獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その31)

2024-07-11 01:24:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

『東洋時論』は、大正元年(1922)10月1日発行の第三巻第十号をもって廃刊が決まった。
「いいかい、時論はあと2回発行して終わりになる。終わりよければすべてよしだ。頑張っていい論文を書いてくれたまえ。それから後は君が主張していたごとく、一本化して新報の内容をもっと充実させよう」
三浦は『東洋経済新報』の新たなる第一歩について、湛山の覚悟を促した。
「斬新な内容で、主義主張をきっちりした論陣で、読者に訴えていこうじゃあないか。個人の解放、自由の伸張という新報の基本的な考え方はどこまでも維持していくつもりだ。植松さんの主張であった軍備拡張反対も、変えない。総合すれば、帝国主義批判ということだね。普通選挙の実施には 当面、一番力を入れたい」
三浦は、湛山に覚悟を促すと同時に、自分自身のこれからの編集方針を語って聞かせたのだった。三浦銕太郎は明治7年(1874)、静岡県生まれ。東京専門学校を出て、東洋経済新報社に入った。旧姓を山下という。新報社では、植松考昭より2歳年長だったが、入社が遅かったので植松を補佐する形で論陣を張った。三浦は植松とともに、その後の湛山の論壇における基礎を形づくった。
湛山とは、この後も公私にわたって生涯の付き合いが続いていく。
「分かりました。社是に従って書かせてもらいます。もとより、新報社の考え方は、僕の学んできたこれまでのすべてと合致しておりますから、僕自身にとっても問題はありません。頑張ります」しかし、廃刊までのあと2回分、湛山は『東洋時論』を担当しなければならなかった。
明治天皇の大葬の日に、日露戦争の英雄とされてきた乃木希典夫妻が殉死し、大きなニュースになった。だが、こうしたことも湛山は冷静な目で見つめ、対処した。湛山にとって、それよりももっと心に引っかかっている問題があった。明治神宮建設であった。
『東洋時論』大正元年9月号に、湛山は明治時代の意義などを盛り込みながら、明治神宮建設問題について、その是非を問いかけた。
多数の国民が最大の特色を「帝国主義的発展だ」と見るであろう明治時代を、湛山は「政治、法律、社会の万般の制度および思想に、民主的な改革を行なったことにその最大事業があった」と考えた。
〈なるほど、陸海軍は非常な拡張を見たし、大きな戦争も二度経験した。台湾も樺太も朝鮮も日本の版図になった〉
帝国主義による発展を、そのように評価したとしても、そのうえでなお、
〈国民が軍事費の圧迫に青息吐息である〉
と否定的な見解を湛山は明確にした。そして、むしろ明治元年に発せられた「五箇条の御誓文」や明治8年の元老・大審両院開設の詔勅、明治14年の国会開設の詔勅などを通していくたびか繰り返されて宣言された「公論政治」、「衆議政治」すなわち「デモクラシーの大主義」に大きな評価を与えていた。

「この大主義はますます適用の範囲が拡張されて、その輝きは大きくなろうとも、決して時勢の変化によってその意義を失ってしまうようなことはないと僕は思うんです」
「同感だね。帝国主義的な伸張を評価したら、この国はまだまだ膨張を続けてしまって、今に取り返しがつかなくなってしまうだろう」
「全く僕も同じ考えなんです。どこかで制動装置を働かせないと、日本は滅亡の瀬戸際に行ってしまうような……」
湛山は、三浦と語った内容をそのまま文章にした。

(つづく)


解説
「同感だね。帝国主義的な伸張を評価したら、この国はまだまだ膨張を続けてしまって、今に取り返しがつかなくなってしまうだろう」
「全く僕も同じ考えなんです。どこかで制動装置を働かせないと、日本は滅亡の瀬戸際に行ってしまうような……」

『東洋経済新報』の論調は、あくまでリベラルであり、その先見性に驚きます。

 

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その30)

2024-07-06 01:54:23 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第4章 東洋経済新報

(つづきです)

湛山が東洋経済新報社に入社したのは月刊『東洋時論』編集のためであった。この明治40年代の日本というのは思想界の激変期であった。文学界は自然主義の大流行、思想・政治では個人主義、自由主義の思潮が盛んに起こっていた。こうした風潮が、『東洋経済新報』の伸張にも拍車をかけたが、それ以上に植松、三浦の二人は社会評論を主とする新雑誌を創刊したかったのである。
創刊後間もなく『東洋時論』は二度も発売禁止の処分を受けた。
明治44年1月に入社した湛山は、翌明治45年になると筆法鋭く社会問題を指弾した。
『東洋時論』4月号には「問題の社会化」と題して、女性問題を例に引きつつ言論の積極性を訴えた。
〈例えば18世紀の終り頃から19世紀の前半にかけて、男子の自由解放の運動が盛んとなると前後して女権の拡張ということが叫ばれ始めたが、その当時の婦人運動というものは、全くただ我らも男子と同様に人間であるという位の抽象的な主張にすぎなかった。しかるに今はどうかというに、1879年に書かれたというイプセンの『人形の家』でさえも、これがどうして婦人問題を取り扱ったものとして見らるるのかと我々には怪しまれるほど、 時世が変り、 婦人問題の性質も変って来た。世界の思想家が咽をからして、女子というこの世界の半数の人類のために、彼らもまた人である、社会は彼らを人として取り扱わねばならぬなどと叫んでいる間に、実際の社会は彼らの言葉をも待たず、不思議にも用捨なく、これら半数の人類を人として取り扱い行きつつあった。1900年にアメリカ合衆国の婦人の5人中の1人は、毎日その家を棄ててあるいは工場にあるいは市場に男子と肩を並べもしくは男子と競争して、立ち働かねばならぬ婦人であった。1891年に英国の婦人の二割七分は職業を有する婦人であった〉
続く5月号では、徹底的個人主義について述べた。
〈人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを唯一の目的とせるものである〉
〈されば「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」という言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に人は人として生きねばならぬのである。否、生きざるを得ないのである。何となれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから〉
湛山の筆法は、事例をきちんと研究し、具体的に提示して読者の理解を得やすくするのが特徴であった。この文章の書き方は、後に日本の帝国主義的侵略を批判したり、軍閥のやり方を批判する際にも発揮される。
湛山は実に1年間の『東洋時論』での編集作業を通じて、自分自身の文体を掴み取っていたのであった。

明治天皇が病床についたのは、この年であった。
「もし東洋経済新報社が、あの時論を発行していなかったら、僕が新報社に入社することは絶対になかったね」
「そりゃあそうだ、君は哲学が専門だもの」
「いや、哲学というよりも宗教さ。僕は日蓮宗の家に生まれている。小さな時分に得度も受けている。だから本当は宗教家なんだよ」
「その君が、経済にも手を出すようになるとは……」
湛山は酒も好きだが、好んで口にしたのがすき焼きであった。
「しかし、宗教家の君がすき焼きなどという殺生の料理を好んでいいのかな」
「君ね、嗜好は宗教とは関係がないんだよ。そんなことを言ったら、まるで僕が生臭坊主みたいじゃあないか」
親友たちとの酒席は、いつもすき焼き屋であった。飲むほどに酔うほどに湛山は陽気になった。
「しかし、この頃僕は思うのだが、会社に新報と時論という同じような二つの雑誌があっても仕方がないじゃあないか、って」
「そんなことを言ってもだなあ……」
誰かが酔いにまかせて大きな声を出したときに、
「皆さん、少し不謹慎じゃあありませんか」
後ろから静かに声がかかった。湛山も振り向いた。便所を使うために二階から降りてきて、湛山たちの酒席の大声が気にかかってつい声をかけた、という感じであった。
「今は、天皇陛下がご病床にあらせられる時であります。国民の誰もがそのご快癒を祈っているというのに。酒を飲み、肉を食し、大声を出して騒ぐとは何事ですか」
湛山たちと同じくらいの年回りの青年であった。軍服を着ている。嫌味な言い方ではない。威圧感もあるわけではない。むしろ説得力のある落ち着いたしゃべり方であった。
「分かりました。少し大声を出しすぎたようです。しかし、飲んで騒いでいたというのは当たらない。私の仕事の話を友人たちに聞かせて、意見を求めていたところですから」
湛山が引き取って、穏やかに説明した。
「いや、分かってもらえれば、それでいいのです」
丸い黒縁眼鏡の奥の瞳は、じっと湛山を見つめている。
「おおい、東条。何をしているんだ。もう帰るぞ」
「分かった。すぐに行く」
二階に返事をしてから、再び向き直り冷静な声で、
「いや、お楽しみのところを失礼しました。では……」
東条と呼ばれた青年は湛山に一礼すると、くるりと振り向いて湛山の視界から消えた。
「何だ、あいつ」
「いや、言っていることは間違っていない。天皇陛下が病床にある時に、国民として大騒ぎするのはな」
「しかし、石橋、それは国民の自由だろう?」
「自由だが、敬意を表するのも国民の務めではある」
ストックホルム・オリンピックが開催され、第三次日露協約が調印された明治45年(1912)7月の30日、明治天皇が崩御した。大葬の儀は9月13日に決定した。
「新しい年号は大正とする」
政府が改元を発表した。
主幹の植松の容態が変化して、病没したのは明治天皇の大葬の日であった。
植松の死に衝撃を受けたのは、出獄した片山潜だけではなかった。副主幹格であった三浦の落胆とショックははなはだしいものがあった。
「石橋君、弱った。もう私の能力を超えている。東洋経済新報社最大の危機と言ってもいい。とにかく天野為之博士に援助を求めるつもりだ」
湛山は三浦の慌てているわけがよく分かった。
「三浦さん、僕もそう思います。出来ることなら……」
「君の言いたいことはよく分かっている。『東洋時論』を廃刊して、『東洋経済新報』一本にしろ、ということだろう?」
「はい。この機会に出来ることはそれではないかと?」
湛山の『東洋時論』廃刊論には、天野も賛成した。
「新報の筆陣の充実が問題だな。それから先は、これまでの新報と時論を併せ持った論壇の場にすることだ。三浦君、君ならそれが出来る」
天野は、三浦がそうした調整能力に長けており、しかも年下の社員の人望が厚いことも知っていた。東洋経済新報社は植松の死をきっかけにして、『東洋経済新報』だけで再出発することになった。
湛山にとって、それは経済を中心にした記者人生の再出発と言えた。

 


解説

湛山は、このようにして東洋経済新報社において経済を論じるジャーナリストに育っていくのです。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その29)

2024-07-05 01:46:23 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第4章 東洋経済新報

(つづきです)

湛山は、自分が入社した東洋経済新報社にまさか、あの有名な社会主義者の片山潜がいるとは考えもしなかった。田中も三浦も、そんなことは教えてくれなかった。
片山椿は、この時51歳。 湛山よりも24歳年長だった。
「片山さんというのは、明治30年代の労働運動、社会主義運動の先駆けの時期に華々しく活躍した人ですよね」
「そうだ。日露戦争時にも非戦論を展開した。あの大逆事件の幸徳秋水らと一緒にね。日露戦争が勃発した年だったな、オランダのアムステルダムで開かれた社会主義インターナショナル大会に、日本代表として出席して、ロシアの代表だったプレハーノフと固い握手をしたことで世界をあっと言わせた」
明治41年に成立した桂太郎内閣は、社会主義運動に対する取締りの強化を図った。湛山が、連隊で誤解され厚遇された背景も桂内閣にあった。
「社会主義運動も幸徳秋水らの直接行動派と、片山さんの議会政治派とに分裂したんだよ。しかも片山さんらの派は少数派でねえ、生活のうえでも主義主張のうえでも彼は窮地に立ってしまったんだ」
「それでですか?」
「そう。彼の窮状を見るに見かねて新報に入社させたのが、主幹の植松さんなのだよ」
「仲間なんですか?」
「いや、仲間ではない。年はかなり離れているが二人は親友なんだよ。片山さんがアメリカ留学から帰った頃から親交を結んでいる。だからといって植松さんが社会主義者だということではない。人間として共鳴したんだろうな」
湛山は入社していきなり片山のような有名人と出会えてびっくりしたが、その後片山との付き合いが深まるほど、その人間性の素晴らしさに脱帽した。
島村抱月訳のイプセン『人形の家』が芸術座で上演されると、湛山は片山と連れ立って観劇に行ったこともある。片山は、その劇評を書いたりした。
片山は、評論でも人生でも湛山よりは遥かに先輩であったが、少しも偉ぶらない。それどころか、自分の書いた原稿を湛山に見せて、手を入れてもらうと、
「ありがとう。とても良くなったよ」
などと言うのであった。
後に湛山は、『東洋経済新報』時代の片山を評して〈片山氏は後にソ連におもむき、その最期にはソ連から国葬の礼を受けた。しかし、東洋経済新報社における氏は、率直にいって、そんな人物ではなかった〉、〈われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことはなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった〉、〈神田三崎町の氏の住宅はキングスレー館と称し、夫人に幼稚園を経営させていた。けだし当時の片山氏の思想はキリスト教社会主義に属していたものと思われる〉などと、記している。
「彼はね、この社内では絶対に社会主義の宣伝だの、組織活動などはやらない。約束したわけではないが、彼はそういう人物だ。しかし、僕は社外での活動については了解している」
しばらく経ってから植松主幹は、鋭い論調で活躍するようになった湛山に語った。
「あの大逆事件の後、彼らの活動に対する政府の弾圧や、社会の迫害は厳しいものがあったんだ。そんななかで彼は社会主義の火を絶やさないように、細々と活動を続ける覚悟を決めていたんだ。しかも、こういう情勢下でやっていける運動といったら、合法的なものでなければいけない。だから、片山さんは普通選挙獲得運動に方針を転換したんだ」
普通選挙獲得は、『東洋経済新報」としても社論としていたから、この点では片山の考えが支持できた。
片山潜は、湛山が東洋経済新報に入社した1年後の明治45年(1922)1月、東京市電争議を扇動した容疑で検挙された。明治天皇大葬の終わった9月下旬に刑期を終えて出獄したが、投獄されている最中に、親友であり庇護者であった植松考昭が37歳の若さで死去してしまった。失意の片山は東洋経済新報社には戻れたものの、片山の執筆に対して官憲の監視が厳しくなったこともあって、仕事は激減した。
もちろん、社会主義運動も制限される。大正3年(1914)の春、単身渡米を決意して会社を辞めた。主幹になっていた三浦や、社の中枢になっていた湛山もその渡米には尽力した。この年の11月、渡米した片山は、その後ソ連に渡り、昭和8年(1933)11月にモスクワで死去するまで、二度と日本の土を踏むことはなかった。
湛山は片山の訃報を知って早速『東洋経済新報』の11月18日号と25日号に「片山潜氏の思ひ出」を執筆して哀悼の意を表している。
〈私は、氏の其の南米視察中に書面を貰ったことがある。この書面は、相当長いものであつたにも拘らず、其の中には(私の所に寄来してゐた氏の総ての書面がさうであった如く)社会主義の社の字も、ソビエットのソの字も書いてゐない。然らば何が書いてあったかと云ふに、徹頭徹尾、日本の南米に於ける発展のまるで閑却せられ、それに反して米国の勢力の到る所に延びつゝあるを憤慨したものであつた。若し今日でも片山さんと云ふ署名を隠して、之を人に示すことが出来たら、恐らくその人は、何と云ふカンカンの帝国主義者が居るものかと驚いたであらう。私はこの書面に現れた片山氏こそ、実は片山氏の真骨頂ではなかつたか〉

(つづく)


解説

社会主義者、片山潜の人となりがわかる貴重な史料です。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その28)

2024-07-04 01:42:38 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第4章 東洋経済新報

(つづきです)

連隊から戻った湛山を待っていたのは、田中穂積からの手紙であった。それは、『東洋経済新報』という経済専門の旬刊雑誌があるが入社しないか、という内容だった。
田中は、自分に殉ずる形で東京毎日新聞社を辞職した湛山の面倒を何とか見なければ、と気にかけていたのであった。
「経済新報か。しかし、僕は経済は全くの門外漢だからなあ」
湛山に経済関係の雑誌で仕事をやっていける自信はなかった。
「いや、最初から経済関係一本槍ということではなさそうなんだよ」
田中は、挨拶に訪れた湛山の杞憂を晴らそうとして、そんなふうに説明した。
「今度、新報は経済ばかりではなく政治、文化、社会、教育など広い層を対象にした新しい月刊雑誌を出したんだが、その雑誌のための編集記者が不足でね。人を探していると聞いたものだから、即座に君のことを思い出してね」
「お心にかけて頂いて本当にありがとうございます」
「新報の副主幹格である三浦さん、……三浦銕太郎さんから、誰か適当な人物はいないものかと尋ねられてね。君は『東京毎日』でも優秀だったからね。その後の『太陽』など一流誌での論文も見ているが、キレがいい。そんなことで早速三浦さんに推薦した次第なんだ。まあ、この紹介状を持って三浦さんを訪ねるといい」
湛山は、田中に押し切られる形で新報社に三浦を訪ねることにした。
「そうそう、三浦さんは早稲田の出身だよ。訪ねる時には、何か書いたものを持って行ったほうがいいだろうな」
湛山は12月の中頃、 三浦銕太郎の面接を受けた。田中から言われたとおりに論文も持参した。
「何を書いてきたんだね?」
「はい。福沢諭吉論を持参しました」
「福沢さん? 君はあの人をどう捉えているのかな?」
「はい。合理性を備えた文明批評家として尊敬しております」
「分かった。ともかく論文を読ませてもらおう。採用か否かは後日連絡します」
明治44年(1911)1月、26歳の湛山は東洋経済新報社の編集部員として勤務することになった。早稲田大学を卒業して以来、4つめの仕事であった。
「石橋、今度こそ落ち着けよ。これで駄目なら根なし草になるくらいの覚悟でな」
関や大杉が、変な激励の仕方をした。
湛山は牛込天神町六番地にあった東洋経済新報社に通った。住んでいるのは大学時代からの牛込早稲田にあった早稲田館だったから、通勤には便利だった。
有名な矢来の交番の筋向かいで、牛込見付から神楽坂を上り、真っすぐに早稲田方面に通じる道路に面していた。
東洋経済新報社は、日清戦争が終わって半年後の明治28年11月、イギリス留学から戻ったばかりの町田忠治によって創設された。町田は、元々「報知新聞」の記者であった。イギリス留学中に『エコノミスト』、『ステチスト』を知って、これを模範とした経済中心の旬刊雑誌を創ろうと思い立った。読者対象は、経済人、社会人、大学生などいわゆるインテリと呼ばれる層であった。町田は、しかし創刊して2年足らずで日本銀行に転じた。その後政界入りして農林大臣、商工大臣、民政党総裁などを歴任する。
町田の後任には、大隈重信の推薦で早稲田大学教授の天野為之が選ばれた。天野は後に早稲田大学学長になる。
この天野時代に東洋経済新報社は、イギリス流の自由主義、合理主義、経験主義という伝統や、反藩閥、反軍閥という社風を確立した。編集の方針は経済的自由主義であった。
天野引退の後を継いだ三代目主幹の植松考昭は、政治・社会方面の評論を得意として、選挙権の拡張、政党内閣制度の確立、労働法制定などを主張していた。植松は、経済専門誌ながら政治・社会領域をも視野に入れて論陣を張った。植松はより鮮明に、政治的自由主義の色彩を加えたのであった。
こうした主幹・植松の方針を受けて副主幹格の三浦は、徹底した自由主義、民主主義、平和主義という『東洋経済新報』の基盤を確立した。発行部数も、当初三千部ほどであったものが五千部に増えている。
そして世の中が変動している時期だからこそ新しい視点で経済・政治・社会・思想問題を中心に論じたい、として雑誌 『東洋時論』を創刊した。 その新報社変わり目の時期に湛山は入社したのであった。
「石橋君、分かっていると思うが君には『東洋経済新報』のほうではなくて、新雑誌の『東洋時論』をやってもらう。だが、新報も時論も、社の大事な看板だから、君独自の鋭い見方で読者に訴えてくれたまえ」
三浦銕太郎はそう言って湛山を励ました。
「月給は18円だ。ま、大卒の銀行員で40円近くも貰っていることを考えれば、少し少なすぎる気はするが、初任給だ。試用員でもある。もうしばらく経ったら上のほうに僕からも話すから、我慢してやってくれたまえ」
湛山は、東京毎日では20円の月給を貰っていた。それに10円の車代が付いた。今度は18円だという。湛山は、日雇いでも50銭、それから考えると、自分の月給は日雇いに毛の生えた程度のものだな、と苦笑いした。
「独り者だし、何とか食ってゆけるだろう。無職でいるよりはずっとありがたい」
そう自分に言い聞かせた。
新報社の建物はペンキ塗りの木造二階の洋館であった。道路に沿って門があり、入り口には左右に一本ずつ桜と梅の古木が立っている。
「桜は人間の寿命とほぼ一緒だというが、この桜は何と見事な古木だろうか。百年、いや二百年は経っているな」
春にはどちらも見事な花をつけるので、ここで花見が出来る、と聞かされた。
玄関を入ると、そこが営業の部屋で、その奥に食堂と台所、小使い室があった。食堂といっても賄いがいてご飯を作ってくれるわけではない。各自が持参した弁当を昼食時に、ここで雑談しながら食べるのであった。
「二階が編集室と会議室を兼ねた応接室だ。応接室からは小石川台が見下ろせる。新報と時論の双方の編集室を兼ねているんだ」
三浦が丁寧に説明してくれた。『東洋経済新報』は、毎月3回、5の日に発行されていた。「君も知っていると思うが、編集は新報と時論を発行するだけではないんだよ。今進められているのは「明治金融史」と「明治財政史」の2冊だ。どちらもかなりの大著だ。こういう本も必要とあれば作るんだよ」
会社は、植松、三浦のほかに営業担当の松下知陽が幹部社員であった。ほかには編集が新入社員の湛山を含めて七人、営業が三人、住み込みの小使いさん夫婦と給仕二人。合わせて17人という 少人数の陣容であった。
湛山が三浦に誘われて編集室に入っていくと、ちょうどみんな出払っていて、一人だけ初老に近い男がストーブにあたっていた。
「一人ですか?」
「ええ、みんな外に出てますが」
「そうか、じゃああなたから紹介しておきます。今度、時論を手伝ってくれることになった石橋湛山君。いろいろ教えてやってください」
湛山が、軽く頭を下げて名乗ると、
「片山です。よろしく」
ぶっきらぼうな挨拶だが、だからといって他人を拒否しようという感じではなかった。
「片山潜さんだ。ここでは『深甫』という筆名を使っている。演劇、音楽、美術、建築批評、それに社会問題にもふれた論文を書いているんだ」
湛山は「片山潜」と聞いて、耳を疑った。
「あ、あの社会主義運動の?」
「ええ」
「石橋です。よろしくお願いします」

(つづく)


解説
軍隊から戻って、湛山はようやく東洋経済新報で働くことになります。
そこには、あの社会主義者の片山潜がいました。


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その27)

2024-07-03 01:37:08 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第4章 東洋経済新報

(つづきです)

こうして湛山は、1年に満たない新聞記者生活を終えた。
だが、東京毎日新聞社で見たり、聞いたり、覚えたりしたさまざまなことは、その後の湛山の人生に大きな役割を果たすことになる。
その間に、日本政府は韓国を併合する方針を確認し、10月には元首相・伊藤博文がハルビン駅頭で韓国人・安重根に暗殺される事件が起こった。
国内にも知識人などの間に、社会主義思想が流行り始めていた。
12月1日、以前から決まっていた一年志願兵(後の幹部候補生)として、湛山は麻布竜土町にある歩兵第三連隊に入営した。友人の関与三郎と大杉潤作の二人が兵営まで送ってくれた。
「じゃあ」
こうして1年間の軍隊生活が始まった。

明治43年(1910)11月30日、湛山は軍曹に昇進して歩兵第三連隊を除隊した。除隊した時に湛山は12キロも痩せていた。
「それがね、連隊に入って配属された班に行くと、柔和な顔をした軍曹がいてね。僕が石橋だと名乗ると、腰を屈めて丁寧に自分の名前を言って挨拶をするんだよ」
無事除隊を祝って関や大杉が開いてくれた酒席で、湛山は1年間の軍隊生活を語って聞かせた。
「だって、驚くだろう? 軍隊というところはすべて権柄ずくで、頭っからがんがんやられるものと覚悟していたんだから。けれどもっと驚くことがあった……」
二人は身を乗り出して、湛山の話に耳を傾けた。
「新兵係の少尉が、夕食後に僕を自分の士官室に呼び出したんだ。何事か、と僕はびくびくものでね。入って行くと、将校はにこにこして、こう言うんだ。何かと不自由でしょうね、餅菓子を買いにやらせたからあなたを呼んだんですよ、ってね」
「へえ。聞いていた軍隊生活と違うじゃあないか」
「そのうえ、その少尉は僕に英語を教えてくれないか、と言うんだよ。もちろん僕は承知したんだがね。それからしばらくは、毎晩のように士官室に呼ばれて英語の先生さ」
湛山と一緒に入営した1年志願兵は12、3人いた。そのなかには東京帝国大学を卒業して銀行員になっていた人もいれば、慶応大学出身の人もいた。湛山が最年長ということでもなかった。
「どうして僕だけそんな特別扱い、と言っていいだろうな、扱い方をされるのか、不思議でならなかったんだ」
「ところが半年ばかり経ってやっと分かったんだ」
二人は、盃を口に運ぶのを忘れて湛山の座談に聞き入っていた。
「伍長に昇進した後、別の将校古参の中尉だが、よく飲みに出歩いた人でね、彼が真相を教えてくれたんだ」
「一体、何だったんだ?」
湛山は、もったいぶったわけではなかったが、つい思い出し笑いをしてしまった。
「……でさ、その中尉によると、僕は監視されていたんだとさ」
「監視? 何のために?」
「だから、僕は入営当時はどうも社会主義者ではないか、と疑られていたようなんだ」
「社会主義者? 君がかい?」
二人も大笑いを始めた。周りの客が三人を振り返って覗き込むほどの大笑いだった。
「僕が早稲田の出身で、しかも新聞記者なんかしていたから、こりゃあてっきり社会主義者に違いないって。だから入営する前から僕の処遇については第三連隊の中で、問題になっていたらしい。どこに配属するか、どのように監視するか」
「そういうことか」
「まあ、言われてみれば分かる気はするがね。軍隊では、社会主義もロシアの共産主義も同じものに見えるらしい。その社会主義が軍隊に入り込んで、蔓延したら困る。そう考えたらしいんだ」
「じゃあ、社会主義のお陰で石橋はいい思いをしたということじゃあないか」
「うん。僕も中尉から真相を聞かされた時に、同じことを言って大笑いした」
「もっとも、軍隊のそのやり方は正しいのかもしれないな。現に、君が連隊で厚遇を受けている間に、大逆事件があったしな」
「5月だろ? 幸徳秋水という社会主義者ら26人が捕まった、っていう……」
これは明治天皇暗殺未遂事件に絡むものであった。
「8月には、去年の伊藤公暗殺にもかかわらず、日韓併合を行なう日韓条約が調印されたらしいな。何か日本はおかしい方向に動き始めているような気がしてならないんだ」
「初代の朝鮮総督には寺内正毅が決まったというし」
「僕は、そういうのって違うと思うんだ。本当に朝鮮人たちは併合に納得しているのかねえ」
「石橋、止せ。こんな場所でそんな話をするなよ。今度こそ本当に間違われるぞ」
大杉が、首を引っ込めるようにして周囲を見回した。
「構わないさ。言論は自由。それに僕は社会主義者ではない」
そう言ってから湛山は、再び連隊での感想を二人に聞かせた。その前に、と湛山は盃ではなく、コップを取って徳利からなみなみとその中に酒を注いだ。
「石橋、ずいぶん酒が強くなったんだなあ」
「うん。さっきも話したように、将校連中にはよく飲みに連れて行ってもらったもの」
湛山の面白さは、軍隊を「社会の縮図」、「一種の教育機関」と見做したところである。そう思って観察すると、軍隊のプラス面が湛山には見えてきたという。
「しかし、本来の戦争目的には嫌悪の情しか感じないがね」
湛山が連隊で経験した一番嫌だったことは、富士山の麓での実弾訓練であった。兵隊の姿をかたどった等身大の標的を前方のかなり離れた場所に置いて、これを鉄砲で撃つ訓練だが、湛山には耐えられないものであった。
「もちろん、向こうから弾は飛んでは来ないがね。一度標的の下にある看視壕に入ってみたんだよ。射撃してくる小銃弾はわずかに千発くらいだったんだが、それが壕の上を唸って通過していく。弾によっては近くにある樹木なんかに当たってはね返るのもあってね、あれを聞いていたらちびりそうになったくらい、身の毛がよだつ恐ろしさだったよ。戦地に連れて行かれても、僕はとても戦争なんかできない、と悟ったね」
以後、湛山が一貫して戦争反対論を唱えるようになる根底には、この時の実弾訓練の恐怖の実感が強く影響していたのである。
のちに湛山は見習い士官として3ヶ月の再召集を受けて、これを無事に勤務して終末試験もいい成績で通過した。そして大正2年になってから少尉に任官辞令を貰うことになる。

(つづく)


解説
湛山が東洋経済新報で働くまでには、まだまだ紆余曲折がありそうです。

獅子風蓮