獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その31)

2024-07-11 01:24:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

『東洋時論』は、大正元年(1922)10月1日発行の第三巻第十号をもって廃刊が決まった。
「いいかい、時論はあと2回発行して終わりになる。終わりよければすべてよしだ。頑張っていい論文を書いてくれたまえ。それから後は君が主張していたごとく、一本化して新報の内容をもっと充実させよう」
三浦は『東洋経済新報』の新たなる第一歩について、湛山の覚悟を促した。
「斬新な内容で、主義主張をきっちりした論陣で、読者に訴えていこうじゃあないか。個人の解放、自由の伸張という新報の基本的な考え方はどこまでも維持していくつもりだ。植松さんの主張であった軍備拡張反対も、変えない。総合すれば、帝国主義批判ということだね。普通選挙の実施には 当面、一番力を入れたい」
三浦は、湛山に覚悟を促すと同時に、自分自身のこれからの編集方針を語って聞かせたのだった。三浦銕太郎は明治7年(1874)、静岡県生まれ。東京専門学校を出て、東洋経済新報社に入った。旧姓を山下という。新報社では、植松考昭より2歳年長だったが、入社が遅かったので植松を補佐する形で論陣を張った。三浦は植松とともに、その後の湛山の論壇における基礎を形づくった。
湛山とは、この後も公私にわたって生涯の付き合いが続いていく。
「分かりました。社是に従って書かせてもらいます。もとより、新報社の考え方は、僕の学んできたこれまでのすべてと合致しておりますから、僕自身にとっても問題はありません。頑張ります」しかし、廃刊までのあと2回分、湛山は『東洋時論』を担当しなければならなかった。
明治天皇の大葬の日に、日露戦争の英雄とされてきた乃木希典夫妻が殉死し、大きなニュースになった。だが、こうしたことも湛山は冷静な目で見つめ、対処した。湛山にとって、それよりももっと心に引っかかっている問題があった。明治神宮建設であった。
『東洋時論』大正元年9月号に、湛山は明治時代の意義などを盛り込みながら、明治神宮建設問題について、その是非を問いかけた。
多数の国民が最大の特色を「帝国主義的発展だ」と見るであろう明治時代を、湛山は「政治、法律、社会の万般の制度および思想に、民主的な改革を行なったことにその最大事業があった」と考えた。
〈なるほど、陸海軍は非常な拡張を見たし、大きな戦争も二度経験した。台湾も樺太も朝鮮も日本の版図になった〉
帝国主義による発展を、そのように評価したとしても、そのうえでなお、
〈国民が軍事費の圧迫に青息吐息である〉
と否定的な見解を湛山は明確にした。そして、むしろ明治元年に発せられた「五箇条の御誓文」や明治8年の元老・大審両院開設の詔勅、明治14年の国会開設の詔勅などを通していくたびか繰り返されて宣言された「公論政治」、「衆議政治」すなわち「デモクラシーの大主義」に大きな評価を与えていた。

「この大主義はますます適用の範囲が拡張されて、その輝きは大きくなろうとも、決して時勢の変化によってその意義を失ってしまうようなことはないと僕は思うんです」
「同感だね。帝国主義的な伸張を評価したら、この国はまだまだ膨張を続けてしまって、今に取り返しがつかなくなってしまうだろう」
「全く僕も同じ考えなんです。どこかで制動装置を働かせないと、日本は滅亡の瀬戸際に行ってしまうような……」
湛山は、三浦と語った内容をそのまま文章にした。

(つづく)


解説
「同感だね。帝国主義的な伸張を評価したら、この国はまだまだ膨張を続けてしまって、今に取り返しがつかなくなってしまうだろう」
「全く僕も同じ考えなんです。どこかで制動装置を働かせないと、日本は滅亡の瀬戸際に行ってしまうような……」

『東洋経済新報』の論調は、あくまでリベラルであり、その先見性に驚きます。

 

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その27)ドイツ人捕虜たちがベートーベン第九を演奏

2024-07-10 01:07:07 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt48 - 第九 初演100周年

12月24日 投稿
友岡雅弥


福島県というと、日本有数の音楽どころです。合唱やオーケストラは、全日本コンクールの優勝常連校が複数あります。

高校野球の入場マーチ「栄冠は君に輝く」、東京オリンピックの入場行進曲、阪神タイガースの「六甲おろし」、読売巨人軍の「闘魂こめて」、映画「君の名は」のテーマソング、また「モスラの歌」などで有名な古関裕而さんは、福島市の出身。太平洋戦争中は、たくさんの軍歌を作ったので、残念といえば、残念ですが、戦後は「長崎の鐘」や戦争孤児の施設をとりあげた「とんがり帽子」「ひめゆりの塔」などの曲もあります。

福島駅東口には、古関裕而さんがハモンドオルガン弾いてるモニュメントがあります。

また、郡山市は「楽都」、「日本のウィーン」と呼ばれています。もともとは、戦後の復興期に土木事業を盛んに行われ、復興のどさくさで、悪徳手配師などが東京から流入(これは、今の原発除染事業も変わらないところです。福島の問題ではなく、日本社会の問題です)。荒廃した雰囲気が漂いました。

そこで、郡山市民は「10万人のコーラス運動」を立ち上げ、さらにそれが実現したので「20万人のコーラス運動」をおこしたのです。
ちなみに、日本初のロックフェスティバルも郡山なんですよ。オノ・ヨーコが来ました。

私も支援させていただいている相馬子どもオーケストラは、日本で唯一の「エルシステマ」による活動です。「エルシステマ」は、ベネズエラのストリートチルドレン、 スラムの子どもたちを支援する活動で、今や世界に広がり、世界ナンバーワンの若手指揮者グスタホ・ドゥダメルもこの運動の出身です。


エルシステマについては
http://www.elsistemajapan.org/worldwide


東日本大震災、原発事故の復興の一つの象徴として、エルシステマが選ばれ、オーケストラが選ばれたのは、福島らしです。もともと小学校、中学校の多くに、吹奏楽だけでなく、管弦楽オーケストラがあったのが、地元福島の強みでした。

さて、9月23日、ベートーベンの第九交響曲アジア初演100周年のコンサートが会津若松の歴史あるコンサートホール「會津風雅堂」で開かれます。

なぜ、アジア初演(ということは、当然、日本初演)100年コンサートが、福島の会津若松で開催されるかです。

実は、その前日、9月22日、会津若松に「松江豊寿(とよひさ)記念碑」が建ちます。この松江豊寿さんが、日本で(アジアで)最初の第九演奏と関係あるのです。

豊寿さんは、1872年(明治5年)に会津若松で生まれました。
ご存知のように、会津藩を初めとする東北諸藩は、戊辰戦争で「朝敵(天皇の敵)」として、政府軍から攻められ、悲劇的、屈辱的なあつかいを受けました。ほとんどの藩士は、自宅軟禁状態で、さらに青森の北の端に移住させられ、飢餓で多くの死者をだしたりしたのです。

豊寿さんの父親は、会津藩士でしたが、警察官になっているので、おそらく斗南藩移住はなかったのでしょう。しかし、少年時代の記憶に、「朝敵」として差別されたことは、深く刻まれていたと思います。

武士の家に生まれたので、農業や商業の経験は家としてはなく、巡査や兵隊以外の仕事は難しい。そして明治となり、徴兵令により国民に兵役の義務が生じて行く時代です。ある意味、兵隊になれば、差別もそんなにないとは言えます。

豊寿さんは、幼年学校から士官学校へと進み、日清・日露戦争に従軍し、陸軍中佐となります。

第一次世界大戦で、ドイツが負け、中国にいたドイツ人たちは捕虜として日本の収容所に収容されることとなりました。

約千名のドイツ人が、徳島にあった板東俘虜収容所に収容されました。そして、豊寿さんはここの所長となったのです。

この収容所は、豊寿さんの意向が色濃く反映したものでした。運動場のほか、ドイツでの生活を続けられるようにと、農園、牧場、ビール醸造所、パン屋さんまであったのです。

これだけではありません。近隣住民との交流も盛んに行い、入所者が作ったパンや手工業製品が販売されたり、入所者が近隣住民に、ドイツの文化を教えたりしました。

これが当時の日本でどれほど開明的であったかは、いうまでもないでしょう。日本に来たのだから、日本の文化を学べではなく、ドイツから来た人達にドイツの文化を教えてもらおう、という態度です。

オーケストラもありました。

そして、1918年6月1日。
ドイツ人捕虜たちが、ベートーベンの第九を演奏しました。これが、100年前のアジア初演なのです。

収容所の跡地は、ドイツ村公園となっています。

残念ながら、捕虜への人道的な扱いは、それ以降の日本軍には継承されませんでした。

このような画期的な、取り組をしたのが、「朝敵」として差別された会津出身者であったということは、こころに刻んでおいたほうが、いいのではないか、と思ったりします。

 

 

 


解説
この収容所は、豊寿さんの意向が色濃く反映したものでした。運動場のほか、ドイツでの生活を続けられるようにと、農園、牧場、ビール醸造所、パン屋さんまであったのです。
これだけではありません。近隣住民との交流も盛んに行い、入所者が作ったパンや手工業製品が販売されたり、入所者が近隣住民に、ドイツの文化を教えたりしました。
これが当時の日本でどれほど開明的であったかは、いうまでもないでしょう。日本に来たのだから、日本の文化を学べではなく、ドイツから来た人達にドイツの文化を教えてもらおう、という態度です。

いい話ですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その26)ペイフォワードの文化を根付かせたい

2024-07-09 01:26:07 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt45 -「恩」は返さずに

2018年11月19日 投稿
友岡雅弥


壊滅的な津波被害を受けた釜石の鵜住居、そして大槌町に向かうために、花巻空港に到着した時のことです。エンブラエルの小型リージョナル機なので、数十人の乗客です。

なんだか、みたことのある人が先にいるぞ、と思ってたら、向こうでも、ちらちら、後ろの僕を見ている。

「渥美さんですよね?」
「友岡さん?」

日本災害救援ボランティアネットワーク理事長の渥美公秀さんでした。

何度か、同じ飛行機に乗り合わせたり、野田村などの被災地で、すれ違ったりしていて、直接、話はしないまでも、なんとなく、知りあいだったのです。

渥美さんは、レンタカーで野田村に行かれる途中で、僕はバスとJR在来線を乗り継いで、釜石に行くところだったので、短時間でお別れしました。

渥美さんは、阪神淡路大震災の時から、ボランティア団体を立ち上げられ、国内だけでなく、海外の災害にも、支援に奔走されています。

別の折に、少しじっくり話す機会がありました。

「ほんとうの復興は、いつなのか?」ということについて話しあってたのですが、渥美さんから、とても示唆的な話をおうかがいすることができました。

「阪神淡路大震災の、多くの被災者が語っていたのは、

中越地震、中越沖地震、東日本大震災のボランティアに行ってはじめて、自分が『復興した』という気持ちになった。

阪神淡路大震災のとき全国の人たちから受けた恩返しが、これで出来た。今までそれが正直、重荷だった」

「復興」というのは、被災したかたが、何らかの形で、他者に対して、支援ができるようになったときを言う。

この考えは、とても示唆的でした。

そして、渥美さんは、この考えを「恩返し」ではなく、「恩送り」と言ってました。

初期仏典には、「恩」という言葉に対応する原語がありません。

つまり、もともと仏教には、知恩、報恩という概念がなかった。

後の時代、中国や日本で作られた仏典、また中国で訳された仏典の訳には、それがバンバンでてきます。

あえていうと、upakāra、 prarikāraということばがそれに当たるのですが、これは「他人を助けること」です。

バラモン教では、シヴァやヴィシュヌなどの、超越的な神に祈願し、その返礼として、いけにえや財宝を捧げたのですが。

初期仏教では施(ほどこ)し、つまり貧者や困窮者に食べ物などの支援をすることだけが、唱えられていました。

これは、社会的にいうとこうなります。

最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。

悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴータマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。

その考え方は、今現在の社会で、身体的なハンディを持っていたり、経済的なハンディを持っていたりすることを、過去の因によるとして、固定してしまうからです。

でも、この考え方は、ごく一面、浅い意味ですが、いい部分もあります。
なぜならば、来世に悪いところに生まれないために、今、悪いことをしないでおこう、というように、犯罪の予防、社会の安定につながるからです。

でも、それは、いつも自分の所業を監視する、自己監視型の、ミシェル・フーコーのいうような社会を作ってしまうことは目に見えています。

事実、江戸時代中期、京都石清水正法寺の大我は、徳川幕府体制の御用僧侶だったのですが、このような言葉を残しています。

「一たび仏法を聞きて因果を信ずる者は、深淵に臨みて薄氷を踏むがごとく、戦戦兢兢(=戦々恐々)として敢えて心を放(ほしいまま)にせず。……万民(悪業の)来報を恐れて、君を戴くこと日月の如くす」(三彝〈い〉訓)

仏法の因果論を聴いた人たちは、悪業を犯さないように犯さないように、びくびく生きて、徳川幕府様を日月のように尊敬する、というのです。

結局、このように「因果」への恐怖から作られる社会は、安定しているように見えて、監視型社会なわけです。

他人から強制されるのでもなく、また因果を恐れるのでもなく、自らを律して行く、そして、それを社会に及ぼして行く。

まさに、そのために「困っている人を支えること」「まず与えること」を、初期仏教は唱えた訳です。

輪廻・業思想を排除した仏教は、倫理的な個の自立を考えたわけです。

それで、バラモン的な超越的存在への供養ではなく、他者への贈与。

それによって、個人も、社会も混乱を静めることができると考えた訳です。

自立(自律)した人たちが支え合う社会――これは、社会の根本に「恐れ」ではなく、「信頼」が醸成されていくでしょう。

まさに「恩送り」の考え方は、それです。

企業の「社会的責任」の文脈で使われる「ペイフォワード」も同様の意味でしょう。
「ペイフォワード」の反対語は「ペイバック」です。

恩返しが「ペイバック」ではなく、「恩送り」が、「ペイフォワード」に当たるでしょう。


あるアメリカのIT企業の社長が来日して驚いたのは、重い荷物をもって困っている人に「お手伝いしましょうか?」と言ったら、断られた。何か別の目的があるのではないか、と思われたようなのです。

アメリカでは、子どものころから普通にボランティアをするので、世の中には、普通に困っている人がいて、そして「上から」ではなく、同じ立場で、お互いさまだからと支えることを、子どものころから、体で覚えている。

そして、大人になって、なんらかの社会的成功を得たならば、それを困っている人に、普通の行為として、ペイフォワードする。

こういうことが、 自然に身に付いている人が多い。
――というのです。


ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目ざした社会のために、少しでも、恩送りができたらなぁと、思っています。

 

 

 


解説
最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。
悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴータマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。

ここは、私のこれまでの仏教理解と異なるので、違和感があります。
今後、勉強していきたいと思います。


ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目ざした社会のために、少しでも、恩送りができたらなぁと、思っています。

ここは私も賛成します。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その25)神風特攻隊の悲惨さを伝えた三原佐知子さん

2024-07-08 01:38:12 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt44 - 「永遠の0」と同じ題材やけど

2018年11月12日 投稿
友岡雅弥

三原佐知子さんという、日本を代表する浪曲師さんに親しくして頂いています。

民謡もうまく、また節回し、セリフともにとても上手な浪曲師さんです。

ヒロシマの悲劇を題材にした「はばたけ千羽鶴」は、なんどもテレビや新聞で採り上げられています。

僕は、さっちゃん姉さん(三原佐知子のことをこう呼んでいます)のスタンスってとっても大事だと思うんです。
これは、みならわなくっちゃと思ったことがあるんです。

さっちゃん姉さんの「予科練哀歌 まぼろしの父」は、出だしは、特攻機が、はるか大空を飛んでいくある意味勇壮なシーンから始まります。

数年前、某寄席でこの外題を聴いた時、客席に「右寄り」どころか「もろ右」の人がたくさんいました。

突然立ち上がって、中国や韓・朝鮮半島を批判する演説をする人もいました。

ちょっと、変な雰囲気だった。いや、露骨に変でした。いやな感じです。

「予科練哀歌 まぼろしの父」の出だしが始まります。

青空を飛んで行く特攻機。

その人たちは、感に堪えない雰囲気で、座りながらだけど、直立の姿勢で聴いていました。

空を飛んでいく特攻機の描写が終ったら、啖呵(せりふ)が入るんです。

「お母さん、僕には何故、お父さんがいないのですか」

「父無し子(ててなしご)」 と、周囲からいじめられ、成人した青年が母に問うシーンが突然始まります。


やがて、父を探して家を出た青年が、

父は橘二郎といい、
予科練性から神風特攻隊隊員となり、
戦死したことを知るのです。

そこで描かれるのは、「銃後の悲惨」。

「君を守るために死んでいく」の「君」は、妻子ではなく、「大君(天皇)」だった。

なんと、先ほどの、「もろ右」さんたちが泣いています。


そして、最後、さっちゃん姉さんは、扇子を広げながら、一声。

「今私たちの願いは世界の平和」!

「もろ右」さんたちは、感極まって、「その通り、平和が一番!」「そうや!」「戦争あかん!」と。

そして、泣いているんです。

「神風特攻隊の物語」を演じて、「神風特攻隊の悲惨さ」を、本当に伝え切ったその芸のふところの深さ。

その後の、僕の考えを大きく変えた瞬間でした。

ある意味、大人気になった「永遠の0」と同じ題材です。

しかし、特攻を美化するのではなく、特攻を美化している人たちの心をも、「特攻の悲惨さ、悲しさ」へと向けていく。

「永遠の0」とは、正反対の方向に。

声だかに戦争反対を叫ぶのではなく、戦争のリアリティを、共感をともなって相手の心に、ぽっと置く力量を持ちたいなぁと、深く思えました。

 

 


解説
声だかに戦争反対を叫ぶのではなく、戦争のリアリティを、共感をともなって相手の心に、ぽっと置く力量を持ちたいなぁと、深く思えました。

なるほどなあと思いました。
私も、意見の違う相手に伝わる文章が書けるような、力量を持ちたいと思います。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その24)底辺の地べたに立ちたい

2024-07-07 01:55:58 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt43 - キレイになっていく街の陰で

2018年11月5日 投稿
友岡雅弥

福島の飯舘村・浪江町に行った帰りに、久しぶりに横浜の寿町と、東京の山谷に寄ってきました。
寿町、山谷は、大阪の釜ヶ崎と並んで、日本三大寄せ場(日雇い労働者の求人・求職の場所)、日本三大ドヤ街(日雇い労働者のための日払いの安宿)と呼ばれていましたが、規模が、釜ヶ崎に比べて、何分の一とかの大きさ(それだけ、釜ヶ崎が突出して大きい)なので、釜ヶ崎より、先に、「日雇い労働者の町」から、「一人暮らし高齢者の住む福祉の町」に変わっていました。

ところが、それが、さらに変わっていきつつあるのです。

つまり、今までその地域に住んでいないような人向け、一般向けのマンション建設が進んでいるのです。外国人観光客向けのホテルの新築も。

今までのドヤを改装した、外国バックパッカー向けの安宿への変化は、10年ほど前から、釜ヶ崎、寿町、山谷ともにありました。

しかし、ほんとにこの二、三年、安宿ではなく、今までのドヤを壊して、デザイナーズ・みたいなのが立ち並ぶようになってきたのです。

ただし、生活保護の家賃扶助を利用するドヤの業態転換した形のアパート(ドヤは宿泊施設、アパートは通常の住宅なので、法律や安全基準が違うのです。だからいろいろの書類を出したり、基準に合う安全設備を換えたりします) は、……

ある意味、安定した収入があるので、ドヤのオーナーさんは、なかなかそのドヤを手放しません。

そこで、釜ヶ崎では、なぜか、火事になったドヤが、次々と新しい、デザイナーズホテルとか、デザイナーズマンションや、デザイナーズマンションと見紛う高齢者施設へと転換していってます。

それから、将来の転用を考えて、カラオケ居酒屋が次々と、ほんとに「雨後のタケノコ」のように出来てます。人件費を抑制するために、接客するのは、中国人女性、店舗開店費用を抑制するために、みんな同じつくり。看板も、微妙に名前が違うだけ。

こうして、朝早く(4時半とか5時です)から、仕事にいくため、世間の先入観とはまったく逆に、仕事から帰ってきて、お風呂に入って、晩ご飯とともに、ほんの一杯のお酒だけしか飲まない、とても「健康的」だった釜ヶ崎が、カラオケ居酒屋が林立する、「世間の先入観に合わせた」町へと変貌してきたのが、この二、三年でした。

釜ヶ崎の広さは、0.6平方km。こんな狭いところにJR、私鉄の駅が11コもあります。

だから、ここは、維新の会の府政、市政となってから、黒い服を着たサラリーマンさんたちが、うろうろとうろつき、土地を物色する町に、ここ数年でなってしまいました。

小学校は全部無くなり、その一つの運動場には、マンションが建設中です。

――というように、この数年の釜ヶ崎の変化を目撃してきたわけですが、今回、三、四年ぶりに寿町、山谷に行って、まったく同じことが進行しているのに驚きました。

外国人観光客向けの施設としてのドヤの「活用(?)」は、ピークを迎え、ここを「普通の人」が住む「普通の町」へと変えて行こうという、「圧力」があるのをひしひしと感じました。

なんと、寿町では、日雇い労働者の仕事のマッチングと、医療、保健、保険などの支援を行っていた行政の「労働センター」が取り壊され!

一応、新しい、クールな「労働センター」が建つみたいです。

釜ヶ崎でもそうです。あの威容を誇る、巨大な「労働センター」まもなく取り壊されます。

市側は、いや、新しい労働センターが、また建つから、と言うのですが、だいぶ大きさは狭くなりそうです。

巨大なコンクリートの塊である、今の労働センターが取り壊され、新しい労働センターができるまでには、何年もかかります。その間は、「狭いけど、南海線の高架下に仮設の労働センターを作るから」と、行政は言ってるのですが、東日本大震災と同じく、高齢者に、この「数年の仮設」はキツイです。

寿では、実際、手厚い支援で有名だった寿学童保育に通っていた子どもたちは、みんな寿にいることができなくなり、「寿っ子」は、ほぼいなくなりました。

よく考えると、釜ヶ崎は、成り立ちからそうでした。

もとは100年ほど前、当時、東京よりも人口が多かった大阪の南端にあった、「長町」という巨大スラムが、大阪の市域の拡大により、住民の強制的立ち退きがあり、そして、まだ大阪市域ではなかった、今の釜ヶ崎の地に、長町スラムの住民が掘っ立て小屋を建てたり、木賃宿に住みつくことになったんです。

この長町スラムの立ち退きは「直接的立ち退き」と言われるものです。

でも、今、釜ヶ崎、寿町、山谷で進行しているのは、「間接的立ち退き」もしくは、 「排他的立ち退き(exclusive eviction) 」と言われているものです。

「排他的立ち退き」の本質は、exclusive ということばに象徴されます。「差別的」 と訳してもいいでしょう。

exclusiveの反対は、inclusive包容的、包摂的、他を排除しない、という意味です。

安い公営住宅が民営化し、家賃が高くなる。家賃を払えない人が、「自然と」出て行かざるをえない。そうすると、仲間がいなくなり、コミュニティが壊され、人は孤独な存在となる。精神的な孤独を味わうようになる。


そこに、おしゃれなカフェとか、 デザイナーズ・ホテルができる。

一部に、閑静な住宅地ができる。

どんな気持ちになりますか?

孤独感、疎外感は、ますます深まるでしょう。


「いや、強制はしてない。あいつらは、自分の意志ででていったんだ」
と、表面を見ただけの人は言うでしょう。

出て行かざるを得ない、こころの孤独、疎外感を感じないのです。

そんな世知辛い社会は、いやですね。

都市計画学者のStacey Sutton(ステイシー・サットン)は、
EDxNewYork2014で、こう語りかけました。

「(ジェントリフィケーションは)自然な変化ではないのです」

「規制などを活用することも出来ますが、大切なのは私たちが何に価値を置き、誰を尊重し、どのように行動したいかです」

また、ブレイディ・みかこさんも、こう言ってます。

かつてわたしが「底辺託児所」と呼んでいたアニーの託児所は、実は底辺どころか大変にハイレベルな幼児教育施設だったのである。

これは英国という国の底力である。ここには底辺を底辺として放置させてはいけないと立ち上がる人が必ずいる。地べたで何かをしようとする優れた人々が出てくるのだ。

資本主義社会にあっては、優れた能力や経験を持つ人は、それを活かして相応の報酬を受け取れる方向に進むのが通常ではないか。しかしこの国にはそれに逆行するかのような人々がいて、底辺付近のコミュニティに行くと、「なんでこんな人がこんなところに」という人々が働いている。

――ブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)

私たちも、 底辺の地べたに立ちたいものです。

 

 

 


解説
私たちも、 底辺の地べたに立ちたいものです。

同感です。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮