を保ってきており、また追放時の経緯から吉田との感情的凝(しこ)りも消えておらず、それゆえ、湛山が鳩山派の一角を占めることは自然の成り行きであった。しかも湛山は経済財政の専門家であり、GHQと正面衝突するほどの闘志もあり、新報社時代に培った経済界との結びつき から政治資金の捻出力もあり、将来の有望株とみられていた(山浦貫一「ぬりかえられるか政界新地図」)。
ではパージ解除後の湛山の政治・外交に関する見解とはどのようなものであったか。
やはりその第一声は、経済復興問題と講和問題に重きが置かれていた。前者については、ドッジ・ラインに沿う通貨安定第一主義ではなく、むしろ生産復興第一主義に則って電力開発など積極的に推進する方針を採るべきであると持論を強調した(「経済復興の問題」『新報』6月30日号『全集⑭』)。後者については、政府の単独講和方式を是認しながらも、社会党など野党から全面講和、軍事基地の撤去、再軍備反対の声がある以上、条約批准前に総選挙を実施して、国民の総意を問うべきであると主張した。なお再軍備については、「残念ながら世界の現状から日本は相当の負担を覚悟せざるをえないが、ただし再軍備が日本経済を著しく圧迫し、国民生活を苦しめる結果となってはならない」と論じ、経済力に見合った漸増的な再軍備論を掲げた(論文「日本繁栄論」『ファイナンス・ダイジェスト』1952年1月号『全集⑭』)。また講和条約と日米安保条約とは「相即不離」のものであり、前者を受け入れて後者を否認することは、形式論理上可能であっても、実際上許されないとして、社会党らの方針を否定した。そして、「それは悲しむべきことであるにしても、世界の現状においては、日本国民の希望せざるをえない取り決めである」と論評した(「安保条約下の日本経済」『新報別冊10月15日号『全集⑭』)。
他面、湛山が危惧したのは、「日本の真の独立は可能か」という問題であった。湛山は「これは相当悲観的にならざるをえない。たとえば他人の世話になっている者は法律上平等であっても実際にはその人に頭が上がらない。国家関係も同じで、日本も独立国であっても米国への服従は免れない」と指摘した。ではどうすべきか。一つは、かつての日本の政治家や軍人が天皇の威光を借りて非道政治を行なったように、「米国ないし連合国と日本国民との中間に立つ日本政府が、前者の威光に名をかりて、実は、かれらの勝手に振舞い、あるいは、その無能をかくす口実とすること」を厳禁すべきであった。もう一つは、日本が一時も早く経済力を強め、アメリカと対等の交際を可能とすべきであった。「生産が豊かに、国民が富めば、国防も自力で行えるし、あえて他国に経済援助を求める要もない。かくて初めて国の独立は保てる」(前掲「安保条約下の日本経済」)と湛山は主張した。
以上のように、湛山は「対米自主独立」の見地から、吉田政権の「対米協調」路線を厳しく批判すると同時に、6年に及ぶアメリカの占領政策を歯に衣を着せずに批判した。とくに条約批准以前における総選挙実施論やドッジ・ライン廃止論などは、取りも直さず、以後の政争を導く政治的論点となった。こうして湛山は自由党内部の台風の眼となっていく。
さて講和条約と安保条約は、1952年(昭和27)4月28日に発効し、日本は6年8か月ぶりに独立を回復した。また台湾との間で日華平和条約も調印され、サンフランシスコ体制の骨格が形成された。半面、ワンマン体制と俗称された吉田首相のリーダーシップも、マッカーサーとGHQという後ろ盾を失い、政治的基盤が揺らぎはじめたが、それでも吉田は講和後も政権を担当する意欲を示した。これに対して鳩山側は、鳩山自身の健康が回復するとともに、再び吉田側に政権移譲を要求する政治行動を起こした。結局双方とも来るべき選挙で自派勢力を拡大することが目標となった。選挙近しの情報はすでに5月末には湛山にも入っており、鳩山派の選挙資金を調達するため、湛山は積極的に経済界へ働きかけた。また湛山の腹心石田博英は、湛山と同じく早稲田大学卒業のジャーナリスト出身政治家であり、将来の石橋派結成に向けて若手政治家との会合を頻繁に行なった。この頃から湛山の事務所のある東洋経済ビルが次第に鳩山派の拠点となっていった(石田博英著『私の政界昭和史』72頁)。ただし、石橋派の陣容といっても、石田のほか島村一郎、佐藤虎次郎、佐々木英世、辻政信の5人程度にすぎなかった(中島政希「石橋政権と石橋派――石田博英の回想を中心として」)。

一方、湛山は精力的に地方遊説を開始し、7月、岐阜で「政綱政策試案」を発表した。その骨子とは、まず外交方針として、①国連を強化する、②冷戦を調整する、③秘密外交を廃止する、④日米英三国の協調関係を維持する、⑤東アジアとの親善を促進することを上げ、とくに日中関係の改善を唱えた。軍事方針としては、①新憲法第九条を国民の信条とする、②世界の現況により軍備を保持する、③日米安保条約を総合的安保条約へと進展させる、④憲法第九条を修正する、とした。経済方針に関しては、①自由貿易主義に立脚した国際貿易を拡張する、②産業発展のため金融機関を整備する、③安易な外資導入には反対するなどを明らかにした。やはり政治・経済・安全保障などいずれの分野でも対米依存体制からの早期脱却を志向しており、それ自体、吉田政権に挑戦するものであった。とはいえ、憲法第九条を国民の信条としつつ、九条を修正するとの方針は理解し難く、矛盾を含んでいた。これは一つには、湛山が鳩山派のスポークスマンとして、自己の見解と派全体の見解とを併記せざるをえなかったのであろう。
このような鳩山側の攻勢に対して吉田側は、8月、いわゆる「抜き打ち解散」をもって応じた。しかも選挙期間中の9月末、反党活動を理由として、湛山と河野を自由党から除名する強硬措置を取った。湛山の除名自体、湛山の鳩山派に占める地位がいかばかりかを端的に物語っていた。
10月、湛山は党籍を失いながらも当選を果たし、1947年(同22)5月に公職追放で失った国会の議席を5年ぶりに回復できた。そして三木、河野とともに「自由党の民主化」を掲げ、吉田政権打倒に邁進した。また野党の改進党、社会党とも連携しながら吉田内閣を牽制した。その結果、12月には湛山と河野の除名取消しを実現させた。翌53年(同28)1月の「湛山日記」(『自由思想』第八号所収)には、「要するに吉田氏が引退する外途なし」(40頁)、「吉田総理の演説は、いかにかれが国会を無視せるかを表示せるもの」(42頁)等々、吉田の政治手法を糾弾する記述が見られる。ついに3月、両勢力の対立は険悪化し、湛山は鳩山、三木、河野などとともに自由党から脱党した。その結果、国会ではこれら脱党派と野党との共闘が生じて、吉田内閣不信任案が成立するに至った。

ところが吉田側は再び反撃に転じた。吉田首相は国会の解散に踏み切ったのである。いわゆる「バカヤロー解散」である。わずか半年にも満たない状況で国政選挙が二度行なわれるという異常事態となった。そこで脱党派22名は「分党派自由党」(いわゆる分自党、鳩山自由党)を結成して、鳩山総裁、三木幹事長、石橋政策審議会長の布陣を敷き、突発的な総選挙に臨んだ。湛山は分自党の大黒柱として、政策、遊説といった表の党活動はもちろん、資金集めなど裏方でも中心的役割を担った(石田博英著『石橋政権・71日』86頁)。しかし4月に実施された第26回総選挙では、自由党199、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、分自党35の各議席に終わり、鳩山自由党の躍進は実現しなかった。これは湛山らにとって大きな痛手であった。やむなく11月、鳩山や湛山は、三木、河野ら8名を残して、自由党に復党せざるをえなくなった。湛山にとってはまさに吉田側への降伏であり、屈辱の復党であった。しかもこのときの経緯が、味方同士であった湛山と三木・河野間に感情的凝りさえ残すことになった。
しかし復党後の湛山は、1954年(同29)3月から保守新党運動が開始されると、岸信介と協力しつつ、次第にこの運動を反吉田の新党運動へと導いていった。7月、湛山と岸は、改進党の芦田と手を組んで「新党準備会」を発足させた。その際に作成された「新党の使命と政策大綱」は、前文で、「内は、占領下の惰性と弊風を改め、民生を向上し、健全な社会を建設し、他力依存を脱却して自立経済を確立し、自力更生・自主自衛の独立国家体制を整ふると共に、外は、自由主義国家群と相携へてアジア諸国との善隣友好と経済提携を回復し、進んで両陣営の相剋を緩和して東亜の安定と世界の平和に寄与せんとする」と謳い、また本文での緊急政策大綱は、
「(5)憲法の改正と占領下の諸制度の再検討(憲法を初め占領下の諸制度、諸政策を再検討し、真に我国の伝統と民情習俗に適応せる独自の諸制度を整備し独立国家として国民的矜持を昂揚する)」、
「(6)防衛体制の確立(概ね3ヶ年に陸上兵力に就ては駐留軍撤退を可能ならしむる自衛体制を整備すると共に陸海空軍については国力に応じた少数精鋭の民主的自衛軍確立を図る)」ことを明示した。ここには湛山の年来の政治・外交思想が色濃く滲み出ていた。

10月、新党運動が実は反吉田の鳩山新党結成を目指すことが判明した。この事態に驚いた自由党執行部は11月上旬、首謀者である湛山と岸の除名を決定した。湛山にとっては2度目の除名であった。ついに23日、自由党から鳩山派と岸派が脱党、翌24日には日比谷公会堂で「日本民主党」結党式が挙行された。鳩山総裁、重光葵副総裁、岸幹事長、三木総務会長、松村謙三政調会長、石橋、芦田、大麻唯男3名が最高委員という指導体制であった。12月七日、最後まで解散に固執していた吉田首相も、やむなく退陣を決意せざるをえなかった。10日、鳩山内閣が成立。ここに湛山らの政権獲得を目指した長い闘争は幕を閉じたのである。

 


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。

また、単なる理想主義者でもなく、己の信じる政治信念を貫くためには政治闘争も辞さない、強い意志を持っておられた方なのですね。

 


獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その23)

2024-04-26 01:20:05 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
■1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生


1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論

公職追放となった湛山は、自ら反駁書を作成し、中央公職適否審査委員会と公職資格訴願委員会に提出するとともに、1947年(昭和22)6月、マッカーサーに対しても「マッカーサー元帥に呈する書」(『全集⑬』)を送付したものの、何らの効果もなかった。湛山は政治活動を含むすべての公的活動を禁止されたまま、まさに晴耕雨読の生活を余儀なくされた。とはいえ、長年培ったジャーナリストとしての耳目は健在であり、緊迫の度を深めつつある国際情勢に細心の注意を払い続けた。
1948年(同23)10月、冷戦の拡大という事態を受けて、アメリカ政府はNSC(国家安全保障会議)13―2文書を正式に承認し、非軍事化・民主化を目標とした対日占領方針を日本の経済的自立化へと転換した。折しも国内政局はGSが期待した片山・芦田両中道政権が相次いで自滅し、政権は再び自由党へと移動した。復活した吉田内閣は、翌49年(同24)1月の総選挙で圧倒的な勝利を収めて安定政権となる(第三次吉田内閣)と、いわゆるドッジ・ラインを遂行してインフレ収束に全力を上げるとともに、密かに講和への方途を模索していった。アメリカ政府もダレス(John F. Dulles)を対日講和問題の責任者に任命するなど準備を開始した。1950年(同25)を迎えると、講和問題は国論を二分する大論争となった。野党、労組、いわゆる進歩的知識人、マスコミらが理想的な「全面講和論」を主張したのに対して、政府・与党らはソ連陣営を除いた現実的な「単独(片面・多数)講和論」を唱え、吉田首相はこの観点から中ソを含むすべての当事国との全面講和を説く南原繁東大総長を「曲学阿世の徒」と罵倒した。また吉田は腹心の池田蔵相をアメリカへ派遣し、安全保障に関する自己の所見を伝えた。
ところが6月、突如朝鮮戦争が勃発した。前年10月、中華人民共和国が成立し、この年の2月、日米両国を敵視する中ソ友好同盟相互援助条約が締結されるなど、極東情勢が緊迫化しつつあったが、この戦争により、アジアでは冷戦が「熱戦」へと転化したのである。開戦のニュースに接した湛山は事態を憂慮せざるをえなかった。6月28日の日記には、「此の際米国としては一挙に世界の冷戦を解決することならんが、更にその後は世界国家の構想を要するならん、然らざれば世界平和は重ねて脅さるゝこと必然と考へられる」(「湛山日記」『自由思想』第五号所収67頁)とある。早速、論文「第三次世界大戦の必至と世界国家」(『全集』無)を執筆しはじめ、 7月20日に脱稿した。これは1万字に及ぶ長論文であり、石橋家の保管文書の中から筆者が発見するまで行方知れずのいわば幻の大作であった。その要旨は以下の通りである。

一 この戦争により第三次世界大戦は必至となった。なぜならば、朝鮮問題は米国にとって死活的であり、ソ連も後に引けないからである。というのは、南北朝鮮が共産朝鮮となり、台湾が「中共」領となれば、米国は日本を維持できなくなるばかりか、危険はフィリピン、オーストラリアに迫り、インドシナが共産化し、インドは米国離れを進めていくであろう。このような東アジア情勢は直ちにヨーロッパに波及し、北大西洋同盟(NATO)は瓦解して、共産勢力がヨーロッパ全土を席巻することになろう。ソ連の意図はここにあったに違いない。だから米国が断固として立ち上がったことは当然である。ここに米ソが正面衝突する必然性、いいかえれば第三次世界大戦への発展が免れない本質をもつのである。

二 では戦争の推移はどうか。もしソ連軍が介入しなければ、米軍は近い将来に北朝鮮軍を破り、南朝鮮を回復できるだろう。ソ連は米国や国連との交戦を極力回避しようとしている。なぜならソ連は過去数年の冷戦で驚くべき勝利を収めてきており、危険な大戦に飛び込む必要はないからである。もしも南朝鮮での戦争が容易に決着しないならば、ソ連は秘かに北朝鮮を助けつつ、口で米国を非難するに止まるだろう。北朝鮮の南朝鮮併合はならずとも、戦争の遷延は米国、国連の権威を落とすことになるからである。しかし米国は本気で朝鮮への兵力投入を決意したらしい。それゆえ、米国は遠からず、北朝鮮軍を破って南朝鮮を回復するであろう。ただし米国はそれで満足せず、北朝鮮に対して今回の責任を問い、再侵略防止のための保障を要求しよう。ソ連は形勢がさらに悪化すれば、中国を使わないとも限らない。ただしソ連は相変わらず狡猾で表面に出ないだろう。以上の次第で、今回の事件はソ連の思惑通りとなる公算はきわめて乏しい。この際、米英その他の自由諸国は、国連の名の下に敢然戦端を開く決意をすべきである。それ以外に自由国家群の生きる道はない。

三 では米ソ両陣営のいずれが優勢であるか。米国は戦力でソ連よりも優位ではあるが、周辺の味方の数ではソ連の方が米国よりも優勢である。第三次大戦が起こる場合、東南洋で米国側の中にソ連側に対抗し得る国は一つもない。これに反してソ連側には中共がある。中共一国でも米国側は悩まされよう。日中戦争で中国が示した力は、今日さらに増している。ヨーロッパの形勢は英仏両国が控えているので、米国側にとって東南洋ほど弱体ではない。しかし最強力のドイツは朝鮮と等しく両分され、その東独は北朝鮮と同様にソ連の味方である。ヨーロッパでも力の均衡は米国側に有利だとは考え難い。この状態では米国の敗北の公算は大きいともいえる。

四 では米国は今後どうすべきか。米国陣営を強化しようとすれば、東洋では日本を、西洋では西独を、完全な米国側の味方とし、かつすべての味方国を物質的にも精神的にも強化しなければならない。米国は自己の味方への対処法を誤っている。米国は今その国力に慢心し、すべて世界一だと信じ、世界は意のままだと自惚れて、政府も国民も、他国を見下してはばからない。この点は日本のような占領地で顕著である。しかも米国の対外援助は偽善的・気紛的で、真に味方を作るという打算と誠意とに立脚していない。そのため、中途半端で徹底せず、被援助国民の信頼を得られない。また米国は援助国にうるさく干渉して、被援助国民の自主性を破壊し奴隷化する。奴隷は、いかなる場合でも、頼みになる味方ではあり得ない。他方、ソ連は政治的に敵と味方を明確に区別している。たとえばソ連の行なうパージは、共産勢力を助け、反共勢力を滅ぼすために用いられている。米国のパージにはそのような用意はない。また米国は第二次大戦中に尊重した蒋介石を見捨て、南朝鮮をも一時は見捨てるような放送をした。これでは米国は敵を養い、味方を滅ぼす術しか知らない、とさえ酷評したくなる。ここに米国は深い反省を必要とする。

五 では米国は日本への政策をどのように改めるべきか。
(1)米国は日本に完全の独立を与え、政治、外交、経済等についての一切の束縛を解かなければならない。単独講和を行なっても、つまらぬ束縛規定を残しては、依然日本を奴隷の位地に置くもので、それでは真に日本を米国側の強力な味方にはできない。
(2)米国は日本の陸海空軍を再建させなければならない。これは日本としてはありがたいことではない。しかし世界の恒久平和のためには、米ソ両陣営の対立をまず打破しなければならず、日本の再軍備もしばらく忍ぶ外ない。ただし軍備の規模は東洋で中ソ両国を押さえる程度でよく、憲法第二章(第九条)は「世界に完全なる安全保障制度が確立されるまで」との期限をつけて、しばらく効力を停止する。第二章を憲法から削除する必要はない。
(3)米国はカイロ宣言、ヤルタ協定およびポツダム宣言の失効を声明し、多くの対日制裁を解除しなければならない。当時の調印国の半数が背き去り、抜け落ちた宣言や協定が破棄されて当然である。まして日本を強力な味方にしようとする米国が、これらの宣言に固執して日本を苦しめ、その力を削ぎ、ソ連と中共とに利益を与えるのは愚に等しい。
(4)米国は速やかに日本人の公職追放を解除しなければならない。日本の完全な独立後に必要なのは人であるが、多数の有能者を追放し去った日本には、その人がない。だから米国は何よりも先にこの追放を解除する必要がある。
以上の四個条は、米国が日本を有力な味方にする方策である。単独講和で日本に名ばかりの独立を与え、国防は米国軍が引き受け、米国は日本を基地として、あるいは日本人をも国連軍の義勇兵に加え、極東で対ソ作戦を遂行するといった安易な構想では、日本を米国の真の強力な味方にはできない。これらは米国の過去5年の政策の逆転となるが、もし米国にこれだけの決断がつかないなら、第三次世界大戦は米国の負けであり、世界はソ連に征服されて米国も滅びるであろう。しかし米国が従来の方針を改め、一大決意をもって戦争に対処するなら、必ず米国側に勝利をもたらし、比較的短期に片付くのではないか。

六 ただし戦争が仮に米国側の勝利で終わるとしても、世界は決して恒久の平和を得られない。人類社会から戦争を絶滅し、世界に恒久平和を実現するには、ナショナリズムを絶滅する以外に方法はない。それには世界を一国家とし、その内部でナショナリズムが発育する素地を奪うことである。軍備制限や国連の設置ぐらいでは戦争を絶滅できない。世界を一国家に組織することは容易ではないが、40年の間に二度三度世界戦争を繰り返すような苦難から逃れるためには、世界国家の建設に進む決意を奮い起こすべきであろう。世界国家の建設は前例のない企てではない。国際連盟と国際連合は、世界国家に進む準備工作であり、また自由国として個々独立するステーツが連盟した北米合衆国の歴史も一種の世界国家建設の成功例である。人種、宗教、言語等を一にしても、それだけで社会は一つにはまとまらない。団結を可能にする根本条件は、その団結がもたらす利益が、その他の一切の利害や感情の衝突を越えて、はるかに大きいことである。今やこの点において、人類は世界国家を造るべき段階に達している。これを造らなければ、世界戦争は繰り返され、人類の文明は滅亡するに至るからである。

七 ではどのような世界国家を造るのか。世界国家は連邦共和国の形を取り、今日の諸国家はその下に主権の大部分を移譲して、一種の地方自治体として存立することになろう。世界共和国内の通貨は共通の単位に統一され、通商は自由に許され、各地方自治体は治安維持のための警察隊を備え、陸海空軍を不要とする。もしそれで不安ならば、各地方自治体に陸海空の世界警察隊を置き、これを世界共和国が指揮すればよい。もし世界国家がこのように組織されるならば、地球は永恒の楽園に化すであろう。まず自由国中の最強国の米国が、率先してその国境を撤去し、主権を人類の幸福のために譲る英断に出ることが、世界国家を実現し、恒久平和をもたらす第一の要件である。かくて米国も真に世界の王者となろう。あえて第三次世界大戦を戦う意味は、ここに求められなければならない。

以上のとおり湛山は、朝鮮戦争に関しては、国内で有力であった南侵説(米国の指令により、南朝鮮が北朝鮮に対して侵略を誘発したとの説、あるいは米・南朝鮮・台湾の共同謀略説)を取らず、米国が遠からず北朝鮮軍を破って勝利を収めるであろうこと、ソ道は直接介入せず、背後から北朝鮮を支援し、米国や国連を牽制する方策を取り、場合によっては中国軍を介入させる可能性のあることを予想した。同時に、朝鮮戦争を起点とする第三次世界大戦の勃発を必至とみなし、その大戦では、アメリカ側が決してソ連側に対して優位ではなく、したがってアメリカは自国陣営の強化に着手しなければならない、そのためにはアメリカは日本や西ドイツをはじめとする自由諸国に対する従来の傲慢な態度を改めねばならないと主張した。もしアメリカが深く反省し、味方の陣営を建て直すことができれば、大戦の最終的勝者となり得るであろうが、ただし、それによって恒久平和は達成されないと湛山は警告を発し、世界戦争を永久に葬り去るには、世界国家を建設しなければならず、ナショナリズムを絶滅した世界共和国が誕生する時こそ、地球上に恒久平和が訪れるのであり、アメリカはそのための牽引車的役割を果たさねばならない、と説いたのである。

結局、朝鮮戦争を契機として第三次大戦が起こるとの予想は湛山の杞憂に終わったが、戦争の推移に関する鋭い洞察と、世界平和への熱意と、厳しいアメリカ批判の視角から今後の日米関係の在り方を明快に論じていることは注目に値する。しかもここでは冷戦に対する懐疑的な所信を吐露していると同時に、湛山の理想とする「世界国家論」が顕現している。その意味で、この論文はのちの「日中米ソ平和同盟」構想の起点と位置づけられるべきであろう。なお公職追放中の湛山は、公の目を憚りながら、この論文を内外のしかるべき関係筋に配布することを企図し、その要旨を邦文タイプしたり、英文にも翻訳するなどしている。7月26日に宮川三郎(新報社会長)にそのはしがきを郵送、8月31日に依頼していた英文タイプ19部を宮川より受け取り、9月3日、橋本徹馬と会い、一部を旧知のバートン・クレーン(ニューヨーク・タイムズ東京支局記者)に手渡すよう依頼している「湛山日記」『自由思想』第三号所収70、76、77頁)。
もう一点、湛山のこの論文で気付くことは、日本の防衛・憲法・国連の政策や解釈に関して、終戦直後に湛山が提示した戦後構想との間に重大な変化を見出せることである。すなわち、第一に防衛については、冷戦発生以前の「軍備不要論」から、冷戦発生以後、限定的ながら「再軍備論」へと転じている。第二に、憲法第九条の「積極的支持」から、「世界に完全なる安全保障制度が確立されるまで」同条規定を「部分的に停止する」方向へ転じている。第三に、国連の世界的役割を「高評価」する姿勢がもはや見られない。いずれも朝鮮戦争勃発に伴う緊迫した極東情勢の現実を踏まえた態度の変化であった。
実は、極右(自由党河野派や吉田グループ)と極左(日本共産党)に対抗して中道路線を歩んだ芦田均前首相が、やはり朝鮮戦争を境として、再軍備論に転じている。湛山と芦田は新憲法肯定派であり、皇室に対しても一定の距離を置くなど、ニュー・リベラリストと呼称できるが、両者の再軍備論に共通するのは第三次世界大戦への危機感であった。オールド・リベラリスト吉田の場合、第三次世界大戦の危機という認識を持ったことは恐らく一度としてなく、他の党人派の指導者に至っては、大部分、占領によって国際政治の動向から隔離されていたため、冷戦の厳しさについての認識から無縁であった。したがって鳩山を含む党人派は、再軍備問題をもっぱら民族の気概といったナショナリズムの観点から受け止めたにすぎない。芦田の場合、同様のレトリックを使いながらも、その背後に対外的危機認識が存在しており、それが彼の主張の出発点であった(大嶽秀夫著『再軍備とナショナリズム』141~2頁)。
ただし湛山には芦田のような反共主義はみられず、参戦した中国が朝鮮を支配したのちにソ連と共同して日本包囲網を形成するといった危機感はなかった。むしろ湛山にとってはアメリカの態度こそが問題とされた。つまり西側陣営のリーダーとしての資質をアメリカが欠いている、だから早急に従来のその狭い考え方から脱却しなければならない、そのためには同盟国となった日本や西ドイツを完全に自立化させ、両国を含む西側諸国全体の利益を考慮するとともに、世界大戦の危機を地球上から抹消するといった全人類的利益をも考慮し、その上での行動に着手すべきであると主張した。その根底に、いぜん日本の占領体制を統括するアメリカへの不満と不信の念があったことは否めない。湛山は朝鮮戦争に先立つ半年前、「GHQ或は米国政府には日本防衛の日米同盟締結の意図ありと。ありそうの想像であるが、それは畢竟曾(か)つての日満同盟の米国版に外ならず、日本国民は果してこれに満足するや」(1月4日の「湛山日記」『自由思想』第三号所収49頁)と記している。湛山の眼には、噂される日米同盟は日本の満州国化、つまりアメリカの傀儡国化を強いるものと映ったのである。逆に芦田には湛山のような対米批判は見られず、GHQのニューディーラー派と米国政府に全面的に依存した首相時代の延長線上にいた。アメリカを信頼し、その将来を楽観する点では、芦田と吉田は共通していたといえる。

さて朝鮮戦争は、1950年(同25)秋に中国政府が人民義勇軍を介入させたことで新局面を迎えた。この結果、中国は国連から侵略者の烙印を押されたばかりか、米中接近の可能性を葬り去り、両国の敵対関係を国際的に固定化させた。ひいてはアメリカをして日本をアジアの有力な同盟国、いわゆるアジアの反共防波堤とすることを決意させた。ここを起点として「単独講和」(サンフランシスコ対日平和条約)と「日華平和条約」の方向が定まり、中ソ両国を排除したいわゆるサンフランシスコ体制の形成が促される。すでに4月から5月にかけて、吉田首相が腹心の池田蔵相を渡米させ、日本がアメリカに基地の提供を申し出る代償として米軍を独立後もそのまま駐留軍として日本防衛の任に当らせるとの条件を秘かに提示したことなど、この時点の湛山は知る由もなかった。政治活動を禁止され、言論活動をも封じられた湛山としては、こうした事態を静観する以外になく、焦慮の日々を送ったであろうことは想像に難くない。
ところで同年末、鳩山筋から湛山に対し、再来日を予定しているダレスと極秘に会見する話が持ち込まれた。そこで湛山は急遽その準備に入り、大晦日にダレスに提出する文書「米国に日本はいま何を望むか」(『全集』無)を脱稿した。これは前記論文 「第三次世界大戦の必至と世界国家」の日米関係に関する部分を敷衍していた。その要点とは、日本は講和条約の早期締結を希望するが、その場合、(a)米国は他国の同意がなくても日本と平和条約を締結する。(b)国連憲章はあらゆる国際取決めに優越され、カイロ、ヤルタ、ポツダムの三宣言を廃棄する。(c)平和条約の締結と同時に、日本の軍事占領は終了する。(d)平和条約締結後、日本は米国・その他の諸国と個別的集団的自衛の取決めを行う。(e)米国およびその他の諸国の軍隊は、前項の取決めにより、日本に駐在可能とする、というものであった。

ここでは「単独講和」と「日米安保条約」を一体化して、独立後の日本の安全保障を確保する構想が示されており、その基本点に関する限り、湛山・鳩山と吉田との間の相違は見られない。しかも「吉田は、自国の防衛をアメリカという他の国に依存している事態は日本人の自律性、独立心を損なうおそれがあり、長期的には改善すべきであると考え、そのために『再軍備』が必要だと判断していた。そして1951~52年当時は、彼の考える再軍備が憲法改正を必要とするとの憲法解釈から、将来は憲法の改正を考えていた」(前掲「再軍備とナショナリズム』69頁)とすれば、三者の見解はますます重複する。
ただし湛山は、日本国民の多数は、国内の米軍基地と米軍駐留に満足せず、日本の非武装化を本心から願っているが、冷戦という世界の現状から「やむなく再軍備する」のであり、したがって、早期に日本が「非武装国へと復帰する」ことを希望し、「たとい再軍備を行なうとしても、それは全く臨時の処置とし、非武装を宣言せる憲法の改正は望まない」との主張において、吉田とは一線を画していた。
周知のとおり、吉田の再軍備反対の理由は、 (1)経済的負担、(2)周辺諸国の反対、(3)野党の反対と国民の反軍感情(ないし憲法九条の存在)、(4)軍国主義復活の危険であったが、いずれもやがては解消する一時的要因であり、これらの条件が時間の経過とともに変化すれば再軍備の条件が整うとの認識を背景としていた。とはいえ、吉田は日本の経済復興に関する見通しは悲観的であり、したがって防衛力整備のための経済的制約は長期間存続するものと考えていた(同右書17~8頁)。これに対して湛山は、吉田同様、経済優先主義の観点から漸進主義の再軍備論の立場であったが、吉田とは逆に日本の経済復興について楽観的であり、日本の経済力を増大させ、ひいてはアメリカと経済的に対等となることで、日本の自主性を獲得すべきであると考えていた。
一方鳩山は、民族主義・国家主義の観点から、吉田や湛山よりも再軍備と憲法改正に関して直截かつ徹底的であった。すなわち、日本が国防上アメリカ依存から脱却することが急務であり、そのためには独立国として独自の軍備を有し、早急に国防国家体制を築くことを重視した。これに対して湛山は、前記の経済復興優先の見地から、独力の国防体制を指向する政治的意図はなかった。この点で湛山はむしろ吉田の基本路線と重複していたのである。鳩山と湛山はともにGHQ・GSによる政治的パージに処されているにもかかわらず、鳩山には湛山のような反米感情が表面化していない。 湛山の反米感情の中には不当な理由でパージという強権を発動したアメリカへの反発が間違いなく込められていたであろうが、基本的には鳩山同様、ナショナリスティックな観点から、吉田政権の「対米依存」方針(いわゆる対米従属路線)に反対であったからである。すなわち、対日平和条約は、絶対にアメリカおよびその他の諸国が日本の政治に干渉する余地を残してはならない。アメリカは過去5年余の対日政策で、日本を奴隷化するに等しい独裁者的干渉を加えてきた。このため日本の政治改革は混乱と不備とを伴い、経済復興は期待通りに進まず、反米に駆り立てられ、共産党は勢力を拡張した。それゆえ早急にアメリカはこの誤った政策を訂正せよ、と厳しく迫った。
ここでもやはり湛山の対米自主独立の気概が感じられるものの、日本の経済面と安全保障面でアメリカに依存せざるをえないところに、この見解の最大のジレンマと限界があった。
1951年(同26)2月6日夜、湛山は鳩山、石井光次郎、そして仲介者の『ニューズウィーク』(Newsweek) 記者のパケナム (Compton Pakenham) とともに、帝国ホテルで秘かにダレスと会見した。英訳された文書を提示しての会見であったが、通訳上にも問題があり、湛山は「面会の結果は、むしろ失望なり、なおよく考えて見る要あり」と日記に感想を記している(「湛山日記」『自由思想』第四号所収)。失望した理由は不明であるが、彼にとって期待はずれであった。さて、この極秘会談の前後から、湛山の周辺ではパージ解除の気配が漂いはじめた。しかし当時は講和以後もパージは継続するとの悲観的予想が根強く、したがって、湛山自身は追放解除の実現に懐疑的であった。しかも吉田が湛山と鳩山の追放解除を意図的に妨害しているとの噂が流れていた。吉田はその背景としてマッカーサーの指示があったと証言している(前掲『回想十年③』90頁)。ともかく6月20日、湛山の待望した公職追放解除が公式に発表された。ここに4年余の追放生活に終止符を打ち、湛山は政界へ復帰した。ときに66歳であった。

 

 


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮