Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

心の問題? その3

2006年02月16日 15時26分05秒 | 時事・社会
憲法第20条「信教の自由」は何故、第19条「思想・良心の自由」とは
別に独立した項目として設けられているのでしょうか。
前回、「戦争遂行の精神的支柱となった国家神道=国家による宗教
統制から国民を解放するために設けられた」と書きました。これはこれ
で大変重要なことで、日本が今後も国際社会において「平和国家」を
標榜して歩んでいくつもりならば、過去の歴史の総括であるこの条文
を外すわけには行きません。
しかしこの条文の意味するところは、それだけに留まりません。

フリー百科事典『ウィキペディア』には「信教の自由」をこう定義づけて
あります。
1.個人が自由に好むところの宗教を信仰し、内面の平穏を保つ権利。
2.そもそも宗教を信仰するかしないかを自由に決める権利。
3.特定の宗教を信仰していたり、していなかったりすることによって、
 いわれのない差別を受けることのない権利。
4.上記の権利を確保するために、国家が特定の宗教について信仰の
 強制・弾圧・過度の推奨などを行う事を禁ずる制度を構築すること。
5.4について、特に政教分離を行うこと。
日本国憲法第20条のモデルとなったアメリカ合衆国憲法修正第1条
は、「連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を
禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または
人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する
権利を侵す法律を制定してはならない」となっています。
欧州17世紀における市民革命の多くが宗教的自由の獲得・擁護を
背景とする性格をも持っていたこともありますが、ここにはキリスト教
的人間観・世界観が反映されています。
まず第一に、王権神授説だろうと社会契約説だろうと、国家もまた
神の被造物であるということです。それゆえに国家は人と神の間に
立つことはできません。古代イスラエルは「政教一致」だと言われ
ますが、王(政治)と祭司(宗教)は明確に区別されていましたし、
「さばきつかさ(士師)」の流れを汲む預言者は在野の個人でした。
聖書は、政治が宗教を利用することを認めてはいません。
第二に、「救いはイエス=キリストを救い主と信じる信仰によってのみ
与えられる」ものであるから、それ以上のものを国家が要求すること
は認められません。
そして第三に、自由は神が与えたものであるという理解です。

こう書くと、「日本はキリスト教国ではないから、私はクリスチャンで
はないから、そのような条文は要らない(認めない)」という人も出て
くるでしょう。しかしこれは、欧米社会ではごく一般的な認識です。
共産主義国やイスラム国は別ですが。西側諸国の一員を自認し、
「自由」を広めるために戦争までする国の「盟友」でありながら、
その「自由」を受け入れないのはちょっと虫が良すぎる気がします。
それに、伝統・文化でも悪いものは排除し、良いものは外からでも
積極的に取り入れるのが、本来の文化のあり方ではないでしょうか。
最近、「文明の衝突」ということが盛んに言われ、「寛容な国・日本」
などという自己宣伝もまかり通ってますが、敗戦後こそ米国の陰に
隠れておとなしくしてますが、それまで「衝突」を繰り返してきたのは
どこの国でしたっけ? またそれを止められなかった伝統文化・宗教
の責任はどうなんですかね?(キリスト教会の責任も否定しません。)
だから「信教の自由」は欠かせないのです。
決して「お国のために死んだ者たち」を祀るためではないのです。