★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

移動者は山で考える

2024-08-18 23:52:23 | 文学


お国自慢、信州蕎麦。あれには昔から食い方があります。大根をおろした絞り汁に味噌で味をつけ、葱の刻みを薬味とし、それへ蕎麦をちょっぴりとつけて食うのであります。ただし蕎麦は勿論、大根、葱、それぞれに申し条があります。
 大根は、練馬あたりで出るような軟派のものではいけません。あんなに白くぶくぶくに太ったのは、水ばかりで駄目であります。アルプス山麓あるいは姨捨山などの痩土に、困苦艱難して成長したものであって、せいぜい五寸、鼠位の太さになっているものに限ります。同じ信州でも川中島や松本平のものではやはりいけません。これをゆっくりと力を入れておろし、力を入れて絞ると、ぽたりぽたりと汁が出ます。肥土のところへできたやつは、絞ればしゃあしゃあ水のように出ますが、水飴のように濃く固まってぽたりと落ちます。これは大根に「のり」があるといって旨いし、第一ひどく辛いのであります。


――村井政善「蕎麦の味と食い方問題」


最近こんなニュースがあった。

長野県を「そば県」としてPRへ 目指すは「うどん県」や「おんせん県」 議員有志が知事に”宣言”要望へ


わたくしはこのPRはあまりよくないと思う。うどん県がそれを宣言したことで、ある意味どれだけバカにされているのか分かっているのであろうか。うどんぐらいしか取り柄がない、うどんのバリエーションがなく則ち文化性とは言いかねる、みたいな潜在性とそれは裏腹なのである。香川県は香川県なりのポジションがあってそういう戦略にでている。そのポジションは何百年も書けて形成されたものだ。だいたい、信州には多様な蕎麦があり過ぎる。開田蕎麦と戸隠蕎麦じゃ、そんなもん、スパゲティと素麺ぐらいの差異があるといってよいのではないか(個人のイメージです)。

このように長野県とは、T・ホールの言うパーソナルスペースとは違うが、山に阻まれて歪な形になった個人の幻想としてのスペースが無数にあるようなところである。民族学が面白いのは、そのスペースの面白さではなかろうか。2000年頃だったか、岡本敏子氏が、岡本太郎は自分が宇宙の中心にいると思ってるひとだから「反対にある」「民族学」に惹かれた、と言っていたと思う。しかし、たぶん「反対」ではなくて、自分が宇宙の中心というのはその学問にとって非常に重要なことだ。

柄谷行人は、初期、吉本の共同幻想と、上のスペースの問題について考えていた時期があった。これが、彼の「交通」みたいな概念に移行してしまったことはよく知られている。彼の交通は、異邦人とか孤独な旅人のイメージをどこか持っている気がする。彼は阪神ファンである。八十年代の阪神ファンは自意識の上で負け続けの旅人であった。彼が阪神ファンではなくDラゴンズファンであったなら、後の彼の提唱する「交換D」は、――巨人にとられないために、金と落合を交換するみたいな定義になっていたに違いない。

と、それは冗談だが、交通は「線」ではなく、長野県の山民にとっては、周囲を捕食しながら移動するアメーバみたいなスペースなのである。藤村の空間把握というのはすごく鋭いので、「夜明け前」を読んでると、福島あたりと馬籠あたりの空間の開け方の違いが実感される。馬籠あたりには住んだことがないが、――ある文學研究者のあつまりで、藤村にとって木曽は山の中といっても彼の北部に立ちはだかる何ものかを含んでいるんで、彼自身は境界的ではなく、いち抜けている主体であって、それが木曽に浸食している文化にその都度浸潤されるのだ、と言ったことがある。周りの研究者達は、でも文章上はそうでもないだろう、と言っていた気がする。

登り一里という沢渡峠まで行くと、遙拝所がその上にあって、麻利支天から奥の院までの御嶽全山が遠く高く容をあらわしていた。
「勝重さん、御嶽だよ。山はまだ雪だね。」
 と半蔵は連れの少年に言って見せた。層々相重なる幾つかの三角形から成り立つような山々は、それぞれの角度をもって、剣ヶ峰を絶頂とする一大巌頭にまで盛り上がっている。隠れたところにあるその孤立。その静寂。人はそこに、常なく定めなき流転の力に対抗する偉大な山嶽の相貌を仰ぎ見ることができる。覚明行者のような早い登山者が自ら骨を埋めたと言い伝えらるるのもその頂上にある谿谷のほとりだ。
「お師匠さま、早く行きましょう。」


中学のころ、「夜明け前」を最初に読んだ時、第一部の七章で御嶽にゆくところが、すごく重要だというのはわかった。思ってたのと違う、と思い続ける半蔵の人生だが、御嶽の山岳宗教のハイブリッドなありかたは、すぐ近くの頂きの裾野の話だけに秘かにショックだったと思う。

二人が帰って行く道は、その路傍に石燈籠や石造の高麗犬なぞの見いださるるところだ。三面六臂を有し猪の上に踊る三宝荒神のように、まぎれもなく異国伝来の系統を示す神の祠もある。十二権現とか、神山霊神とか、あるいは金剛道神とかの石碑は、不動尊の銅像や三十三度供養塔なぞにまじって、両部の信仰のいかなるものであるかを語っている。あるものは飛騨、あるものは武州、あるものは上州、越後の講中の名がそれらの石碑や祠に記しつけてある。ここは名のみの木曾の総社であって、その実、御嶽大権現である。これが二柱の神の住居かと考えながら歩いて行く半蔵は、行く先でまごついた。


いまとはもちろん距離の感覚は違うが、そして長野県全般に言えるかも知れないが、――近くの村のことさえ山に阻まれてよくわからない。御嶽はこれまた木曽のほとんどの地点からみえない。わたくしの実家からみえる駒ヶ岳も、そのじつ駒ヶ岳ではなく麦草岳で。藤村は上のように、「隠れたところにあるその孤立。その静寂。人はそこに、常なく定めなき流転の力に対抗する偉大な山嶽の相貌を仰ぎ見る」と言ったあと、実際何を見るかという試練に、ゆっくりと直面するのである。それは確かにゆっくりだが、身体の移動を伴っていて、認識が煮詰まらなくても、この後のようにさしあたり思い切ることができる。

 そろそろ半蔵には馬籠の家の方のことが気にかかって来た。一月からして陽気の遅れた王滝とも違い、彼が御嶽の話を持って父吉左衛門をよろこばしうる日は、あの木曾路の西の端はもはや若葉の世界であろうかと思いやった。将軍上洛中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便りは、どんな報告をもたらして、そこに自分を待つだろうかとも思いやった。万事不安のうちに、むなしく春の行くことも惜しまれた。
「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
 と彼は思い直した。水垢離と、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠りの新しい経験をもって、もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。
 御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰えて行く旧くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏れた。


彼が常に向学心からも時代の要請からも、それに沿って移動しなければならないという宿命が、彼の認識を細切れにしてゆくとも言ってよい。


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