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《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

カクマルによる本多書記長虐殺の真実/槇(水谷)けい子

2025-03-19 20:55:37 | 日本の新左翼運動と共産主義運動をめぐって


カクマルによる本多書記長虐殺の真実
槇(水谷)けい子 2020年10月25日

 私は一九六七年横浜国立大学学芸学部に入学しました。一年生のときからベトナム反戦闘争を担うために、すぐに教養の自治会執行部に入りました。大学に入った目的の半分はそれだったので、学生運動をやって、やり続けて、そのあと北部地区反戦に移籍しまして、すぐに全国反戦救対に派遣されました。それが一九七〇年一月でした。その数年後からは女性解放闘争の戦線でやってきました。革共同の中では自分なりにかなり頑張ったので、中央女性組織委員会の議長をやれという大役を任命され、一九八五年末まで務めてきたのですが、病気で療養生活に入りました。現在は療養中ながらできるときにやるというふうにしております。
 私が今から話すことはあまりにも重い内容なので、原稿にいたしました。

想像を絶する卑劣な奸計
 一九七五年三月一四日、カクマルが何をやったのか。本多延嘉書記長虐殺の真実を明らかにします。

 四五年前、カクマルがきわめて手の込んだ、卑劣な奸計をめぐらせ、虐殺のための凶器である手斧とナタを使って本多延嘉書記長を虐殺しました。私はその当時、杉並区議会選挙の選挙現闘として杉並革新連盟の事務所に常駐していました。中央指導部から凄惨な虐殺の事実は知らされましたが、事態の経過や事情については指導部の誰からも知らされませんでした。みな毎日毎日涙が止まらず、ただ「復讐しよう、選挙に勝利しよう、長谷川英憲さんを当選させることが本多さん虐殺への回答だ」といい合ってたたかったのでした。

 選挙戦勝利の後、北小路敏さんが、どういうわけか、非公式に三・一四本多書記長虐殺の真実を詳しく教えてくれました。今から思えば、北小路さんは誰かに話さなければ黙っているストレスにたえられなかったのだと思います。

 本多さんが結婚した恵子さんと私は闘争現場や救援対策でしょっちゅう会っていました。同い年で彼女は東京学芸大学、私が横浜国立大学学芸学部という同じ教育系の大学だったこともあり、学生の頃から近しい同志でした。その恵子さんからは、一九八四年に長男の力君も同席した会食の場で、三・一四反革命の事実を聞く機会がありました。また、翌一九八五年三月にも三・一四から一〇年目の革共同政治集会に参加した恵子さんと終日同行し、彼女から再び三・一四について事実関係を聞く機会がありました。

 他方、破防法弁護団の一人であった田村公一弁護士が三・一四の報を受け取ってすぐに虐殺の現場に駆けつけ、そのなまなましい流血の惨劇のすべてを現認されました。そして現認報告の文書を作成されました。それからずいぶん経った二〇一四年、それを私は見させていただきました。その田村弁護士は、残念なことに二〇一七年六月に逝去されました。
 
 以下お話しする内容は北小路さんの説明と二度にわたる恵子さんからのお話、そして田村弁護士の作成した記録に基づくものです。今回、当時の記憶や資料の裏づけ調査もずいぶんやりました。以下縷々述べますことは、革共同の中にいた方も初めて聞く内容だと思います。本当のことを私はしゃべります。

前進社の電話口に「北小路さん」が出てきた
 一九七一年一二月、カクマルとの戦争が激しくなり本多さんと恵子さんの都内の自宅が直接にカクマルに襲撃されました。二人は半公然の避難生活に入りました。 その後、力君が生まれ、力君を育てるためには避難生活を続けるわけにはいかず、やがて恵子さんは力君とともに埼玉県志木市中宗岡の本多さんの実家に移り住みました。

 一九七五年三月一二日夜、その志木の家に警察から電話が入りました。「埼玉県警のいわもと」と名乗り、「神奈川県警からの連絡によると本多延嘉さんが神奈川県内で交通事故にあった。大けがをした、奥さんにすぐ入院先の横浜市立大学病院に来てほしい」と告げてきました。

 恵子さんはそれをすぐには信じず、まず党に知らせ党の指示を受けなければならないと考え、自宅を出て、近くにある公衆電話ボックスに向かいました。日ごろから「実家の電話を連絡用に使ってはならない」という党の指示があったためです。彼女は公衆電話から前進社に電話を入れました。すると北小路敏さんが電話口に出てきました。「北小路です」とおしゃって、それは紛れもなく、彼女がよく知っている特徴のある北小路さんの声でした。北小路さんは「本多さんは神奈川県で交通事故にあった。重態だ。急いで横浜市立大学病院に行ってほしい。案内のメンバーをそちらに送るので、それで行ってほしい」といったのでした。

 翌日の一三日朝、志木に迎えに来た使いは恵子さんの知らない人物でした。しかし、その人物の話と北小路さんの話とが合っていたので、彼女は力君を抱いて車に乗りました。横浜市立大学病院に着き、案内された病室には顔も全身も包帯だらけの人物が横たわっていました。付き添いの人物から「本多さんです。昏睡状態です」と告げられ、恵子さんは非常なショックを受けました。交通事故の様子についての説明があり、本多さんのドライバーも大けがを負ったと告げられ、「本多さんが着替えと身の回りのものが必要なので、アジトから持ってきてほしい、とのことです」といわれました。恵子さんは大変なショックを受けましたが、力君を守らねばならないのだからしっかりしなければ、と必死に自分にいい聞かせました。とはいえ、頭が真っ白になる混乱状態にあり、本多さんを介抱するためにもまずはアジトから必要なものを持ってこなければならない、という考えに誘導されました。

 恵子さんは再び車に乗せられ、前に知っていた本多さんのアジトに向かいました。埼玉県川口市戸塚の、本多さんがアジトにしているアパート戸塚荘の近くに来るや、恵子さんと力君は突如、付添人数人に拉致され、別方向に連れ去られました。恵子さんと力君は某所に監禁されたのでした。拉致・監禁したのはカクマルでした。

仕掛けられた暗殺計画
 一二日夜から一三日午後にかけて起こったことは何だったのでしょうか。
 後で、すべてカクマルによる本多さん暗殺計画と判明するわけですが、
 ①一二日の「埼玉県警いわもと」とはカクマルの作戦本部からの偽電話だったのです。
 ②前進社に電話をかけたときに出てきた「北小路」は北小路敏さんの声音そっくりの特技をもつカクマル作戦本部の人間だったのです。
 ③つまり、実家の近くの公衆電話ボックスには前進社の電話番号のダイヤルを回すとカクマル作戦本部に繋がるようにカクマルがあらかじめ特殊工作をしていたのでした。
 ④病床で横たわっていたのも偽装したカクマルだったのです。横浜市大病院のカクマル医師がその裁量で個室を確保して、他と隔絶した空間に仕立て、あたかも本多さんの病室であるかのように工作していたのでした。
 ⑤カクマルは、まず白色テロの襲撃体制を構築したうえで恵子さんをまさに一か八かの奸計にはめ込み、本多さんのアジトをつかみ、恵子さんと力君を拉致するとともに、その日のうちにただちに白色襲撃体制を発動したのでした。

頭部を集中的に狙う
 そのように一三日の夕方から襲撃体制を発動したカクマルは、戸塚荘が見える位置から車で待ち構えたのです。そのまま日にちが変わった一四日午前一時過ぎ、本多さんがアジトに戻ったことを確認し、襲撃部隊を集結させ、午前三時二〇分ごろ三カ所で周辺の電話線を切りました。そして頭からパンティストッキングを被り、手に手に凶器を持って戸塚荘に突入しました。二階に駆け上がって部屋のドアと窓をハンマーと斧で破壊し、中に突入しました。

 奥の四畳半の部屋にいた本多さんは襲撃に気づいて立ち上がり出刃包丁で武装し、入り口近くの三畳間に進み出てカクマル襲撃部隊に立ち向かいました。本多さんが立ち向かったということは、本多さんが倒されていたのが三畳間であること、そこに出刃包丁が転がっているのを田村弁護士が現認していることで裏づけられています。

 七人から九人と思われるカクマル・テロリストが本多さんに襲いかかり、いきなり頭部を狙って手斧やナタを振り下ろし、全身を斬りつけました。倒れた本多さんの頭部をさらに集中的に手斧で何度も割ったのです。本多さんの頭部からは血が噴き上げ、あたり一面が血の海となりました。

 その当日、急な知らせを受けて同アパートの部屋に入った田村弁護士によると、部屋の中は血だらけで、畳は大量の血で染まり、壁の各所にも血が飛び散り、特に壁から天井に血が真っ直ぐに線を描いて走っていたそうです。あまりにも凄惨な場となっていたのでした。そして、畳の上には本多さんが読みかけの、血にまみれたフランス語版『資本論』とフランス語辞典が転がっていたのでした。

 カクマル襲撃部隊は本多さんの文書類とお金が入ったカバン一つを強奪し、室内を荒らして撤収し、凶器類を北側の畑と空き地に投げ捨て、車三台に分乗して逃走しました。その点について、田村弁護士によると、警視庁と埼玉県警の現場検証によって、手斧三本、ナタ一本、鉄パイプ四本、ハンマー一本の計九点が押収されているそうです。いずれも襲撃に使われた跡があるそうです。襲撃部隊は、レポとドライバーを含めて全部で十数人と思われます。

 以上がカクマルによる本多延嘉書記長虐殺の真実です。まごうことなき真実です。

カクマルは本多さんの革命性に恐怖した
 思い起こすのも辛いことですが、黒田寛一、松崎明(倉川篤)、根本仁(土門肇)、白井健一(山代冬樹)をはじめとするカクマル中枢は、本多さん虐殺を自己目的化し、本多さんを執拗に追い求め、それに全力を挙げてきたのです。それに対して本多さんは敵カクマルの奸計に陥り、無念にもその革命家としての生を断ち切られました。それは、カクマルとの戦争における最高指揮官の敗北死といわなければならないものでした。それを指して、本多の自己過信の結果だとか、防衛戦争をおろそかにしたからだとか、自分の家族問題が弱点だったのだ、とかいう人がいました。それらは当たっている点もあるでしょう。

 しかし私は、声を大にしていいたい。
 いったい誰が、恵子さんと同じ状況と立場に置かれたとき、カクマルの恐るべき奸計、まさに悪魔の作戦を見抜くことができたというのでしょうか。世界の階級闘争史上においても、こんなことはありません。カクマルにおいても、三・一四暗殺計画は、たった一回きりの、これを逃したら取り戻しはきかない、じつに一か八かの極悪非道の作戦だったのです。カクマルが日本革命運動の最先頭に立ってたたかう本多さんを狙い、虐殺のための虐殺という殺人計画を立てたという、その異様性、非人間性、反階級性、まさに悪魔の所業を明確に断罪しないでおいて、他に何のことばが成り立つというのでしょうか。

 そもそもカクマルは、七〇年安保・沖縄決戦において革共同が権力の破防法弾圧を受けたとき、機関紙で公然と「権力は首根っこを、われわれカクマルは下の急所を握っている」といい放ったのです(機関紙『解放』第二一九号、一九七二年一月一二日)。自分たちの白色襲撃を「権力とたたかう党派との党派闘争」と位置づけ、警察=カクマル連合であることを自認していたのです。

 権力打倒に向かって階級闘争が激化することを恐れ、一九六九年一月の東大決戦では防衛責任を引き受けたはずの法文二号館から前夜逃亡し、機動隊に法文二号館を侵入・占拠させ、ぎゃくに機動隊側の攻撃拠点にさせるという利敵行為をなしました。三里塚闘争にたいしては三里塚反対同盟を罵倒し、野戦病院車を襲撃する暴挙をはたらきました(一九七一年三月二五日)。早稲田大学では学内外のたたかいを潰して回り、川口大三郎さんをリンチ殺害したのです。一九七四年一月には、あろうことか破防法弁護団を白昼公然と襲撃したのです。警察権力にもできないことをカクマルはやったのです。

 彼らは、自らは権力といっさいたたかわず、組織を温存し、組織の利益だけを優先させていたのです。他党派と良心的活動家へのテロ・リンチが彼らの唯一の「たたかい」だったのです。自らを守るために、〝権力とたたかう部分がいるから自分たちが権力に弾圧される、だから権力とたたかうべきではない、権力を挑発している部分を皆せん滅する〟と公言して実行したのがカクマルだったのです。彼らが国家権力の側に移行し、そこから本多さん虐殺に走ったことはあまりにも明らかです。

 緊迫した状況のなかで、恵子さん自身が命の危険にさらされました。拉致・監禁された恵子さんは力君を守り抜くことに全力を挙げたのです。そのことで自分自身をも必死に守り抜いたのです。

 そればかりか恵子さんは夫である本多さんを失うという、生涯の痛恨事を抱え続けながら、そして以後も三・一四反革命の重圧を受け続けながら、毅然として生き抜いてきました。何よりも、父親をほんとうに残忍な形で奪われてしまった力君を立派に育て上げたのです。

 三・一四虐殺によって強制された恵子さんの苦しみはたとえようのないものです。誰も想像することのできないものです。だから母と子がほんとうよく寄り添い生き抜いたと思うのです。

 彼女は今日の追悼の集いにもていねいな私信を私に送ってくれました。私は若いときからの友人として、恵子さんの生涯をかけたたたかいに心からの敬意を表します。恵子さんの今日に至る壮絶なたたかいがあることを、私たちの共同の記録として銘記していただきたいと思います。

本多さんは学生、労働者とともにあった
 最後に一言。
 本多さんはかつて一九六七年一〇・八羽田・弁天橋での佐藤首相ベトナム訪問実力阻止のたたかいにおいて、現場に立っていました。現場の重要な局面では直接動き、指揮をとったそうです。学生、労働者とともに終始、権力・機動隊とたたかいました。また、一九六八年一月の米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争でも、佐世保現地に張りついていました。一月二一日、米軍基地に突入した学生の行動の指示も彼が行いました。そして一九六九年の四・二八沖縄闘争を七〇年安保・沖縄闘争の戦略的突破口とすべく、もてるすべての知力を注ぎ全身全霊をかけて日本帝国主義・国家権力の前にわが身をさらし、たたかいの最先頭に立ちました。

 本多さんが地区の労働者と親しく話し込み、全国のいろいろな労組や農民のもとを訪れて語り合ったことは、よく知られています。港合同の大和田幸治さんと一緒にお風呂に入って忌憚なく語り合ったという話は、私も聞きました。

 破防法被告となった本多さんは、革共同の最高指導者であるばかりか、すべてのたたかう党派、すべての先進的人士から認められる指導者となるべく期待されていました。今日この場にも中核派以外の多くの党派の方たちが来られております。その本多さんは二重対峙・対カクマル戦争においても自らのすべてをかけて、文字通り生命をかけて、最前線で指導にあたったのでした。

 本多さんは無念にも敗北死しました。本多さんの限界という厳しい問題が突きつけられています。けれども、本多さんの四一年間の生きざまは一点の曇りもないものでした。このことを申し上げて、私からのご報告といたします。

元革共同中央女性組織委員会議長(まき・みずたに・けいこ)

(註)『本多延嘉--3・14虐殺死を超えて四五年』(2020年10月25日「本多延嘉書記長追悼の集い」の記録・追悼誌。白順社)から転載。同書掲載時の署名は、水谷(槇)けい子。
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