Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

罪責の継承

2006年02月03日 23時50分23秒 | キリスト教
ここ数日、「戦争責任」について考えていました。
一口に「戦争責任」といっても、国家指導者の罪・責任と
下っ端の兵隊、そして非戦闘員のそれとでは当然中身が
異なってきます。一緒くたにして「一億層懺悔」なんての
には反対ですが、今回はそのことは脇に置いて、今日の
私たちにとって「過去」の戦争に対する責任とは何か、
それとどう関わるべきなのか、改めて整理してみました。

聖書では、「罪」のことを「的を外す」という意味の言葉で
表現しています。神の創造した「本来あるべき姿」から
外れることが聖書における「罪」です。
複数形であれば律法違反などの個別具体的な罪のこと、
単数形だと「原罪」とも呼ばれる、人間の持つ罪の性質
を指します。
いずれも、基本は創造主なる神と、被造物である人との
関係における問題です。人間同士の関係における罪も
「等しく神に造られ、愛されている者」に対する罪、として
神との関係の問題に収斂されます。
実存主義以降の現代神学においては、「神と私」という
一対一の関係、個人主義的信仰が強調されているよう
にも思いますが、それ自体聖書から外れた主張という
わけではありません。
「罪が支払う報酬は死です。」(ローマの信徒への手紙
6章23節・新共同訳。以下同じ。)
これに関して、エゼキエル書18章20節にはこうあります。
「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わ
ず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさ
はその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけの
ものである。」
余談ですが、ヨハネ福音書9章の、目の見えない人の
癒しの場面で、弟子たちが「子の人が生まれつき目が
見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人です
か。それとも、両親ですか。」と問い、イエスが誰の罪の
ゆえでもないと答えるやり取りがあります。エゼキエル
の預言にも関わらず、「罪の報い」「罰当たり」といった
考えがイエスの時代のイスラエルにもあったことは興味
深くもありますが、聖書はそれを否定しています。
同じエゼキエル書の3章17節以下には、預言者には
悪人に警告を発する務めがあり、それを果たさなければ
悪人が自分の罪のゆえに死んだとしてもその死の責任
を預言者に問う、とする神の言葉が記されています。
また、哀歌5章7節にはこうあります。
「父祖は罪を犯したが、今は亡く
 その咎をわたしたちが負わされている。」
つまり、個人のレベルを超えた集団(国家・民族・組織)
の罪も神は裁くのであり、個人であればその死によって
(但し、肉体の死に留まらず、死後の裁きによる永遠の
滅びという霊的な死も含めて)片が付きますが、集団の
場合、責任が果たされないならばそれは次の世代に
継承される、ということです。

歴史を批判的に捉えると、「自虐的」だと揶揄されたり、
「現代の価値観で過去を裁くのはおかしい」と反論され
たりしますが、歴史を批判的に検証することによってしか
私たちは何が正しく何が間違っているかを知り、反省
することはできません。
そして、その罪を「過去」に置いたままにせずに、自分
自身の現在の課題として受け止めるなら(主体的にそう
するか否かに関わらず、必然的にそうなると聖書には
書かれています)、私たちには責任を追及する権利と
義務があるはずです。