★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

戦争と平和

2024-08-15 23:45:35 | 文学


ある有名文芸誌を買って読んでみた。大学に無縁な自由を期待していたら、仲がいいゼミの記録みたいだった。やっぱ世の中こうなってたか。ある意味、平和だ。。

戦争は終わっていない。連合軍に負けて占領されましたという時間が引き延ばされているだけで。しかしその戦争の時間が引き延ばされているだけで、人は亡くなっていく。癩病に対する国家の顛末と一緒で、戦争のとき子供で一方的に被害者である人々が残されているときをねらって、反省しても、悲惨をさけるための平和みたいなお題目を唱えるだけになる。その平和はあいかわらず占領下の肯定にしかならず敗戦であることも否認されつつある。

二人の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎医者に言わせると、馬籠は国境だ、おそらく町人気質の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃の百姓であると。
 吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦の方から移って来た青山監物の第二子であった。ここに一宇を建立して、万福寺と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正十二年の昔にあたる。
「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」
 と吉左衛門が自分の忰に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。


私なんかは、木曽路は南北の道だと思っていた(実際、木曽上松あたりは南北に延びている)のだが、半蔵達は東西の道みたいに思っている。それと西洋東洋と重ねているんだろうが、――実際に歩いてみると、地図のように、木曽路は、東よりに北上、逆に西寄りに南下、のイメージが強いのかもしれない。いまは汽車に乗っているから分からなくなっているのかもしれない、と思ったが、中山道は江戸と京都を東西を結んでいる道なので、そういうイメージなのであろう。話の中で西・京都から東・江戸への和宮降嫁に直面して疲弊する木曽路の様子が長々と描かれるのもそのせいである。単に中山道の方向の問題には思われないのである。半蔵達の思想はある意味、江戸と京都を行き来するみたいに揺れている。しかも、どちらかに直接コミットするのではないから、評論家的に右往左往するのである。日本の本質を藤村がそこにみていることは確かであろう。

いま考えてみると公武合体ってすごいよな、ゲッターロボじゃねえんだからよ――とかつい茶化すしかないわたくしもおなじ穴の狢だ。

ある意味、明治以降の日本は、そのコンプレックスから、――当事者になろうとする過程を展開し、敗北して再び傍観者、――というより、大名や和宮が通過するたびに人と馬が動員され死者を出す、それだけであるところの木曽の宿場みたいな位置に押し戻された。それを平和と呼んでいる。

しかし、当事者とはいったい何であろうか。さっき、テレビで、終戦の日特集で、「終戦一週間前なのに機銃掃射にあうなんて考えられない」という発言が、当時機銃掃射をうけてたまたま生き残った戦争体験者から発せられていた。が、――まったくもって「考えられる」わけである。戦争の悲惨さにはいろいろあるが、その当事者とは、物事の順番とか因果を考えられなくなってしまうことを言う。復讐の連鎖が云々とかいわれるけれども、それ以上に何が何だか分からなくなってしまうのである。

近代文学なんかやってると、まあ先の戦争の「戦争責任問題」に対しては、第二次大戦のときの、行く末がまずいのを薄々気付いていながらボールを追いかけていたら知らないうちに崖から落ちてたみたいな顛末を考察しているだけではだめで、問題は日清日露なのよ。。と思う。藤村はそれに自覚的で、それゆえ無理やり維新以前に遡行(回避)してるとしか思えない。

あるいみ、教師に激しくぶん殴られた生徒が意地でも反省しなくなるように、敗戦に至った過程を反省せよというのはハードルが高い。今風に言うと、撲られた奴は自分の罪を封印しハラスメントだと思っちゃうんじゃないか?ゆえに自己肯定感が高かった時を反省させようぜ(余計無理か)

いま、戦争体験者の生き残りとは当時たいがいは子供だった人なのである。だから一方的に被害者にみえる。しかし、私の祖父祖母の世代は日露戦争に誇りを持ち、日清日露帰りがたくさんいる中で育ち、山本五十六が生きてたら勝ってたみたいなことを本気で言う人がかなりいた。彼らにとっては、にもかかわらずひどく負けたし、自分の手も汚している、――つまり犯罪者として扱われた、という複雑感情こそが厭戦気分を支えているところがあり、容易に戦争についてもコメント出来なかった。だから、思い切って言ってやるぜみたいな反戦運動も強迫的にあったわけだと思う。こういう屈折をなくした老人だけがいる今後が大変だ。記憶の継承というのはある意味もう手遅れなのである。現在のやばさから掘っていった方がよい。戦争がなぜ起こるかなんか、現在をよく見りゃ、一目瞭然ではないか。

「まあ、諸国の神宮寺なぞをのぞいてごらんなさい。本地垂跡なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来や阿弥陀如来の化身だとされていますよ。神仏はこんなに混淆されてしまった。」
「あなたがたはまだ若いな。」と九太夫の声が言う。「そりゃ権現さまもあり、妙見さまもあり、金毘羅さまもある。神さまだか、仏さまだかわからないようなところは、いくらだってある。あらたかでありさえすれば、それでいいじゃありませんか。」
「ところが、わたしどもはそうは思わないんです。これが末世の証拠だと思うんです。金胎両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒涜というものです。どうしてみんなは、こう平気でいられるのか。話はすこし違いますが、嘉永六年に異国の船が初めて押し寄せて来た時は、わたしの二十三の歳でした。しかしあれを初めての黒船と思ったのは間違いでした。考えて見ると遠い昔から何艘の黒船がこの国に着いたかしれない。まあ、わたしどもに言わせると、伝教でも、空海でも――みんな、黒船ですよ。」
「どうも本陣の跡継ぎともあろうものが、こういう議論をする。そんなら、わたしは上の伏見屋へ行って聞いて見る。金兵衛さんはわたしの味方だ。お寺の世話をよくして来たのも、あの人だ。よろしいか、これだけのことは忘れないでくださいよ――馬籠の万福寺は、あなたの家の御先祖の青山道斎が建立したものですよ。」
 この九太夫は、平素自分から、「馬籠の九太夫、贄川の権太夫」と言って、太夫を名のるものは木曾十一宿に二人しかないというほどの太夫自慢だ。それに本来なら、吉左衛門の家が今度の和宮様のお小休み所にあてられるところだが、それが普請中とあって、問屋分担の九太夫の家に振り向けられたというだけでも鼻息が荒い。
 思わず寿平次は半蔵の声を聞いて、神葬祭の一条が平田篤胤没後の諸門人から出た改革意見であることを知った。彼は会所の周囲を往ったり来たりして、そこを立ち去りかねていた。


むろん、上の屈折に充実した認識がもともとあったかどうかは別問題で、藤村にしても、「夜明け前」をみるかぎり国学や仏教に対する認識がどことなく表面的である。その表面的なところは、知の当事者から疎外され木曽の山猿でしかない半蔵のそこがだめだと言いたいのかもしれないが、藤村自身が父の世代を理解しようとしなかったことも確かじゃねえかと想像する。


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