獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その10)現地には現地の細かい事情・状況がある

2024-05-18 01:48:25 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt19  -  高台移転と津波

2018年5月7日 投稿
友岡雅弥


唐丹(とうに。かつては唐丹村、今は釜石市唐丹町)の本郷は、田老と並び、津波の被害甚大なところとして知られていました(明治三陸大津波、昭和三陸大津波)。

「明治29年(1896年)津浪に際しては出漁者數十名を除く外僅かに4人生き残れりと云ふ」(内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』1934年)

明治三陸大津波。唐丹では、波高はおよそ15メートル、4人しか生き残らなかったのです。

そして、高台移転を決めました。

「1896年山沢鶴松の指導があって海岸から600mほど離れた山腹に、同氏を含めて5戸移ったが、勿論他の要因も加わっているが、海岸から遠ざかりすぎて不便に堪えられず、漸次原地に復帰してしまった」(山口弥一郎「津波常習地三陸海岸地域の集落移動」)

そして昭和三陸大津波、1933年(昭和8年)3月3日。

「谷奥の1戸を残して、全村101戸が全滅し死者117名、行衛(ママ)不明208名計325名を算するに至った」(山口弥一郎『津浪と村』)

なぜ、また海辺に戻るのか?という疑問がわくかもしれません。

もちろん、何十年に一度の津波を不安に思い、遠い高台に移動するよりも、常にそこにある世界三大漁場の「海の恵」とともに暮らす日常生活に、私たちは思いを馳せねばならないと思います。

例えば、私たちは、何十年に一度の戦争に備えて(実際、日本の近代の歴史は、もっと高い頻度で戦争がありました)、毎日、防空壕ぐらしをするでしょうか?

 

また、次のようなことも、実際にあったということを覚えておかねばなりません。

本郷の西隣の小石浜も、唐丹湾に接する津波常襲地でした。

明治三陸大津波で激甚な被害を受け、高台に移転したのですが、1913年(大正2年)4月1日、山火事にあい、高台に移転した280戸のうち、10戸を残して、焼き尽くされました。

海岸近くにあったときは、水の便がよく、火事はあまり心配ない地域でしたが、高台に移転して、水が不便になったわけです(もちろん、火事の時だけではなく、日常生活も)。

常に、離れた無関係な場所で、ああだこうだ、と決めつけた意見を持ったら、あかんと思うわけです。

高台移転が全部あかんとか、高台移転で全面的にOKとかではなくて、メリット、デメリットのかなり詳細なところまで、想像できることが大事だと思うわけです。

現地には、現地の細かい事情、状況があると思うわけです。

 

震災だけではないと思います。“遠いところ”、“高いところ”から、例えば、インターネットで検索かけて、その上位2、3だけで、判断するだけではなく、常に“その場”からものを見ることが大事だと思います。

そうすると、リテラシーがついて、直接行ってなくても、「当たらずとも、遠からず」の判断ができるようになる。

すぐに「反応」することぐらい“あかん”ことはないようにおもいます。

 


解説
高台移転が全部あかんとか、高台移転で全面的にOKとかではなくて、メリット、デメリットのかなり詳細なところまで、想像できることが大事だと思うわけです。
現地には、現地の細かい事情、状況があると思うわけです。
(中略)
常に“その場”からものを見ることが大事だと思います。

同感です。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮