
『接近する金属の中に水車のある独身者の器具』
見事なまでに接続不能な単語を強引に並列させている。(接近する金属)なんて想像できないし、その中に水車がある?・・・そういう独身者の器具と言われても。
「タイトル道理の物を制作してください」という依頼に応えられる人はいるだろうか。抽象的というより無理難題、制作不可能だと断言できる。
しかし、「そういうものである」と作品を提示せしめている。
もっともらしい鉛(金属)ガラス板に描かれた水車らしき車輪、描いたのであって立体的に物象化したものではない。もちろん不可能だからであるが、その形態・構成自体も在りそうで有り得ない崩壊を免れない図式なのである。
見えている、しかし内実の不具合は見えず、その組み立てを再現しようとして初めて発覚する不備、空想の代物である。
では、なぜ?「この作品の意図は?」
一見つながって意味を成しているようなタイトルと、肯定せざるを得ないような思索を重ねたかに見える設計に不信を抱けない。
(そうかもしれない)という安直な感想に終始してしまう。鑑賞者はこのタイトルと作品自体の袋小路を彷徨するという奇妙な体験を強いられてしまう。
総てを理解しているという傲慢さの試薬でもある。デュシャンの《無為》の横行は、鑑賞者の思い上がりの鼻を挫くかもしれない。
デュシャンの静かなる反逆の眼差しは遠く果てしないほどの空漠を見つめている。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
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