獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その1)

2024-05-21 01:56:09 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

これまでは増田弘『石橋湛山』を読んで、湛山の人生と政治思想について学んできました。

さらに、もう少し湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
■第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第1章 オションボリ

石橋湛山が生まれたのは、戸籍によると明治17年(1884)9月25日になっている。実際にはその半年前に生まれているのだが。誕生地は東京市麻布区芝二本榎一丁目十八番地、現在の東京都港区二本榎、湛山の母親・きんの実家であった。実家の父親・石橋藤左衛門は、徳川時代から江戸城内の畳表一式を請け負うほど大きな畳問屋として知られている。きんはこの時まだ16歳。藤左衛門の次女である。石橋家は代々、近くの日蓮宗承教寺の有力な檀家であり、その寺院内にあった東京大教院(現在の立正大学の前身)は当時の日蓮宗にとって最高学府であった。湛山の父親は杉田湛誓(たんせい)。後に杉田日布と改名し日蓮宗総本山の身延山久遠寺第81世法主に選ばれるほどの逸材であるが、この当時は東京大教院の助教補を務めていた。二人の出会いは、承教寺と東京大教院とのつながりが作った。湛誓は石橋家にも時折り出入りするうちに、きんを知った。お互いに惹かれるものがあり、きんの父親・藤左衛門も、湛誓の人柄を見込んで結婚を承知した。
藤左衛門は孫の誕生を喜んだものの、湛誓が長男につけた「省三」という名前には首を傾げた。
「どうして長男なのに省三という名前にしたのか分からないのだが……」
「これは『論語』からの命名です」
「仏教からではなく『論語』かね」
「はい、『論語』に、吾れ日に三度吾が身を省みる、という言葉がありまして」
「ああ、あれか。有名な孔子の……」
「それで、長男ではありますが省三と……」
そんな会話で藤左衛門は、湛誓の長男への期待を理解した。
「この子は、きっと湛誓さんの立派な後継ぎになるだろう。いやいや、それ以上の人物になるかもしれないね」
藤左衛門はそう言って、娘の胸ですやすや眠る孫の顔を覗き込んだ。
ただ生まれたばかりの赤ん坊は、妻帯を公にしないという当時の日蓮宗の慣習に従って、父親の「杉田」ではなく母方の姓である「石橋」を名乗り、それが終生の姓になる。
湛誓は山梨県南巨摩郡増穂村(現在の増穂町)大久保に生まれた。安政2年(1855)のことであった。幼名を常作といい、僅か3歳の時に増穂村青柳の日蓮宗・昌福寺で得度した。
その昌福寺に住職として湛誓が戻ることになったのは、省三(湛山)が生まれた翌年、明治18年(1885)のことである。
「昌福寺といえば日蓮宗にとっては重要なお寺だ。まだ30歳にも満たない若さで、そこの住職とはな。しかも故郷に錦を飾ることにもなる。やっぱり儂が見込んだとおりのお坊さんだったな」
藤左衛門は、やっと慣れてきたばかりの可愛い孫や娘と離れ離れになる寂しさを堪えて、婿の出世を喜んだ。
「それで……」
きんは言いにくそうに、おずおずと切り出した。藤左衛門が促すと、きんは、
「宗門の慣習ですから、私どもは増穂村ではなく、坊やと二人で甲府に住むことになりそうなのですが……」
藤左衛門は、何もかも承知していた。
「そりゃあ、日蓮宗は浄土宗と違って妻帯は表向き許されてはいないのだから、仕方があるまい。新任の住職が赴任と同時に妻帯して女房子供を同じ寺に連れて来たというのでは、檀家などの手前もあって肩身の狭い思いをしてしまうだろう。しかし、甲府と増穂とはどれほど離れているのかね?」
「4里(約16キロ)余りと聞いておりますが」
「そりゃあ結構な距離だな……しかし、まあ……」
藤左衛門は一瞬不安な表情を浮かべたが、気を取り直して笑顔を見せた。
「大丈夫だ湛誓さんのことだ。おまえたちにも一番よい方法を考えてくれるに違いない。お父さんは安心しているよ」
そうことさらに言って娘の不安をかき消そうとした。
湛誓が住職になる増穂村青柳の昌福寺は、日蓮宗身延山久遠寺の末寺である。山号を寿命山。永仁6年(1298)の創建とされる。
湛誓は、昌福寺についてこんな話をきんに聞かせた。甲府に到着してすぐのことであった。
「もちろん、平安、鎌倉の時代だからあの辺りも田や畑ばかりであったに違いないが、そのうちの八反畑というところに古い塚があった。そこに怪異あり、というから物の怪なんぞが出ては村人たちに悪さをしていたのだと思う。そんなある日、青柳よりももっと山の中にある小室山妙法寺の住職で日全というお坊さんがやって来て、妙法の法力によってその怪異を封じてしまったのだ。村人がこれに感謝して建てたお寺が昌福寺というわけだ」
よくある寺の縁起話であるが、きんは黙って湛誓の言葉に耳を傾けた。
「もうひとつ、昌福寺には変わった行事がある」
そう言って追加した話のほうが、きんには興味深かった。
「それは、虫切りとか虫加持とか言われているものだ」
幼い子供の夜泣き、疳の虫などを治癒させる密教系の加持祈祷の一種であるが、山梨県内でも屈指の祈祷所として知れ渡っている。
「その昔、霊元天皇が病い篤い時に昌福寺の第十二代である日法というお坊さんが京都御所に参内して、一千日の水ごり行を加茂川で行なって加持祈祷をしたところ、天皇の病いが全快した。日法師はどうもこうした呪術の名人であったらしい。後に、師の虫切り加持と護符の秘法がそのまま昌福寺の無形の寺宝として伝えられたのだ」
「虫切り加持とは、どのようにしてなさるのでしょうか」
きんが、やや顔を前に出すようにして尋ねた。湛誓は続けた。
「お寺には虫切り加持のためのお堂がある。そのお堂でな、春秋の彼岸に近郷近在からやってきた若い母親に抱かれた赤ん坊に、加持祈祷を施すのだ。子供の手のひらに朱色の墨で秘法とされる文字を書くのだが……」
「それを、あなたもおやりになるのですか」
「住職だからな。引継ぎの大事なひとつだ」
「では、この省三の虫切りも?」
「そういうことになる。が、ここでやるわけにはいかぬ。虫切り加持堂で、ほかの子供たちと同様に施すつもりでいる」
仏教に呪術的な行事があるのは分かっていたが、こうして甲州の草深い場所に数百年も伝わってきた密事について聞かされると、改めて東京とは違った場所に来てしまったのだという思いに、きんは捉われた。だからといって、そうした密事には興味がないというわけでもなかった。
「しばらくここで我慢して暮らしてくれ。折りをみて増穂に呼び寄せるつもりだから」
湛誓にそう諭されると、きんは赤ん坊の省三を抱きながらこくりと頷いた。
甲府の町中でさえ、東京の実家に比べたら寂しい気がするのに、これ以上寂しくて、そのうえ昔は怪異が出たり、今でも春秋の彼岸には加持祈祷をしてもらいに近在から人々がやってくるなどという場所で暮らすことの大変さを思うと、少しでも賑やかな甲府で暮らすほうが楽なような気がした。
だがその一方で、湛誓と離れて暮らさなければならない寂しさはまた別であった。
省三は、この甲府市稲門(現在の甲府市伊勢町)で成長した。5歳になった明治22年(1889)には甲府市稲門尋常小学校に入学する。5歳の入学というのは、通常よりも2年早いのだが、どういう理由であったかは不明である。
父親は時折り訪ねてくるだけであったが、その折りの母親の晴れがましいような表情は、その後の省三の胸の中に永遠に焼きついていた。だが、湛誓が昌福寺に戻る時に省三が尋ねる「ねえ、お父さん。もう帰るの? 今度いつ来てくれるの?」という言葉は、湛誓ときん夫妻の胸に響いた。
「このままではいけない。省三の将来を考えたら、やっぱり一緒に住まなければ」
湛誓は赴任して6年間ですっかり地元や檀家の信用を得ていた。
檀家総代も、湛誓の妻帯は知っており、
「御前さん、奥さんと子供さんをお寺にお連れしたらどうですか。御前さんだけでなく、若いお弟子が二人もいるのですから、何かと不便でしょうに」
そう言ってくれたが、これまで頑なに断ってきたのであった。
「しかし、もういいだろう」
湛誓の中で考えていた別居期間は、実は疾うに過ぎていたのだった。
湛誓が、きんと省三と共に暮らす決心をした一因には、もうひとつ別の出来事もあった。

(つづく)

 


解説
生まれたばかりの赤ん坊は、妻帯を公にしないという当時の日蓮宗の慣習に従って、父親の「杉田」ではなく母方の姓である「石橋」を名乗り、それが終生の姓になる。
(中略)
藤左衛門が促すと、きんは、
「宗門の慣習ですから、私どもは増穂村ではなく、坊やと二人で甲府に住むことになりそうなのですが……」
藤左衛門は、何もかも承知していた。

僧侶の妻帯の問題は、創価学会も宗門から破門された後になって突然難癖をつけましたが、日本における浄土真宗以外の僧侶についてのウィークポイントです。
しかし、日蓮宗の僧侶、杉田湛誓が石橋きんと結ばれなければ湛山は生まれなかったわけで、優秀な僧侶が妻帯することは、一概に悪いこととは思えません。

しかし、表向き妻帯を隠すという風習は、湛山の精神的発達にいかなる影響を与えたのでしょうか。
結果的には、悪い影響は与えられなかったようですが……

 

獅子風蓮