
連続写真に対する意欲、つまり時間の流れである。
時間を平面(二次元)に留めることは可能か・・・眼は連続して撮られた対象物を追うが、過ぎ去った時間の追体験にすぎず、今を体感することは副次的に造られたものの中には存在しない。
『汽車の中の悲しめる青年』は一見、過去から現在・未来へ移行しているような膨らみを呈しているが、単にそう理解しようとする思惑が働くだけである。
疑似空間に時空の流れ(ムービー)は再現できない。
汽車の中という想定は、動く時間の共有を仮想できる設定である。
悲しめるという副詞は、情感を現すが画の中に暗さはあるが必ずしも悲しみを醸し出しているとは思えない。
青年という《若い男》の分類(あるいは領域)に関する具体性の欠如は、鑑賞者を困惑させ、『汽車の中の悲しめる青年』という存在を抽象化させる。
つまり彼(『汽車の中の悲しめる青年』)の存在は、製作者は(存在する)と言い、鑑賞者はそのタイトルから覗き見るという構図になっている。
さらに製作者の本意は、否定と肯定の間を行き来する二次的な仮想空間の想定にあると確信する。青年は、迷路を走る汽車の中の(悲しめる)現象の幻影かもしれない。
写真は(www.tauschen.com)より
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