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日本の攻撃型戦争国家化を「平和」と免罪する政治手法――天皇明仁の誕生日会見を弾劾する‼(その2)

2019-01-17 11:53:06 | 天皇制・右翼
日本の攻撃型戦争国家化を「平和」と免罪する政治手法――天皇明仁の誕生日会見を弾劾する‼(その2)

「平成は戦争のない時代」ではなかった‼


▲朝日新聞1面(2018年12月23日)


▲南スーダン派兵部隊の「日報」には「戦闘」という記述があった(2016年7月11日)


▲自衛隊員は南スーダンで死の恐怖の中にあった

 天皇明仁の誕生日会見(2018年12月20日)が批判されるべき問題点はまだまだあります。マスメディアが強く押し出したフレーズ、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と語ったことこそ、その最大の犯罪性といえるでしょう。この言葉には何重にも犯罪的な意味があります。
 ちなみに、新聞各紙やニュースサイトのメーン見出しは次のようです。
 「戦争のない平成に心から安堵/沖縄 犠牲への思いこれからも」(朝日新聞).
 「平成 戦争なく『心から安堵』 天皇陛下きょう85歳」(読売新聞)。
 「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに心から安堵 天皇陛下85歳/沖縄へ 皇后さまへ 声震わせ在任最後の誕生日会見」(東京新聞)
 「天皇陛下85歳 誕生日会見(全文)/平成が戦争なき時代として終わろうとして安堵」(YAHOO!ニュース)。

 ほとんどのマスメディアが明仁の「平成が戦争のない時代、心から安堵」というフレーズを一番にもってきていることは、今回の会見の核心がどこにあるかをじつによく示すものだといえましょう。まさに、明仁の言とは逆に、「平成は戦争のない時代」ではなかったのです。明仁はこの現実を隠蔽し、現実から人々の注意をそらせています。これは明らかに意図的な政治行為ではないでしょうか。

●一触即発の朝鮮戦争危機の上に推移してきた平成時代

 一つには、明仁はその「戦争ない」発言という政治行為によって、歴代の自民党政権と今日の安倍政権がアメリカと一体となって進めてきた北朝鮮侵略戦争遂行体制の構築を明白に擁護し、免罪していることです。もちろん、天皇明仁と安倍政権との間には位相の違いと軋轢があります。その違いと軋轢をどうとらえるかについては後述しますが、今回の明仁発言が安倍政権による一連の対北朝鮮・対中国戦争政策を擁護・免罪する意味をもつことは明らかです。
 周知のように、安倍政権は次のような具体的な戦争政策を推し進めてきています。
 特定秘密保護法の制定(13年12月13日)、集団的自衛権行使容認の閣議決定(14年7月1日)、安保法制2法の制定(15年9月30日)、教育勅語教材使用容認の閣議決定(17年3月31日)、共謀罪(テロ等準備罪)の新設(17年6月15日)などを強行しました。
 さらに、弾道ミサイル防衛システムの強化としてイージス艦への弾道ミサイル対処能力の付与およびペトリオット(PAC-3)の配備、イージス・アショア(陸上配備型イージス・システム)2基の導入、さらに陸上自衛隊における敵基地先制攻撃と日本型海兵隊のための陸上総隊および水陸機動団の新設があり、日本は急速に攻撃型戦力を強めているのです。加えて新しい「防衛計画の大綱」とそれにもとづく「中期防衛力整備計画(19~23年)」の閣議決定があります(18年12月18日)。そこでは、護衛艦2隻の空母への改造、海上自衛隊に垂直離着陸ステルス戦闘機であるF35Bを42機導入、航空自衛隊に同F35Aを105機導入が決められています。それは空母と空母船団の形成にほかなりません。また、長距離ミサイルJASSMを導入するというのです。
 つまり、日本から遠く離れた海洋に空母船団を派遣し、そこから長距離ミサイルを搭載した戦闘機を出撃させるというのです。照準は北朝鮮ならびに中国に据えられています。
 それらは、日本がもう対北朝鮮・対中国の攻撃型戦争国家になるということです。現実の自衛隊の戦闘態勢は、前記した次々と改悪された法体制をも超えて、実質的に9条改憲の先取りをしています。そして、各種の日米共同作戦のための実戦訓練が重ねられているのです。1980年代以来の日本の軍事大国化は、空母建設をもってついに一線を越えたといわねばなりません。
 振り返れば、1990(平成2)年以来、今日の安倍政権を始めとする自民党政権は、憲法の上に日米安保条約・日米安保ガイドラインを置き、国会の上に日米安保協議会(いわゆる2+2)を置き、その下で、日米共同作戦体制を構築してきています。すなわち、帝国主義軍事同盟である日米安保同盟が現実に憲法を越えてどんどん動いているのです。
 その日米安保同盟は、(1)米クリントン政権下の1994(平成6)年に北朝鮮攻撃の文字通り一歩手前までいった事態(アメリカは「第1次北朝鮮核危機」と命名)を土台とし、(2)きわめてリアルな対北朝鮮侵略戦争計画と(3)その絶対条件としての沖縄基地再編・強化を不断に更新するものとして機能しているのです。そして、それは(4)対中国侵略戦争をも射程にすえて強化されています。
 ここでは省きますが、それらのために年々莫大な防衛予算が組まれています。とりわけ、アメリカから高額な兵器を次々と購入することを優先して後払いのツケがかさみ、国家予算をゆがめてしまっています。
 これらが明仁在位の期間の戦争準備と軍事外交の現実です。米日による北朝鮮核攻撃という核戦争危機がいつ破裂するかわからない時代、それが平成時代なのです。それを、「平成は戦争のない時代、心から安堵」というとは、攻撃型戦争国家化の進展という戦争的現実を「平和」とすり替える、とんでもない詭弁ではありませんか。
 それにしても、「~~心から安堵しています」という口ぶりは、まるで‘戦争のない時代をつくってきたのは朕である’、‘朕は満足しているぞ’とでもいうかのような傲慢きわまる態度ではありませんか。

●日本は海外派兵を重ねてきている

 二つには、対北朝鮮侵略戦争シフトと同時に、平成という明仁在位の期間、1992(平成4)年にPKO派兵法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)の強行成立をもって、日本は繰り返し海外派兵、すなわち海外へ戦争しに出たのです。
 事実、南スーダン派兵自衛隊の「日報」隠蔽問題で、何度も「戦闘」という記述があったことが明らかになりました。日本政府は、12年1月から17年5月までの5年間、自衛隊を南スーダンにPKO派兵しましたが、16年7月、政府軍と反政府勢力の大規模戦闘が起きた際、陸上自衛隊幹部は部隊全員に武器携行命令を出し、実際に戦闘が行われました。隊員たちは「戦争だった。部隊が全滅すると思った」と証言している、と報じられています。
 日本はPKO派兵によって戦争の渦中にあったのです。その結果、よく知られているように、03~09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺した隊員は29人、うち4人はイラク派兵が直接の原因だったのです。01~07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、自殺した隊員は25人いたのです(15年5月27日、国会での安保法制をめぐる衆院特別委員会での政府答弁)。さらに、海外や国内災害派遣を経験した隊員のうち、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になった隊員が毎年1000人以上いること、うつ病や「不安障害」に苦しむ隊員はその数倍になるといわれています。
 戦場に送り込まれた自衛隊員が、いつ殺されるか、いつ相手を殺さねばならないのかという極限的な緊張の持続の中で、死の恐怖に襲われ、自殺、PTSD、「精神障害」に追い込まれているのです。この現実を「戦争がなく、安堵した」ということができるのでしょうか。だが、これらのことを見て見ぬふりをせよ、と明仁はいったのです。
 一体、日本のイラク戦争への参戦やアメリカの「対テロ戦争」への全面支持や安保法制の強行成立、度重なるPKO派兵など、安倍政権に限らず歴代政権によるすさまじい戦争政策、そして在沖米軍基地からの米軍出撃・訓練にともなう数々の事故、被害に如実に示される沖縄の戦場化は、「戦争のない時代」といえるのでしょうか。あるいは、まだ戦争にいたっていない「平和」な状態だといえるのでしょうか。これらは、日本の戦争以外の何ものでもありません。

●“日本さえよければいい”

 三つは、明仁は日本以外の世界を巧妙なペテンをもって無視していることです。平成の時代、すなわち1989年から2019年までの30年におよぶ時代は、アメリカなどによるいくつもの侵略戦争とアフリカでの内戦の多発、そしてシリアの内戦とアメリカ主導の多国籍軍の参戦、ロシアの参戦という事態が起こり、そしてそれが今も続く時代です。そうしたあまりにも明らかな、おびただしい戦禍の現実、厖大な数にのぼる苦しむ難民の姿は、日本自身の問題としてとらえ返さねばならないものです。
 具体的にみても、アメリカによるパナマ侵略戦争(1989~1990年)アメリカなど多国籍軍によるイラク空爆―侵略戦争(いわゆる湾岸戦争)、ユーゴスラビアにおける独立と連邦解体にいたる内戦、NATOの軍事介入(1990~2001年)、チェチェン・ロシア戦争(1994~2009年)アメリカによる「対テロ戦争」を呼号したアフガニスタン侵略戦争(2001~2014年)、それと重なったアメリカなど有志連合によるイラク侵略戦争(2003~2011年)、対アフガニスタン、対イラクの侵略戦争と重なって遂行された世界的規模でのアルカイダなどイスラム武装勢力に対するせん滅戦争、さらにアフリカでの数々の内戦、そしてシリア内戦とそこへの大国の参戦(2011年春~)があります。シリアをめぐる戦争は、21世紀最悪の非人道的惨状を生み出しています。そしてイスラエルによるパレスチナ・ガザへの封鎖と空爆・地上侵攻が続けられ、多くのパレスチナ人が虐殺されています。
 世界でのこのような戦争の現実に日本は、日米安保、PKO、多国籍軍という形ですべて関わっています。シリアに対しても、アサド政権と戦う反政府勢力への物資援助やシリア資産凍結を措置し、直接間接に参戦しています。
 明仁は、これらについて、「民族紛争」「宗教対立」「テロによる犠牲」「多数の難民」と言及し、「心が痛みます」としています。ところが、結局は生々しい現実を切り捨てて、「平成は戦争がない時代、心から安堵」とまとめてしまうのです。何というペテン的手法なのでしょうか。明仁が使う「心が痛む」という言葉の何と軽いことか、何と空虚なことか。
 そこには、“日本さえよければいい”という排他的な日本中心主義、まるで“日本が世界”であるかのような日本一切主義という非常に政治主義的・帝国主義的な態度があるといわなければなりません。そのような明仁の態度は、戦前戦時中の八紘一宇にもつながる思想ではないでしょうか。

 
▲日本軍性奴隷制を裁いた女性国際戦犯法廷(2000~2001年)

●昭和天皇裕仁の戦争責任が裁かれた時代

 四つには、明仁在位の期間、ちょうど日本の敗戦50周年、60周年、70周年がめぐり来たのでした。その節目をも契機にして、日本の戦争と植民地支配の傷跡がまだ生々しくあること、その被害が何ら補償されていないこと、日本の軍人・軍属の戦死者230万人(1937~1945年)といわれるうち6割が戦闘での死ではなく餓死であったこと(藤原彰著『餓死した英霊たち』2001年で初めて明らかにされた)、そうした戦争への告発と記憶と検証が徐々に、あるいは衝撃的に次々と明らかにされてきたのが、まさしく明仁在位の期間です。
 その中でも特筆すべきことは、明仁が天皇になった2年後の1991年、金学順(キム・ハクスン)さんが日本軍軍隊慰安婦被害者であると、勇気をもって決然と名乗り出たことでした。そして韓国、北朝鮮、中国、フィリピン、インドネシアなどでの多くの慰安婦被害者が告発に立ち上がりました。その中で、日本軍性奴隷制を裁く目的で民衆法廷である女性国際戦犯法廷が準備され、2000年12月に東京で開かれるにいたり、2001年12月4日、ハーグでの最終判決において、「天皇裕仁は有罪、日本政府に国家責任」を明示しました。
 また、明仁即位の少し前、1987年10月6日、沖縄県読谷村の知花晶一さんが沖縄国体開催に抗議して、「日の丸」焼き捨て決起を敢行しました。さらに、1989~1990年の天皇代替わりに対して、全国各地で神道儀式である即位式、大嘗祭などへの広範な抗議デモ、数々のゲリラ戦が叩きつけられました。1999年から教育現場で、教員たちが卒業式・入学式の「日の丸・君が代」不起立のたたかいに次々と入りました。いわば‘非国民’‘服わぬ民’であることを恐れない決起が運動化していったのでした。そこには、多かれ少なかれ、天皇裕仁を頂点とする天皇制国家が犯した戦争犯罪を改めて、いや実質的には初めて大衆的規模で公然と追及する意志が沸き起こったのでした。
ところが、明仁は「平成は戦争のない時代、心から安堵」と会見することで、第二次大戦における日本の侵略戦争がまだ終わっていないこと、その血がまだ流れ続けていることを塗り隠し、抹殺しようとしているのです。
 明仁は別のところで、「戦争の歴史を正しく伝えていくことが大事」といっていますが、日本の戦争と植民地支配への被害者の告発、糾弾に向き合おうとは決してしていません。それと向き合うことは、もとより天皇明仁個人にとって並大抵のことではありません。だからこそ、天皇制を体現する非個人的存在たる明仁は、それを無視・抹殺し、まったく正反対に「心から安堵した」などと語ったのです。
ことほどさように、明仁が「平和」と語るとき、何の真摯さもなく、ただ言葉を弄んでいるだけ、といわなければなりません。

●明仁・美智子の裏と表

 さて、明仁および美智子はこれまでの数々の発言によって、相当多数の人々が「護憲をたたかう天皇」「平和主義者天皇」「慈愛に満ちた皇后」などと思いこむような、実に思わせぶりな素振りを示してきました。だが、「最後の会見」といわれる今回の誕生日会見は、いわば明仁と美智子の30年間の総括なのですが、それゆえにこそ、その見せかけの言葉の裏と表がはっきりしたと、私は思います。
 すなわち、戦争の現実が「ある」のに、それを「ない」と、平然ということができるのは、なぜなのでしょうか。誰もが心から安堵できない情勢が起き続けているのに、「心から安堵する」などといってのけるとは、何なのでしょうか。
 それは、明仁がはっきりと侵略戦争遂行側、加害者側、すなわち戦前戦時の天皇制国家の頂点に位置した天皇裕仁とその全悪行の継承者の立場をとっているからではないでしょうか。この点について、さらに明らかにしたいと思います。(つづく)

2019年1月17日
水谷保孝(みずたに・やすたか)


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