Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

「日韓論争」に一石

2006年02月18日 23時26分51秒 | 時事・社会
保護領化、銃剣で強制=ロシアで新資料-1905年の日韓協約

【モスクワ16日時事】日露戦争後、日本が韓国の外交権を奪い、朝鮮半島
併合につながった1905年11月の第2次日韓協約は、日本が銃剣の圧力に
より強制したもので、韓国外相のなつ印を日本側が代行したとするロシア
情報機関の機密公電がモスクワの帝国外交資料館で見つかった。
過去の日韓論争では、韓国側が日韓協約は非合法で無効と主張、日本側
は当時の国際法では合法的で有効だとして対立したが、第三国による観察
は論争に一石を投じる可能性がある。この公電はロシアの歴史学者、
ドミトリー・パブロフ無線・電子工科大教授の調査で発見された。
ソウルからの情報を基に、上海の情報拠点からロシア外務省に送られた
公電(05年11月24日付)は、11月17日の協約締結の状況について「14日
から日本軍の多くの歩兵部隊、騎兵隊、砲兵隊が邦人保護を口実に昼夜
ソウルの路上にあふれ、宮殿を包囲した」「伊藤博文特使は将軍や部隊を
引き連れて宮殿に乗り込んだ」と伝えた。
17日の締結に関しては「韓国閣僚が署名に抵抗したため、日本側は強権を
発動。朴斉純外相の自宅に憲兵隊を送り、用意した条約文に署名を強要し
たが、外相が拒むので、日本側が自らなつ印した。伊藤特使は『これで保護
領協定が締結されたと見なす』と宣言した」「高宗皇帝は『条約を認めるなら、
死んだ方がましだ』として拒んだが、日本の憲兵隊は宮殿内にもあふれ、
抵抗できない状況に追い込まれた」としている。 
                       (時事通信) - 2月17日7時1分更新


日露戦争が終わったのが1905年9月5日ですから、終戦直後なのですね。
「竹島併合」は戦争遂行上の必要からなされたようですが、一連の流れの
中で「対露勝利」をてこに一気に事を進めたのでしょう。
(もっとも日露戦争が本当に日本の「勝利」だったかは疑問ですが。)
朝鮮半島の覇権を争った相手の情報ですし、ロシアのスパイが調印の場に
同席できる筈はなく「又聞き」でしょうから、真偽のほどは何とも言えません
が、こうした情報が存在したということ自体、「朝鮮人も日本による統治を
望んでいた」とか「国際社会も韓国併合を認めていた」などという、歴史を
「修正」しようとする人々の主張を突き崩すものといえるでしょう。
こういう「新事実」が出てきたことについて、「後世が明らかにしてくれる」と
歴史認識を明確にすることを避けてきた人たちは何と答えるのでしょうか。