獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その74)

2024-09-30 01:40:14 | 創価学会・公明党

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

「先生、これからは頻繁に派閥の重鎮と会っていただかねばなりません。その際に大事なことは……」
「石田君、ポストの件だろう? 君のほうこそ大丈夫かい。手形の乱発は駄目だよ。もし当選したときに収拾がつかなくなるからね」
「そのことです。よく承知していますから。ポストで釣ること、つまり空手形は出さないことを肝に銘じてやっています」
「石田君、それでいいよ。後々、嘘つきにだけはなりたくないからね」
情勢分析も頻繁にやった。
「投票総数はおそらく500票をいくらか超えるほどだろう。このうちで岸が200以上を取るだろう。これは確かだ。問題はその200をどのくらい上回るかということだ。250を超えたらまずい」
「今現在で、石橋先生の支持は甘く読んで170。 石井が120というところかな」
「いい読みだ。岸210、石橋170、石井120。これで決選投票に持ち込める。そうすれば何とかいける」
「しかし、石井派も同じことを考えているはずだ。読みは自分のところに甘くなる。2、3位連合を持ちかければ逆に、石井を、と言ってくるだろう」
「そこが駆け引きじゃあないか。大会の前日までにそこのところを決めておかなければ混乱する」
石田は「大会の前に石橋・石井両派が候補の一本化を図る」という目的で、石井派の池田らに接触した。
12月13日には、秘密会が公然化した。午前11時半、東京会館で正式な一本化会議が開かれた。その結果、申し合わせが成立した。

一、現状では両候補の一本化こそ最善の道であるから、この実現のために徹夜をしても努力する。
一、両候補を支持している者は14日朝、一カ所に集合し対応を協議する。

だが、湛山は両派幹部に一任したものの、石井は申し合わせに難色を示した。そのために、協議は場所を紀尾井町の料亭「福田家」に移して続けられた。夜半まで続いた話し合いは、石井派の池田が、最後まで「石井で一本化」に執着したためであった。
「石田君、俺は最後まで石井で一本化を主張するよ。そうすれば土壇場までうちの派閥は切り崩されずに一枚岩でいられる。これが2、3位連合への最大の布石だ」
会議の直前に石田は池田からそう告げられていた。石田はこの会議そのものには出席していない。岸派も、この協議を警戒していた。一本化が成立したら、すぐさま一本釣りで切り崩そうと、結果待ちの状態でいたが、やがて「一本化ならず。両派引き上げ」の報に岸陣営の空気が緩んだ。
石田は新聞記者たちを別室に集めて「協議物分れ」の裏などを解説した。その間に、池田と三木だけが残って、2、3位連合の話を秘密裏に成立させたのであった。
14日早朝、午前8時半、石橋・石井両派は東京会館の合同懇親会に出席せよ」という電話が両派の議員全員の寝耳を襲った。
合同懇親会に集まった両派は260人を超えた。
石田と池田は目で合図して軽く頷き合った。
湛山は前夜、新橋第一ホテルに泊まり込み、この朝早くホテル内の理容室で散髪をし、東京会館に現われた。両派を代表して石井派の小沢佐重喜が、2、3位連合を宣言した。
「決選投票になった場合は、石橋、石井いずれであっても上位の者を全力で支援する」
拍手と鬨の声が東京会館の中に響き渡った。

 


解説

「石田君、俺は最後まで石井で一本化を主張するよ。そうすれば土壇場までうちの派閥は切り崩されずに一枚岩でいられる。これが2、3位連合への最大の布石だ」

湛山が総裁選挙で勝てた秘訣は「2、3位連合」の秘策にあったのですね。

先日行われた自民党の総裁選挙では、「2、3位連合」の密約はあったのでしょうか。混沌とした選挙だったので、たぶんなかったのでしょう。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その73)

2024-09-29 01:01:40 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

「党大会の日程が決まった。12月14日だ」
石田からの報告に、何人かが呼応した。
「ほうっ。討ち入りじゃあないか」
「だが、47士じゃあ選挙には勝てない。その5倍は欲しい」
「それだけあれば大丈夫だ」
「いいかい、以下は俺の読みだ。岸支持は、岸派のほかには河野派、吉田派の佐藤系。これは実の弟だから当たり前だ。それから旧改進党系の大麻派」
「3個師団、1連隊だな」
「だが、 どの師団も規模はでかい」
「で、石井派は?」
「石井派のほかは吉田派の池田系だけだ」
「じゃあ、うちが師団の数は一番多いじゃあないか?」
「ところが、大野伴睦先生のところが分からない」
石田は、嘘をついた。大野派には最後まで中立でいてほしかった。あまり石橋派が多くなると、切り崩される可能性と、岸派が死に物狂いになってくる恐れがあった。それよりは、石橋派はやはり苦しいと思わせたほうが、石田の仕事はやりやすかったのである。
「岸派に優越感を与えておくのが一番だ」
「しかし、岸派有利と見て雪崩現象が起きないか?」
「その心配はよく分かるが、実際に石橋先生は二番手だ。いいかい島村さん、俺の狙いは2、3位連合だ。第一回投票で岸を過半数にさせない。ただし、石橋先生は2位でなければ困る。3位の石井グループを抱き込んで、最後に勝つ。これしか勝利の法則はないんだよ、俺たちには」
石田は、島村たち本当の側近だけになると手の内を曝した。しかし、それでも最後の切り札に抱いている「池田勇人」の札だけは、誰にも見せなかった。
もっとも派閥とはいえ、現在の自民党の派閥ほど拘束力はなかった。この頃の派閥は、いわば「仲よしクラブ」に毛の生えた程度のものであった。
総裁公選の日取りが決まると、石橋派は日比谷の日活国際会館9階に選挙対策本部を構えた。岸派は永田町のグランドホテルに、石井派は赤坂の石井事務所を本部に充てた。
石田は「参院と地方代議員対策」をうるさく言った。
「いいか。党大会直前に上京する地方代議員を上野や東京駅で待ち構えて、そのまま一本釣りするんだぞ。やり方? そのまま用意した旅館かホテルに案内して歓待する。そのまま缶詰にするということだ」
それぞれが手分けしてこうした役目を担った。

(つづく)


解説

「俺の狙いは2、3位連合だ。第一回投票で岸を過半数にさせない。ただし、石橋先生は2位でなければ困る。3位の石井グループを抱き込んで、最後に勝つ。これしか勝利の法則はないんだよ、俺たちには」

勝負師・石田の作戦は成功するでしょうか。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その72)

2024-09-28 01:34:04 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

10月19日、鳩山の念願だった「日ソ共同宣言」が調印の運びになった。ソ連を訪問した鳩山は、日ソの戦争状態の終結と国交の回復を決定したのだった。これが鳩山引退の花道になった。後は、3人の総裁候補が、いつ立候補を明らかにするか、多数派工作をどうするか、それだけであった。それまで水面下で動いてきた多数派工作が一挙に表面化した。
最初に公式の席上で立候補を表明したのは、湛山であった。11月9日、大阪での関西経済倶楽部創立20周年記念パーティに出席しての表明であった。
これを受けて、翌日には岸、石井が立候補を表明し、河野はいち早く岸支持を明確にした。
「石田君、選挙の作戦は君に任せる。資金は宮川三郎君に頼んである。いつも金のことになると、宮川君頼みだ。経済の石橋も金になると付き合いが狭いなあ」
「宮川会長といえば、バカヤロー解散の選挙でも我々はかなりお世話になりました。宮川会長は雑司ヶ谷のご自宅を借金のカタに入れ、ご自分の退職金まで前借りして分党派自由党の資金作りに……。今回も、申し訳ないことです」
石田が目をしばたたかせた。宮川は、湛山が東洋経済新報社を辞めた後、社を背負っていた。東洋経済新報社では湛山の一番の側近であった。
そうはいっても湛山は「電力の鬼」と呼ばれた電力界の重鎮である松永安左ヱ門と菅礼之助の二人に会って、今回の立候補に対して「財界の理解と援助」を依頼した。これだけが湛山の「選挙運動」であった。湛山の支持者のなかには、他の二候補に比べて湛山の動きが鈍いのではないか、という声もあった。だが石田は、
「先生は自分が立候補することが日本のためにいいのだと思っての出馬だ。正しいと信じたからこそ立候補したんだ。もちろん立ったからには勝ちたいさ。しかし勝敗は問わない。敗れれば喜んで当選した人に協力するよ。そういう人だよ、石橋湛山という人物は。だが、僕は違う。勝たなければ意味はないと思っているんだ。全力を尽くすよ」
そう、湛山の人柄を代弁した。そのとおりであった。湛山は「無私・公平」であった。

(つづく)


解説

自民党最初の総裁選挙からも目が離せません。


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その71)

2024-09-27 01:31:14 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

「敵は岸だ。石橋先生が目指すのは2位でいい」
岸の優勢は誰の目にも見えていた。湛山はそんな岸との出会いを回想した。
「私が初めて岸君と話したのは、保守合同の話が出ていた29年の3月だったな。彼は戦前、右翼の学生団体・七生会の指導者だった。もっとも官僚時代の終戦直前に国務相就任を拒んで、東条内閣辞任のきっかけを作った人だがね。A級戦犯でよく起訴を免れたものだ。運がいいんだね。私と保守合同を相談した初対面の頃にはまだ、自由党内では全くの傍流だったんだが、今では立派な総裁候補だもの。実力もさることながら、やっぱり運がいいんだねえ」
岸は湛山よりもひと回り年下であった。
石田の石橋派の結成は着々と進んでいた。
石田、島村のほか、佐藤虎次郎、佐々木秀世、辻政信らが石橋派の中核だったが、夏頃までに、鳩山派内部で河野一郎と反りの合わない大久保留次郎、加藤常太郎、世耕弘一、山本勝市、花村四郎などのグループが参加して20人内外の石橋派が出来上がった。
そんな折り、旧改進党から三木武夫がグループを率いて「石橋さんを応援したい」と申し出た。石田と三木は戦前から交流があった。三木が初めて衆議院に立候補した時には、当時学生だった石田は、三木の応援のために徳島まで行ったほどである。
そのうえ三木が師匠と慕った松村謙三は、湛山より一歳年長だが、早稲田の同窓であった関係から仲はよかった。
「三木君、ありがとう。これでやっと光が見えた。勝てる自信がついたよ」
石田は、三木の友情に感謝した。 三木は、
「友情とこれは別だよ。我々は石橋先生が、今の日本の指導者として最適な人だと判断したんだ。あくまでも冷徹な分析と期待の結果だよ。我々は官僚上がりの政治家が嫌いなんだ。党人による政党政治こそが理想さ」
そう言いながら、石田の手を固く握った。
三木は、松村周太郎、宇田耕一、早川崇、井出一太郎、河本敏夫、赤沢正道、志賀健次郎らを率いていた。他に旧改進党からは、北沢徳太郎派の川崎秀二、桜内義雄、中曽根康弘、園田直、稲葉修、白浜仁吉らが石橋支持を明確にした。
同じ頃、旧自由党系から石井光次郎が出馬の意向を固めたという情報も入ってきた。
「石田君、大野伴睦先生が、君でいく、と言ってきてくれた。ありがたく承っておいたよ。問題は、大野先生は大の三木嫌いなんだ。そのあたりをどうするか……」
「呉越同舟ですね。犬猿の仲、と言ってもいい二人……。気を遣いますが、この二個師団がなければ戦ができませんからねぇ」
石田は、腕組みをして考えをまとめようとした。
「とにかく大野先生には、直前まで誰の支持とも明言しないようにお願いしておきます。そのほうがいいんです。まあ、一個師団は隠し球というわけですよ」

(つづく)


解説

決選投票を勝負の場と考えての多数派工作。

令和の時代の自民党総裁選に通じるものがありますね。

 

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その70)

2024-09-26 01:27:17 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

石田は精力的に行動を開始した。
「石橋先生、今の自民党は、7個師団・3連隊からなっているんです」
「石田君、面白いことを言うねえ。それは一体どういう根拠なの?」
「派閥です。まだはっきりしないものもありますが、これからの作戦に必要なので一応分類したわけです。まず」
石田は、20人以上の集団を「師団」、それ以下の10人程度のグループを「連隊」と呼んだ。
「旧民主党では、鳩山系の石橋派、河野一郎派、岸信介派、旧改進党系の松村謙三・三木武夫派、旧自由党では、石井光次郎派(旧緒方派)、大野伴睦派、吉田派(池田系・佐藤系に分かれるが)が師団です。旧改進党系の芦田均派、北村徳太郎派、大麻唯男派が連隊ということになります」
石田はさらに続けた。
「先生、私はこの中で4個師団の連合が出来れば、ポスト鳩山は成功という見方をしているんですよ。つまり、この7個師団・3連隊は合従連衡の目安ですよ」
「君は本当に面白い分析をするんだねえ。だが、残念ながら石橋派なんてものはないじゃあないか。……ま、そうした問題はすべて石田君に任せるよ」
湛山は石田の言葉を楽しむように言って、後のことを石田に託した。湛山の言うように確かにこの時点で、石橋派は石田のほか湛山が吉田内閣で蔵相をやった時に秘書官だった島村一郎など数人にすぎなかった。
「しかし先生、きちっとした石橋派を結成させてみせますよ。大丈夫です。それで4個師団を目指します。なあに、総裁公選に持ち込めれば何とかしてみせます。先生は、とにかく長老たちに総裁公選を主張してください。なかには、鳩山さんにポスト鳩山を指名させるような動きも出てくるでしょうから」
石田の頭には、自民党を結成した時に起草した規約の内容があった。それを最大限に利用しようというのである。
それは、参院議員はもちろん、各都道府県2名ずつの地方代議員にも総裁公選の1票を与えることと、第一回目の投票で1位候補が過半数の支持を得られなかった場合の、上位1、2位による決選投票であった。
「勝負師」。それが石田の党内での渾名であった。勝負の目を読む鋭さは党内一であった。その意味では誰もが石田を恐れ、一目置いた。
石田の戦術の組立ては実に緻密であった。頭の中には、この春のあるパーティで会った時に「チャンス到来だな。自重してやれよ」と握手しながら耳元で囁いた池田勇人の言葉があった。その目は鋭くて、いざという時には協力するぞ、と語っていた。その池田の存在も石田には大きなものがあった。

(つづく)


解説

自民党始まって最初の総裁選挙。

「勝負師」石田の活躍がすごいです。


獅子風蓮