暦の上ではもう秋・・・。
人生の上でも、すでに秋。
街を歩いていてふと自分の姿を目にすることがある。ショーウインドウに映る自分、丸い背中、皺と白髪の鈍間然としたお婆さん、(これがわたしなの?)
長い月日の果て・・・いろんな思いがこの身体の中に凝縮している。
全て洗い流し、きれいさっぱり空にして、天を仰いで大笑いしたいな。
(もう、いいよ)って、わたしのご先祖様たちが見えない糸を引いているかもしれない。
何だったんだろうな・・・。
でも、秋の香り、愉しまなくては!
《まだまだ!!》まだ秋なんだもの。
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』
おかしいでしょう、この題名。
言語というのは相手に通じることを前提に形作られている。言葉は時代を経た不壊の完成品でもあるが、それを否定する言語を熟考した結果の題名ではないかと察する。
「彼女の独身者たち」ということ自体が微妙にずれている。「彼女と独身者たち」もしくは「独身者たちの彼女」なら分かるが、彼女は独身者たちを所有するだろうか。
「独身者たちによって裸にされた花嫁」、「彼(許婚)によって裸にされた花嫁」なら分かるが、複数の者が花嫁を裸にするなど事件である。(しかし、例外的にあり得るかもしれない)という余地が言葉のミソでもある。
しかも独身者たちは、男に限らず女の独身者も当然いるのに、なぜか男性であると思い込む、思いこませる流れを方向付けている。
全体、この題名は曖昧不明であるが、断言している点で納得しがたいが納得せざるを得ないような奇妙な迫力に押し切られてしまう。
「、さえも」って何? 止む無く、仕方なくという嘆息も滑稽というかユーモアを感じてしまう。
通念の否定、言葉と物、言葉とイメージ・・・蓄積され慣習化した観念の否定、破壊である。
存在を破壊(崩壊)によって否定(無)し、存在の意味を問いかけている。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃され、その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでしt。
☆講(はなし)の要(かなめ)也。
現れる他意の釈は、化(形、性質を変えて別のものになる)念(考え)であると告げる。
講(はなし)の吉(よいこと)は教(神仏のおしえ)を展(ひろげる)照(あまねく光が当たる=平等)にある。
すでになんらかの力をもった男としてのぼくに期待をかけているのでしょう。ところがこれだけの力をぼくがもつようになったのは、フリーダのおかげなのです。フリーダは、なかなか謙虚な女だから、あんたがそういうことを問いただそうとしても、きっとどこ吹く風というような顔をしているでしょう。
☆すでに能力、手段を持った人としてのわたしに期待しているのでしょう。この手段はフリーダのおかげなのです。フリーダは信ずべき人で、それを教え、小舟への問いも、決して軽くは判断しないでしょう。