
窓外の景色、光景は通常では人が登れないような勾配の高い山々、断じて登れない山岳に位置している建屋…(どのように建てたのだろう、と驚愕唖然とするような神社はあることはある。想像を超越するような場所)この場合は精神性の高みを示唆している。
そしてその空に浮遊する球体に乗る男は、彼自身を客観的に見ている。あるいは室内の彼が球体の彼を見ている。この対象との対峙が、即ち認識である。
底の底まで見抜こうとする知覚作用。
球体との距離や彼との間隔は、留まるものでなく常に浮遊の状態にあり計測不能かもしれない。
球体に当たる光源はどこにあるのだろう、手前の山は漆黒であり、遠方の山は仄かに明るい(光は後方から射している)。
彼自身が光源であるとするならば、精神世界の仮象であり、窓外とは物理的に矛盾している。
矛盾、即ち否定が前提条件である。
彼はわたくしであるが、わたくしはすべての感覚を以て世界を把握したいと望んでいる。しかし究極、無、あるいは原初に遡っても、未来という時間は見えてこない。有るがまま…今という存在の根拠を模索しているにすぎないのかもしれない。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
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