
『死拷問の静物』
足の裏を見せているということは歩いていない、行動を止めた人の足である。
死と言っているので、すでに死んだ人の足裏に蠅が集っているという図。すなわち腐乱が始まりつつある、死んだばかりの人の足裏である。
死、確かに静止して動かない状態への移行である。精神の剥奪、抜け殻と化した物体としての足裏に、拷問の痕は見えない。容疑者の自白、追い詰められた死の痕跡を足裏は語っていない。
死人を拷問にかけるということはない、意味(答え)を見いだせないからである。死後の腐乱に蠅が集るという状態そのものを拷問と言っているのだろうか。
しかし精神的かつ肉体的な苦痛は、死をもって終了する(はずである)。したがって、《死拷問》という言葉は意味として成立せず、また人の死を、動かなくなってからと言って《静物》とは言わない。
恐怖をそそる題名だが、ここに見えるのは嫌悪だけである。無意味というよりグロテスクな真実であるが、拷問という重さを引き受けた感じがまるでない。
漂う虚無感、死んだばかり、つい先ほどまで生きていた人の足裏に群がる蠅は鑑賞者(現存の人)にとって死という現実をまざまざと見せつけられる拷問である。
《死》を凝視する生者への死者からの拷問・・・確かに彼(足裏)は、死して静物となり、生者を脅迫する拷問をかしているいるのかもしれない。(写真左)
(見えない人〈あるいは現象〉を鑑賞者の前に立たせることはデュシャンの常道手段にも思える。)
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
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