Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

伊福部昭氏 死去

2006年02月09日 23時08分03秒 | 音楽
映画「ゴジラ」テーマ作曲の伊福部昭さん死去 (夕刊フジ)

 映画「ゴジラ」の音楽で知られる日本作曲界の重鎮、
伊福部昭さん(いふくべ・あきら、元東京音楽大学学長)
が8日午後10時23分、多臓器不全のため東京都目黒区
の病院で死去した。91歳。
 北海道釧路市生まれ。北大農学部時代に独学で作曲
を学び、21歳の時に「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を
受賞、一躍国際舞台に躍り出た。卒業後は北海道で
森林事務所勤務などをしながら、作曲を続け、「土俗的
三連画」などの作品を発表。戦後、東京音楽学校(現
東京芸術大学)講師に就任した。
 「寄せ集めの文化では実を結ばない」が持論。雄大で
日本やアジアの風土を色濃く感じさせる作風が特徴で、
1947年の「銀嶺の果て」を機に映画音楽でも活躍。
中でも、54年の「ゴジラ」では、律動感と重量感のある曲
でゴジラのイメージを見事に表し、その後も同シリーズの
多くを担当した他、「ビルマの竪琴」「お吟さま」など、
作った映画音楽は300を超える。2003年、文化功労者。

                 [ 2006年2月9日13時0分 ]


たった今知りました。あまりのショックに言葉が出ません。
誰でもいつかは死ぬのが定めではありますが・・・。
32歳にして「もう私の時代は終わった」って感じです。

洋楽との出会い

2006年02月09日 22時49分31秒 | 音楽
私が子どもの頃も、テレビやラジオで洋楽を耳にする機会は
もちろんありましたが、関心が無い内は耳を素通りして全く
記憶に残りませんでした。
最初に覚えた「英語の歌」は、ゴダイゴかな?でもあれは、
日本人が作った曲ですから。
初めて意識して聴いたのは'85年、映画『TAN TAN たぬき』
の中でチェッカーズの面々が、'70年代風のライブハウスで
歌うナンバーを聴いた時です。
「オー・キャロル」「悲しき片思い」「ハウンド・ドッグ」「ツイスト・
アンド・シャウト」の4曲。おそらくアマチュア時代に実際に
歌っていたのでしょう。ファンであることを差し引いても、見事
な歌いっぷりだと感じました。
その頃は、マイケル=ジャクソンやマドンナ、シンディ=ローパー、
プリンスなどが日本でも大ヒットを飛ばし、「洋楽ブーム」を
巻き起こしていました。『愛と青春の旅立ち』とか『トップガン』
といった映画の主題歌も売れました。『カクテル』なんかは、
社会現象に近かったですね。
でも私は、耳が悪くてヒアリングがてんでダメなので、外国語
は大の苦手。だから洋楽にもあまり惹かれませんでした。
そんな私を洋学の世界に出会わせてくれた人たちがいます。
1人は、中高生の頃よくラジオ番組を聞いていた、KBC九州
朝日放送の沢田幸二アナウンサーです。
高校の時にビートルズに出会って洋楽に目覚めたという沢田
アナ、洋楽専門番組のレギュラーも持っていましたが、私が
聞いていたのは月-金の若者向けの夜ワイド「パオーン」と
いう番組でした。でもそこでもたまに掛かる洋楽や、熱い語り
を聞いてるうちに、私もだんだん洋楽に興味を持つようになり
ました。
福岡という街は音楽文化が盛んで、洋楽ファンもとても多い
土地柄です。興味を持って見回すと、そこらじゅうに洋楽が
溢れています。私の周りにはビートルズファンが多くいて、
自然と耳に入ってくるようになりました。
そして気がつくと、親のレコードコレクションの中にもなぜか
ビートルズの「ラブ・ミー・ドゥー」が・・・。
あとは、沢田アナの好きなアーティストでもあったポリス、
テレビでたまたま見たマルティカといったところが気になり
出しました。

スケバン刑事

2006年02月08日 23時40分09秒 | 映画・ドラマ
今日は晴れるはずだったのに、朝から雪でした。
夕方には本降りとなり、また積もってます。
明日こそは晴れますように。週末また高速走るから。

最近、80年代の元アイドルがよくテレビに出るようになりました。
「昭和」ブームの延長線上というのもあるでしょうが、今の30~
40代にとっては、好き嫌いに関わらず「青春の思い出」的存在
で、視聴率も計算できますし、当時は歌もお芝居も目も当てられ
なかった人でもいろいろ経験を積んでそれなりの仕事ができる
ようになってるし、何より一度消えた人達だから、お金もかからず
必死に働いてもらえるんで、重宝してるんでしょうね。
なんて思ってたら、こんなニュースが流れてきました。

4代目襲名!あややがスケバン刑事 (日刊スポーツ)

 女優南野陽子、斉藤由貴らが出演し、80年代に大ヒットした
ドラマシリーズ「スケバン刑事」が、約20年ぶりにスクリーンで
よみがえる。映画「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」
(深作健太監督)の製作が5日、東映から発表された。4代目
麻宮サキを演じるのは、松浦亜弥(19)。スカート丈がひざ上に
なるなどリニューアルされた、スケバンあややがどんな決め
ぜりふで悪者をこらしめるのか、注目を集めそうだ。今秋公開。
 アイドルの登竜門ドラマとして80年代に一世を風靡(ふうび)
した「スケバン刑事」が、21世紀の最強アイドルで復活する。
長いブランクにもかかわらず映画化が決定した大きな要因は、
根強い人気にある。04年発売のDVD「スケバン刑事」シリーズ
は、5000枚を超えればヒットといわれる中、累計13万枚を売り
上げた。原作を手掛けた和田慎二氏は殺到する再映像化の
オファーをすべて断っていたが「松浦さんなら」と許可したという。
 ドラマは85年に斉藤由貴主演で放送開始。ヨーヨーを武器に
悪と戦うセーラー服の美少女が10~20代の若者をくぎ付けに
した。2代目を南野陽子、3代目を浅香唯が演じたが、3人とも
同ドラマをきっかけに大ブレーク。最高視聴率は20.8%をマーク
した。
 今回もコンセプトは変わらないが、設定は現代を反映している。
ストーリーにネット犯罪や爆弾テロがからみ、松浦演じる4代目
麻宮サキはニューヨークで暮らしていた帰国子女。長かった
セーラー服のスカート丈もひざ上になり、戦闘モードの衣装も
用意される。
 松浦の映画出演は二宮和也と共演した03年「青い炎」以来で、
映画初主演。ヨーヨーの元世界王者の指導を受け、仕事の合間
に練習している。関係者によると、ヨーヨーが壊れることもある
ほど、打ち込んでいるという。
 因縁もある。松浦はドラマ放送中の86年生まれ。「何だか運命
のようなものを感じています。アクションや格闘シーンは初挑戦で
かなりドキドキしていますが、松浦らしく体当たりで頑張ります!」。
深作監督は「ワイルドなあややがスクリーンにさく裂する姿を期待
してください」と話している。
                   [ 2006年2月6日9時57分 ]


友人に誘われて劇場版『スケバン刑事』を観たのがきっかけで、
私はナンノのファンになりました。
またそのうち書きますが、そのナンノのドラマでWinkに出会って、
洋楽に目覚めていったのですから、私にとってはとても重要な
作品です。物語的には少々物足りない気もしますが、長門裕之、
蟹江敬三、そして敵役に伊武雅刀と、私好みのキャスティングが
たまらなかったりもしました。
でもねぇ、今更「スケバン」は無いでしょ。
松浦亜弥はCMでしか見ないけど、キャラ違う感じだし。
とか言いつつ、結局観ちゃいそう・・・。

帝都大戦

2006年02月07日 23時32分39秒 | 映画・ドラマ
いつもチェックしてるブログの一つ「きっこのブログ」をさっき見たら、
昨日2月6日は大槻ケンヂの40歳の誕生日だったそうで。
一応、私、筋肉少女帯のファンなのですが、うっかりしてました。
「きっこのブログ」については、今更私が紹介するまでもないかと
思いますが、人脈の広さとそこから入ってくる情報のすごさはには
驚嘆します。耐震強度偽装、BSE、ライブドアといった最近の事件
に関して、彼女の記事を読まずに書かれた論評はピンと外れか、
御用記事にしか思えないほど、圧倒的な内容です。独特の文体
は好みが分かれるかも知れませんが、私は大好きです。

さて、USENの無料放送「Gyao」で、先日まで映画『帝都大戦』を
やっていたので、久々に見ました。
荒俣宏原作の『帝都物語』シリーズの映画化第二弾です。
以下、goo映画よりあらすじを引用します。

昭和20年長い太平洋戦争で、日本は深く傷つき、帝都・東京も
死に絶えようとしていた。霊的指導者・観阿彌光凰は日本を勝利
へ導くため、連合軍首脳を呪い殺そうと計画を進めていた。側近
の霊能力を持つ青年、中村は幼い頃からそのパワーを強大なもの
にさせるべく育てられていたのだ。1月1日未明、B29は東京に
焼夷弾の雨を降らせ、多くの死傷者を生んだが、その怨念が帝都
の怨霊・加藤保憲を甦らせてしまった。一方、空襲で母を亡くした
美緒は目が見えなくなり、ようやく病院へ辿り着いた。そこには
平将門の末裔で加藤にも勝る霊能力を持つ辰宮雪子が看護婦と
して働いていた。1月27日、有楽町で激しい爆撃に襲われた中村
は、霊力を感じ、鉄塔の上に立つ加藤保憲を見た。また、そこは
加藤の宿敵・辰宮雪子もおり、二人は運命的な出会いをしたの
だった。2月4日。加藤は帝都にとどめを刺すべく観阿彌の秘密
計画を阻止しようとやってきた。中村は自らの肉体を賭けて加藤に
戦いを挑んだが、彼の科学によって高められたサイキック・パワー
も歯が立たなかった。逆に中村は瀕死の重傷を負ってしまう。
病院に運ばれた中村は雪子の手厚い看護を受け、一命をとりとめ
ることができた。そして、再会した二人は共に加藤と闘う運命に
あることを悟った。5月1日、観阿彌の秘密計画決行の時がきた。
加藤はそれを阻止しようと現われたが、科学の力によってさらに
パワーアッブした中村が立ちはだかった。加藤は中村のサイキック・
パワーに吹き飛ばされたが、やはり力はまだ上だった。中村は
負傷し、加藤はとどめを刺そうとしたが、その時突如、雪子が
現われた。そして、雪子と中村は二人のパワーで加藤を倒したの
だった。一方、観阿彌は日本の敗戦を予知し計画を変更、呪術で
ヒトラーを自殺に追い込んだのだった。


なんだかよく分からない文章・・・。
南果歩、好きだったんだけどなぁ。改めて見ると、全然きれいじゃ
ない。映画自体が暗いのもあるけど。
「サイキック・ウォー」という触れ込みでしたが、オカルト的要素も
含んだ「戦争映画」って感じです。原作や前作『帝都物語』的な
世界を期待して観たら、がっかりすること請け合い。
香港流のワイヤーアクションは、なかなかのものですけどね。
まあ私は、嶋田久作の加藤を見れれば満足なので。
ちなみにこの作品、撮影に佐世保市の針尾工業団地(ハウス
テンボスの近く)が使われてました。市内ロケしたわけではない
ので「だから何」って感じの余談ですが。
公開は'89年。中州の劇場で見ました。
そうか、『ゴジラvsビオランテ』と同じ年なんだ。作風にその年の
傾向ってあるのかな?

厳島ファンタジア

2006年02月06日 21時59分11秒 | 音楽
先週の金曜からずっと雪ですが、今日はとうとう積もりました。
立春も過ぎましたが、まだまだ春は遠い感じです。

昨年10月に予定され、村治佳織の右手疾患のため延期となっていた
「厳島ファンタジア」が4月28日に行なわれることになりました。



昨年は決心がつきませんでしたが、今度は絶対行くぞ、ということで
中国新聞ちゅーピーくらぶの先行予約でチケットをゲットしました。
一番安いA席ですが・・・。



CDも、『Resplandor』と『Cavatina』の2枚を新たに借りて、ちょっとずつ
聞いてます。
でも、屋外でギターの生演奏って、どんな感じになるのかな。

チューリップのほうの続報はまだ入りませんが、今年も何かと忙しい
&物入りな一年になりそうです。

罪責の継承

2006年02月03日 23時50分23秒 | キリスト教
ここ数日、「戦争責任」について考えていました。
一口に「戦争責任」といっても、国家指導者の罪・責任と
下っ端の兵隊、そして非戦闘員のそれとでは当然中身が
異なってきます。一緒くたにして「一億層懺悔」なんての
には反対ですが、今回はそのことは脇に置いて、今日の
私たちにとって「過去」の戦争に対する責任とは何か、
それとどう関わるべきなのか、改めて整理してみました。

聖書では、「罪」のことを「的を外す」という意味の言葉で
表現しています。神の創造した「本来あるべき姿」から
外れることが聖書における「罪」です。
複数形であれば律法違反などの個別具体的な罪のこと、
単数形だと「原罪」とも呼ばれる、人間の持つ罪の性質
を指します。
いずれも、基本は創造主なる神と、被造物である人との
関係における問題です。人間同士の関係における罪も
「等しく神に造られ、愛されている者」に対する罪、として
神との関係の問題に収斂されます。
実存主義以降の現代神学においては、「神と私」という
一対一の関係、個人主義的信仰が強調されているよう
にも思いますが、それ自体聖書から外れた主張という
わけではありません。
「罪が支払う報酬は死です。」(ローマの信徒への手紙
6章23節・新共同訳。以下同じ。)
これに関して、エゼキエル書18章20節にはこうあります。
「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わ
ず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさ
はその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけの
ものである。」
余談ですが、ヨハネ福音書9章の、目の見えない人の
癒しの場面で、弟子たちが「子の人が生まれつき目が
見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人です
か。それとも、両親ですか。」と問い、イエスが誰の罪の
ゆえでもないと答えるやり取りがあります。エゼキエル
の預言にも関わらず、「罪の報い」「罰当たり」といった
考えがイエスの時代のイスラエルにもあったことは興味
深くもありますが、聖書はそれを否定しています。
同じエゼキエル書の3章17節以下には、預言者には
悪人に警告を発する務めがあり、それを果たさなければ
悪人が自分の罪のゆえに死んだとしてもその死の責任
を預言者に問う、とする神の言葉が記されています。
また、哀歌5章7節にはこうあります。
「父祖は罪を犯したが、今は亡く
 その咎をわたしたちが負わされている。」
つまり、個人のレベルを超えた集団(国家・民族・組織)
の罪も神は裁くのであり、個人であればその死によって
(但し、肉体の死に留まらず、死後の裁きによる永遠の
滅びという霊的な死も含めて)片が付きますが、集団の
場合、責任が果たされないならばそれは次の世代に
継承される、ということです。

歴史を批判的に捉えると、「自虐的」だと揶揄されたり、
「現代の価値観で過去を裁くのはおかしい」と反論され
たりしますが、歴史を批判的に検証することによってしか
私たちは何が正しく何が間違っているかを知り、反省
することはできません。
そして、その罪を「過去」に置いたままにせずに、自分
自身の現在の課題として受け止めるなら(主体的にそう
するか否かに関わらず、必然的にそうなると聖書には
書かれています)、私たちには責任を追及する権利と
義務があるはずです。

客観性の罪

2006年02月02日 22時44分38秒 | 時事・社会
先日の、公園でテント生活している「ホームレス」の住民登録を
認める判決や、その直後の大阪市によるテントの強制撤去の
ニュースを受けて、「ホームレス」への批判をあちこちで目にする
ようになりました。大体ネット上の「主張」は右寄りのものが多い
(目立つ)と以前から指摘されていますが、その傾向はますます
強まっているようです。
もちろん、一口に「批判」といっても、嫌悪感や差別意識むき出し
の「悪口」的なものと、客観的(第三者的)にホームレスの側の
問題点を指摘した「評論」タイプとがあります。私が信頼を置き、
いつも訪問しているサイトは、おおむね後者でした。それでも、
読んでて「この人までこんなこと言うの?」と思わずにはいられ
ませんでした。
「ホームレス」問題を正しく理解する上で、「ホームレス」の側に
ある問題も認識すること(明らかにすること)は必要かも知れま
せん。しかしそうした「事実」の指摘と、それを「評価(断罪)」
することとは別です。どのような「事実」を取り上げ、それをどう
「評価」するかは、その人自身の立場や思想が反映します。
一見「客観的」を装っていますが、最後は主観でものを述べて
います。決して「中立」ではありません(というか、完全な平等
が実現していない社会では「中立」な立場などありえません)。
もちろんどういう立場や思想を持っていようと、その人の「自由」
ではありましょう。しかし、良心的な人の義憤的発言である点
が私にやるせない感情を抱かせるのです。
「客観的」考察の結果「ホームレス」を批判して、どうなるという
のでしょう。「ホームレス」はそうまでして叩かなければならない
「悪」なのでしょうか。結局のところ「客観的」批判が、「社会的
弱者」を一層追い込むことになっているのではないでしょうか。
特定の組織や教条に拘束されないという意味での「不偏不党」
は私も賛同しますが、幻想でしかない「中立」的立場は、強い
者はますます強くなってのさばり、弱い者はさらに弱くなって
食いものにされる社会の現実を結果的に支持することになる
のです。
社会が右傾化する中で、戦後民主主義的な「平等」への批判
が強まっていますが、この国には「判官びいき」という文化が
あったはずではないでしょうか。弱者への「優しさ」を忘れて
競争原理一本で突き進むのは、「戦後」からの脱却ではなく
新たな米国文化への隷従にほかなりません。
「ホームレス」の次は「障害者」「ニート」とエスカレートしていく
のは目に見えています。「客観的」にものを言えるほど「他人
事」ではないと思うのですが。

聖書の神様との出会い その5

2006年02月01日 02時11分16秒 | 証し(のようなもの)
気がつくと、2ヵ月も放ったらかしでした。でもまだまだ続きます。

高校のクラスマッチ(球技大会)は期末試験後だったと記憶して
ますので、7月上旬のことと思います。同じ西南中出身のK君が、
キリスト像の付いた十字架を私に見せて、「キリストが付いてる
から俺は絶対点を取られん」(彼はサッカーのキーパーでした)
と言いました。両親が聖公会の信者で、彼も幼児洗礼を受けた
のだと、その時初めて知りました。彼が本当に「信仰」を持って
いるのか、この時の彼の発言が「聖書的」かどうか、疑問は
尽きませんが、同じ神を信じているつもりだった私はそれまで、
そのように自分の信仰を言い表したことが無く、驚きと同時に
K君を尊敬しました。そして私も自分の信仰をはっきりさせなけ
れば、という思いを持ちました。
ちょうどその頃、私が前に行った教会に通っている、小学校の
同級生Y君と帰りのバスで偶然一緒になり、「教会に来いよ」と
誘われました。
信仰そのものは無くなっていなかった私は、いつかまた教会に
行きたいと思い続けていましたが、このような形で教会に戻る
きっかけが与えられたわけです。
ただ、その実現はもう少し先になりました。私にとってもう一つ
超えなければならない大きな山=運動会が目の前に迫って
いたからです。
修猷館では体育祭のことを「大運動会」と呼びます。その名の
通り、大掛かりで激しく、復古的です。OBがいる建設会社の
協力でスタンドが設営され、高校野球の応援団の比ではない
ハイレベルなパネル人文字を含む応援合戦、7段ピラミッドが
売りの組体操、騎馬戦に棒倒しと、とても私には向かないもの
ばかり。(そういえばこの騎馬戦で「元寇」の歌を覚えました。)
応援歌練習を乗り切って一息ついたものの、今度は運動会に
おびえる毎日でした。今なら「そういう時こそ教会に行って神様
にしっかりつながってなきゃ」と思いますが、当時はそんな余裕
など全くありませんでした。それで、「運動会を乗り切れたら
教会に行こう」と決心しました。
結局、怪我も無く守られてどうにか乗り切ることができ、1989年
9月17日に、約2年半ぶりに礼拝に出ることができました。
それ以来、何度か休んだことはありますが、教会からは離れる
ことなく今日まで信仰生活を送れています。