獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その28)

2024-05-04 01:53:18 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
■第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第7章 世界平和の実現を目指して――1960年代
■1)第一次中国訪問... 「石橋・周三原則」
□2)「日中米ソ平和同盟」の提唱
□3)第二次中国訪問
□4)ソ連訪問
□5)晩年

 


1)第一次中国訪問... 「石橋・周三原則」

石橋退陣後、岸外相(首相臨時代理)が首相へと昇格して石橋内閣を引き継いだが、岸新首相の外交上の主眼は日中関係よりも日米関係に注がれていた。つまり鳩山・石橋両政権時代に冷却化した日米関係を改善し、日本の対米従属を象徴する日米安保条約の改定に着手することにあった。1957年(昭和32)6月の岸訪米は、実質的な成果を得られなかったとはいえ、終始日米友好ムードに彩られ、日米新時代の到来を内外にアッピールする政治的効果をもたらした。
他方日中関係は、懸案の通商代表部の相互設置問題に加えて、日本で開催予定の中国見本市関係者に関する指紋押捺問題が新しい火種となっていた。そのため、北京で9月から第四次日中民間貿易協定をめぐる交渉が開始されたが、両国の主張は平行し、10月末に中断された。翌58年(同33)2月、交渉が再開されたものの、中国側の強硬姿勢の前に日本側は代表部員の指紋押捺を免除するなど譲歩を余儀なくされ、国旗掲揚権の問題を残したまま、3月、第四次協定が調印された。ところが台湾およびアメリカの反発が表面化すると、4月、岸は蒋介石への返書で、日中貿易協定は中国承認を意味しない、通商代表部に特権を与えない、同代表部の国旗掲揚権を認めない旨を明示するなど、中国に対する姿勢を変化させた。
こうして政経不可分原則の下に国交回復を目標とする中国側と、あくまで政経分離原則の下に日中貿易の拡大を目指す日本側とが乖離する結果となった。この時点で中国政府は「岸政権には期待せず」との評価を定めたといってもよかった。中国側は日本政府の第四次協定に対する回答を拒否すると声明した(前掲『日中関係基本資料集』135~9頁)。以降、5月の長崎国旗事件を契機として日中関係が緊迫化し、両国政府間の応酬ののち、日中関係は断絶状態に陥ったのである。この結果、中国貿易に携わっていた国内の大手ならびに中小企業は大きな打撃を受けた。契約中断額は約400億円といわれた。そのため日中輸出入組合は運営面で支障をきたすほどになった(『朝日新聞』5月11日、6月4日)。

ところで首相を辞任したのちの湛山は療養生活を送り、健康を少しずつ回復していった。しかし58年(同33)5月に実施された第二八回衆議院議員総選挙では自ら前面に出られず、苦戦を強いられたが、5万9000票を得て第三位当選となった。そして同年夏には、選挙区の沼津で快気祝いを兼ねた時局批判演説会ができるまでに湛山は健康を回復した。その際の短い演説に、宇都宮徳馬代議士は電気に打たれたような感動を覚えたという。要するに湛山は、「現在の国際情勢を見ると心配で夜も眠れない。日本国民はいつ戦争の不幸に再び巻き込まれるか分からない。自分は病体を犠牲にしても平和を維持する努力をしたい。若しも世界の平和がそれによって保たれるならば日本は滅んでもよい」と述べた。宇都宮は「(湛山の)訪中はこのような心境に促された必死の行動であった」と回顧している(同「真のステイツマンを失う」『週刊東洋経済』1973年5月19日号、46頁)。それは誇張ともいえない。
当時湛山は日中関係の断絶状態を深く憂慮し、岸内閣の反共姿勢に批判を強めた。鳩山・石橋時代に自ら関与して築き上げた日中関係の基盤が、急速に崩壊していく状況を座視できなかったのである。必然それは岸内閣と対峙する方向へと進んだ。折しも警職法改正問題も加わり、湛山や松村謙三らを中心とする自民党内の反主流派は、反岸の方針で結束を図った(『朝日新聞』12月18日)。また翌59年(同34)4月、「現内閣にこの(東西両陣営の平和や中共貿易問題の)解決を望むのも無理だ。もし岸内閣がだめなら私が出てもいい」と湛山は厳しく批判した(『同』4月6日)。実はこれは湛山が中国訪問を示唆した最初の発言であった。
湛山はかねてから中国を訪問し、行き詰まった日中関係の打開について協議したいとの希望をもっていた。日中貿易関係者の間でも、湛山の訪中により日中貿易再開のきっかけを作りたいとの意向があり、北京在住の西園寺公一らと日中貿易促進会の鈴木一雄専務理事が橋渡し役になり、中国政府の意向を2月頃から打診していた。そして中国側から肯定的な感触を得たのであろう、6月4日、湛山は周恩来首相に書簡を送った。その中でいわゆる「石橋三原則」を提起した。すなわち、(1)日中両国はあたかも一国の如く一致団結し、東洋の平和を護り、併せて世界全体の平和を促進するよう一切の政策を指導すること。(2)両国は右の目的を達するため、経済、政治、文化において、極力国境の障碍を撤去し、交流を自由にすること。その具体的方法については実際に即して両国が協議決定すること。(3)両国がソ連、米国その他と結んでいる従来の関係は、相互に尊重して俄に変更を求めないこと、である。そして末尾に訪中の可否について連絡を待つ旨記していた(「私はなぜ中共を訪れるか」『新報』9月12日号『全集⑭』)。
まもなく廖承志(りょうしょうし)人民外交学会副主席から返書が届き、その中で周首相が湛山の来訪を歓迎する旨伝えられた。続いて周から8月22日付の正式招待状が届けられたのである。周が日本人に正式の招待状を出したのは今回が初めてであったという(同上)。こうして湛山夫妻、加藤常太郎および宇都宮両代議士、高橋亀吉(経済評論家)、鈴木一雄、森川和子(鈴木秘書)、室伏祐厚(湛山秘書)、新聞記者4名の計12名が、9月7日から26日まで20日間、中国を訪問した(大村立三「日中国交と石橋湛山の第一次訪中」108頁)。
湛山は訪中に臨み、次のように言明した。(1)人間の幸せは資本主義とか共産主義とかいうイデオロギーによって左右されてはならず、アジアの両国がイデオロギー面で対立するのは不幸である。(2)アイゼンハワーとフルシチョフの米ソ相互訪問が予定されるなど、緊張緩和の兆しが見られる。(3)日中両国は将来提携する運命にある。したがって経済問題だけ解決すればよいというのではなく、政治と経済を分離できない。(4)とはいえ、目下、日本政府が行なっている安保条約改定交渉に支障を来すようなことは絶対にしない。(5)中国は人民公社などいま建設期にあり、その成否はわからないが、日本は協力することが望ましい(高橋亀吉をあえて同行させたのは中国経済の現状を分析させるためであったと思われる)。(6)日本の現在の姿を中国首脳に説明し、その立場を認めさせ、日中両国の共存が可能かどうかを話し合う(「訪中の心境を語る」『日本経済新聞』8月29日『全集⑭』)。
このような湛山の基本姿勢は、これに先立つ3月、社会党の浅沼稲次郎書記長が訪中時に、「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」と断じ、現下の岸政府による日米安保改定交渉を激しく非難したのとは明らかに一線を画していた。しかし湛山の訪中計画が明らかになると、自民党主流派では「時期尚早」とか「安保改定に水をさす動き」として警戒する見解が生じ、右翼からは「国賊」「アカの手先」といった声すら上った(大原万平「日中復交にかけた石橋さんの夢」43頁)。これに対して社会党は党議をもって湛山の訪中支持を声明した(『朝日新聞』8月28日夕刊)。自民党でも松村、河野、石井総務会長などが湛山を激励した。このような批判と支援が入り混じる中、9月7日夜、湛山一行は3000人以上の見送りを受けながら羽田空港を出発した。そして翌8日早朝、香港空港着後、列車にて広州に入り、中国民航機で9日午後に北京空港に到着した。老齢の湛山には疲労の色が濃かった。
湛山は現地で休養を取ったのち、12、13両日に廖と会談し、次いで16日に国務院で周と第一回会談を行なった。双方の申し合わせにより、約2時間の会談内容は一切発表されなかったが、湛山がまず「石橋三原則」の立場を説明し、そのあと主に周が日中関係の正常化されていない理由を述べ、意見を交換したようであった。会議はなごやかな空気の中で進められ、日中間の懸案をめぐって激しい討論が戦わされるような場面はなかった。中国側は湛山が保守党に属しており、先の浅沼らの社会党訪中団とは立場を異にしている点を考慮して、強いて同調を迫るようなことをせず、湛山の主張に好意的な態度を見せたようであった。会談を終えた湛山は安堵したような表情を見せた(『同』9月17日)。
翌17日、湛山は2時間にわたり周と二回目の会談を行なった。両者の会談は予想以上に順調に進んだものの、18、19両日における共同声明の案文の起草作業(日本側は加藤・鈴木、中国側は廖)が難航した。ようやく妥結したのは20日未明であった(前掲「日中国交と石橋湛山の第一次訪中108~9頁)。同日発表された「石橋・周恩来共同声明」の骨子は次のとおりである。
(1)双方は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきであると認めた。
(2)上述の目的を実現するため、日中両国民は領土主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存の五原則と、バンドン会議の10原則に基づき、両国民の友好の促進に努力し、国民の相互信頼を深め、両国の現存関係を改善し、また一日も早く両国の正常な関係を回復するよう協力すべきである。
(3)周総理はこのため日本が外来の干渉を振り切り、中国敵視政策を排除し、二つの中国をつくる陰謀に参加すべきではないと指摘した。石橋先生はこれに対し良識ある日本人士はかかる思想や行動を容認したことなく、今後も容認しないと表示した。
(4)石橋先生は日中両国の政治、経済、文化の交流と発展は実情に応じて努力すべきものと語った。周総理はこれに同意すると表明し、そして日中両国の政治、経済の関係の発展は必ず結合して行うべきで、分離できないと指摘した。石橋先生もこれに同意を表明した。
(5)石橋先生は以上に関連して、日本の現状と現存の国際関係は満足できない点があり最大の努力を尽くして一日も早く改めるとともに、その実現を逐次促進すべきであると表明した。周総理はこれに対し歓迎の意を表するとともに、日本が一日も早く上述の希望を達成することを望み、中国人民はこの目標の実現のためになされる日本国民の努力を大いに支持し、日本の国民の独立、自由民主、平和と中立の願望に心から同情を寄せるものであると述べた(「石橋・周恩来共同声明」『全集⑭』)。
この共同声明発表に至る過程で難航したのは、塩口喜乙記者によれば、中国側が前年8月に日本側に提示したいわゆる「政治三原則」(①直ちに中国を敵視する言動と行動を停止し、再び繰り返さない、②「二つの中国」を作る陰謀を停止する、③中日両国の正常関係の回復を妨げない)との関連で、岸内閣の中国敵視政策や二つの中国を作る陰謀といった対日批判をいかに緩和するかという問題であった。湛山側が「石橋三原則」に沿って反論したことはいうまでもない。湛山は周との会談後、「まるで岸君とアメリカの弁護に来たようなものだ。皮肉なものだね」と苦笑していたという(前掲『日中戦後関係史』177頁)。結局上記のとおりの表現に落ち着き、日米安保条約にも中ソ同盟条約にも触れず、両者の主張を並記することとなった。ただし日本側が「日本人士」という表現がいかにも日本語になじまないため、最後まで「日本国民」とするよう主張したが、ついに押し切られてしまった(前掲「日中国交と石橋湛山の第一次訪中」111頁)。
他面、むしろ日本国内で論議を呼んだ上記(4)の政経不可分論は、現地ではさほどの問題とはならなかった(塩口喜乙「石橋氏に同行して」『朝日新聞』9月28日)。湛山自身、出発前に「政治と経済とを分離することはできない」と明言していたし、現地でも随行した宇都宮と加藤に、「政治家である自分が北京に来て話している。それはまぎれもなく政治だ。経済はやるが政治はやらない。そんなことを自分の口からいえるかね」と笑って話したという(前掲「日中復交にかけた石橋さんの夢」44頁)。ところが自民党執行部では湛山が中国側の政経不可分論に同調したことを重視し、一時は石橋除名論まで飛び出す有様であった(同上43頁)。しかも同行していた 宇都宮が18日、突如帰国するというハプニングが生じ、日中双方を驚かした。しかし湛山自身は政経不可分論を当然のこととして一人平然としていた(前掲「日中国交と石橋湛山の第一次訪中」111~2ページ)。
実は湛山は周との秘密会談できわめて重要な意見を交換していた。それは湛山の持論である「日中米ソ平和同盟」構想を周に提示し、周から原則的な賛成を得たことと、もう一つは、湛山が中国による台湾の武力解放の不行使を求め、周が同意したことであった(大原万平「私の訪中印象記」42頁)。はたして周が湛山の同盟構想に関してどのような思惑で賛成したかは定かではないが、湛山が訪中の際の最重要課題としたのがこれら二点であったことは想像に難くない。湛山としては「石橋三原則」を共同声明に盛り込むことに成功した上、さらに中国首脳から上記のような言質を引き出したことにより、彼自身の訪中の目標は達成されたと密かに感じていたのではなかろうか。なお湛山は帰国直後、台湾指導者と深い関係をもつ石井光次郎を訪ね、「私は蒋介石を無事中国大陸へ返したい。ついては自分が周恩来を説得するから、君は蒋介石を口説いてくれ」と要請したが、石井は断ったという(湛山の元秘書中島昌彦氏の証言)。この秘話は上記の湛山周秘密会談を裏付けている。
さて湛山一行は、共同声明に署名したのち、劉少奇国家主席との会談を行い、9月26日に帰国した。帰国後、湛山は、(1)台湾問題については、日本が将来中国の国内問題として漸次対中国政策を変えていく、(2)政経不可分を政策とする、(3)中国側が安保改定を自国への軍事体制強化とみなしている以上、新安保条約の年内調印を急ぐのは好ましくない、など大胆な提言を行った(「訪中の成果と日中関係の打開策」『毎日新聞』9月27日『全集⑭』)。そして30日には岸首相に対してこれらを進言した(松尾尊「日中国交回復と石橋湛山」13頁)。
しかし政経分離と中国情勢の静観を基本方針とする岸政権が、このような湛山の提言を呑むはずがなかった。以降、湛山は反岸の姿勢を鮮明にしていく。10月、湛山は日中問題解決のためには岸首相の辞職が良策である旨発言した(『朝日新聞』同月28日)ほか、翌60年(同35)1月、岸が新安保条約調印式のため訪米する際、日中国交正常化のための日米協力をアメリカ大統領に提言するよう求める進言書を大久保留次郎を介して呈した(前掲「日中国交回復と石橋湛山」13頁)。また4月20日付親書では、安保改定への岸の非民主的手法と政治的大混乱の責任を問い、首相辞職を勧告した(中島氏の証言)。さらに5月20日早暁、国会で日米安保条約が強行採決されると、湛山は同志十数名とともに欠席した。6月6日には東久邇、片山両元首相と東京会館で会談し、三人連名で改めて岸の辞職を勧告する文書を作成した(前掲「日中国交回復と石橋湛山」13頁、『朝日新聞』6月8日)。これら湛山の一連の政治行動は、かつて吉田内閣を倒閣へと追い込んだ意気込みを彷彿させる。連日連夜デモ隊が国会周辺を取り巻く中で、23日、日米安保条約が発効したが、岸内閣は政治的混乱の責任を負い、7月15日、ついに総辞職を余儀なくされたのである。

 


解説
私のようにかつて創価学会に籍を置いていた者は、うかつにも日中国交正常化に尽力して最初に道を開いたのは池田大作氏と公明党だと思い込んでいたりします。
でも、実は、戦後すぐに日中国交正常化に尽力して最初に道を開いたのは、石橋湛山だったのですね。

湛山は、訪中し、周恩来と会見までしています。
また、「日中米ソ平和同盟」構想を周に提示し、周から原則的な賛成を得たように、大きな功績があります。
なんだか、池田氏の行動は、湛山の行動をそのままなぞったかのような印象を受けます。
池田氏の恩師である第2代創価学会会長戸田城聖氏は湛山をライバル視(敵視)していましたら、表立って湛山を見習ったとは言えなかったかもしれませんが、池田氏の行動には湛山の影響があったのではないかと、私は推測します。

 

獅子風蓮