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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

三浦半島の歴史4。

2015-06-04 06:26:09 | 博物館講座
[安池先生の授業]

 中世の三浦半島
「船運と三浦半島、そして横須賀」
「現代の海岸線に近くなったのは1000年~1200年前の事で生活の場が台地から谷戸の中に移動しました。いくつもの歴史的空間を経て「生成」「消滅」「変転」した結果が同一次元に表現されています。さらに為改者が地名を操作したことが近代以降でも数段階はあります。(大合併は明治・昭和・平成)

 中世の先駆けは海との山の「賊」の登場によります。(十世紀中ごろ承平天慶の乱)三浦一族も大審役で上京し、律令制が認めた官職を得ます。
 兵はツワモノと読み、兵士はヒョウジ、征矢はソヤと読みます。征矢は雑兵を射る矢であり、大将を射る矢は「上差し矢」といいます。
 三浦一族の祖と言われる三浦為継には自ら矢を抜いて相手(権五郎景正)に立ち向かったという逸話が残っています。
 京都で活躍した院の近臣・三浦為俊(千手丸ハ本ハ三浦ノ者也 後ハ肥後守トソ申ケル)という切れ者と称された人物の輩出もありました。
(古文書を読んでいて、例えば「当時」とあればそれは「時に当たる=今」の事です。)

 三浦半島は海の航路の東西を結ぶいい拠点であったわけです。三浦内三崎・松和・金田・菊名・網代・・・。
 三浦一族は北条氏に敗れますが、もとは北条一門と佐原三浦介の閨閥関係にありました。

 夢窓国師の語録に『相州三浦の横須賀といふところに、いり海にのぞみて泊船寮として住給ひける頃中納言・・・』の記述がある。
 ①応永3年に安堵された所領の一つに武州の海沿いに「六郷保郷司職神奈川郷・六浦郷」が含まれていました。
 ②南北朝期には多数の船が現在の東京湾を往来し「品河湊」に入律した船名と船主そして荷受けした問屋名が書き上げられていました。14~15世紀には京極・上杉家所領。

 六浦は中世には六連。鎌倉の外湊/将軍実朝が横須賀や三崎に出かける際には必ずここから出かけました。小坪や森戸神社へは前浜から船で日帰りでした(「吾妻鏡」より)

 北条支配下・海関係の人物
 野島の伊東新左衛門・田戸の永島助右衛門・久里浜の鈴木某・菊名の松原新左衛門・三崎の横井神助・佐島の宮崎省衛門
 田戸の岬が持つ特別な地理的位置により「かつら網」が栄えました(永島家)

 武山周辺は鎌倉の有力寺院所領があり、三浦半島には南と北に有力な所領がありました。

 会津と京都で活躍した三浦佐原一族。
(江戸歌舞伎の演目に三浦和田というものがありました)

 明治12年の地図に「どぶ板」(メートルほどのどぶ川に板を渡したという由来)があります。明治4年一号ドックの開業式がありました(泊船庵跡地)ドックを作るために山を切り崩し埋め立てたところが本町(?)あたりです。

 日本書紀には『御浦』と記されていた三浦半島の歴史。いずれ、この地に骨を埋めるわたし、少しはこの地の履歴を知ることも大切かと・・・。

 安池先生、ありがとうございました。



*ちなみに町内会館には、三浦為通ー為継ー義継ー義明・・・(ちょっと曖昧だけれど、三浦一族の系譜を記した紙が貼ってある)

『城』1982。

2015-06-04 06:02:08 | カフカ覚書
ぼくは、この無益な試みのためにすでに実際ひどくみじめな思いをさせられているのに、いままたきみにその話をして聞かせることによって二重にみじめな思いをしろというのかね。あのクラムの橇の扉のそばで午後の長い時間を凍えながらむなしく待ちつづけていたことを自慢話にでもしろと言うのかね。


☆わたしはこの無益な試みによってすでに屈服させられているのに、その話を通して二倍の屈服をしなければならないのかね。あのクラム(氏族)のやり方のショックで、先祖の長引く小舟をひやりとしながら無駄に待ちつづけたことを誉めろとでもいうのかね。