続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

金山康喜《聖ヘレニウスの時計》《静物〔湯沸しのある静物〕》

2015-04-14 06:29:09 | 美術ノート
 金山康喜は常に(冷静と情熱の狭間)を生きていたのではないか、そんな気がする。

 一般にタブー視されている画面を真ん中から二つに裂くということを平然と・・・否、それと隠してオブジェなどで線を引く傾向がある。左と右の空間に微妙な差異。
 揺れている、明らかに動揺している。烈しく力づくで、答えを肯定へと導き出そうと暗闇の中でもがいている、闘っていると換言してもいいかもしれない。

《聖ヘレニウスの時計》では、開いた窓の左右は上下別々の眼差しで見ているが、それは、右側の若干傾いた線が画面を切り、二つの心理空間を構成していることの暗示とも受け取れる。
 ヒーターの上の湯沸しの持ち手が見えない。(この形の場合、持ち手は過熱を避けるために上にあるべきなのだけれど)つまり触れることの難しい不可能な湯沸しなのである。右の画面では沸騰の湯気が上がっているが左は静かである(蓋が多少持ち上がってもおかしくないが・・)
 歪な鉄製のパン、パンの柄の下に描かれているのは、コーヒーミルの取っ手かもしれない。とすると手前には見えない奥ゆきがあるのかもしれない。微妙な触れ具合である。細く伸びた空ビン小さな椅子と左右にまたがる大きな椅子、そして長針のない時計。

 この時計、十二時を指しているのだろうか・・・長針が欠けているのだとしたら、無意味な長物であり、時空の不安定な非現実、あるいは自分の時間ではない時間。自身を束縛、抑えている静止の画面である。

 一方右の画面では湯は沸騰し、置かれた椅子は左画面に背を向けた方向にある。反逆、背いた心理である。空ビンは微妙に傾き(揺れ)、小さな黒いビン(不安)はピタリと寄り添っている。そして画面の彩色は左画面に比して明るい。

 時計は壊れている、あるいは止まっている、動かない。このままそっと・・・ずっとこのままでいたいという願望。歪な鉄のパン(自分)と秘かに隠れているコーヒーミル(彼女)との関係は、秘密の上にも秘密でなければならない。
 この作品は、金山作品全体を理解しない限り答えを導き出せない謎のような意味を内包した心理の揺れを描いている。

《静物〔湯沸しのある静物〕》をみると、強い炎の上の湯沸しは蒸気を出し切り、琺瑯の湯沸しにひびが入っている。限界である。床(テーブル)の黒色と、室内に充満した沸騰の湯気の白色。そして燃えるガスの火と沸き切って空になった湯沸しの疲弊。

 不可逆という絶対的な摂理の中の苦悩、燃え上がる情熱と抑え込まざるをえない冷静・・・。金山康喜のニヒルな心情は仮面を被ったまま、作品の中でそれと解らぬ秘密を忍ばせたのだと思う。『解っては困る、絶対に!』画面の中のブルーは華やかさの中に哀愁を漂わせて、鑑賞者を惑わせる。『覗くなよ、絶対に!』そう、言っている。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)

 

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