《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

明仁・美智子「慰霊の旅」は、侵略と加害を隠蔽し戦死者・犠牲者を蹂躙するペテン劇(上)

2019-07-15 08:43:05 | 天皇制・右翼
明仁・美智子「慰霊の旅」は、侵略と加害を隠蔽し
戦死者・犠牲者を蹂躙するペテン劇


    
左:サイパン島最北端の「自決の崖」(撮影:森口豁、瑞慶覧茂編著『法廷で裁かれる南洋戦・フィリピン戦』2018年、高文研刊から転載)
右:ペリリュー島を訪問した明仁と美智子(2015年4月9日)

(上)「慰霊の旅」のどこが問題か

●明仁を継承し政治行動を強める新天皇徳仁

 新天皇徳仁体制が動き出しています。
 徳仁は、即位した際に、「上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽さんに励む…」と表明しました。それは、昭和天皇裕仁の最悪の戦争犯罪、平成天皇明仁の「象徴の務め」と称する権威主義的な政治行動、とりわけ二次的戦争犯罪(後で詳論)を始めとするすべての所業を全面的に肯定し、それを継承していくと公言するものでした(2019年5月1日)。

 さらに、米大統領トランプとの会談では、日米安保同盟維持・強化に一歩踏み込んだ発言をしました。
 いわく。「8年前の東日本大震災の折に、2万人を超える貴国軍人が参加した「トモダチ作戦」を始め,貴国政府と貴国国民から,格別の温かい支援を頂いた…」。さらに、「今日の日米関係が,多くの人々の犠牲と献身的な努力の上に築かれていることを常に胸に刻みつつ,両国の国民が,これからも協力の幅を一層広げながら,揺るぎない絆を更に深め…」。
 周知のように、トモダチ作戦とは、3・11東日本大震災・福島原発事故の救援を名目にした米軍の軍事作戦行動でした。アメリカ海軍・海兵隊・空軍が統合軍を編成し、横田基地に司令部を置き、2万4000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が参加しました。とりわけ、沖縄の普天間基地と嘉手納基地を出動拠点とし、在沖米軍基地と海兵隊の軍事的プレゼンスを誇示したのでした。大震災・原発事故を政治利用した米軍作戦であり、かつ日米軍事協力体制の実行だったのです。それを徳仁は手放しで賛美したのです。
 また、戦後の日米関係が沖縄戦とそこでの県民の筆舌に尽くしがたい残酷な犠牲を踏み台にしていること、裕仁が沖縄を文字通りアメリカに売り渡したことによって成り立ってきたことを、徳仁は百も承知で、それを肯定し、沖縄基地強化を軸とする日米安保体制の強化を表明したのです。

 加えて、徳仁は、東京オリンピック・パラリンピックにおいて、その両大会の名誉総裁に就任(19年7月22日~20年9月6日)したのです。名誉総裁・徳仁が両大会の開会宣言をするというのです。天皇と天皇制が、スポーツを利用して、(1)安倍政権と一体となって福島原発事故の放射能汚染を隠蔽し、被災者・被曝者・避難者を切り捨て、(2)国際社会に向かって「徳仁=日本の国家元首」を誇示し、(3)ゼネコンを始めとする各種独占資本に膨大な国家資金を注入することにお墨付きを与え、財界との癒着を深めるものです。

 それら徳仁の行動は、まぎれもない政治行動です。それは、安倍政権の内外政策と階級支配政策に合致したものであり、安倍政権をバックアップするものです。かつ安倍政権という時の一政権をも超えた‘永遠の最高権威’として君臨するための行動です。
 徳仁の許しがたい政治行動を弾劾し、新たな段階に入った反天皇制のたたかいをさらに強めていきたいものです。そのためにも、上皇におさまった前天皇明仁にたいするたたかいを打ち止めにするのではなく、むしろますます強めていくべきだと思います。なぜなのかは、はっきりしています。


●偽りの明仁像・美智子像は打ち砕かれなければならない

 前天皇明仁のいわゆる「生前退位」のビデオメッセージ放映(2016年8月8日)から今年2019年4~5月の退位・新天皇徳仁即位にかけての約3年間、偽りの明仁像・美智子像が急速につくりあげられてきました。
 いわく。「平和のために祈る平成の天皇」「加害の歴史を謝罪する天皇」「過去の戦争犠牲者に心を寄せる天皇と皇后」「全国での震災の被災者に寄り添う天皇と皇后」「国民の幸せを常に願ってきた天皇・皇后」「高齢になるまで全身全霊で象徴としての務めを果たされたことに感謝」などとマスコミが大キャンペーンを張り、新天皇徳仁が即位した今もそれを異常にくりかえしました。
 そればかりか、少なからぬ知識人たちが当時も、今も、「明仁天皇ならびに美智子皇后は平和主義者」「明仁天皇は安倍政権の改憲を好ましく思っていない」「国民とともにある象徴天皇制のあり方を、身をもって示した」と書き連ねています。果ては、前天皇明仁がまるで安倍政権による改憲・戦争政治に歯止めをかける存在であるかのように評価し、「護憲天皇」「名君」ともちあげる識者までいました。明仁を語る際には、ほとんど常に皇后美智子を同列において称賛しました。
 いちいち名前を挙げませんが、明仁・美智子を美化する知識人の何と愚かなことでしょうか。天皇制的権威にひれ伏す、何と恥ずべき姿であることでしょうか。

 それらの状況は日ごとにエスカレートし、明仁から徳仁に代替わりするなかで、現在の天皇と神話上の天照大神が一体的に結びつけられ、皇室神道とその神がかり儀式が公に肯定され美化されるにいたっています。
 マスコミ報道では、明仁・美智子の姿を見ると「日の丸」を振り、「陛下」と叫び、「ありがたい」と涙する日本の人々が巷にあふれんばかりであるかのように描き出されました。それが徳仁・雅子をめぐる状況にも引き継がれています。日本の大衆あるいは庶民がまさに「象徴天皇のもとに統合された日本国民」としてひとつにまとまって天皇・皇室・天皇制を拝み奉っているかのように映し出されています。

 このように、マスコミおよび多くの知識人・文化人の扇動あるいは先導によって、天皇と天皇制の国民的権威が戦後七〇数年の歴史において今ほど異様な高まりを示したときはないといっていいでしょう。これはさらに異様度を強めていきつつあります。
 もしこのまま進めば、かつて「天皇陛下万歳」と叫び、「日の丸」を打ち振り、アジア人民への蔑視とその民族解放闘争への憎悪、アメリカ・イギリスへの敵愾心をかきたてつつ、若者たちを侵略戦争に送り出した過去が、あっという間に再現されるかもしれないという危惧を感じざるをえません。

 あえていえば、日本の労働者人民の圧倒的多数が、これまでの近現代史とその真実から何ら学ばない無知蒙昧ぶりをさらけ出しています。最近の各種世論調査では、天皇制肯定・支持・好感が毎日新聞74%、NHK77%、朝日新聞76%、読売新聞83%の数字が出ています。世襲制の身分差別の極致である天皇制・天皇制イデオロギーならびに天皇を頂点とする日本国家権力の権威主義に無条件に服従する姿を示しています。
 これは、われわれ日本人の、世界的に類例のない愚かさを示すものであり、かつ自らの愚劣な姿を恥じない傲慢さをひけらかしている――それが昨今の状況といわなければなりません。

 だが他方で、世論調査にたいして「天皇制廃止」の見解をぶれずに表明する人々が少数であっても確固として存在しています(毎日新聞7%、読売新聞6%、朝日とNHKは同質問項目なし)。回答者に在日・滞日外国人が含まれるかどうかはわからないので、この点は無視すると、数量的には、近年の有権者総数約1億人強のうち700万人とか600万人が天皇制廃止であることになります。この人たちが意識的に意思表示しているという点では、決して全体に埋没する儚い存在ではなく、権力側から見ると「非国民」、「まつろわぬ民」、「国賊」として脅威すべき存在なのです。
 天皇制支持・崇拝一色であるかのように描くマスコミ操作に惑わされることはないのです。
 しかし、天皇制支持・崇拝が現在の日本人の絶対多数であることは事実です。
 それゆえ、徳仁・雅子に代替わりした今だからこそ、前天皇明仁・前皇后美智子の偽りの像を打ち砕き、彼らの罪状を満天下に弾劾しなければならないと思うのです。

●天皇制の五つの破綻点

 ところが、天皇制の本質と明仁・美智子の本性を見破ることは、じつは簡単なことなのです。すなわち、‘天皇制とは廃止する以外にない存在だ’ということを理解することは、たやすいことなのです。
 なぜなら、第一に、天皇を「畏れおおくも敬う」日本国民、天皇制を信奉する日本国民のあり方は、圧倒的現実であるかにみえて、じつは儚く、虚妄でしかないからです。
 その虚妄性を成り立たせているのは、次の五つの柱です。
 (1)記紀神話にもとづく万世一系デマゴギー、そのデマゴギーを粉飾する神道、さらにそれを補完するえせ儒教(とりわけ易姓革命の否定と家父長制イデオロギー)とえせ仏教(えせ平等思想)などによって構成される天皇教カルト、(2)国家権力と右翼の暴力・テロリズム、それによる弾圧と迫害、そこへの恐怖と隷従、(3)世襲制の身分差別という、差別を始めとするあらゆる差別の元凶、日本民族唯一絶対の民族排外主義とそこへの同化、それらのもつ非合理性・非条理性、(4)共産主義ならびに民族解放闘争への憎悪、ヒューマニズムや人権や民主主義を求める運動への敵視・排斥、その対極での一君万民式の超階級的な平等幻想、日本共同体幻想、(5)総じて、空疎な神権的権威主義への無知蒙昧かつ隷従的な信仰~~などによって、はじめて成り立っているものでしかないのです。
 これらは天皇制・天皇制イデオロギーの構造的矛盾であり、破綻点といえます。

 第二に、日本の労働者人民の生活と肉体はある地点にくれば天皇制的権威主義を受け入れることを必ず拒絶せざるをえないからです。すなわち、天皇制防衛の国家暴力・テロリズムが一線を越えるとき(暴力と差別)、かつまた憲法9条を破って侵略戦争に踏み出さんとするとき(戦争)、天皇制が孕むあらゆる矛盾が破裂するからです。
 教育現場での卒入学式における「日の丸」「君が代」強制にたいする不起立のたたかいの続発と発展は、そのことをくっきりと示しました。

 第三に、これまでの日本およびアジアと世界の近現代史の消すことができない真実、数多の生々しい事実、そこにおける天皇と天皇制・天皇制イデオロギーの犯罪が、天皇制廃止しかないことを否応なく指し示しているからです。
 この点で、女性国際戦犯法廷(2000年12月)による天皇裕仁有罪判決は、歴史的な金字塔といえます。

 第四に、たとえ圧倒的少数であろうと天皇制打倒、天皇制廃止の運動がやむことはなく、これを消し去ることはできないからです。前述の第一、第二、第三が重なったとき、少数派は必ず過半数に広がり、敗戦日本の1945~1947~1950年がそうであったように、圧倒的多数派になるでしょう。

 これらの問題は別途詳しく展開するとして、ここでは、明仁・美智子の虚像を打ち砕く最も根本的な問題を検討します。ほかならぬ明仁・美智子による南洋諸島への「慰霊の旅」がそれです。


●明仁はなぜ父裕仁の戦争犯罪を謝罪しないのか

 2018年の明仁誕生日会見(12月20日)は、明仁において、象徴天皇としての30年間の総括を出さねばならないものとしてありました。それゆえ当然にも、天皇裕仁体制のもとでの‘日本の戦争’について言及したのですが、きわめて簡略なものでした。ここでいう‘日本の戦争’とは、1931年9・18柳条湖事件(いわゆる「満州事変」)以来の、そして1937年7・7盧溝橋事件(いわゆる「支那事変」「日華事変」)以来の長い中国・朝鮮侵略戦争、それと重なる第二次世界大戦における日本の戦争のことです。
 明仁は次のように語りました。なお、明仁の言動のほとんどは美智子との共同事業であり、ときに美智子がリードしているものであることが次第に明るみに出てきました。何よりも美智子は、皇国少女として育ち、皇国少女のままカトリック信者となり、結婚後はカトリックから皇室神道に横滑りし、以来、アマテラス信仰の最強の実践者として生きてきています(後ほど詳しく論証します)。それゆえ、以下、適宜に「明仁・美智子」とします。

「(A)先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。
(B)そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のために訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。」(A、B、下線はそれぞれ引用者が付けました。)

 上記の(A)には、日本の中国・朝鮮・アジア・太平洋への侵略戦争について「誤り」「反省」「謝罪」「賠償」の言葉は何もありません。
 だが、考えてもみてください。
 日本の戦争は、すべて天皇を頂点とする日本国家が「天皇」の名をもってアジアへの侵略戦争をしかけ、「天皇」の名をもって人々を戦争動員したものでした。日本国家は、残酷で未曾有かつ長期にわたる国家的大量殺人を犯したのです。その大元帥が明仁の父裕仁なのであり、裕仁こそは最大最悪の殺人者・犯罪者なのです。
 「多くの人命が失われた」のではありません。裕仁・大本営がその戦争指導によって数限りない殺人を強行し、多くの人命を奪ったのでした。「多くの犠牲が生み出された」のではありません。裕仁・大本営が数限りないアジアと日本の人々を大虐殺し、さらにアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの人々を虐殺し、多くの犠牲を強いたのです。

 日本の労働者人民もまた、天皇の「ご真影」を奉り、神社参拝を強制され、教育勅語や軍人勅諭を徹底的に叩き込まれ、赤紙一枚で徴兵されて侵略の戦場に送り込まれ、他民族を殺し、自らも無慈悲に殺されたのでした。戦場でも銃後でも、まさに‘天皇の赤子として死ぬ。そのために生まれてきた’という生活と人生を強いられたのでした。その一方で、天皇制暴力によって労働運動などすべての社会運動が禁圧され、いっさいの異論が非国民の名で排斥され、日本は暗黒社会となってきたのでした。日本の民衆の命を奪い、犠牲を強いてきたのは、天皇裕仁とそれを頂点とする帝国主義国家日本だったのです。

 天皇・大本営の戦争犯罪はよく知られているものだけでも、七三一部隊による生物兵器開発・人体実験・細菌戦(1932年8月~1945年8月)、中国遼寧省平頂山虐殺事件(1932年9月16日)、南京大虐殺・強姦・略奪・放火(1937年12月~38年2月)、日本軍軍隊慰安婦制度による戦時性暴力(1938年6月~1945年8月)、重慶無差別爆撃(1938年12月~43年8月)、山口県長生炭鉱朝鮮人強制労働・水没事故(1942年2月)、フィリピン戦バターン死の行進(1942年4月)、長野県松代大本営・天皇居室地下壕建設朝鮮人強制労働・過酷死(44年11月~45年8月)、マニラ大虐殺・マニラ市壊滅(1945年1~3月)、マーシャル諸島チェルボン島朝鮮人軍属虐殺事件(1945年3月)、秋田県花岡鉱山強制連行中国人大虐殺(1945年6~10月)などがあり、枚挙にいとまがないほどです。
 アジア人民の戦死者、犠牲者は2000万人以上とされています。

 そればかりか、裕仁と大本営は、第二次大戦での敗勢が強まってくると、南洋諸島をめぐる対米戦争を「皇国防衛のための捨て石」とする作戦としました。補給線を切り、兵站なき戦闘を強いたのです。
 すなわち、南洋諸島を植民地占領する日本軍に対米戦での降伏を許さず、徹底抗戦=玉砕を強制したのでした。軍属(その多くは朝鮮人)や民間人にも同じことを強いました。沖縄戦でも同じく「捨て石作戦」を適用しました。そのため、米軍の圧倒的な火力による無差別の砲撃、空爆を受けて、膨大な数の人々が殺され、追い詰められた民間人は集団自決を強いられました。あるいは山奥や密林の中に逃げ、餓死、病死するものが相次いだのでした。
 さらに米潜水艦の攻撃により、護衛艦もなく、対潜能力も低く、多数の軍艦、民間輸送船が次々と撃沈され、そこでも数多くの海没死が強いられました。
 果ては、多くの若者たちが特攻死を強制されたのでした。その数、4000人以上といわれています。

 加えて、一口に「310万人」といわれる戦死者の多くは誰が、どこで、どうやって死んだのか、判明していません。軍人・軍属240万人のうちじつに110万人の遺骨が収集されておらず、放置されたままなのです。

 今ではよく知られていることですが、日本がすっかり敗北しているのに、戦争終結をずるずると引き延ばしたのは、裕仁でした。早期終戦を進言した近衛文麿上奏文(1945年2月14日)を裕仁は、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」といって、却下しました。その結果、沖縄戦、原爆の広島投下、長崎投下をもたらしたのでした。
 もし仮に、近衛上奏文の時点で降伏していれば、沖縄戦も広島も長崎も、なかったのでした。 

 まさに裕仁・大本営は、当時の日本帝国主義の国家意思を体現した存在として行動し、世界に隠すことのできない明瞭な戦争犯罪の最高責任者として終始振舞ったのです。戦争には侵略と被侵略があり、加害と被害があります。裕仁・大本営・帝国主義日本は、アジアへの侵略者であり、加害者なのです。
 明仁は、なぜその侵略と加害の誤りを認めないのでしょうか。なぜその戦争犯罪への反省を語らないのでしょうか。なぜその犠牲者への謝罪をしないのでしょうか。なぜ消そうとしてもけっして消えない国家的殺人の犠牲者・家族の深い傷への償い、賠償について述べないのでしょうか。
 世界史上も最悪最大の加害者である裕仁の子であり、かつ加害国家日本の頂点に「象徴」の名で君臨する存在である明仁。その明仁が、今もなお生々しいかの戦場に立ちながら、「誤り」「反省」「謝罪」「賠償」について何も語らないなどということがありうるでしょうか。そんなことが許されるのでしょうか。けっしてあってはならないことであり、けっして許されることではありません。

 平然と「慰霊」の儀式を行った明仁は、侵略と加害の認識を全面的に拒絶しているのです。いや、それだけではありません。明仁には、人権も、人道も、倫理も、人間としての心も、何もないということではありませんか。
 明仁には、ただ父裕仁と大本営と日本帝国主義の歴史的戦争犯罪を絶対に認めないという頑なな立場、すなわち日本国家の国家意思だけがあるのです。だから、日本の戦争について、まったく他人事のように語るという、驚くべき態度をとることができたのです。
 このように「慰霊の旅」そのものが、日本による新たな犯罪行為なのです。


●「先の大戦」とは?―日本人の戦争認識をミスリードする明仁・美智子

 そもそも、明仁は、「先の大戦」という言葉を使うのです。「先の戦争」という表現も使いますが、基本的には第二次世界大戦を意味する「先の大戦」というのです。これは何でしょうか。
 はっきりしていることは、明仁は1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃・フィリピン侵略以後の日本の対米英戦争だけを浮き彫りにさせようとしているのです。つまり、そこには日本の中国・朝鮮侵略戦争が1931年9・18侵略以来、そして1937年7・7侵略以来ずっと継続してあったこと、それが長期にわたる「先の戦争」の大きな部分をなしていたことを、明仁は意図的に消そうとしているのです。

 ところで、周知のように、日本国家の公式見解は「戦没者とは支那事変(註:7・7侵略のこと)以降の戦争での死没者」(1963年5月14日閣議決定)とするものです。戦没者約310万人という数字も、1941年12月の日本の第二次大戦参戦以降のそれではなく、この公式の規定にもとづいて1937年7・7侵略以降のそれなのです。
 そこでは1931年9・18柳条湖事件をもってする「満州国」でっち上げと中国・朝鮮侵略戦争を除いていること、さらに朝鮮および台湾の植民地支配にともなう侵略=鎮圧戦争を除いていることの歴史歪曲があります。とはいえ、「先の戦争」というとき、少なくとも1937年以来の日中戦争から1945年8~9月までの戦争を指すことは公式に確定しているのです。

 他方、軍人恩給(GHQ占領下で廃止、1953年8月に復活)や遺族年金(1952年に復活)や戦没者叙勲(1964年に復活・再開)では、「満州事変」以降、つまり1931年9・18侵略以降の旧軍人・軍属の死亡者とその遺家族を対象としています。
 このことはじつに重大な事実です。すなわち、日本国家および地方自治体は、遺族・遺族会に向かっては、‘先の戦争とは「満州事変」以来の戦争を指す’としているのです。実際、1950年代・60年代においては、夫や兄や弟や息子たちの戦死という生々しい現実にうちのめされ、悲しんでいる人々は、皆1931年9・18侵略以降の戦争での遺族なのでした。そこには、支配階級といえども否定しがたい侵略戦争のリアリズム、とうてい隠すことができない侵略ゆえの犠牲、戦禍の生々しさがあるのです。

 そして何よりも明仁は、日本の1930年代からの戦争の歴史をじつは百も承知しているのです。2015年1月の「新年にあたっての感想」では、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び……」とはっきりと語っているのです。

 にもかかわらず、明仁は自分の公式のことばなどなかったかのように振舞い、意図的に「先の大戦」とすることで勝手に1931年以来の、そして1937年以来の戦争を無視・抹殺しているのです。歴代の自民党政権もあからさまにはできなかったことを、明仁はやってのけたのです。何たる政治主義的な作為であることか!
 ここから、明仁・美智子による日本の侵略と加害の歴史の歪曲が始まっています。

●‘昭和15年戦争’での戦死者・犠牲者は312万人

 ちなみに、9・18侵略以降、7・7侵略までの戦死者数は、靖国神社の目録によれば1万7176人(2004年10月現在)とのことです。日本国家・厚生省(厚労省)は、彼らが把握している戦死者数を正確に公表していません。にもかかわらず、靖国神社にはこっそりと名簿の詳細を伝えているのです。
 したがって、「先の戦争」である1931年9・18柳条湖侵略から1945年8~9月敗戦までの戦死者および民間の戦災死者は、日本国家が把握するものとしては、約310万人(これは千単位以下を切り捨てたものと考えられ、きわめて杜撰な算出!)ではなく、プラス1万7176人、したがって約312万人なのです。

 なお、「先の戦争」を私たちはどう呼べばいいのでしょうか。
 「アジア・太平洋戦争」という呼称が多くの人に受け入れられているようです。しかしこれは、もともとGHQが採用した日米戦争中心史観による「太平洋戦争」という呼称があり、それを補ったものです。そのため1931年9・18侵略から始まった中国・朝鮮での戦争が無視、後景化されかねない面があります。また、後述するフィリピン戦の虐殺の大きさ・深刻さや激しい抗日民族解放戦争があったことが位置付けられていないものです。
 さらに、「15年戦争」もしくは「15年侵略戦争」という呼び方があり、これはより適切な規定であると思われます。ただし、中国・朝鮮から東南アジア、太平洋諸島にまでまたがった戦場の広大さが見失われてはならないという問題もあります。
 それらを踏まえて、本稿では、ビルマ戦争とニューギニア戦争など地獄のような惨禍がありますが、とりわけ日中戦争およびフィリピン戦を重視し、‘昭和15年戦争(中国フィリピン-アジア太平洋戦争)’あるいは簡略に‘昭和15年戦争’と表記したいと思います。「昭和」という元号をつけたのは、昭和天皇裕仁体制のもとでの戦争であったことに、ある意味で最大の特質があったことを明記しておきたいという趣旨からです。

●明仁・美智子は「戦争の犠牲」を美化、靖国思想を吹聴

 この一文の冒頭に、侵略戦争についての「誤り」「反省」「謝罪」「賠償」の言葉は何もないと書きましたが、もし、「天皇は政治的発言ができないのだから反省や謝罪など求めるべきでない」というなら、ではそれらを少しでも感じさせる文意や文脈があるのか、と問えば、それもありません。
 それどころか、明仁の「戦争の犠牲によって今日が築かれた」というロジックは、第一に、「戦争の犠牲」は「意義があった」「善なる結果をもたらした」という意味と文脈をもったものです。第二に、そもそも、その「犠牲」の中にはアジアの人々が含まれないことは、明瞭ではないでしょうか。
 したがって「戦争の犠牲によって今日が築かれた」なるフレーズは、帝国主義の侵略戦争において数多の日本人が犠牲に供せられ、犬死させられたことを肯定し美化するものです。「犠牲の上に良き今日がある」というロジックは、その残酷な数多の犠牲への反省をすっぽりと抜け落とさせてしまうものです。つまり、彼ら戦死者・犠牲者を‘英霊’とし、‘英霊に感謝する’というロジックなのです。

 では、彼らはその際、何を「慰霊」し、何を「祈って」いるのでしょうか。「平和」を祈っているのでしょうか。否です。まったく否なのです。
 そもそも「慰霊」とは皇室神道にのっとった祈りの儀式であり、一般に誰もが行う死者の追悼ではないのです。明仁・美智子は、天皇家の「祖先神」と奉っている神話上の天照大神にたいして祈っているのです。天照大神に天皇家と日本国家の安寧を祈っているのです。戦死者・犠牲者を追悼するのではなく、彼らの苦しみ、悲しみ、無念、怒りをまったく顧みることなく、「慰霊」すなわち皇室神道にのっとった祈りを、かの戦場の地にわざわざ赴いて挙行したのです。

 まさに明仁・美智子は、昭和15年戦争への一片の反省もないどころか、侵略の誤りを認め謝罪することを否定し、そして、むしろ積極的に英霊の思想=靖国思想そのものを吹聴しているのです。

 また、明仁が「多くの人命が失われた」「多くの犠牲があった」というとき、そこには戦時総動員体制によって朝鮮・中国から強制連行・強制動員した徴用労働者、日本軍慰安婦犠牲者の存在、その過酷な労働、性奴隷化、多くの虐殺事件という深刻な被害の実態はまったく対象外としています。明仁・美智子はこの問題について、一言も言及することなく、完全に沈黙=抹殺しているのです。
 しかし、大規模な総力戦遂行が必然化した徴用労働者や日本軍慰安婦の問題を抜きにして、いったいぜんたい戦争やその犠牲について語ることができるというのでしょうか。

 マスメディアは「~正しく伝えていく」という言葉を取り上げて、あたかもそこに‘反省や謝罪の意’が込められているかのような、でたらめな解釈を宣伝しています。だが、そこには何の根拠もありません。それはただ人々を天皇明仁賛美に誘いこむためのキャンペーンでしかありません。ぎゃくに「~正しく伝えていく」という言葉には、明仁の卑劣で最悪な歴史修正主義の意図――日本の侵略戦争犯罪の肯定と日米戦争の実態の露骨な偽造――があるのです。
 それらの叙述を受けて、「平成は戦争のない時代」などというきわめて政治主義的な発言が続くのですが、その点は前回に批判した通りです(「日本の攻撃型戦争国家化を「平和」と免罪する政治手法」2019年1月17日)。


●「慰霊の旅」は二次的戦争犯罪である

 次の(B)では、いわゆる慰霊の旅について語っています。昭和15年戦争あるいは中国フィリピン-アジア太平洋戦争で激戦地とされ、中国戦線と並んで厖大な戦死者を出したサイパン島、ペリリュー島、フィリピンで、明仁および美智子は「侵略戦争の誤り」「反省」「謝罪」「賠償」の姿勢を示したのでしょうか。否、まったく否でした。

 明仁は、慰霊の旅に出るときに必ず記者会見しています。そこでは、昭和15年戦争あるいは中国フィリピン-アジア太平洋戦争における日本の侵略と戦争の国家的犯罪を非常にはっきりと開き直り、積極的に肯定する言葉を連ねていたのです。
 明仁は、たとえば、「日本がサイパンで豊かな暮らしを目指して発展していたところにアメリカ軍が攻めてきて平和が一変して戦争になった」とか「日米の熾烈な戦闘が行われた際、日本軍はパラオの人々の安全に配慮した」とかという趣旨の、事実に反する大嘘を平然と述べているのです。フィリピン戦にいたっては、天皇裕仁と大本営がマニラ大虐殺の直接の責任を負っていることなど知らん顔して、まるで他人事のように語っています(詳しくは後述)。
 明仁は、天皇裕仁を頂点とする日本の侵略と加害の歴史を平然と隠蔽しているのです。

 しかも、明仁・美智子の「慰霊の旅」は南洋諸島の一部だけです。1944年7月のサイパン陥落後、主要にはアメリカと戦って一方的に敗北した島々だけなのです。それは中国・朝鮮・東アジアの広大な地とは別の地域なのです。戦争の期間としても最後の1年の期間だけなのです。
 それでいて、明仁・美智子は、あたかも「先の戦争」の戦死者すべての慰霊をしたかのように話をつくってしまっているのです。
 それは、「先の戦争」が1931年柳条湖侵略以来の15年戦争であることを明仁・美智子は百も承知(前述の2015年「新年の感想」を見よ)なのに、いや百も承知しているからこそ、「先の戦争」がまるで最後の1年だけであるかのように虚偽のイメージづくりをし、それ以前の侵略戦争の歴史を隠蔽するという卑劣な操作をしているのです。

 なぜ、そのような見え透いた操作をするのでしょうか。
 最後の1年間とは、日本がアメリカの攻勢の前に惨敗に次ぐ惨敗を喫し、累々たる戦死者・犠牲者を山と重ねた期間です。つまり、こういうことです。
 明仁・美智子は、まるでアメリカが強大な一方的な加害者で、日本が哀れな一方的な被害者であるかのように印象づけるために、そのような歴史偽造の操作をする必要があったとみていいでしょう。ことごとくが、加害を隠蔽するための操作なのです。

 明仁・美智子は、日本の戦争の「歴史を正しく伝えていく」どころか、まったく逆に、マスコミ・知識人を含めた日本人の歴史認識を歪んだものにミスリードしているのです。ことほどさように、明仁・美智子こそ‘卑劣かつ最悪の歴史修正主義者’なのです。
 明仁・美智子が日本の侵略と加害の歴史、同時にまた残酷な犬死と犠牲の歴史を歪めに歪めていること、それを明治―大正―昭和―平成という天皇位世襲による国家権力の頂点において行っていることは、一個の重大な国家的な犯罪、いわば二次的戦争犯罪である、と断じなければなりません。

 明仁・美智子「慰霊の旅」の問題性はひとたび分析してみれば明らかです。しかし、その度に政治的に大問題にすべきであったのに、私たちはそれを指摘、弾劾することがほとんどなかったのでした。その痛切な反省を含めて、今回の「慰霊の旅」をとりあげた次第です。
 もう少し詳しく検証していきましょう。
(つづく)

水谷保孝

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