死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

「除霊」や「お祓い」は効果があっても一時的。心のあり方を修正していかないと根本的な解決にならない

2007-05-16 | 心の波長を変えない限り除霊の効果は一時的
勇二 「憑依霊をはずすっていうと、よく「除霊」とか「お祓い」をしたほうがいい、なんていうよね。これは、どうなんだろう?」

正太  「世の中には霊能者と言われる人は数多いんだけど、そのうち9割以上は、ニセモノであるか、あるいは悪霊にそそのかされている、というのが現状なんだね。正しい霊能者というのは、1割もいないんだよ。
 だから、結論をいってしまえば、そうした得体の知れない霊能者のところに行って、除霊なんかをしてもらうのはむしろ危険なんだね。新しい悪霊をもらってくるぐらいがオチなんだよ」

勇二 「霊を取ってもらいたいのに、逆に別のをもらってきてしまうわけ?」

正太 「そう。追加して別のをもらってくる場合もあるけど、強いのをもらった場合、それまで憑いていたのを追い出すという場合もあるんだね。その場合、今まで悪かった足が治って、今度は腰がおかしくなるなんて現象もおきるんだよ。
 また正しい霊能者の場合でも、仮に霊力でもって悪霊を取ったとしても、早いときは、その霊能者の家や事務所を出たところで、憑依していた霊が戻ってきちゃうんだね。結局、本人の心境が変わっていないから、「波長同通の原理」「類は類をもって集まるの原理」にしたがって、何度払っても戻ってきてしまうんだ。ちょうど、臭いものをつけていると、払っても払ってもハエが寄ってくるのと同じなんだ」

勇二 「なるほどね。その臭いものを取り去らない限り、ハエはいくらでもやってきてしまうということだね。悪想念、執着という臭いものを、取り去ることが、ほんとうの解決につながるわけだ」

正太 「そうなんだ。結局、憑いている人と憑かれている人は同じ心境だ、ということだね。だから、いくら他力で悪霊を取ったとしても、反省によって自分の心のあり方を変えていかない限り、効果は一時的なものにすぎないんだ。多少、時間はかかったとしても、自分の心を変えていくことによって、憑依霊を取っていくのが、根本的な解決への道なんだよ」



「深酒」と「睡眠不足」は憑依を容易にするので、特に注意が必要

2007-05-15 | 憑依を防ぐには「健康生活の維持」も大切
正太 「悪霊の憑依を避けるには、特に理性の部分が大切なんだ。霊的なものに翻弄されないためには、理性をしっかり保つことが大事なんだよ。
 ところが、お酒を飲むと、この理性の部分がマヒしてくるんだね。そのため、地獄霊が非常に入ってきやすくなるんだよ」

勇二 「ああ、酔っ払いが、おかしなことを口走ったり、ふだんやらないような行為に及んだりするけど、あれは憑依現象でもあるんだね」

正太 「そうなんだ。夜の盛り場とかでは酔っ払った人がいっぱいいるけど、ああいうふうになると、その辺をウロウロしている浮遊霊なんかが、いくらでも入ってこれる状態になるんだね。だから、人格がコロッと変わってしまって、訳のわからないことを叫んだりしているけど、本人はたいてい覚えていないんだ。別の霊が入っていて、別人格になっているんだよ。
 また、そこら辺にいる霊が入り放題とまではいなかくても、会社の帰りに同僚なんかとお酒を飲んでいる人のなかには「お酒が一定量を越すと人格が変わる」という人がいるよね」

勇二 「うちの上司なんかもそうだよ。急におかまキャラになるんだ(笑)」

正太 「そういう場合も、文字通り、人格が変わっているんだね。理性が弱ってくると、霊が入りやすくなるんだけど、たいていの場合、その人に固有の憑依霊、つまり「お馴染みのお客さん」の個性が出てきやすくなるんだ。その人の人格の悪いところが急に出てきて、ふだん言わないようなことを言ったり、暴力をふるったり、ふだんはもう少し穏やかな人なのに、見境なく女性に抱きついたり、エッチなことをしはじめたり、ということが起きてくるんだよ」

勇二 「そうか。「つきあいで」なんて言いつつ、自分が好きだから毎晩飲みにいっちゃうのもいるけど、お酒を常習化するのは危ないね」

正太 「そうなんだ。普通の状態なら、理性的に生きていて、色情霊なんかを寄せつけないような人が、会社がひけてから同僚たちと酒を飲んでいるうちに、だんだん理性がマヒしてくるんだね。そして、ネオンが恋しくなり、巷を歩くうちに色情霊たちにそそのかされて、自分もそういう輩に成り下がるというケースがとても多いんだよ」

勇二 「ふーむ。地獄霊にしてみれば、お酒で理性がマヒしてくるというのは、取り憑くのに好都合な状況なんだね」

正太 「うん。彼らにとって憑依できる相手というのは、この世でせっかく手に入れたお城か乗り物みたいなものなんだね。もし、これを手放すようなことになったら、もといた苦しい地獄に帰らなきゃいけなくなるんだよ。
 彼らとすれば、取り憑いている相手に「もしかしたら自分には悪い霊が憑いているんじゃないか」と疑われるだけでも大変なことなんだ。だから、そういう疑いを持たせないために、また憑依を容易にするためにも、どんどん理性をマヒさせる方向、判断力を鈍らせる方向に誘導していくんだ。たとえば、酒びたりにさせるとか、夜更かし型にさせるとか、生活を不規則でふしだらにさせていくんだね」

勇二 「なるほどね」

正太 「酒や夜ふかしで、睡眠不足になると頭がボーっとして判断力も働かなくなって、これまた憑依がしやすくなるんだね。こんなふうに「深酒」や「睡眠不足」は悪霊が狙ってくるポイントだから、節制、そして生活にきちんとしたけじめをつけることがとても大切なんだ」

勇二 「うーん。これまた反省だな」

正太 「お酒というのも「百薬の長」といって、使い方によっては薬になることはあるし、タバコなんていうのもストレスを解消するという役割があることは事実だけど、こうしたものを好むというのは、心理的に見ると実は「心の奥にやましいことがある」ということなんだね。表現はキツイんだけど、心にやましいことがある人は、自分の理性をマヒさせたいと思うんだね。そうすると、酒とかタバコとか、そうしたものにだんだん手を出していくようになるんだよ」

勇二 「へーえ。まあ、酒で「まぎらせる」とか「ウサ晴らし」とかいうけど、なんとなく自分の心を直視したくないというか、ごまかしたい、みたいな気持ちが働いているのかもしれないね」

正太 「お酒とかタバコとか、こうしたものがそれ自体必ずしも悪いものとまでは言えないし、潤滑油として必要なことはあるかもしれないけど、霊的に調和されていけば、そういうものから自然に遠ざかっていくのは事実なんだよ」

勇二 「そうかあ。お酒のつきあいも週一か週二で軽くにしようっと」

正太 「いろいろ話してきたけど、悪霊から身を守るためには、健康面の管理もとても大切だということ。健康生活は「栄養」「運動」「休養」の三つのバランスで成り立っているから、このバランスを整えることだね。栄養に気をつけ、適度な運動を生活にとりいれ、適度な休養、睡眠を確保することが健康の秘訣なんだ。
 また、人間の理性と知性を狂わせるアルコールなんかに、魂まで奪われないことなんだ。アルコールがないと生きていけないようになると、だんだん理性を失っていって地獄霊たちに支配されてしまい、必ず仕事の失敗や家庭の崩壊につながっていくんだよ」
 


悪霊の憑依を防ぐには「健康生活の維持」も大切

2007-05-14 | 憑依を防ぐには「健康生活の維持」も大切
正太 「ここまで、憑依霊をはずす方法として、「反省(執着を断つ)」「感謝」「与える愛」ということを上げてきたんだけど、さらに付け加えると「体調の管理」「健康生活の維持」ということも重要なんだ」

勇二 「ほーう、心の管理だけじゃなく肉体のほうの管理も。確かに、体調を崩すと、愚痴っぽくなったり、悲観的になりがちだよね」

正太 「うん。地獄霊が寄ってきやすくなる原因としては「健康生活が守れていない」ということも大きいんだ。もちろん、人間というのは、あの世に還れば、魂だけの存在になるけど、この世にいる間は肉体に宿って修行をしているから、肉体面への配慮というのは決して軽んじちゃいけないんだね。この世にいる間は「色心不二」、つまり霊と肉体は相互に影響しあっているから、今、君が言ったように、体調を崩すと、どうしても心のほうにマイナスの影響が出やすくなるんだよ。だから地獄霊の憑依を防ぐためには、心正しく生きるということと同時に、健康管理も大事なんだね」

勇二 「体調が悪くなると、マイナスの思いがでやすくなる。その結果憑依されやすくなる、というプロセスだね」
 
正太 「そう。たとえば、心正しく生きているような人でも、疲労しすぎると、天上界の霊は寄ってきにくいんだね。逆に、疲労していると、悪霊が寄ってきやすいし、入りやすいんだ。肉体的に疲労しすぎていると、光が入らずに、悪霊を引きつけやすくて、心を正そうとしても正せないことがあるんだよ。だから、あまり疲れている場合は、まず、体のほうで健康生活を取り戻すことが大事なんだ。休息を取り、栄養も摂って、体をつくり直すことだね。いくら「心の修行」といっても、健康生活をつくらないと無理な場合があるんだ。
 地獄霊がかかってくる人というのは、たいていいつも心に心労が絶えなくて、体のどこかが悪いと訴えている人たち、ノイローゼになったり、内臓諸器官の調子が悪いような人たち、こういう人たちを目がけて、悪霊たちは寄ってくるんだよ。この点でいえば、強健な肉体を持っている人に、悪霊はかかってきにくいんだ」

勇二 「なるほどね。「健全な肉体に健全な精神が宿る」っていうけど、そうした人は悪霊のほうも苦手なわけだ」

正太 「たとえば、西洋には「ドラキュラはニンニクを嫌がる」っていう話があるけど、これの本当の意味は「ニンニクをとったりして、地上の人間が、より健康になり体力をつけてしまうと、地獄霊の側はつけ込みにくくなる」ということを象徴的に表しているんだね」

勇二 「へーえ、そうだったのかー。ドラキュラって、口臭とかによっぽど敏感なのかと思ってたよ(笑)」


感謝にもとづく愛こそが、ほんものの愛―「無償の愛」になっていく

2007-05-13 | 感謝に基づく愛が無償の愛につながっていく
正太 「ほんとうの「与える愛」は、無償の愛、見返りを求めない愛なんだけど、これができるためには「感謝」がないとだめなんだね。感謝にもとづく愛なら、それじたいが「お返し」であり、「感謝行」「報恩行」だから、見返りを求める気持ちは起きてこないんだ。
 ところが、世の中には「与える愛」を実践していると自分では思っていても、実際はお返しが欲しくてやっている人がけっこういるんだね。その場合には、相手からお返しがかえってこないと愛が即座に苦しみに変わるんだ。それは、ほんとうの愛ではないからなんだね。苦しみに変わるような愛、執着の愛というのは、ほんものの愛ではないんだよ」

勇二 「そうか、感謝にもとづかないと、愛がほんものにならないわけだね」

正太 「そう。このことをもっと具体的に説明すると、こうなるんだね。「与えた愛は与えた人のものになる」これが人間の心を貫く偉大な法則なんだけど、見返りを求めると、霊的にはプラスマイナスゼロになってしまうんだよ」

勇二 「へーえ、プラマイゼロに」

正太 「うん。「与えれば与えた分だけ、仏から、光として、その人の後光(オーラ)として与えられる」ってことは前に話したよね。たとえば、「あの人のためにしてあげよう」という純粋な思いや行為を発すると、その瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光がパッとさしているんだね。ところが、せっかく、なにかよいことをしたとしても、同じだけの結果、あるいは、それ以上の結果を期待して行ったときには、その行為は必ず帳消しになるんだよ」

勇二 「なるほどね。「これをすることによって誰かにほめてもらいたい」なんて欲を出すと、神様から光が降りてこないんだね。功徳の部分がなくなっちゃうわけだ」

正太 「うん。だから、他の人に愛を与えれば与えるほど、ほんとうの意味で、その人が成長していく、発展していく、という法則があるんだけれど、与える愛を実践していく際に、感謝にもとづいた「無償の愛」という視点だけはぜひ忘れないでほしいんだね」



感謝する心が「与える愛」につながっていく

2007-05-12 | 感謝に基づく愛が無償の愛につながっていく
勇二 「反省と感謝を始めると、後頭部から後光がさしはじめるから、憑依霊のほうはだんだん波長が合わなくなって憑いていられなくなる、ということだね」

正太 「うん。彼らは感謝されると困ってしまうんだね。いちばん嫌がるのは反省で、反省されると、悪霊はすぐにブルブルし始めるんだよ」

勇二 「そうか。悪霊と戦うなんていっても、何も力ずくでやる必要はないんだね。地獄霊と、反対の心、逆の心を起こせばいいわけだ。それが一番苦手なんだね」

正太 「そうなんだよ。一見、消極的にみえるけど、こうした方法がもっとも効果的なんだ。
 それと、この感謝についてだけど、「与える愛」というのは、感謝というものがあって、初めて出てくるものなんだ」

勇二 「感謝から「与える愛」が出てくる?」

正太 「うん。感謝ができると、どうなるかというと、「お返し」がしたくなるんだね。この「お返しがしたい」という思いが「与える愛」につながっていくんだよ」

勇二 「なるほどね。「与える愛」というのは「ご恩返し」のことなわけか」

正太 「そうそう。だから「与える愛」の前提となるものは「自分が与えられているということに対する感謝」だし、「自分が与えられているということに対する自覚」なんだ」

勇二 「感謝する心がないと、「愛を与えよう」という気持ちも起きないってことだね。言われてみると、確かにそのとおりだな。「ありがたい」っていう気持ちになると、「自分にも何かさせてもらいたいな」って気になるもんね」

正太 「そう。だから「与える愛なんていわれてもサッパリわからない、何も思い浮かばない」という場合は、まず前段階の感謝がないんだね。なぜ感謝がないかというと、与えられていることに対して、気づいていないからなんだ。じゃあ、なぜ気づいてないかというと、反省したことがないからなんだね。
 反省ということには、自分が与えられていること、生かされていることの発見も含まれているんだよ」

勇二 「なるほどな」

正太 「この感謝の部分がなかったり、表面だけで行っていると「与える愛」といっても偽物になってしまうんだね。たとえ表面的には善行であっても、そこに「真心」がこもっていないと意味がないんだよ。
 神様というのは、その行為のなかにどれだけの真実、どれだけの真心が光っているかで評価されるんだ。真心が光るためには、ほんとうの感謝、つまり、自分が生かされていることに対する感謝がないとだめなんだよ。いくら、慈善事業をやっても、アフリカの難民にお金を送っても、この真実のところができていないと、天国にはいけないんだね。全然関係がないんだよ」

勇二 「ふうむ、表面的な善行、うわべだけの善行じゃなくて、そこにどれだけの愛の思い、真心がこもっていたか、ということなんだね。まあ、あの世は、思いしかないっていうから、もし見せかけだけで、思いの部分が入ってなかったら、実質が何もないってことだろうしね」

正太 「そうそう。行為だけ見れば「愛の行為」のようでも、動機の部分が「人によく見せたい、見られたい」なんていう虚栄心とか名誉欲にもとづく場合もあるんだね。だからその奥に、真心がこもっていないと、真実のものがないと霊的にはゼロなんだね」




地獄霊で「感謝」ができる人は一人もいない 

2007-05-11 | 感謝に基づく愛が無償の愛につながっていく
勇二 「それと、憑依霊がいやがるものとして「反省」の他に「感謝」ということが上がっていたよね。この感謝についてはどうなの?」

正太 「うん。悪霊、つまり地獄に堕ちている人たちで、感謝の気持ちを持っている人は、ただの一人もいないんだね。百パーセント感謝が無いんだよ。地獄には悪想念の種類に応じたさまざまな地獄があるけど、これだけははっきりしているんだね。百人いたら百人とも感謝する人はいなくて、愚痴、不平不満、こればっかりなんだね。
 「こうしてほしかった、ああしてほしかった」あるいは「憎い」「悔しい」この思いばかりなんだ。要するに「足りない」「もう何かが足りない」というばかりなんだよ」

勇二 「いるなー。この世にもそういう人って、けっこういるよ。まあ、そういう僕も、人のことをエラそうには言えないけど」

正太 「地獄という世界は、ここも修行場ではあるんだけど、「監獄」というよりは、心が病んだ人がいく「病院」と呼ぶほうがふさわしいところなんだね。
 実際、(まあ、これはあくまでもたとえだけど)この世の病院に入院しているお年寄りの中には、わがまま言いたい放題の人がいるよね。たとえば、80歳、90歳になっても「注射が痛い。あの看護婦は下手だ。すごく痛かった」とか「あの院長さんは顔がいい」とか「悪い」とか、「ご飯の盛り方が悪い。冷めたのを持ってくる」とか、いろいろ言うんだけど、基本的に地獄霊というのは、こういう様相を呈しているんだね。
 つまり「自分がすでに何かを与えられている」ということに対する感謝がないんだ。そして、不平不満ばかりが口をついて出て来るんだね。「私がなんでこんな所へ来とるのか納得がいかん。悪いことは何もしていない」「私は盗んだわけじゃないし、人を殺したわけでもない。何でこんなところに来なければいかんのか」と言うんだ。何が悪いのかがサッパリわからないんだ。
 そうした人に対して、「足りないところがあったのはわかりましたけれど、足りていたこと、与えられてきたことについて、感謝したことはありますか?」とか「人がしてくれなかったことはわかりましたけれど、じゃあ自分から何かしてあげようとしたことがありますか?」と聞くと、あきれ返ったような顔をするんだね。「何をバカなことを言っているのか」という表情になるんだね。そんなことは考えたこともないんだ。
 つまり「自分の足りないことには目が行くけれども、足りているところには目がいかない」ということなんだ」

勇二 「うーん、けっこう耳が痛いけど、確かに、そうなりがちなんだよね。足りてるところ、すでに手にしてることは当たり前になっちゃって、ありがたくも何ともない。逆に、人と比べて足りないところばかり見て不満を募らせる、って、なっちゃうんだよな。でも、こういう考え方って、この世でも、幸福になれない考え方だよね」

正太 「そうそう。実際、現代人の半分以上は地獄に堕ちているわけだけれども、そうなったとき「暗いから照明をもっと明るくしろー」なんて不平不満を言わないで、自分は人に感謝したことがあるかどうか。お世話になった人がいなかったかどうか。こうしたことを幼少時代から振り返ってみる必要があるんだね」

勇二 「感謝なんて、あらたまってしたことなかったなあ。「なんでオレはこんなに恵まれないんだー」っていうボヤキのほうが全然多かったよ」

正太 「そんなふうに、地獄霊っていうのは、不平不満、愚痴、足ることを知らない欲望に心を渦巻かせているんだけど、こうした思いというのは、この世に生きているどんな人にもないことはないんだね。また人生を振り返ってみれば、そういう時期というのが必ずあったはずなんだ。もちろん僕なんかも、そうなんだね。
 でも「地獄霊に決してないものは感謝なんだ」ということ、このことさえしっかりつかんでいれば、悪霊たちとは違った波長の世界に入っていけるんだよ。「心が波立って、毎日、不幸感覚が強い」という人は、地獄に波長が通じることで、悪霊の憑依を受けているとみていいんだけど、この「感謝」という二文字を思い出してほしいんだね。感謝を始めたときに、悪霊はその人に憑いていることができなくなってくるんだよ」



地獄に堕ちる原因となる悪想念は「百八煩悩」といわれるほど数多くある 

2007-05-10 | あの世には心しか持って還ることができない
勇二 「ところで、その反省についてなんだけど、反省しなくちゃいけないマイナスの思いっていうのは、前に、妬みとか、愚痴とか、不平不満とか、足ることを知らない心、なんかがそれにあたるって聞いたけど、その後、話を聞いていると、他にもずいぶんありそうだね。これから、きっちり反省していくためには、「これが悪想念だ」みたいなリストがあると助かるんだけどな」

正太 「そうだね。そのあたりは、三途の川を渡ってから「地獄めぐり」をするときに、詳しく触れようと思ってたんだけど、とりあえずここでも上げておこう。
 結局、「マイナスの思い」が何なのかというと、実際にあの世の地獄界で渦巻いている想念を、全部列挙していけばいいんだね。地獄界ではこんな思いが展開されているんだよ。

ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  」

勇二 「げーっ、マイナスの想いって、こんなにあるの?」
 
正太 「そうなんだよ。昔から、仏教でも「百八煩悩」とよんでいるくらい、悪想念の数は多いんだ。これらが、「与える愛」の反対の「奪う愛」の思いであって、地獄に堕ちる原因になるから、こうした思いに対してはブレーキを踏む、また心の中にこうした思いが去来したら、きっちり反省し修正していく必要があるんだよ」

勇二 「ふーむ。あの世にいって、天国に還れるか地獄に堕ちるかを分ける基準ていうのは、えーっと、「生きていたあいだに、思ったこと、行ったことを、一つひとつ上げてみて、善いことが多かった場合には天国に還ることができ、悪いことが多かった場合には地獄に堕ちる」ということだよね」

正太 「うん」

勇二 「つまり、オギャーと生まれてから亡くなるまでの、心の中の記録の半分以上を、少なくとも、今上がっていたような思いが占めていたら、地獄に堕ちるということになるわけだ」

正太 「そうだね」

勇二 「うーん。こりゃ、現代人の半分以上は地獄に堕ちてる、といっても不思議はないかもしれないね。第一、そういう思い自体が、マイナスで、地獄行きの原因になることすら、みんな知らないんじゃないか。心の中は、垂れ流しっていうか、無法地帯みたいになってる人も多いと思うよ」
 


「反省」とは、クヨクヨしたり、自分をいじめることではない 

2007-05-09 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「執着を断つ方法について、ここまでいくつか挙げてきたんだけど、その基本となると、やはり反省なんだね。この反省について、もう一点基本的なこと、よく間違えやすい点を指摘しておくと、反省というのは、決して「クヨクヨすること」でも「自分をいじめること」でもないんだね」

勇二 「「クヨクヨすること」っていうのは、それ自体が「執着」だから、まさに反省しなきゃいけない対象になるわけだよね。ただ、反省といっても、「自分を責め苛めばいい」というものじゃないということだね」

正太 「うん。ほんとうの反省ができた後には、湯上りのようなツルっとして気分がいい軽い感じになるんだね。ところが「反省して自分をいじめる」という場合には、湯上りの気分じゃなくて冷蔵庫か泥水に入った感じになって全然サッパリしないんだ。ほんとうの反省ができたときは、執着がとれて顔に赤みが差してくるんだよ」

勇二 「ふうむ。心に執着っていう引っかかり、わだかまりを持っている人ほど、やっぱり顔色もよくないわけだ。執着が原因で憑依霊に憑かれていたら、ますますそうだろうね」

正太 「うん。たとえばノイローゼというものがあるけど、このノイローゼの場合、なにかひとつの悩み事や人の言葉、あるいは事件とかで頭がいっぱいになっていて、いつもそれにとらわれていて、心に余裕が全くないんだね。そんなふうにクヨクヨすること、悩むことというのはまさに「執着」であって、反省とは違うということなんだ。いつも同じことを考えていて「あのときは、しまったー」なんて言ってることが反省かといえば、違っていることが多いんだよ」

勇二 「そりゃ、まさにいつまでも「引きずっている」ということだもんね」

正太 「そう。こういうのは、反省じゃなくて「心の傾向性」なんだね。いつも心が失敗や挫折という一点に止まってしまうという粘着型の性格であって、反省とは違うんだね」

勇二 「なるほどな」

正太 「もちろん、反省の意義というものはいくら強調しても足りないくらいで、この世にいる間に反省というものをきちんとやらずに、あの世に持ち越しているから、現代人の半分以上は大変なことになっているわけだね。だから反省というのは、きわめて大切なことなんだけど、それとクヨクヨすること、悩むことというのは別だということだね。
 「間違った想い、行いは徹底的に反省する必要はあるが、それを引きずる必要はない」、「反省の必要はあるが、いつまでも引きずってはいけない」ということなんだ。「ここが間違っていたんだな。こういう思いはいけないな」「よし、こういう場合は、次からはこうしていこう」という原因と対策が立ったら、扉を閉めることなんだね。いったん徹底的に自分の過ちを分析し、反省したら、そのことについての記憶は、忘却の河に流し去ること、ふり返らないことなんだ」

勇二 「なるほどね。引きずる、っていうのがいけないんだな。引きずっていると、「サッパリ」、「爽やか」、「潔い」じゃないもんね」

正太 「それと、この反省というものを、タイプ別に細かく言うと、積極的で自信をもってバリバリやっていくタイプの人は、この反省というものが非常に重要で、常々肝に銘じておく必要があるんだけど、反対に気が弱くて何かあるとすぐ気が滅入ってしまうようなタイプの人は、あまり「反省、反省」というと、それにとらわれて自分を罪人に追い込んでいくことがあるんだね。
 あるいは「弱々しき善人」、つまり「積極的に善をなそう」というよりも、「何かしたら罪を犯すんじゃないか」といつも冷や冷やしたりオドオドしている人、「道を歩いたらアリを踏み潰すんじゃないか」ということで、「とりあえず何もしないでジーっとしておこう」といった人間になっていくことがあるんだ」

勇二 「そうか。「オレはダメだー」とか「私はダメー」とか、「とりあえず、何もしなきゃ罪を犯さずにすむだろう」なんていうのも、反省とは違っているわけだね」

正太 「だから反省といいつつおかしな方向に曲がりこんでいかないためにも、こうした消極的で気の弱いタイプの人は、まず自己確立をして、ある程度自分に自信をつける必要があるんだね。何かあると「自分なんかダメだ、ダメだ」になっちゃうタイプの人は、自分の中にある長所の部分、優れた部分、人からほめられた部分に意識的に目を向けてみる。そうして「自己信頼」の部分を伸ばした上で、反省したほうがいいんだよ。
 反省というのは現在の自分以上の理想的な自分の姿を描いて、それに照らして行うものだから、それができない人にとっては、反省じゃなくて「自己処罰」になってしまうということなんだね」



お金や異性等は善でも悪でもなく本来「価値中立的」なもの

2007-05-08 | あの世には心しか持って還ることができない
勇二 「なるほどねえ。じゃあ、執着の対象になりがちなもの、たとえば今挙がっていたお金だとか地位とか名誉とか異性とかは、やはりそれ自体が悪いものであって否定すべきものなのかい?」

正太 「いや、決してそんなことはないんだ。昔から、宗教などでそうしたものが否定されてきたのは、そうしたものが執着の対象になりやすかったからなんだね。正しく言えば、「そうしたものに執われている心を否定しなさい」と言っているのであって、それ自体が悪であるとか、否定すべきもの、というわけではないんだよ。「欲しい、欲しい」ととらわれる心、「執着する」という心のあり方が、地獄に堕ちる原因になるから、そうした心を否定しなさい、ということなんだ」

勇二 「ふうむ、それ自体は悪くない?」

正太 「うん。お金とか異性とかは「価値中立的」なものであって、それじたいは善でも悪でもないんだね。たとえば、お金を例にとってみると、これは使い方によって善にも悪にもなるものなんだ。また、使い方だけじゃなく、手に入れ方、集め方、つまりよい手段で手に入れたのか、良い動機で集めたのか、悪い手段によって手に入れたのか、悪い動機で集めたのかによって、そのお金の善悪が分かれてくるんだよ」

勇二 「ほーお」

正太 「たとえば、世の中のために役に立つ仕事に一生懸命精励して、正当に富を蓄積するということは善なんだね。またそうして得られた「豊かさ」というものも善なんだ。これを悪だと考えると、ひと昔前のマルクス主義の世界に入っていくので、気をつけなくちゃいけないんだね。さらに、この富をよいことのために使うというのは、さらなる善なんだよ。善が利子を生み、善が善を呼び、幸福が幸福を呼んでいくことになるんだよ」

勇二 「よいことのために使うっていうと?」

正太 「前に、人生の「目的と使命」は「魂修行とユートピア建設」にある、って話したけど、そうした方向に使えばこれは善なんだよ。たとえば、百年くらい昔、アメリカにアンドリュー・カーネギーという鉄鋼王とよばれた企業家がいて、事業で築いた巨億の富を社会のための慈善事業に投じたんだけど、これなんかは、富というものが大いなる善に転化したケースといえるんだね」

勇二 「なるほど。ユートピア建設の推進のために、富を使ったわけだね」

正太 「うん。ただし、くり返しになるけど、お金というのは「両刃の剣」であることは、肝に銘じておく必要があるんだ。たとえば、聖書の中には「金持ちが天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがやさしい」という有名な言葉があって、これは非常に誤解されやい言葉なんだけど、何を意味しているかというと、「この世的な価値に執着しすぎて、あの世の世界、霊的世界の意味、存在を無視して生きた人は地獄に堕ちる」ということなんだね。
 物質的な豊かさを求める傾向が強くなってくると、人間はどうしてもこの世的になっていって、あの世のこと、霊的なことを忘れていくんだ。守護霊という存在がいて、自分の心の中をすべて見守っているということを忘れてしまうんだよ。始終、心の中を覗かれていたら、決してできないような、やましいこと、恥ずかしいことにも手を染めていってしまうことが多いんだ」

勇二 「ふうむ。要するに、お金というのが、執着の対象になってくると、地獄への切符が回ってくるということだよね。じゃあ、お金に対する自分の心の姿勢というのが、執着なのかどうかっていうのは、どこらへんで見分ければいいんだい?」

正太 「うん。世の中に尽くしたい、お役に立ちたいという志があって、世の中のために尽くしながら豊かになっていくことは、神様の心、仏の心に適うことで善いことなんだ。だけど、これがひっくり返って、「金銭欲」のほうが先に走った場合、「奪う愛」となって、地獄になるんだね」

勇二 「金銭欲が先に立つ…、そうか、「金自体が目的」というか、世の中のため、とかじゃなくて「とにかく金自体が欲しい欲しい」となると地獄なのか。極端な話、金さえ得られればあくどい商売やってでも、ってなるだろうしね」

正太 「そうそう。具体的に言うと「働きたくはない、仕事はしたくないが、金が欲しい」「悪い仕事をしているが金は欲しい」「能力以上、流した汗以上に金が欲しい」という気持ちが強いと地獄的になるんだね。ところが、お金が欲しい、という人に限ってこういう人が多いんだよ」

勇二 「なるほどね。心の針が「与える」よりも「奪う」ほうに傾いているわけだ」

正太 「また、お金の使い道、つまりお金を得てどうしたいのか、というところも問題で、「お金持ちになって、人よりいい暮らしをして威張りたいだけ」といった虚飾の方向、よくあるケースなんだけど、そうした虚栄心を満足させたい、といった動機だと地獄的になるんだね」

勇二 「たしかに、それも、人から自分のほうに「愛をよこせ」っていう「奪う愛」だよね」

正太 「出世についても同じなんだね。出世をしてどうしたいのか。「出世することによって、よりいっそう多くの人のために仕事をしたい。尽くしたい」というなら合格なんだね。ところが「大きなイスに座ってただ威張りたい。大勢の人に命令してみたい」だと地獄なんだね。じゃあ、実際はどうかというと、前者のようなケースは稀で、十中八九は「人を蹴落としてでも出世したい、偉くなりたい」という地獄的な場合が多いんだよ」

勇二 「なるほどね。世の中そういうケースはゴロゴロしているね」

正太 「本来なら、人格のすぐれた人が指導的立場に立つということは、その感化影響が大勢の人に及んでいくことになるわけだから、それはよいことなんだね。だから、出世じたいが悪だとか、否定すべきことでは決してないんだよ」

勇二 「人間的に立派な人が組織の長にいてくれて、困るなんてという人もいないだろうしね」

正太 「異性についても同様で、「異性を好む」「異性を愛する」ということが、家庭ユートピアづくりにつながるなら合格なんだね。ところが、不倫に走って家庭をめちゃくちゃにし、子供の将来までだいなしにするようだと、地獄行きになるんだね」

勇二 「ああ、これまた現代ではよくあるケースだね」

正太 「そもそも、神様がなぜ異性を創ったか、異性を分けたかというと、「愛」というものを教えようとしている、ということなんだね。男女の愛、(あるいは親子の愛)というのは、習わなくても教わらなくてもできるんだ。そうした最低限の愛というものを人間に教えようとして、「本能の愛」というものが設けられているんだよ。男女の愛によって、家庭というユートピアの基礎を築く。そして、そこでできたユートピアを、社会のユートピアづくりへの原動力に変えていってほしい、より高次な愛へと昇華していってほしい、というのが仏の念いなんだ」

勇二 「そうかあ。人間に最低限の愛を教えようとして「本能の愛」っていうのがあるわけか」

正太 「こんなふうに、お金や出世、異性等は、本来価値中立的なものなんだけど、執着や我欲を遂げるための対象になりがちで、地獄に堕ちるきっかけとなることが多かったから、伝統的に否定的に扱われてきたんだね。
 しかし、ほんとうは、それらによって、ユートピア建設を大きく前進させたり、自分の霊性の向上に役立てることは可能なんだよ。そして、仏の願いというのも、そうしたほんとうの意味での発展的な方向を、人間に選び取ってもらいたい、ということにあるんだね」



この世での修行の結果、魂が向上すれば「成功の人生」、堕落すれば「失敗の人生」 

2007-05-07 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「だからあの世に還ると、総理大臣をやった人、大企業の社長をやった人が地獄に堕ちていて、ヒラ社員だった人や平凡な農家のおじさん、おばさんが天国に還っていることもあるんだね。あるいは、一流会社の重役だった夫が地獄に堕ちていて、平凡な主婦だった妻のほうが天国でもそこそこいい世界に還っている、なんていう場合もあるんだ。
 といって、「ヒラ社員なら必ず天国に還れて、社長なら地獄に堕ちる」なんてことは、もちろんないから勘違いしないでね(笑)。総理大臣や大企業の社長をやった人でも、立派な生き方をし、世のため人のためになるような立派な貢献をして、天使や菩薩がいるような高級霊界に還った方もいるんだね。たとえば、経済界でいえば、松下幸之助という方なんかも、そうした世界に還っているんだよ。
 あの世での評価、あの世でどんな世界に還るかは、この世の地位や肩書きじゃなく、ひとえに、この世の修行をとおして、その人がいかなる霊格を築いたか、霊格と言ってわかりにくければ、いかなる人格を築くことができたのか、その高下にかかっているんだね」

勇二 「心境の高下、霊格の高さ低さ、かあ」

正太 「こんなふうに、あの世には心しか持って還れないわけだから、この世にいるときでも、たとえば10年前、5年前と比べて、はたして自分は心がよくなっているのか、心境が向上しているのか、よく考えてみなきゃいけないんだね。たとえこの世的に収入が増えていたとしても、地位が高くなっていたとしても、有名になっていたとしても、一年前と比べて心境が下がっていれば何の意味もないんだよ。心の経営のたとえで言えば、それだけ借金が増えているのと同じなんだ」

勇二 「ふーむ。天国地獄は「与える愛」に生きたか「奪う愛」に生きたか、で分かれるということだけど、同じ「与える愛」といっても、発揮する愛のレベルによって、心境の高下も変わってくる、ということだったね」

正太 「うん。そうしたあの世の評価、ほんとうの価値基準、というのは、あの世の実際の様相を知らないとわかりにくい面があるし、これから詳しく説明していこうと思うんだけど、要は「この世はこの世であって、やがては去っていく世界なんだ。いくらこの世のものに執着したところで、それらは全てこの世限りで「行き止まり」のものなんだ。「行き止まり」のものに、目を奪われていてはならない。最終的には魂における勝利、魂における成功しかないんだ」ということを認識することなんだね。
 「この世での敗北は、人生の敗北を意味していない。この世において、他の人がどう言おうと、世間がどう評価しようと、この世的な評価は最終的な勝敗には関係ない。最終的な人生の勝敗は、魂における勝利かどうかで決まる」ということなんだよ」

勇二 「なるほどね。サラリーマンだったら、自分の名刺に刷り込まれる肩書が、役員か、部長か、課長か、係長かで、血眼になっている人が多いけど、あの世に還れば、あるいは神様の目から見たら、そうした評価は全然関係ないということだね」

正太 「そうそう。こんなふうに、この世を超えたほんとうの世界の目から見た、人生の勝利とは何かということを知ったときに、執着というものは断つことができるんだよ」



あの世に還って問われるのは「執着が少なく、多くの人たちを幸福にしてきた心だったかどうか」ということ

2007-05-06 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「地獄に堕ちる原因は「執着」だし、実際、地獄に堕ちている人というのは、生前この世的な価値観に惹かれていた人が多かったんだけど、じゃあ、なぜこの世的な評価にそんなに執着するのかというと、そうしたものを得ることによって、結局「他の人から、もっと愛が欲しい、愛をもらいたい」ということなんだね。
 そうした「人から愛されたい、評価されたい」という思いが精神的なものなら、肩書きとか名誉、あるいは他人からの優しい言葉や気持ち、丁重な扱いとかになってくるし、それが物質的なものなら、食べ物、着るものから始まって、お金とか年収とか家とか車とかになってくるわけなんだ」

勇二 「なるほどね。要するに「人から称賛されたい」っていうか「他人から羨ましく思われたい」っていうか、見栄とか虚栄みたいなものだね。さっき君が言った言葉を使えば、「人のために尽くそう」とか「人のために愛を与えよう」という「与える愛」じゃなくて、「人から自分の方に愛を向けさせよう」「人から自分へと愛を集めよう」という「奪う愛」なわけだ」

正太 「うん。ただそうした執着の対象になるようなこの世的なものは、あの世に何も持って還れないし、評価の対象にもならないんだよ」

勇二 「心しか持って還れないわけだね」

正太 「うん。そして、あの世に還ってきたとき問われるのは、果たして、「執われのない自由な心を持って還ってきたかどうか」「執着のない心を持って還ってきたかどうか」「本来の霊性、地上に生まれていく前に持っていた天真爛漫な心を持って還ってきたかどうか」それが問われるんだよ」

勇二 「うーむ」

正太 「どれだけこの世で地位や学歴や財産があろうと、また、たくさんの部下が下にいようが、お手伝いさんたちに囲まれて暮らしていようが関係ないんだ。心一つがどうなのか。「円満な、調和の取れた、執着の少ない心であるのか」「多くの人たちを幸福にしてきた心だったのか」「他の人の喜びを自分の喜びにしてきた心だったのか」それが問われるんだよ」

勇二 「そうか。「欲しい欲しい」という執着が少なくて、「大勢の人たちを幸せにしよう」と努力してきた心だったかどうかが、問題にされるんだね」

正太 「そう。そして、その人のあの世での位置を決めるのは「心境の高下」。つまり、その人の心が、どれだけ愛に満ちていたか。どれだけ、与える心、生かす心、許す心、感謝する心を持っていたか。その人の心がどれだけ広く、またその「志」がどれだけ高かったか。その人格が、その心境が、どれだけ神様に近かったか、仏に近かったか。あの世での評価の基準はこれ以外に何もないんだよ」


「あの世には心しか持って還れない」という原点を常に忘れないこと 

2007-05-05 | あの世には心しか持って還ることができない
正太 「それと、執着を断つには、「自分が執着している対象は、死んでこの世を去るとき、あの世に持って還ることはできない」ということを、きっちり腑に落とすことも大切なんだ」

勇二 「前に「あの世には心しか持って還れない」って、聞いたね」

正太 「そうそう。たいてい執着の対象になるものっていうと、お金とか地位とか、財産とか土地とか名誉とかなんだけど、こうしたものを手に入れようといくらあくせくして生きたとしても、あの世には何一つ持って還れないんだね。
 この世で総理大臣だったとか、一流企業のワンマン社長だったとしても、死んで地獄に堕ちて、地獄の鬼が、その人の肩書きを見てひれ伏すということはないんだよ。もし運よく天国に還れたとしても、天国で名刺を使う機会なんか、ただの一度もないんだ。天国で通用する名刺というのは、一つしかないんだよ」

勇二 「ほー、天国で通用する名刺、ね」

正太 「それは、その人の心の状態なんだね。少し難しく言うと、その人の悟りの段階なんだ。そして、その人の想念帯のテープに記された記録だけなんだよ。
 生前、その人が何を思い、何を行ったかが一つ残らず記録されているその記録だけが、あの世に入ってからの、その人のパスポートになるんだね。あの世で出会う人たちに、「自分はこういう人間です」ということを示す通行証のようなものになるんだよ」

勇二 「となると、みんなに見られて恥ずかしくない、立派な記録を、作っとかなきゃいけないね」

正太 「また、この世で、億万長者になって、ぜいたくの限りを尽くしたとしても、それが天国へのパスポートになることはないんだね。自家用ヨットとか飛行機、定期預金証書、大豪邸とかはあの世へは持っていけないんだ。いくら有名人になっても、地獄の鬼は、釜の湯の温度を一度も下げてはくれないんだよ」

勇二 「僕の回りにも「人生、金だー」「億万長者になるぞー」という人はいるけど、そういうこと自体を目標にしても、結局は空しいということになるね」

正太 「名誉にしても同じで、学士院や芸術院の会員になったところで、何の役にも立たないんだね。地獄には、元大臣、元学長、元博士、元裁判官、元検事なんかが「こんなはずはない。他人が地獄に堕ちるならともかく、自分が地獄に堕ちるなんて到底承服できない」とか「いったいワシを誰だと思ってるんだ。○○である自分に対してこの扱いはなんだ。おい誰か出てこないのかー」なんて、わめいている姿があちこちで見られるんだ。つまり、自分の名誉や栄達ばかり求めて、他の人たちに愛を与えるということをしてこなかった人たちの哀れな末路なんだね」

勇二 「うーむ。偉くなってやたら威張ってる人っているけど、せっかくビッグになっても、最後が地獄じゃガックリだよね」

正太 「実際、日本の総理大臣といわれた人たちがどれだけの数、地獄に堕ちて苦しんでいるか。人もうらやむような大会社の社長が、何百人、何千人と、色情地獄、阿修羅地獄、畜生道に堕ちているという現実。また、生前、金儲けばかりうまくて、何人もの女性との快楽を貪った人間が、快楽のうちに人生をおえた人間が、たった数十年の快楽のために、一体何百年、苦しみという名の代償を払い続けているか。そうした事実を知ったら、たくさんの人たちが欲しくて欲しくて血相を変えている、この世での肩書きとか財産とかいうものが、いかにはかなく、むなしく、あの世でまったく通用しないかが痛いほどよくわかるんだね」

勇二 「そうか、そんな状態なのか」

正太 「こうした人たちに共通するのは、「この世に執着の多い人ほど、苦しみもまた深い」ということなんだ」

勇二 「うーむ。この世にいたとき、執着が強かった人ほど、あの世での地獄の苦しみが大きくなるわけか…。うー、ブルブルっ、気をつけなきゃなあ」



「他の人のために愛を与えよう」と思った瞬間、憑依霊ははがれてしまう

2007-05-04 | 執着を断つには「与える愛」の実践が大切
正太 「実際、憑依霊のケースでも、たとえば「あの人が憎い」なんていう執着を心に持っていると、地獄の亡者たちがやってきて「そうだ。憎いだろう」と言って一生懸命「応援」してくれるんだね。憑依霊たちが、そうした感情を増幅させようとするんだよ。
 あるいは、大きな悩みを抱えて「どうしよう」なんて思っていると、背後から「もっと悩め」なんて「アドバイス」してくれるんだ。
 こんなふうに、憑依霊っていうのは、この世の人間が暗い心になっているときに限ってやってきて、さらにプレッシャーをかけてくるんだよ」

勇二 「うーん、いやな連中だね。執着とか悩みをもっと大きくさせようとするわけだね」

正太 「そう。人間ていうのは、執着を持っているときとか、悩んでいるときというのは、たいてい自分のことしか考えてないんだね。「自分はこんなに苦しい」とか「自分はあの人が嫌いだ」とか「自分はこんなにひどい目にあわされてる」とか、自分の苦しみのことしか考えてないんだよ」

勇二 「そうそう。そりゃ、そのとおりだ」

正太 「ところが、「自分は苦しい」「自分はつらい」という、その「自分」を取り払って、「他の人に対して自分は何をしてあげられるだろうか」「周囲の人に、あるいは、まだ未知の人たちのために、どんな貢献をしてあげられるだろうか」と思った瞬間、その執着や悩みの部分に取り憑いていた悪霊がパリンとはがれてしまうんだ。そして神様の光、仏の光というのがさんさんとさしてくるんだよ」

勇二 「ほーお」

正太 「不思議なんだけど、「助けて欲しい」と思っているときは、むしろ意地悪をする者たちがやってきて、さらにプレッシャーをかけるのに、「もう助けなどいらない、自分は誰かのために自分の力を役立てていくんだ」と思うと、そのプレッシャーがはねのけられて、援助の光が差し込んでくるんだよ。自分が助かるか助からないかを考えるのをやめて、「人に何かしてあげよう」という「与える愛」に心を切り替えた瞬間に運命が開ける。 こういう霊的な事実があるんだ」

勇二 「そうかあ。「自分のことを悩むのはもういいや。人のために何かしよう」と思うと、憑依霊もはがれて、運も好転してくるわけだね」

正太 「うん。結局、愛っていうのは、貰うよりも与えるほうが数倍も幸せなんだね。
 執着を持っている間、「愛がほしい」と思っているあいだは、だれも愛を与えてくれないどころか、地獄霊のプレッシャーばかりかかってくるのに、「自分から与えよう」と思った瞬間に、善の歯車が回転し始めるんだ。まわりの人からは好かれようになり、仏の光が降り注ぎ、運命がどんどん良くなっていくんだよ。
 しかも、愛を与えると相手が喜んでくれるから、楽しくてやめられなくなるんだね。そして、まわりの人たちからは「いい人だ」と思われ、その評判が伝わって、その友人たちからも「いい人だ」と思われるようになるんだ。こうして善の循環が始まるんだよ。
 結局、「愛を与えることが、すべての幸福の基礎」なんだね」

勇二 「ふーむ」

正太 「だから、「執着」というマイナスの釘を抜こうとするのもいいんだけど、積極的に「与える愛」というプラスの釘を打ち込んでいくことで、そうしたものを取り去ることもできるんだよ」

勇二 「マイナスの釘を抜くよりも、プラスの釘を打ち込め、か。なるほどなー」

「与える愛」の方向に心を切り替えることで執着を断つことができる 

2007-05-03 | 執着を断つには「与える愛」の実践が大切
正太 「この執着については、いずれ地獄界の紹介をするときに、詳しく説明しようと思うけど、結局、執着の正体が何かというと「他の人から愛されたい」とか「評価してもらいたい」とか「重要感が欲しい」といった「他の人から愛を与えられたい」という思い、つまり「奪う愛」なんだね。
 地獄に堕ちている人というのは、「他の人に愛を与えよう」とか「他の人のために○○してあげよう」とか「他の人を幸福にしていこう」という「与える愛」じゃなくて、「もっと他の人から愛されたい」「もっと愛を与えられたい」という「奪う愛」に生きた人たちなんだ。「与える愛」をまったくやらなかったわけじゃないんだけど、それよりも「奪う愛」のほうが上回っていた人たちなんだね。他人からの愛に飢えて生きた人たちが、地獄で苦しんでいるんだよ」

勇二 「そうか。「与える愛」に生きた人は天国に還れて、「奪う愛」に生きた人は地獄に堕ちる、ということわけだね。じゃあ「善」というのは「愛を与えること」で、「悪」というのは「愛を奪うこと」なわけだ」

正太 「うん。地獄霊とか地獄に堕ちた人、なんていうとコワーいイメージがあるけど(といっても現代人の半分以上は地獄に堕ちているわけだけど)、そうした悪霊たちのホンネは「もっともっと人に愛されたい」ということなんだね。ほんとうは、いろんな人からやさしくしてもらいたいんだよ」

勇二 「ははーん。なんでそんなにネチっこくこだわっているかといえば、結局、愛が欲しいからなのか、愛されたくてグチュグチュしてるわけなんだな」

正太 「愛が欲しいんだけど、自分から与えようとは思わない、愛のエネルギーが足りないだけの「愛欠乏症」の人たちなんだ。まあ、このあたりは、きわめて本質的なことだから、詳しい解説が必要なんだけど」

勇二 「たしかに、10代の不良少年、不良少女とかが、よく大暴れしてるけど、原因は何かっていったら、「親が自分を愛してくれないから」とか「もっと親に愛されたいから、認められたいから」とか、要するに「愛が欲しくて暴れている」わけだもんね。まあ、これは子供に限らず大人もおんなじようなものかもしれないね。
 結局、愛を与えようとする側に立っていたか、愛を欲しがる側に立っていたかで、あの世に還ってからの天国・地獄が分かれてくるわけだね」

正太 「そうそう。だから執着というのは「奪う愛」のことだから、これを断つには、逆の想念行為、つまり「与える愛」の方向に心を切り替えることでも可能なんだよ。「欲しい、欲しい」という思いで苦しんでいるわけだから、欲しがるのをやめて、「どうしたら人に与えることができるか」「どうしたら他の人を幸福にできるか」というほうに切り替えていくんだね。そして、実は、これこそが人間が「本当の幸福」に入る道でもあるんだよ」

勇二 「ふーむ。「人から愛を貰おう」とするんじゃなくて、「自分から人に愛を与えていく」のが、幸福への道か」



「粘着型の性格を変えよう」と決意し、まず執着している時間を縮める努力から始めてみる 

2007-05-02 | 地獄霊の憑依を受ける原因は「執着」にある
正太 「そうしたことが、まさしくこの世における「心の修行」でもあるんだね。
 日常生活を送っていると、どうしても執着のタネというのは出てきてしまうんだ。もちろん、そうした執着はゼロにできればベストだけれど、そこまでいかないなら、オール・オア・ナッシングで考えずに、とりあえず執着している時間を短縮する努力をすることなんだね。つまり、1日24時間考えるんじゃなく、とりあえず1時間に閉じ込めてみる。それができるようになったら30分、15分、5分と縮めていって、最後は一瞬で終わりにするところまで持っていくんだ。
 たとえば上司から感情的に何かを言われたとしても、客観的に自分を振り返って思い当たるところがあればその場で素直に謝り改めていき、感情面の毒は食らわずにサラリと流してしまう。あるいは、誰かに対して「あっ、イヤな奴だな」と思ったら、その瞬間で切って、そこで反省をいれて終わりにしてしまう。こうすれば「行雲流水の心」というけれど、行く雲、流れる水のような、サラサラと執われのない心になってくるんだ。
 ところが、四六時中寝ても覚めても、「イヤな奴だな、イヤな奴だな」と思っていたら立派な執着になってしまうんだね。そうすると、地獄霊が「どうも、私に御用のようですね」とやってきてしまうんだよ」

勇二 「そうか、執着っていうのは、こだわってる時間が長ければ長いほど、地獄に道筋がついて危険なんだな。まずは時間を縮めていくということか。…でも、そういう風に、根に持つとか、ネチッこくこだわるかどうかっていうのは、割とその人の性格的な面も大きいんじゃないのかな?」

正太 「そう。性格というのは「魂の傾向性」のことなんだけど、善悪に関わらず同じようなことを煩瑣にくり返しくり返し、思ったり行ったりして、心に刻んでいくと出来上がってくるんだね。だから性格というのは長い期間をかけて形成してきたものだから、一朝一夕に変えられるものではないけど、努力によって変えていけることは事実なんだ。
 だから「サッパリした性格、アッサリした性格になろう」、「こだわらない性格になろう」と思って心掛けていると、だんだんそういうふうになっていくんだね」

勇二 「なるほどね。まずは、そういうふうになろうと思うことが大事だね」

正太 「うん。実際、地獄に堕ちている人というのをタイプ的に見ると、ほとんどが「粘着型」の性格の人ばかりなんだね。何かにこだわって離れない性格、クヨクヨする性格。そういう、いじましい、というか堂々巡りする性格の人ばかりなんだ。反対に、爽やかな性格、潔い性格、あるいはサバサバした性格、サッパリした性格、アッサリした性格の人というのがいないんだ(もちろん、ここでいう「粘着型」というのは「物事に粘り強く取り組む」といった仕事への姿勢なんかとは意味が違うから誤解しないでね)。
 地獄には、「あの人にこんなヒドイことを言われたー」とか「こういう目にあったー」とかいったことを、それこそ100年経っても、200年経っても、ずーっと言い続けている人がいっぱいいるんだよ」

勇二 「200年たってもまだこだわってるの? そりゃ相当のネチっこさだね」

正太 「これが地獄の悪魔なんかになってくると、もっと執念深い、ほんとうに執念深くて、ヘビのように狙った獲物は逃さないという形で、音もなく忍び寄り、咬みついてくるといったタイプになってくるんだね」

勇二 「ひェーっ。やめてよ、そんな話(笑)」