獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡さんとの思い出(20)

2023-06-30 01:48:10 | 友岡雅弥

@Shukubo_hobo 宿坊の掲示板ほぼbotより、引用させていただきました。


【友岡さんとの思い出20】
友岡さんの話は、将来にわたって、池田先生のことを研究するための重要な学術的資料となる。先生からの発信が生み出される現場に友岡さんは携わってきた人だから。また、創価学会および公明党、さらにこれらが影響する日本の政治の研究にも関わる資料となる。真実を探求するためにも、学会員のためにも、社会のためにも、友岡さんの話が収集され、分析が進められてゆくことが必要だと思う。

 


解説

同感です。


獅子風蓮


友岡さんとの思い出(19)

2023-06-29 01:39:35 | 友岡雅弥

@Shukubo_hobo 宿坊の掲示板ほぼbotより、引用させていただきました。


【友岡さんとの思い出19】
友岡さんは、池田先生の原稿執筆をサポートするチームのメンバーだったそうだが、そのことに関連する話を引用する。
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友岡さん:一つ、大きな問題は、池田先生の発言なんですが、執行部は、それままったく意に介していません。 そこが、兵藤さんとか、僕への執拗な嫌がらせとなってるわけですが、 つまり、古くは桐村泰次さんや野崎さん(兄)、そして、兵藤さんや僕とかが、ほんとに、先生の意図を十分お聞きして、書いて、そして、先生がそれを吟味されていく。 しかし、第一次自公の時から、それが壊れて、ある意味、役員室(会長)経由、そして、兵藤さんが追い出され、あの丹治チームが、そこをやりだした。 だから、先生が何を言っても、「あああれは、兵藤とか友岡の勝手な発言で、先生の真意は、天下を取れなんだ。弱いものは学会から出て行けなんだ」という、丹治チームの発想が浸透し、その影響下に今でもあるということです。
でも、先生の方針とか、指針とか、直しは、もっとラディカルなものでした。
私:若い頃の先生は、政治のことに関しても、公の場でずいぶんハッキリと言われてましたね。会長を辞めさせられちゃってからは、パワーバランスを考えながらでないと、発言できなくなっちゃったのかもしれませんが。
天下を取れって、なんか下品ですけど、まあ政治やるなら政権を目指すのはわかるんですが、道理を外してそれを目指すというのは、ないわけで。大聖人だって、権勢を求めたわけではないので、大聖人の生き方に学んでほしいものです。
友岡さん:まさに、そうなんですよ。会長辞められてから、パワーバランスをとるようになったし、第一次自公以来、完全に、水戸黄門の印籠としての役割におとしめられてしまいました。
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兵藤氏は、聞くところによると、池田先生から「兵藤がいれば学会の思想・哲学は大丈夫だ」といった評価をされていた人らしい。友岡さんも、「兵藤さんだけにはかなわない」と言っていたそうである。

 

 


解説
「池田先生の原稿執筆をサポートするチーム」についての詳細な証言が出てきました。
でも、これってかつてはゴーストライターたちと池田氏が綿密な意思疎通をしていたけど、その体制を逆手に取られて、今では池田氏の口が塞がれたということですね。
ある意味、自業自得という面もあるようです。
かつて、池田氏のゴーストライターをしていた面々は、懺悔の意味を含めて、実態を暴露すべきでしょう。


獅子風蓮


友岡さんとの思い出(18)

2023-06-28 01:23:40 | 友岡雅弥

@Shukubo_hobo 宿坊の掲示板ほぼbotより、引用させていただきました。

 


【友岡さんとの思い出18】
友岡さんが、2018年頃に、Facebookを通して語っていたことを順次引用する。
下記の中で『本隊』というのは、池田先生のいる場所を意味するようである(『本体』=池田先生という話も見聞きしたことあるが)。仏の軍勢の本陣から来ているのだろうけど、本部職員の隠語って色々あって当たり前のように使われているようだが、どうも違和感を感じる。
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友岡さん:聖教の写真局が、Bが進める「機構改革」とやらで、解体されました。 もちろん、写真局は、聖教や大白蓮華、グラフなどの写真を撮ることもですが、 本隊マークが、2グループあって、過去何十年も、先生と行動を共にしてきました。 動画を撮るシナノ企画のグループもです。 だから、先生の、非公式なものも含めて、すべて画像に収めており、その記録も管理していました。 また、記者1人1人が、先生の行動を具体的に見てきました。 (それは、兵頭さんを中心とした、かつての記者グル―プも同じ) 過日の全体会議で、普通に、淡々と粛々と「機構改革の一環」として、発表されてましたが、上記のことも含めて重大なことです。 つまり、先生の記録は、まず、本隊マークの記者が信濃町にやられ、そしてシナノがやられ、今回、写真局が解体されたわけで、完全に、本部のアーカイブ室が握ることになります。 写真局長だった上澤大樹、前写真局長、市川靖典も、職員ではなくなっています。 僕みたいに、自己退職なのか、免職なのか。
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(※友岡さんはBの実名を書いていましたが、一旦伏せてあります)

 


解説
聖教の写真局が、Bが進める「機構改革」とやらで、解体されました。 (中略)つまり、先生の記録は、まず、本隊マークの記者が信濃町にやられ、そしてシナノがやられ、今回、写真局が解体されたわけで、完全に、本部のアーカイブ室が握ることになります。


このBとは谷川副会長でしょうか。
【友岡さんとの思い出11】に登場するAを谷川副会長ではないかと書きましたが、そうすると、別人でしょうか。

阪大博士さん、そろそろ伏せた名前を公表してはいかがでしょうか。


獅子風蓮


友岡さんとの思い出(17)

2023-06-27 01:14:49 | 友岡雅弥

@Shukubo_hobo 宿坊の掲示板ほぼbotより、引用させていただきました。

 


【友岡さんとの思い出17】
2019年3月下旬、友岡さんは、わかめ漁ボランティアで東北に赴いた際、肺炎になって、宮古病院に入院されたそうだ。以前より体調が芳しくなく、体力も低下していたとのこと。それは最後にお会いした際の様子を知っていたのでよくわかる。
肺炎は快方に向かい、退院の準備をしていたものの、容態が急変して4月2日の15時に亡くなったとのこと。精神的な不安発作で呼吸苦が頻発していたそうだ。肺炎を繰り返して肺が弱っていたところに、大阪での会食の際に見たような呼吸困難の発作が起こって致命的になったのではないだろうかと想像した。詳細は不明である。
あまりに早く、突然に亡くなってしまわれた。友岡さんのおかげで、私が知りたいと思っていた池田先生の状況などを知ることができた。もっと色んな話をききたかったが、誠に残念であった。

 


解説

友岡さんが亡くなる際の様子が、詳しく書かれている、貴重な証言です。

 


獅子風蓮


友岡さんとの思い出(16)

2023-06-26 01:08:11 | 友岡雅弥

@Shukubo_hobo 宿坊の掲示板ほぼbotより、引用させていただきました。


【友岡さんとの思い出16】
その後も、友岡さんは、Facebookを通して語ってくれたのだが、その内容は後に引用するとして、ここでは先に、亡くなる3ヶ月前にお会いした時の様子を書く。
2018年の11月末に、共通の友人が来阪するので、久しぶりに会って一緒に食事でもしましょうということになった。
待ち合わせの店に来られた友岡さんを見て愕然とした。2年間見ない間にすっかり痩せてしまっていた。まるで、がんにでもなったか、毒でも盛られたか、福島支援で被曝でもしたのかと思うほど、痩せておられた。
以前は年齢よりも若く見えたのに、64歳の年齢以上、70半ばにすら見えるほど老けておられた。その2年前の関西学術部の若手の会合の際に声が少し出にくそうな様子だったことは以前に述べたが、その症状が進行したのか、この時は声が完全にかすれて出なくなっており、言葉を伝えるのに筆談を必要としていた。
友岡さんによると、こうなった原因は査問の後遺症であり、他に病気はないのだという。友岡さんの様子が衝撃的で、その場の話の内容はよく覚えていないのだが、友岡さんが繰り返し訴えていたことは、査問がいかに酷かったかということである。査問は東京の本部であっただけでなく、関西本部でも行われ、その時の中心者はDだと怒りながら筆談されていた。
その査問担当者には、私は会合などで何度か会ったことがある。私のエピソードか何かを会合で紹介したいと言われていた。機会があれば、友岡さんの査問のことについて、尋ねてみたいと思う。
会食の途中、友岡さんは、食事でむせたのがきっかけか、10分ほども咳き込んでおられた。口元を押さえて、息苦しそうにされていた。単にむせた以外の発作のようなもので、それも査問の後遺症のようだった。この店で再会する以前に、友岡さんは呼吸困難(肺炎)で死にかけ、入院されたことがあったのだが、この店でのように呼吸が苦しくなったのだろうかと察した。とても痛ましかった。
(※友岡さんはDの実名を書いていましたが、一旦伏せてあります)

 


解説
友岡さんが繰り返し訴えていたことは、査問がいかに酷かったかということである。査問は東京の本部であっただけでなく、関西本部でも行われ、その時の中心者はDだと怒りながら筆談されていた。

関西の幹部だというD。
実名を出して、責任を問うべきだと私は思います。


獅子風蓮