Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

客観性の罪

2006年02月02日 22時44分38秒 | 時事・社会
先日の、公園でテント生活している「ホームレス」の住民登録を
認める判決や、その直後の大阪市によるテントの強制撤去の
ニュースを受けて、「ホームレス」への批判をあちこちで目にする
ようになりました。大体ネット上の「主張」は右寄りのものが多い
(目立つ)と以前から指摘されていますが、その傾向はますます
強まっているようです。
もちろん、一口に「批判」といっても、嫌悪感や差別意識むき出し
の「悪口」的なものと、客観的(第三者的)にホームレスの側の
問題点を指摘した「評論」タイプとがあります。私が信頼を置き、
いつも訪問しているサイトは、おおむね後者でした。それでも、
読んでて「この人までこんなこと言うの?」と思わずにはいられ
ませんでした。
「ホームレス」問題を正しく理解する上で、「ホームレス」の側に
ある問題も認識すること(明らかにすること)は必要かも知れま
せん。しかしそうした「事実」の指摘と、それを「評価(断罪)」
することとは別です。どのような「事実」を取り上げ、それをどう
「評価」するかは、その人自身の立場や思想が反映します。
一見「客観的」を装っていますが、最後は主観でものを述べて
います。決して「中立」ではありません(というか、完全な平等
が実現していない社会では「中立」な立場などありえません)。
もちろんどういう立場や思想を持っていようと、その人の「自由」
ではありましょう。しかし、良心的な人の義憤的発言である点
が私にやるせない感情を抱かせるのです。
「客観的」考察の結果「ホームレス」を批判して、どうなるという
のでしょう。「ホームレス」はそうまでして叩かなければならない
「悪」なのでしょうか。結局のところ「客観的」批判が、「社会的
弱者」を一層追い込むことになっているのではないでしょうか。
特定の組織や教条に拘束されないという意味での「不偏不党」
は私も賛同しますが、幻想でしかない「中立」的立場は、強い
者はますます強くなってのさばり、弱い者はさらに弱くなって
食いものにされる社会の現実を結果的に支持することになる
のです。
社会が右傾化する中で、戦後民主主義的な「平等」への批判
が強まっていますが、この国には「判官びいき」という文化が
あったはずではないでしょうか。弱者への「優しさ」を忘れて
競争原理一本で突き進むのは、「戦後」からの脱却ではなく
新たな米国文化への隷従にほかなりません。
「ホームレス」の次は「障害者」「ニート」とエスカレートしていく
のは目に見えています。「客観的」にものを言えるほど「他人
事」ではないと思うのですが。