獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その27)ドイツ人捕虜たちがベートーベン第九を演奏

2024-07-10 01:07:07 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt48 - 第九 初演100周年

12月24日 投稿
友岡雅弥


福島県というと、日本有数の音楽どころです。合唱やオーケストラは、全日本コンクールの優勝常連校が複数あります。

高校野球の入場マーチ「栄冠は君に輝く」、東京オリンピックの入場行進曲、阪神タイガースの「六甲おろし」、読売巨人軍の「闘魂こめて」、映画「君の名は」のテーマソング、また「モスラの歌」などで有名な古関裕而さんは、福島市の出身。太平洋戦争中は、たくさんの軍歌を作ったので、残念といえば、残念ですが、戦後は「長崎の鐘」や戦争孤児の施設をとりあげた「とんがり帽子」「ひめゆりの塔」などの曲もあります。

福島駅東口には、古関裕而さんがハモンドオルガン弾いてるモニュメントがあります。

また、郡山市は「楽都」、「日本のウィーン」と呼ばれています。もともとは、戦後の復興期に土木事業を盛んに行われ、復興のどさくさで、悪徳手配師などが東京から流入(これは、今の原発除染事業も変わらないところです。福島の問題ではなく、日本社会の問題です)。荒廃した雰囲気が漂いました。

そこで、郡山市民は「10万人のコーラス運動」を立ち上げ、さらにそれが実現したので「20万人のコーラス運動」をおこしたのです。
ちなみに、日本初のロックフェスティバルも郡山なんですよ。オノ・ヨーコが来ました。

私も支援させていただいている相馬子どもオーケストラは、日本で唯一の「エルシステマ」による活動です。「エルシステマ」は、ベネズエラのストリートチルドレン、 スラムの子どもたちを支援する活動で、今や世界に広がり、世界ナンバーワンの若手指揮者グスタホ・ドゥダメルもこの運動の出身です。


エルシステマについては
http://www.elsistemajapan.org/worldwide


東日本大震災、原発事故の復興の一つの象徴として、エルシステマが選ばれ、オーケストラが選ばれたのは、福島らしです。もともと小学校、中学校の多くに、吹奏楽だけでなく、管弦楽オーケストラがあったのが、地元福島の強みでした。

さて、9月23日、ベートーベンの第九交響曲アジア初演100周年のコンサートが会津若松の歴史あるコンサートホール「會津風雅堂」で開かれます。

なぜ、アジア初演(ということは、当然、日本初演)100年コンサートが、福島の会津若松で開催されるかです。

実は、その前日、9月22日、会津若松に「松江豊寿(とよひさ)記念碑」が建ちます。この松江豊寿さんが、日本で(アジアで)最初の第九演奏と関係あるのです。

豊寿さんは、1872年(明治5年)に会津若松で生まれました。
ご存知のように、会津藩を初めとする東北諸藩は、戊辰戦争で「朝敵(天皇の敵)」として、政府軍から攻められ、悲劇的、屈辱的なあつかいを受けました。ほとんどの藩士は、自宅軟禁状態で、さらに青森の北の端に移住させられ、飢餓で多くの死者をだしたりしたのです。

豊寿さんの父親は、会津藩士でしたが、警察官になっているので、おそらく斗南藩移住はなかったのでしょう。しかし、少年時代の記憶に、「朝敵」として差別されたことは、深く刻まれていたと思います。

武士の家に生まれたので、農業や商業の経験は家としてはなく、巡査や兵隊以外の仕事は難しい。そして明治となり、徴兵令により国民に兵役の義務が生じて行く時代です。ある意味、兵隊になれば、差別もそんなにないとは言えます。

豊寿さんは、幼年学校から士官学校へと進み、日清・日露戦争に従軍し、陸軍中佐となります。

第一次世界大戦で、ドイツが負け、中国にいたドイツ人たちは捕虜として日本の収容所に収容されることとなりました。

約千名のドイツ人が、徳島にあった板東俘虜収容所に収容されました。そして、豊寿さんはここの所長となったのです。

この収容所は、豊寿さんの意向が色濃く反映したものでした。運動場のほか、ドイツでの生活を続けられるようにと、農園、牧場、ビール醸造所、パン屋さんまであったのです。

これだけではありません。近隣住民との交流も盛んに行い、入所者が作ったパンや手工業製品が販売されたり、入所者が近隣住民に、ドイツの文化を教えたりしました。

これが当時の日本でどれほど開明的であったかは、いうまでもないでしょう。日本に来たのだから、日本の文化を学べではなく、ドイツから来た人達にドイツの文化を教えてもらおう、という態度です。

オーケストラもありました。

そして、1918年6月1日。
ドイツ人捕虜たちが、ベートーベンの第九を演奏しました。これが、100年前のアジア初演なのです。

収容所の跡地は、ドイツ村公園となっています。

残念ながら、捕虜への人道的な扱いは、それ以降の日本軍には継承されませんでした。

このような画期的な、取り組をしたのが、「朝敵」として差別された会津出身者であったということは、こころに刻んでおいたほうが、いいのではないか、と思ったりします。

 

 

 


解説
この収容所は、豊寿さんの意向が色濃く反映したものでした。運動場のほか、ドイツでの生活を続けられるようにと、農園、牧場、ビール醸造所、パン屋さんまであったのです。
これだけではありません。近隣住民との交流も盛んに行い、入所者が作ったパンや手工業製品が販売されたり、入所者が近隣住民に、ドイツの文化を教えたりしました。
これが当時の日本でどれほど開明的であったかは、いうまでもないでしょう。日本に来たのだから、日本の文化を学べではなく、ドイツから来た人達にドイツの文化を教えてもらおう、という態度です。

いい話ですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その26)ペイフォワードの文化を根付かせたい

2024-07-09 01:26:07 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


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「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt45 -「恩」は返さずに

2018年11月19日 投稿
友岡雅弥


壊滅的な津波被害を受けた釜石の鵜住居、そして大槌町に向かうために、花巻空港に到着した時のことです。エンブラエルの小型リージョナル機なので、数十人の乗客です。

なんだか、みたことのある人が先にいるぞ、と思ってたら、向こうでも、ちらちら、後ろの僕を見ている。

「渥美さんですよね?」
「友岡さん?」

日本災害救援ボランティアネットワーク理事長の渥美公秀さんでした。

何度か、同じ飛行機に乗り合わせたり、野田村などの被災地で、すれ違ったりしていて、直接、話はしないまでも、なんとなく、知りあいだったのです。

渥美さんは、レンタカーで野田村に行かれる途中で、僕はバスとJR在来線を乗り継いで、釜石に行くところだったので、短時間でお別れしました。

渥美さんは、阪神淡路大震災の時から、ボランティア団体を立ち上げられ、国内だけでなく、海外の災害にも、支援に奔走されています。

別の折に、少しじっくり話す機会がありました。

「ほんとうの復興は、いつなのか?」ということについて話しあってたのですが、渥美さんから、とても示唆的な話をおうかがいすることができました。

「阪神淡路大震災の、多くの被災者が語っていたのは、

中越地震、中越沖地震、東日本大震災のボランティアに行ってはじめて、自分が『復興した』という気持ちになった。

阪神淡路大震災のとき全国の人たちから受けた恩返しが、これで出来た。今までそれが正直、重荷だった」

「復興」というのは、被災したかたが、何らかの形で、他者に対して、支援ができるようになったときを言う。

この考えは、とても示唆的でした。

そして、渥美さんは、この考えを「恩返し」ではなく、「恩送り」と言ってました。

初期仏典には、「恩」という言葉に対応する原語がありません。

つまり、もともと仏教には、知恩、報恩という概念がなかった。

後の時代、中国や日本で作られた仏典、また中国で訳された仏典の訳には、それがバンバンでてきます。

あえていうと、upakāra、 prarikāraということばがそれに当たるのですが、これは「他人を助けること」です。

バラモン教では、シヴァやヴィシュヌなどの、超越的な神に祈願し、その返礼として、いけにえや財宝を捧げたのですが。

初期仏教では施(ほどこ)し、つまり貧者や困窮者に食べ物などの支援をすることだけが、唱えられていました。

これは、社会的にいうとこうなります。

最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。

悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴータマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。

その考え方は、今現在の社会で、身体的なハンディを持っていたり、経済的なハンディを持っていたりすることを、過去の因によるとして、固定してしまうからです。

でも、この考え方は、ごく一面、浅い意味ですが、いい部分もあります。
なぜならば、来世に悪いところに生まれないために、今、悪いことをしないでおこう、というように、犯罪の予防、社会の安定につながるからです。

でも、それは、いつも自分の所業を監視する、自己監視型の、ミシェル・フーコーのいうような社会を作ってしまうことは目に見えています。

事実、江戸時代中期、京都石清水正法寺の大我は、徳川幕府体制の御用僧侶だったのですが、このような言葉を残しています。

「一たび仏法を聞きて因果を信ずる者は、深淵に臨みて薄氷を踏むがごとく、戦戦兢兢(=戦々恐々)として敢えて心を放(ほしいまま)にせず。……万民(悪業の)来報を恐れて、君を戴くこと日月の如くす」(三彝〈い〉訓)

仏法の因果論を聴いた人たちは、悪業を犯さないように犯さないように、びくびく生きて、徳川幕府様を日月のように尊敬する、というのです。

結局、このように「因果」への恐怖から作られる社会は、安定しているように見えて、監視型社会なわけです。

他人から強制されるのでもなく、また因果を恐れるのでもなく、自らを律して行く、そして、それを社会に及ぼして行く。

まさに、そのために「困っている人を支えること」「まず与えること」を、初期仏教は唱えた訳です。

輪廻・業思想を排除した仏教は、倫理的な個の自立を考えたわけです。

それで、バラモン的な超越的存在への供養ではなく、他者への贈与。

それによって、個人も、社会も混乱を静めることができると考えた訳です。

自立(自律)した人たちが支え合う社会――これは、社会の根本に「恐れ」ではなく、「信頼」が醸成されていくでしょう。

まさに「恩送り」の考え方は、それです。

企業の「社会的責任」の文脈で使われる「ペイフォワード」も同様の意味でしょう。
「ペイフォワード」の反対語は「ペイバック」です。

恩返しが「ペイバック」ではなく、「恩送り」が、「ペイフォワード」に当たるでしょう。


あるアメリカのIT企業の社長が来日して驚いたのは、重い荷物をもって困っている人に「お手伝いしましょうか?」と言ったら、断られた。何か別の目的があるのではないか、と思われたようなのです。

アメリカでは、子どものころから普通にボランティアをするので、世の中には、普通に困っている人がいて、そして「上から」ではなく、同じ立場で、お互いさまだからと支えることを、子どものころから、体で覚えている。

そして、大人になって、なんらかの社会的成功を得たならば、それを困っている人に、普通の行為として、ペイフォワードする。

こういうことが、 自然に身に付いている人が多い。
――というのです。


ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目ざした社会のために、少しでも、恩送りができたらなぁと、思っています。

 

 

 


解説
最初期仏教は、バラモン教の「因果応報論」を否定しました。
悪いことをすれば、死んで後、悪所に行く。
この考えは、ゴータマ・ブッダの没後、数百年後には、仏教の中に混入してきますが、ゴータマ・ブッダは、それを否定しました。

ここは、私のこれまでの仏教理解と異なるので、違和感があります。
今後、勉強していきたいと思います。


ペイフォワードの文化が根付いた社会、また、ブッダが目ざした社会のために、少しでも、恩送りができたらなぁと、思っています。

ここは私も賛成します。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その25)神風特攻隊の悲惨さを伝えた三原佐知子さん

2024-07-08 01:38:12 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt44 - 「永遠の0」と同じ題材やけど

2018年11月12日 投稿
友岡雅弥

三原佐知子さんという、日本を代表する浪曲師さんに親しくして頂いています。

民謡もうまく、また節回し、セリフともにとても上手な浪曲師さんです。

ヒロシマの悲劇を題材にした「はばたけ千羽鶴」は、なんどもテレビや新聞で採り上げられています。

僕は、さっちゃん姉さん(三原佐知子のことをこう呼んでいます)のスタンスってとっても大事だと思うんです。
これは、みならわなくっちゃと思ったことがあるんです。

さっちゃん姉さんの「予科練哀歌 まぼろしの父」は、出だしは、特攻機が、はるか大空を飛んでいくある意味勇壮なシーンから始まります。

数年前、某寄席でこの外題を聴いた時、客席に「右寄り」どころか「もろ右」の人がたくさんいました。

突然立ち上がって、中国や韓・朝鮮半島を批判する演説をする人もいました。

ちょっと、変な雰囲気だった。いや、露骨に変でした。いやな感じです。

「予科練哀歌 まぼろしの父」の出だしが始まります。

青空を飛んで行く特攻機。

その人たちは、感に堪えない雰囲気で、座りながらだけど、直立の姿勢で聴いていました。

空を飛んでいく特攻機の描写が終ったら、啖呵(せりふ)が入るんです。

「お母さん、僕には何故、お父さんがいないのですか」

「父無し子(ててなしご)」 と、周囲からいじめられ、成人した青年が母に問うシーンが突然始まります。


やがて、父を探して家を出た青年が、

父は橘二郎といい、
予科練性から神風特攻隊隊員となり、
戦死したことを知るのです。

そこで描かれるのは、「銃後の悲惨」。

「君を守るために死んでいく」の「君」は、妻子ではなく、「大君(天皇)」だった。

なんと、先ほどの、「もろ右」さんたちが泣いています。


そして、最後、さっちゃん姉さんは、扇子を広げながら、一声。

「今私たちの願いは世界の平和」!

「もろ右」さんたちは、感極まって、「その通り、平和が一番!」「そうや!」「戦争あかん!」と。

そして、泣いているんです。

「神風特攻隊の物語」を演じて、「神風特攻隊の悲惨さ」を、本当に伝え切ったその芸のふところの深さ。

その後の、僕の考えを大きく変えた瞬間でした。

ある意味、大人気になった「永遠の0」と同じ題材です。

しかし、特攻を美化するのではなく、特攻を美化している人たちの心をも、「特攻の悲惨さ、悲しさ」へと向けていく。

「永遠の0」とは、正反対の方向に。

声だかに戦争反対を叫ぶのではなく、戦争のリアリティを、共感をともなって相手の心に、ぽっと置く力量を持ちたいなぁと、深く思えました。

 

 


解説
声だかに戦争反対を叫ぶのではなく、戦争のリアリティを、共感をともなって相手の心に、ぽっと置く力量を持ちたいなぁと、深く思えました。

なるほどなあと思いました。
私も、意見の違う相手に伝わる文章が書けるような、力量を持ちたいと思います。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その24)底辺の地べたに立ちたい

2024-07-07 01:55:58 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt43 - キレイになっていく街の陰で

2018年11月5日 投稿
友岡雅弥

福島の飯舘村・浪江町に行った帰りに、久しぶりに横浜の寿町と、東京の山谷に寄ってきました。
寿町、山谷は、大阪の釜ヶ崎と並んで、日本三大寄せ場(日雇い労働者の求人・求職の場所)、日本三大ドヤ街(日雇い労働者のための日払いの安宿)と呼ばれていましたが、規模が、釜ヶ崎に比べて、何分の一とかの大きさ(それだけ、釜ヶ崎が突出して大きい)なので、釜ヶ崎より、先に、「日雇い労働者の町」から、「一人暮らし高齢者の住む福祉の町」に変わっていました。

ところが、それが、さらに変わっていきつつあるのです。

つまり、今までその地域に住んでいないような人向け、一般向けのマンション建設が進んでいるのです。外国人観光客向けのホテルの新築も。

今までのドヤを改装した、外国バックパッカー向けの安宿への変化は、10年ほど前から、釜ヶ崎、寿町、山谷ともにありました。

しかし、ほんとにこの二、三年、安宿ではなく、今までのドヤを壊して、デザイナーズ・みたいなのが立ち並ぶようになってきたのです。

ただし、生活保護の家賃扶助を利用するドヤの業態転換した形のアパート(ドヤは宿泊施設、アパートは通常の住宅なので、法律や安全基準が違うのです。だからいろいろの書類を出したり、基準に合う安全設備を換えたりします) は、……

ある意味、安定した収入があるので、ドヤのオーナーさんは、なかなかそのドヤを手放しません。

そこで、釜ヶ崎では、なぜか、火事になったドヤが、次々と新しい、デザイナーズホテルとか、デザイナーズマンションや、デザイナーズマンションと見紛う高齢者施設へと転換していってます。

それから、将来の転用を考えて、カラオケ居酒屋が次々と、ほんとに「雨後のタケノコ」のように出来てます。人件費を抑制するために、接客するのは、中国人女性、店舗開店費用を抑制するために、みんな同じつくり。看板も、微妙に名前が違うだけ。

こうして、朝早く(4時半とか5時です)から、仕事にいくため、世間の先入観とはまったく逆に、仕事から帰ってきて、お風呂に入って、晩ご飯とともに、ほんの一杯のお酒だけしか飲まない、とても「健康的」だった釜ヶ崎が、カラオケ居酒屋が林立する、「世間の先入観に合わせた」町へと変貌してきたのが、この二、三年でした。

釜ヶ崎の広さは、0.6平方km。こんな狭いところにJR、私鉄の駅が11コもあります。

だから、ここは、維新の会の府政、市政となってから、黒い服を着たサラリーマンさんたちが、うろうろとうろつき、土地を物色する町に、ここ数年でなってしまいました。

小学校は全部無くなり、その一つの運動場には、マンションが建設中です。

――というように、この数年の釜ヶ崎の変化を目撃してきたわけですが、今回、三、四年ぶりに寿町、山谷に行って、まったく同じことが進行しているのに驚きました。

外国人観光客向けの施設としてのドヤの「活用(?)」は、ピークを迎え、ここを「普通の人」が住む「普通の町」へと変えて行こうという、「圧力」があるのをひしひしと感じました。

なんと、寿町では、日雇い労働者の仕事のマッチングと、医療、保健、保険などの支援を行っていた行政の「労働センター」が取り壊され!

一応、新しい、クールな「労働センター」が建つみたいです。

釜ヶ崎でもそうです。あの威容を誇る、巨大な「労働センター」まもなく取り壊されます。

市側は、いや、新しい労働センターが、また建つから、と言うのですが、だいぶ大きさは狭くなりそうです。

巨大なコンクリートの塊である、今の労働センターが取り壊され、新しい労働センターができるまでには、何年もかかります。その間は、「狭いけど、南海線の高架下に仮設の労働センターを作るから」と、行政は言ってるのですが、東日本大震災と同じく、高齢者に、この「数年の仮設」はキツイです。

寿では、実際、手厚い支援で有名だった寿学童保育に通っていた子どもたちは、みんな寿にいることができなくなり、「寿っ子」は、ほぼいなくなりました。

よく考えると、釜ヶ崎は、成り立ちからそうでした。

もとは100年ほど前、当時、東京よりも人口が多かった大阪の南端にあった、「長町」という巨大スラムが、大阪の市域の拡大により、住民の強制的立ち退きがあり、そして、まだ大阪市域ではなかった、今の釜ヶ崎の地に、長町スラムの住民が掘っ立て小屋を建てたり、木賃宿に住みつくことになったんです。

この長町スラムの立ち退きは「直接的立ち退き」と言われるものです。

でも、今、釜ヶ崎、寿町、山谷で進行しているのは、「間接的立ち退き」もしくは、 「排他的立ち退き(exclusive eviction) 」と言われているものです。

「排他的立ち退き」の本質は、exclusive ということばに象徴されます。「差別的」 と訳してもいいでしょう。

exclusiveの反対は、inclusive包容的、包摂的、他を排除しない、という意味です。

安い公営住宅が民営化し、家賃が高くなる。家賃を払えない人が、「自然と」出て行かざるをえない。そうすると、仲間がいなくなり、コミュニティが壊され、人は孤独な存在となる。精神的な孤独を味わうようになる。


そこに、おしゃれなカフェとか、 デザイナーズ・ホテルができる。

一部に、閑静な住宅地ができる。

どんな気持ちになりますか?

孤独感、疎外感は、ますます深まるでしょう。


「いや、強制はしてない。あいつらは、自分の意志ででていったんだ」
と、表面を見ただけの人は言うでしょう。

出て行かざるを得ない、こころの孤独、疎外感を感じないのです。

そんな世知辛い社会は、いやですね。

都市計画学者のStacey Sutton(ステイシー・サットン)は、
EDxNewYork2014で、こう語りかけました。

「(ジェントリフィケーションは)自然な変化ではないのです」

「規制などを活用することも出来ますが、大切なのは私たちが何に価値を置き、誰を尊重し、どのように行動したいかです」

また、ブレイディ・みかこさんも、こう言ってます。

かつてわたしが「底辺託児所」と呼んでいたアニーの託児所は、実は底辺どころか大変にハイレベルな幼児教育施設だったのである。

これは英国という国の底力である。ここには底辺を底辺として放置させてはいけないと立ち上がる人が必ずいる。地べたで何かをしようとする優れた人々が出てくるのだ。

資本主義社会にあっては、優れた能力や経験を持つ人は、それを活かして相応の報酬を受け取れる方向に進むのが通常ではないか。しかしこの国にはそれに逆行するかのような人々がいて、底辺付近のコミュニティに行くと、「なんでこんな人がこんなところに」という人々が働いている。

――ブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)

私たちも、 底辺の地べたに立ちたいものです。

 

 

 


解説
私たちも、 底辺の地べたに立ちたいものです。

同感です。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その23)農村・漁村の多様性を保つということ

2024-06-12 01:05:04 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt42 - 農村・漁村の多様性

2018年10月29日 投稿
友岡雅弥

三瓶明雄さんを覚えていらっしゃいますか?テレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』で、福島県浪江町に作られた「福島DASH!!村」の農業指導をされていたかたです。

浪江町は、原発建設を拒否した町です。農業や漁業、そして「大堀相馬焼」という有名な焼き物などで、国からの原発補助金を受けとらずに、町の行政を維持してきました。

しかし、原発事故のとき、折りから吹いていた、南東の強風にのって、高線量の放射性物質は、原発の北西にあった、浪江町(の山間部)を襲ったのです。

「福島DASH!!村」は、まさに、そこにありました。6月に近づけるぎりぎりのところまでいってきました。今は、立ち入れない「帰還困難区域」となっています。

三瓶明雄さんは、白血病で帰らぬ人となりました。

あの番組を見た人は、驚いたと思います。
明雄さんは、米も作る、果物も作る、野菜も作る、ヤギも飼う、そのうえ、炭も焼く。炭焼き窯も作る。井戸を掘る、ちょっとした建物は自分で建てる。稲藁で、生活用具を作る。味噌も作る。

同じ番組で、「DASH!!島」という、無人島を開拓する企画があるのですが、ごらんになったかたはお分かりのように、TOKIOのメンバーが開拓する、そのほとんどの知識(食べていい植物や果実やキノコ。その調理法、病害虫から作物を守るための「自然農薬」の作り方、地下に水があるかを調べる方法、などなど)は、「福島DASH!!村」で、明雄さんから教わったものです。

番組で「スーパー農家さん」として紹介される三瓶さんは、どうして「スーパー」なのでしょう。
それには理由があります。

明雄さんは、開拓農家さんなのです。
開拓農家というのは、戦前・戦中、貧しい農家の次男さん、三男さんが、満州など外地開拓のために移住し、そして、敗戦とともに、命がけで帰国。でも、日本にはもう耕す場所はない。それで、国内の未耕作地に送られたのです。

自分たちで掘っ立て小屋を建てて、山林を耕し、農地にするのです。医者もいません。役場もありません。なんと、開拓農家さんたちは、営林署の所轄なのです。

後に、病死する人がおおかったので、医師ではなく、保健婦(当時の言葉)さんがその任に当たることになったのですが、その保健婦さんたちも、厚生省(当時、現・厚労省)や自治体の管轄ではなく、営林署の管轄だったんです。

何年も何年も木を切り倒し、切り株をぬき、畑地や田にするために土地を耕す。
その間の現金収入は、炭焼きや藁や木で日用雑貨を作って売るわけです。

その土地にどんな作物が適しているかなど、やってみなければわかりません。だからいろんな作物を植える。

ちょっと耕地が出来たら、そこに何か植えてみる、耕地が広がれば、今までうまく行った作物プラス他の作物も植えてみる。

バスなんかは走ってませんから、味噌なども自給自足です。

つまり、明雄さんの「スーパー」ぶりは、過去の苛烈な経験のたまものなんです。


私たちは、このような誤解をしている場合が多かったりします。

昔の農家は、専業農家が多かった。「米どころ」では、お米ばかりを作っていた。今は、兼業農家が増えた。

これは、ちょっと違います。
新潟にしても、東北や北陸の米どころにしても、農閑期、男たちは、出稼ぎに出たのです。

1964年の東京オリンピックは、「東北の出稼ぎ人夫のおかげで成功した」と言われます。

また、米どころでも米ばかりではなく、あぜに、枝豆を植えたり(これが「ずんだ」の発祥です)、藍や紅花や、養蚕もしていました。

今は、スーパーへの販売とかで、米専門、トマト専門、レタス専門とかの農家も増えてきましたが、基本、いろんな作物や、土木作業なども交えながら、日本の農家は生きてきたのです。

今でも、知り合いの岩手の山ぶどう農家さんは、国内有数の山ぶどう生産者でありつつ、豚も飼っていて、秋にはマツタケも採りにいきます。

(岩手は長野と、日本一、二を争う、マツタケ産地です)

漁村もそうです。
例えば、アワビ漁は、漁協によって微妙に違いますが、解禁(「口開け」と呼ばれます)が、 年に数日だけです。

普通はサラリーマンで、その時だけ、アワビ漁師(漁協の許可が当然必要です)となり、100万円近く稼ぐ人もいます。

実は、この人たちがたくさんいると、アワビは一度、漁協に集められます。漁協が販路を作って売るわけですからね。
組合全体のもうけが増えて、いろんな設備を充実させることができるのです。

これは、ほんの一例ですが、多様性が農村、漁村の永続性を担保してきたことが、お分かりになると思います。

多様性が、漁村、農村を栄えさせてきた。衰亡から救ってきたのです。

今、農作物、水産物の生産から、工場での加工、販売までを含めて、「六次産業化」(一次産業に、二次産業と三次産業を加えて、全体を一貫させる)が声だかに叫ばれていますが、それは、昔からそうだったのです。

三瓶明雄さんは、まさに「生きた六次産業」と言えたかもしれませんね。


東北は特に、昔から寒さが厳しくて、寒さに適応した、いろんな作物、また半農半漁の生業で、人々は、暮らしてきました。

しかし、伊達政宗のころから、また、明治維新以来さらに、東北は米作が強烈に推進されていき、そして、なんと、米作が盛んになってから、気候変動に弱くなり、凶作が増えていきました。

東北の農村の凶作、飢餓、娘身売りは、東北の問題ではなく、多様性を壊していった国側の問題でもあったのです。

だから、私たちも「~県といえば、米」「~県といえばリンゴ」みたいな、画一的な反応は避けた方がいいように思えます。

 


解説
東北の農村の凶作、飢餓、娘身売りは、東北の問題ではなく、多様性を壊していった国側の問題でもあったのです。
だから、私たちも「~県といえば、米」「~県といえばリンゴ」みたいな、画一的な反応は避けた方がいいように思えます。

いつも友岡さんのエッセイではいろいろ勉強になります。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮