獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その32)

2024-05-08 01:22:41 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
■第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)第一次中国訪問... 「石橋・周三原則」
□2)「日中米ソ平和同盟」の提唱
□3)第二次中国訪問
□4)ソ連訪問
■5)晩年

 


5)晩年

それでも湛山は「日中米ソ平和同盟」構想に対する熱意を失うことなく、政治行動を継続した。たとえば、1965年(昭和40)1月6日、就任まもない佐藤栄作首相を官邸に訪ね、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係改善のために自ら北朝鮮を訪問する計画を伝える(前掲「石橋湛山年譜」417頁、平井博二氏の証言)一方、10日より訪米する佐藤首相に自己の構想をジョンソン (Lyndon Johnson) 米大統領に伝えるよう働きかけた(「佐藤首相訪米の成果を買う」(2月『湛山叢書』第七号『全集⑭』、『朝日新聞』1月6日夕刊)。
また岸信介が「共産主義は恐るべきものであり、東洋の不安の根元は中共であり、これはまた世界の不安の焦点でもある」との見解を『フォーリン・アフェアーズ』 (Foreign Affairs) 誌に発表したのに対し、湛山は「非常に危険な考え方であり、それは日本を再び軍国主義に追いやることになる」と反論した(「佐藤首相への提言」 『新報』1966年新年特大号『全集⑭』)。そして、従来のソ連のプロレタリアート独裁による共産主義革命が時代遅れとなるところを、このフルシチョフの平和共存思想こそが救済したと主張し、フルシチョフ失脚後も彼の提唱した平和共存路線を世界平和の観点から高く評価した。したがって、中国側がフルシチョフを修正主義者と非難したことについて、「思想は常に修正すべきもの、修正されていかなければならぬものだ。修正主義が思想の正しい筋道である」と湛山は説いた(「共産主義を救った平和共存」前掲『湛山叢書』第六号『全集⑭』)。
同時に、アメリカの対中国「封じ込め」政策は成功しないと断言し、日米安保条約にのみ依存しようとする日本政府の体質に反省を求めた。しかし自衛力強化論も戦前の軍備拡張論と同じ危険な考え方であり、自国の軍隊をもって完全な防衛体制を確立するのは実際上不可能であるし、財政上大変な負担となる。むしろこの際、世界に対しては国連を強化し、国際警察軍の創設によって世界の平和を守るという世界連邦の思想を大いに宣伝し、世界各国が足並みを揃えるよう努力する以外に方法はない。そのためにも「日中米ソ四国平和同盟」の方向に進むべきである、と改めて持論を提唱した(同上および「日本防衛論」『新報』1968年10月5日号『全集⑭』)。劇的 な「米中接近」に全世界が衝撃を受けるのはそれから3年を経た1971年(同46)7月15日のことであった。そして翌72年(同47)9月29日には田中角栄新内閣の下で日中国交正常化が一気に実現する。田中は出発に先立つ25日、下落合の湛山私邸を訪ね、すでに病床にあった湛山を見舞っている。奇しくもこの日が湛山の米寿の誕生日であることを知った田中首相は、顔を紅潮させながら湛山の手を握り、 「石橋先生、中国に行って来ます」と挨拶したという。こうして20年来の湛山の主張は、ようやく現実へと大きく第一歩を踏み出したのである。
さて「政治家にのぞむ」(『新報』1967年2月11日号『全集⑭』)は、晩年の湛山が自己の政治生命を回顧し、後世の政治家に対して訓戒を垂れた遺言に等しい。いまの政治家は「自分」が欠けている。「自分」とは自らの信念だ。「自分の信ずるところに従って行動するというだいじな点を忘れ、まるで他人の道具になりさがってしまっている人が多い。政治の堕落といわれるものの大部分は、これに起因する」。政治家の中で最もつまらないタイプは、自分の考えをもたない政治家であり、また金集めが上手で大勢の子分を抱えている政治家である。政治家が自己の信念を持たなくなったのは、要するに、選挙に勝つためとか、良い地位を得るとか、あまりに目先の ことばかりに気を取られすぎるからだ。派閥のためにのみ働き、自分の親分に盲従するというように、今の人たちはあまりに弱すぎる。
湛山はこのように現状を批判した上で、「政治家にだいじなことは、まず自分に忠実であること、自分をいつわらないことである。……政治家になったからには、自分の利益とか、選挙区の世話よりも、まず、国家・国民の利益を念頭において考え、行動してほしい。国民も、言論機関も、このような政治家を育て上げることに、もっと強い関心をよせてほしい」と反省を促した。それは理想と熱情にあふれた政治家石橋湛山をしめくくるばかりでなく、求道的合理主義者・経世家としての人間石橋湛山をしめくくるのにふさわしい言辞であったといえよう。
1973年(同48)4月25日、湛山他界。享年88歳であった。

 

 


解説
政治家の中で最もつまらないタイプは、自分の考えをもたない政治家であり、また金集めが上手で大勢の子分を抱えている政治家である。政治家が自己の信念を持たなくなったのは、要するに、選挙に勝つためとか、良い地位を得るとか、あまりに目先の ことばかりに気を取られすぎるからだ。派閥のためにのみ働き、自分の親分に盲従するというように、今の人たちはあまりに弱すぎる。

今の政治家、とりわけ自民党の国会議員たちに聞かせたい言葉ですね。

 

獅子風蓮