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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

三浦半島の歴史4。

2015-06-04 06:26:09 | 博物館講座
[安池先生の授業]

 中世の三浦半島
「船運と三浦半島、そして横須賀」
「現代の海岸線に近くなったのは1000年~1200年前の事で生活の場が台地から谷戸の中に移動しました。いくつもの歴史的空間を経て「生成」「消滅」「変転」した結果が同一次元に表現されています。さらに為改者が地名を操作したことが近代以降でも数段階はあります。(大合併は明治・昭和・平成)

 中世の先駆けは海との山の「賊」の登場によります。(十世紀中ごろ承平天慶の乱)三浦一族も大審役で上京し、律令制が認めた官職を得ます。
 兵はツワモノと読み、兵士はヒョウジ、征矢はソヤと読みます。征矢は雑兵を射る矢であり、大将を射る矢は「上差し矢」といいます。
 三浦一族の祖と言われる三浦為継には自ら矢を抜いて相手(権五郎景正)に立ち向かったという逸話が残っています。
 京都で活躍した院の近臣・三浦為俊(千手丸ハ本ハ三浦ノ者也 後ハ肥後守トソ申ケル)という切れ者と称された人物の輩出もありました。
(古文書を読んでいて、例えば「当時」とあればそれは「時に当たる=今」の事です。)

 三浦半島は海の航路の東西を結ぶいい拠点であったわけです。三浦内三崎・松和・金田・菊名・網代・・・。
 三浦一族は北条氏に敗れますが、もとは北条一門と佐原三浦介の閨閥関係にありました。

 夢窓国師の語録に『相州三浦の横須賀といふところに、いり海にのぞみて泊船寮として住給ひける頃中納言・・・』の記述がある。
 ①応永3年に安堵された所領の一つに武州の海沿いに「六郷保郷司職神奈川郷・六浦郷」が含まれていました。
 ②南北朝期には多数の船が現在の東京湾を往来し「品河湊」に入律した船名と船主そして荷受けした問屋名が書き上げられていました。14~15世紀には京極・上杉家所領。

 六浦は中世には六連。鎌倉の外湊/将軍実朝が横須賀や三崎に出かける際には必ずここから出かけました。小坪や森戸神社へは前浜から船で日帰りでした(「吾妻鏡」より)

 北条支配下・海関係の人物
 野島の伊東新左衛門・田戸の永島助右衛門・久里浜の鈴木某・菊名の松原新左衛門・三崎の横井神助・佐島の宮崎省衛門
 田戸の岬が持つ特別な地理的位置により「かつら網」が栄えました(永島家)

 武山周辺は鎌倉の有力寺院所領があり、三浦半島には南と北に有力な所領がありました。

 会津と京都で活躍した三浦佐原一族。
(江戸歌舞伎の演目に三浦和田というものがありました)

 明治12年の地図に「どぶ板」(メートルほどのどぶ川に板を渡したという由来)があります。明治4年一号ドックの開業式がありました(泊船庵跡地)ドックを作るために山を切り崩し埋め立てたところが本町(?)あたりです。

 日本書紀には『御浦』と記されていた三浦半島の歴史。いずれ、この地に骨を埋めるわたし、少しはこの地の履歴を知ることも大切かと・・・。

 安池先生、ありがとうございました。



*ちなみに町内会館には、三浦為通ー為継ー義継ー義明・・・(ちょっと曖昧だけれど、三浦一族の系譜を記した紙が貼ってある)

三浦半島の歴史3。

2015-05-28 06:43:09 | 博物館講座
[稲村先生の授業]  

(縄文~弥生~古墳)

「つまり三浦半島というのは、西から東、あるいは東から西への文化の伝達における海路の≪中継地≫だったということです。千葉の市原や東京湾の奥である荒川や埼玉への中継地、ハブ港だったわけです。また、有力者が出現するような場所でもなく、周囲は海に囲まれていますから、当時の技術では稲作ということも考えられなかったわけです。
 弥生時代の中ごろの時期までは交流を示すものが出ておりません、いわゆる停滞期です。

 弥生の中期以降になりますと三浦の赤坂遺跡、小矢部の蛭田古墳などがあります。小田原などでは瀬戸内の土器が出ていますが西から集団でやってきた人たちが稲作(水田)を作り定着していったようです。佐原の泉遺跡では破片(二片)が出ています。
 新潟の人が遠路はるばる山を越えて伊勢原へやって来て土器を作っています、単発的ではありますが釜戸を作ってもいます。

◎方形周溝墓/周囲に溝を掘り、掘った土を中に入れる。(中期以降副葬品として鉄剣が出ている)
 ①一つの墓に幾つかを埋める/共同体→集団の中で選ばれた人→単独→発展≪王の墓≫
 ②土壙墓
 ③木棺墓/三崎/水戸浜
 山梨県の上の台、上の原台地には一辺が35メートルもある方形周溝墓があります。(通常は一辺10メートル前後)
 弥生後期になっても方形周溝墓を作っていますがその間墓を作らなくなったりもしています。
 九州などでは後期あたりから始めたようです。それまでは甕棺墓や墳丘。(奈良や大阪)
 壺棺墓/北関東や東北に見られます。(一つの穴に幾つもの遺体)

 集落全体を囲み溝を掘った例もあり(外部からの侵入や中の人の逃亡を防いだ)溝の淵に3メートルもの土手を築いたものもあります。また意味不明(目的の不明確)のものもあったようです。(単に模倣である可能性もあった)

 千葉全体では100年くらいの間に方形周溝墓が出ています。
 佐島(三浦半島)の方形周溝墓(一基)からはガラスの勾玉や鉄剣が出ています。八幡神社の方形周溝墓は4世紀後半のものです。
 平原弥生古墳の方形周溝墓からは鏡(鋳型で作られた鏡)が十何面も出ています。

◎前方後円墳
 高部(鏡が出土)神門(鉄/やじり)
 奈良・纏向/卑弥呼の館がある場所。(直径60メートル、高さ10メートル)

 大和(おおやまと)三輪神社(200~300メートルの大きな古墳)


◎S字溝縁台付甕/粒の粗い雲母がキラキラしている。砂(四日市の砂)をつけています。
 大陸~九州~畿内。東海の人が集団で移動。
 S字があるということは煮炊きをした形跡があるということで生活をしていたということが伺えます。


『土器』
 朝鮮半島の土器を渡来人が伝えましたが定着はしなかったようです。
〈製鉄〉鉄を作るのではなく製器生産(仁徳/国立機関で作らせた)→日本中に供給されている/量産体制

 陶器/釉をかける。(粘土)
 掛けないもの、自然/須恵器(自然釉)灰は珪質(ガラス質)なのでガラス化して釉のように付着したものです。

 磁器(ガラス質を含んだ石)有田・瀬戸周辺の二か所のみ。


☆三浦半島はこれら文化の中継地、面でなく線でつながるネットワークだったわけです。

 郡司~群寺/影向寺(ようこうじ)7~8世紀初め。
 地域ごとに作り、財政上、お堂が一つしかない箇所もあった(例/大津廃寺)

 黄金・白銀・銅・石(ヒスイ)
 青磁(磁器/ガラス質)を真似て陶器(粘土)に緑色を掛けたものがある。

 宗元寺→曹源寺(8~9世紀の窯跡)・岩戸/満願寺(瓦を焼く技術)
 小矢部では土器を焼いた窯跡が見つかっています。

 
 弥生時代では三浦半島は生活というより海路の中継地であったということ。遠い古の風景に思いを馳せての授業。

 知らないことを聴講できるって楽しい。
 稲村先生、ありがとうございました。


☆平成25年5月28日/日経新聞
「青銅鏡鋳造型 国内最古か」製作史、覆す可能性の記事。福岡県春日市須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅器鋳型が見つかった。鋳型の破片は石製で長さ5.1㌢、幅2.5㌢、厚さ2.3㌢。ひもを通すつまみ「鈕(ちゅう)が鏡の裏面に複数ついた「多鈕鏡」を製作する、国内で初めて見つかったタイプ。(略)見つかった鋳型は線が粗く、朝鮮半島製を模倣したとみられる。剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろ伝来してまもなく国内生産が始まった。
前1世紀ごろの出土が最古とされていたが遺跡の竪穴住居では鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。多鈕鏡は近くの墓から見つかったが石材が似ていることから同時期のものと判断したという。

三浦半島の歴史2。

2015-05-21 07:00:27 | 博物館講座
[稲村先生の授業]

観音崎バス停集合。
 瘤ノ木横穴墓群[古墳]を確認。「集落遺跡はこのあたりにはありません。あるのは鴨居の漁港・谷屋戸遺跡、それに上野台集落の(100)位であり、それもごく短期間と思われます。なぜならここらあたりには生産基盤がないからです。砂地のため基本である田んぼを作ることができなかったからです。
 佐島/大楠中学のしたあたりに前庭部の広い一穴巨大の大窟があります。副葬品などは出土されないため、共同墓地だったと思われます。
 美術館の向こう側には半島でも一二を争う横穴墓がありますが、樹木で覆われ今は見えません。

 古墳というものは一般に南向きに作られます、それが占いに因るものであるのかという根拠は分かっていません。(南中、つまりは太陽信仰。あるいは甦りを想定したものかもしれない)富士見町・田戸台には横穴(60穴)があります。西浦賀には貝塚がありませんが、砂浜に捨てられた貝も陸が隆起していますから(貝塚は)海の底ということかもしれません。

 古代の銅剣・銅鐸(菱環型)が淡路島で出土され奈良橿原でも銅鐸が出ましたが、使用の形跡のないものもあります。九州のお墓から銅鐸や鏡などが出土しています。三浦半島への伝承は陸路ではなく、海路で伝達されてきたものと思われます。遠浅(海岸)だった馬堀の横穴からは大量の置物が出ています。隣接ではあっても走水などは谷戸がないため風避けができず、なおかつ磯であるため船が着けなかったという事情があります。

 蓼原遺跡/全長28mの前方後円墳があり、畑の中からは埴輪も出土しています。
 江ノ電/和田塚では赤星先生が埴輪を発掘しています。(盾を持った人)5~6世紀/破片


≪横須賀美術館では『人物埴輪(和琴は5世紀ごろ朝鮮半島から伝来)・円筒埴輪・馬形埴輪・家形埴輪』の展示を鑑賞≫

 これらは量産したもので、窯のあるところへ出かけて(移動し)焼いたらしい。それにしても≪美しい≫というのがわたしの印象。副葬品としての埴輪には鎮魂がこめられている。
 食を求めるままに彷徨した我祖先、古の誇りある証し『埴輪』を感慨深く拝見。
 稲村先生、ありがとうございました。

『三浦半島の歴史』1。

2015-05-14 06:42:52 | 博物館講座
[稲村先生の授業]
 先土器~弥生時代の三浦半島

「破片一つでも歴史的な価値があります。価格は需給の関係で決まりますが発掘したものは、価格とは無縁の絶対的な存在です。それら破片を復元していくと、空間が分かります。つまり三次元になると、やじりであったり、石やりであったりと、生活が見えてくるということです。
 旧石器などはバイカル湖(ロシア)あたりから入ってきたのではないかと言われていますが、日本人は南方系であり、南方には石器文化というものはありません。
 南の地域では、簡単な道具で食料が手に入るので確保する手立てを必要としなかったためです。北(ヨーロッパ)と南(アジア)では生活形態が違い、また交易もなかったと思われます。

旧石器時代・・・長浜ノ上遺跡・打木原遺跡・大塚東遺跡などがあります。

縄文式土器ー現在のソレイユの丘周辺の赤土の上、火山灰(黒)の堆積したところに住居跡が見つかっており、そのあたりはキャンプ地であったろうと推測されます。定住ではなく移動していたのでしょう。丸底、尖底の深鉢形の土器に食材を入れ、焼石を入れて調理していたものと思われます。

 草創期・住居跡としては長井台地遺跡群。
 夏島式土器(早期前半)は9.600年位前だと分かっていますが、それは炭素同位体に変化がみられることで判明します。(茅山遺跡)
 早期後半~中期には吉井貝塚、後期後半には高坂貝塚が見られました。
 平坂式に無紋式土器が発見されています。(小学生が人骨を発見)
 縄文土器ー沈線文(線を引くだけ)
      田戸式土器は撚糸文、泥線文、条痕文(貝でこすって痕をつける)野島式土器は細い紐を寄せて立体にする方法で作っています。

 氷河期も終わりになると海水面が上がり、砂泥質の入江ができたため、真牡蠣などを採取。
 中期は人の形跡がなく遺跡はほとんど見つかっておりませんが、久里浜で中期初頭に丸木舟(博物館に展示)が出土されています。京大の北白川発掘調査では縄文を疑うほどの薄い土器が出土しました。

 協業/追い込み漁、農業は焼畑農業が始まり、土を掘る道具(打製石器)ができました。大量のシジミが採取された際には加工食にもしており、また山菜なども食料にしていました。浦賀高坂貝塚や久里浜花の国あたりは、縄文晩期になると三浦半島には数家族が季節によって人が往来するようになりましたが、三浦半島には弥生時代の前期の発掘はありません。前期は(地域としては)秦野あたりまでで、日本海側に北上していったものとみられ、青森県垂柳には弥生前期の形跡が残っています。水田は作っていましたが、輪作けいがいがでていないので継続に関しては不確定です。
 このため、稲作が始まったことで水田の良し悪しによる地域の格差が生まれました。

 太平洋側には弥生中期にならないと出土の形跡は見つかりません。南関東では縄文晩期の暮らしが続行。西日本は厳しい自然条件であったため、水田による稲作が始まったと思われます。そのため(西日本の)勢力が強化されていきました。
(三足土器)平沢同明の壺は土が粉のような雲母を含み、光輝が見られる独特な仕上がりが見られます。
 また再葬墓という慣習も生まれました。

 三浦半島が弥生時代に移行したのは(弥生時代の)中期の中ごろです。
 遊ケ崎遺跡があり、後半になると、宮ノ台、三崎口の赤坂遺跡などが、弥生時代をもたらしました。小矢部(ひるが岳)には人頭型の土石が出土しています。
 横浜あたりの居住域が飽和状態にると三浦半島へと居住を移動していったのではと思われます。
 中期には首が細く容積の大きい土器が出土していますが、保存する種を空気に触れないように使用されたものと思われます。

≪縄文時代≫と≪弥生時代≫の決定的な違いは朝鮮から伝わったとされる稲作とそのことによる定住です。そのため、住居を造ったり家財道具を作るための道具が必要になりました。その結果、太くて丸く重さで切る石斧や、ほぞを作り組み立てた片刃などが出土しています。」


 手作業で何かを作り、その日の糧を得る暮らし。遠い祖先の汗に胸打たれる気持ちでした。
 稲村先生、ありがとうございました。

淡島神社の流し雛(神事)。

2015-03-04 06:25:50 | 博物館講座
〔瀬川先生の授業〕

 寒い、曇天・・・でも行かなくちゃ!淡島様の神事、流し雛。
 常楽寺で集合、徒歩で淡島神社へ。(流し雛がどんなものか一度は見たいと思っていた)

「この淡島神社は和歌山県にある淡島(粟島)神社の流れをくむもので、少彦名命(すくなひなのみこと)を奉ったものです。
淡島神は婦人病にかかったため淡島に流されたという伝承から安産・子授け、婦人病を治癒してくれる神様として祭られています。ですから祭壇を見れば分かりますが、大きな男根や石(子産石)、そして上には天狗の絵が掲げられています。
 なお、年中行事として2月8日に行われていた針供養も3月3日の流し雛に併せて行われるようになりました。と言っても、流し雛の神事が行われるようになったのは平成になってからです。そして和歌山県の淡島神社の方も50年位前からということです。
 ここで売っている人型の紙に子宝・安産などを願って納めると、流し雛の船に乗せて海へ流してもらえます、希望あれば・・・。(受講生は年配者ばかり)
 3時30分になるとこの下の芦名海岸で流し雛の神事が行われます。去年は神職の方の舞がありました。ということで15分程度の自由時間の後、海岸に向かいます。」

「神職の方や巫女さんが舟に乗って雛を流すという儀式ですが、実際は湾内を回って還るという式です。神事は海岸で行われますので、是非見学していってください。今回のイベントはこれをもって解散といたしますが、見学の後は、それぞれバスが混まないように帰りはそれぞれ分散が望ましいと思います」

 神官の祝詞や舞の終了後、複数のお雛さまを乗せた舟形の器を、街の有志の方々・神官・巫女さんを乗せた舟が引っぱり、湾内を回遊。


《神事の霊感》には美しくも生の根源に触れる祈願がある。
 瀬川先生、稲村先生、ありがとうございました。

*終了後は、串に刺した焼き鳥を食べ歩き。美味しかった! 

 

 

地球科学入門⑥

2015-03-02 09:41:46 | 博物館講座
〔柴田先生の授業〕

「わたしの主な研究対象は地層調査です。地層調査はどんな方法で行われるかをお話したいと思いますが、言ってみれば地道な作業の積み重ねです。
 クリノメーターは必携で、これによって地層の走行・傾斜の計測をします。それを地形図に記号を用いて記入していきます。地層の上下は級化層理(下から上に向って粒度が小さくなる構造)で判定します。自分の立ち位置を基点に地層面に平衡にクリノメーターを置きます。
 走行は必ず北から図り、「N40°E」と書けば、北から40°東にずれているということです。
 その際、傾斜方向と角度も、たとえば「北から50°西向き・傾斜37°北傾斜」というように記号で書き入れます。

 級化層理というのは重い物から先に沈みますから(砂岩・礫岩・泥岩)ということが判定の基準になります。砕屑物・砕層岩は、粒の粗いものはシルトといい、細かい物は粘土と呼びます。
 地層は水の中で出来ますが、火山の噴火による火山灰によっても出来ます。

 なおこれらをまとめたものがルートマップであり、地層の走行・傾斜や岩層などが記号によって判明します。地層の垂直的な重なりを柱として図示したものを地質柱状図といいます。このことにより、例えば古代三紀石城層〔福島県双葉地域)などでは、昔の水の流れの方向、斜交層理の傾きなども分かるのです。
 三浦半島には斜交層理が見える初声層があります。

 相模湾などはジャムスティック「なつしま」無人探査機「ハイパードルフィン」「深海6500」などによる物理的・化学的な海に関する総合調査が進められています。」


 脳のリハビリくらいの軽い気持ちでの受講。知らないことを知るって楽しい。地球・太陽・宇宙の中で小さく生息しているわたし、《400万年前がつい最近って!》頭がくらくら・・・。
 柴田先生六回にわたる授業ありがとうございました。(劣等生ですが「○○も山の賑わい」ってとこで勘弁して下さい)

地球科学入門⑤

2015-02-15 07:01:45 | 博物館講座
【柴田先生の授業】

「断層とは割れ目、地層のズレのことをいいます。逆断層・正断層・横ズレ断層など、《押す力》と《引っぱる力》の作用によってできるもので、今後も動く可能性のあるものが活断層です。(三浦半島の断層は右横ズレ断層)
 日本は2000万年前大陸から離れ日本海が出来たと推測されます。構造線(帯)とは地層群の境界線を言います。たとえば中央構造線/糸魚川静岡構造線などは衛星写真で見ると明らかに一本の線(帯状)になっていることが分かります。そして、伊豆半島が日本列島にぶつかったことで中央構造線がハの字形に曲げられました。

『褶曲』とは波曲状の変形構造(背斜・向斜)のことで、断層運動に伴って出来るものと変形しやすさが異なる層の褶曲があります。流水/海底の地すべりによって水平なものが変形します。
 ニ谷町の漣痕/波調層や海外町のスランプ構造/背斜上構造(海底の地すべり面が、下からと左からの圧力によって撓んだもの)などが見られます。

『火山』とはマグマが地表に出るところをいい、岩石の溶融体(900~1200℃)玄武岩~安山岩・流紋岩など、マグマが固まった物を火成岩といいます。火山の分布は海嶺(例:大西洋中央海嶺)・島孤(例:日本)
 マグマの出来方には、地温上昇(ホットスポット)、マントル物質の上昇(海嶺)水が加わる(島孤)があります。
 ホットスポットとは地球の中で温度が高い場所のことで、ハワイ/太平洋の真ん中やアフリカなど温かい部分が地表に湧き出してくるところです。(常にマグマを供給するような所)
 また、冷たい部分が落ち込んで行くところとしては、中国やアジア大陸などがあります。

 マグマだまり(地下5~10km)で冷却され、結晶化(結晶分化作用)によって出来るものを深成岩といいます。
 マグマの化学組織が変化したものは、玄武岩質ですが、安山岩・流紋岩質など、溶けたり固まったりしていろいろな種類の岩石になります。(均一に溶けず、濃いものから溶けます)

 火山体としては、溶岩ドーム(昭和新山)カルデラ(箱根)スコリア丘(大室山/伊東)などがあります。
 なお成層火山としては富士山があり、溶岩台地(アイスランド)楯状火山にはキラウエア(ハワイ)などがあります。


 火山国でありながら、火山を遠く他人事のように眺めていたわたし・・・。
「よく注意しましょうね」って先生。何をどうすればいいの? 活動している(燃えている)地球の上に暮らしているなんて話は聞かなかったことにしたい。

地球科学入門④

2015-02-01 08:30:18 | 博物館講座
【柴田先生の授業】

「堆積環境についてお話します。地層というものは、流速が落ちる、つまり遅くなるところに出来ます。運搬され堆積されるわけです。山から土砂が海に流れついたところに地層は出来ます。川が海に接した所を扇状地(三角地、デルタ)と呼びます。
 ですが、日本の川の長さは概ね短いため扇状地がそのまま海に入ってしまいます。
 
(1)山→平野→海の経由で扇状地が出来るわけですが、たとえば、静岡の天竜川や黒部川などは山からいきなり海に入ります。
 
 海の中にも火山はあり、八丈島、伊豆大島などの噴火により火山灰が降り積もって地層が出来ます。
 また風によって出来る地層もあります。(砂漠)

 山地→平野を、礫岩・砂岩・泥岩などが流れていきますが上流には荒い石が留まり、下流には細かい石(礫岩)が溜まります。

(2)河川→海
  三角州:砂岩・礫岩/前置層(斜めの地層が見えます)例/千葉県小櫃川河口
  浅海(陸棚):砂岩・ウエーブリップル(流れがあると斜交層理)・貝化石
  内海:泥岩(大津砂泥層は14万年前につくられたものです)
  走水礫部層には三角州/堆積物があり十数万年前に川の河口があったことが分かります。(丹沢山地や秩父など)

(3)大陸斜面→深海平原
  海底扇状地
  混濁流→タービダイト(砂岩・泥岩の互層)/傾斜が弱くなった所で出来ます。重いものが沈み、軽いものが舞い上がるという  式で、交互に出来るものをいいます。
  タービタイト/三浦層群三崎層、三浦層群逗子層(野比海岸)・・・砂は黒く、泥岩は白いので層になります。

(4)地質構造
  不整合:侵食面に堆積物が溜まるとき、その上下の関係。例/田越川不整合)
  傾斜不整合・平衡不整合・アバット(坂)などの形態があります。
  同時に活動する場合もあり、海溝へ延長することもあります。これらは全て地震の規模と関係します。

 断層は圧縮による岩石のズレ(上下左右の押したり引っぱったり力による)のことをいいます。正断層・逆断層・横ズレ断層など圧縮力の力の向きで決定されます。(斜め45度の力関係が動きやすいとされますが、実際は更に鋭角になります)なお割れ目が出来てもズレない場合を節理(岩石の割れ目)といいます。

 三浦半島では、城ヶ島で逆断層が見られます。
 活断層というのは最近まで活動し今後も活動の可能性の高い断層をいいます。三浦半島の活断層は最近(第4紀/260万年前)のもので、今後数百年の内にはと危惧されています。


 どこのどういう状態の上に生きているのかと考えると、震撼とさせられるものがあります。知るということは、覚悟のいる作業だと実感。

地球科学入門③

2015-01-18 07:04:50 | 博物館講座
〔柴田先生の授業〕

「ミランコビッチサイクルについてですが、地軸の傾きが何万年かで動くこと。地球が太陽の周りを公転するので少しずつ動くこと(離心率の周期的変化)。自転軸の傾きの周期的変化(首振り運動)によって、地球への日射量が変化することを言います。このことで同位体元素の測定が出来るようになり、数万年単位の周期的変化がわかることで、前回お話した化石などの時代の温暖化あるいは寒冷化なども分かるのです。

「そして今回は地層の出来方についてお話します。
 地層は堆積岩(泥岩(16分の1mmより小さい)・砂岩と礫岩は2mmを境としています)触ることで分かります。
    凝灰岩(火山灰)
    石灰岩(珊瑚や貝殻など/炭酸カルシウムを含むもの)
    チャート(放散虫、珪藻)
    石炭(植物)腐らないような環境、沼地など酸素が無いという条件が要です。
    山岩石(風化によって運ばれてきたもの/まとめて砕屑岩といいます。
    レッドチャート(コロラド高原/安定した古生代)
 地層は流水の影響で出来ます。
    ベットフォーム(小さな地形)
    リップル(蓮根)/波長60cm以下。カレントリップル(カレントとは流れのことです)
                   ウェーブリップル(波ででき、左右対象ではありません)
    デューン/波長60cm以上のもの。
    平滑床
 などの形態があります。潮汐作用によってできるウェーブデューン(大きなもの/60㎝以上)はありません。

 水だけでなく風によってできるデューンもあります。形態は砂の大きさと流れの早さで決まります。 
 流速が上がるとカレントリップルが出来、更に上がると、リップルが合体してデューン/砂帯になります。流速が速いとき右から左に向かって上流側に砂が降り積もって行きます。(ですが、地層に残ることはありません)

 堆積構造(断層で見ると)
 斜交層理(クロスラミナ)・平衡層理・級化層理・コンボルート層理・二次的に波状に変形した荷重痕(火炎状構造など)があります。海流でできた斜交層理は三浦市の二町谷で見ることが出来ます。級化層理は火山の噴火などで大小さまざまなマグマの重いものから沈んでいく状態の地形で上へいくほど小さい粒になります。荷重痕などは三浦市城ヶ島で火炎上構造としてみることが出来ます。(重いものが後から重なると不安定な状態になり地層の境界が変化してできる)

 そして1月17日ということで、阪神淡路(兵庫県南部地震)の震災のお話をして下さった。活断層タイプの地震であり、六甲淡路島断層帯(地層としては新しく、数百万年前/白亜紀)で起きたもので、1秒周期/神戸の固有周期では家屋の倒壊が多く見られました。(30k~40k動いた)
 3.11の場合はゆっくり長く揺れるタイプだったため、津波の被害が大きかったのです。
 川に沿った低い地域と高地ではその損壊に差異があることも調査で判明しました。では、今日はこの辺で、次回は1月31日です。」

 地学の知識が無いため、不明な点も多々あるけれど、興味津々の地球科学です。

地球科学入門②

2014-12-21 08:05:57 | 博物館講座
【柴田先生の授業】

「岩相層序区分についてお話します。地層累重の法則、当たり前のことですが、上側の地層ほど新しいということです。岩相(岩石の種類)層序(地層を区分したもの)は、層群層(層をまとめたもの)・部層(特徴があれば)・単層に分けられ、礫(2ミリ以下)砂(2ミリ以上)泥(16分の1ミリより小さい)その上に石灰岩、火山灰、砂という風に描かれた図を柱状図といいます。サンプリングで刳り抜くと、古地磁極が判明します。
 模式地は最もよく露出した場所のことですが最近では宅地開発のため見ることの出来る所が減っています。地質図は地層や岩石の分布図のことです。
 三浦半島には逗子層、横須賀層、葉山層群、走水礫部層、矢部層(衣笠町、立石、大矢部、小矢部)/凝灰岩(火山灰が固まってできたものです)三浦層群、三崎層(三崎西浜/黒いのは凝灰岩、白い所は泥岩です)、三浦郡初声層/凝灰岩の斜交層理、三浦層群、池子層/神武寺駅北東、凝灰岩/鷹取山、上総層群、浦郷層、野島層、大船層、小柴中里層、浜層、夏島。横須賀層(大津砂泥層)、走水礫部層(横須賀双葉)などがあります。

「生層序は化石帯(バイオゾーン)に基づき、象化石、アンモナイト、石灰岩、ナノ化石(CN2)、放散虫化石(RN5)などで調べます。動物プランクトンなどは珪質の殻を持っていることで調べます」

「古地磁気層序には正磁極期と逆磁極期があり、マグマが固まる時自然に北を向く鉱物(磁鉄鉱)などで分かります。(兵庫県の玄武洞には地球磁場が反対になっている所が見られます)これは500万年前まで測れます」

「年代を測るにはカリウム・アルゴン法というものがあり、噴火するとアルゴンは気体ですから出ていきますが、カリウムは時間が経つと放射線を出し他の元素に変るという特質があります。100あるKが50になるのは12.5億年と決まっている事から推定します。
 溶岩の中にはKだけが流れて固まり→Arに変ります。アルゴンとカリウムの量を測れば固まってからの時間を測ることが出来るというわけです。(ちなみに縄文時代は新しいので測れません)三浦半島は2000万年前の地層です。
 また放射線炭素年代測定法では、C(炭素)がN(窒素)に変る半減期が5730年と決まっています。骨や貝の殻や木片はそのものが死滅した後、Cが減っていく割合を量ることで年代が分かります。(ちなみに5万年より前のもの)
 フィッショントラック法(FT法)というのは結晶(ジルコン)の傷の数で調べる方法です。マグマが固まった時点では無傷なのですが時間経過と共にウランの自然核分裂により傷ができるのです。

「地質年代表は地球の歴史をもとに区分した年代に、絶対年代を入れてまとめたものです。(MA/million yearz ago)
 地球は地軸に傾きがあるので太陽からの熱も少しづつですが、何万年かの周期で変ります。(太陽の廻りは10万年周期くらいで変り、地球の自転は1,8万年周期で変る。
 先カンブリア時代は無生物の時代で化石は出てこないので測定は出来ません。古生代は三葉虫、中生代はアンモナイト、新生代は恐竜の化石などで測定します。(図にある±○○は誤差の記入)バイオゾーンによってその順番を積み上げ表にまとめたものが地質年代表です。

 ちなみにわたしの住む大矢部は矢部層であり、第三紀・中生代の中期に出来たものらしい。遥か昔過ぎてイメージできないけれど地球の話は溶岩・岩の歴史でもある。