〔山本薫先生の授業〕
「生物の多様性ですが、総数150万種、陸上植物・約280万種、実際には1000万種くらいはあるであろうと言われています。これらは同じ種でも形や模様、生態など最近に至るまで様々な個性があるという区分けです。
生態学の多様性としては、森・林・里山・河川・湿原・干潟などがあり、北東部はリアス式、南東部は平坦、頭部にはお小楠山があり滑川・田越川など、比較的広い沖積地があります。
多様性を知る上の分類ですが、種類・性質・系統などに従って分けることを言います。
たとえば《食べられるor食べられない》という風です。
古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスが初めて動物分類をしたと言われています。植物分類に関しては多くはないようです。
人為分類、つまり人間の利用面を重視して便宜的に分けるという法です。(無毒か有毒か)
リンネは種の範囲の輪郭づけをし、分類体系の公安を成した人です。
種 Species ウメ
属 Genus 種の集まり サクラ科
科 Family 属の集まり バラ科
目 Order 科の集まり バラ目
綱 Class 目の集まり 双子葉植物
門 Division 綱の集まり 被子植物
界 Kingdom 門の集まり 植物界
マイア(1942)生物学的種概念
①形体的に共通したつくりを持つ個体の集まり。
②自然状態で交配がおこなわれ子孫を残していく繁殖集団。
二名法とは、国際命名・規約にのっとった正式な種名(学名)の表記方法です。かつてはラテン語と定められていましたが、現在では英語でも可となっています。
色々体系的な命名法についてのお話など多義にわたり詳細。聴講生の質問にもよく答えてくださり、不明な点は「わたくしの宿題としましょう」などと超真面目な先生。
聞いている方もすごく新鮮な気持ち。
山本先生、ありがとうございました。(これからもよろしく)
「三浦半島の昆虫相の変化」
◎広域分布種・準広域分布種・局地的分布種・局地的健在種(浅黄マダラ/猿島)・少数健在種(ミヤマカラスアゲハ/大楠山)
*過去の何らかの原因による減少から回復した種。(クロコマチョウ・ツマグロヒョウモン・ナガサキアゲハ・ムラサキシジミ(カラタチ・夏みかん系の樹)
*増加の原因は不明な種。テンガチョウ(えのき)
*減少した種。ミドリシジミ(ハンの木・湿地)
*現象の原因が不明な種。
*減少し近年記録がない種。ウラギンシジミ
これらは35年前からの記録ですから、それ以前に絶滅していたと考えられる種もあります。
*温暖化による北上種。ナガサキアゲハ
◎偶産・生息域でない場所で見つかること。
*人間活動が影響しているケース(外来種)
*分散や迷蝶
*単発的に記録された種。クジャクチョウ
*一時的に発生した種。カバマダラ(佐島の丘/風船トウワタ)
*外来種。侵入において人間活動の関与が明らかな種。アカボシマダラ(エノキにつくが本来沖縄以南)
*侵入後まだ定着が確認されていない種。
*帰化植物や植栽植物にのみ依存して分布を広げている種。
*侵入後、定着された種。ムラサキツバメ
『昆虫誌から昆虫史へ』
原始的な昆虫(羽が生えていない)三浦半島では4000種。
「次回は高次分類(カテゴリ)を分けてお話します。」とのこと。
内舩先生、ありがとうございました。
(これからは昆虫を見たら写真に収めることを心がけたいな)と、思った授業でした。
〔内舩俊樹先生の授業〕
「ここ三浦半島で確認されている昆虫は3万~5万種ですが世界では100万とも200万ともいわれています。
海の底でできた横須賀の大地は陸伝いに風や動物に運ばれ、様々な植物が繁茂したと思われます。安定した環境で次々に交代し、樹もうっそうと茂るようになりました。
700万年前の狩猟の時代から農耕の時代に移り、開墾された水路が作られると同時に樹は燃料や建材として採取されるようになりました。
これらの状況はほんの100年ほど前まで続いていたスタイルです。
『際や縁』
小さなグラデーションが生き物の棲み分けを可能にしています。たとえば、水田の周辺、林と草地と水辺の間などです。ただ、人間の活動による植生の変移はバランスを崩してしまいます。
自然環境は「多様性のゆりかご」などと称せられますが、それらは耕作の変化によるところが大きいのです。つまり、化学肥料や農薬を使用すること、そして離農者が増え耕作地自体の減少による土質の変化が環境を変えてきています。
川岸や海岸などの護岸化もそれに類する問題を生じさせています。
雑木林も台地などでは宅地化が進んでいます。
人口密集地の舗装道路と建物による地表の被覆などもあります。
最近になりこれら自然の要素の質的変移に気付き、自然の豊かさを実感できる横須賀を取り戻そうという気運が高まってきました。さまざまな再生・保全活動がその例であり、自然体験の環境教育というものが実施されています。
自然誌≒博物学ですが、自然史は系統的な自然の歴史を指します。
中国(明)より伝来した「本草綱目」に基づく本草(薬物学)を源流に探求が進められてきました。
『三浦半島の昆虫史』
1907年に初めての蝶の公式な記録があります。ですから、昆虫史における時間のスケールはごく最近始められたばかりということです。この辺りの特質としては海に囲まれた温暖な気候があげられます。
ちなみに生物はすべからく海から進化し、陸上にきて爆発的に進化しましたが、海の中の昆虫というものは存在していません。ケシウミアメンボは海面上に目撃されますが、海中には生息していません。
次世代に子孫を残そうと、分布域を拡大するため分散させます。結果として近年では温暖化による北上などで昆虫相の変化が認められるようになりました。
というか、歩くためと言った方がいいような具合。メンバーの中にも「歩こう会などで歩いている人を見かけますが、どこも見ないで早足でただ歩いている、無理やり歩いているという感じを受けるんですね。だから自分には向いていないなぁと思って・・・ゆっくり(観察しながら)歩いて、時々立ち止まるというようなイベントに参加しているんです」という意見。
(まったく、その通りです)とも言えず、肯くだけ。
鳥に興味が有るような無いような、そんな曖昧な心境で、やっぱり歩くことに重点を置いているわたし。(不心得!)
涼風・青空・木立の路・ゆっくり歩行・・・(先生は、鳥を探して、眼・耳を澄ましておられるのに誠に申し訳ない)
それでもカルガモ・マガモ・キジバト・イソシギ・コジュケイ・モズ・ヒヨドリ・ハクセキレイなどを見たり(鳴き声だけを)聞いたり・・・。
コサギはよく見かけるけれど、出会えばやっぱり、あの白さと細い首に胸打たれる。
ヤマガラは木の実を啄みに来ているのか一本の木に集中して数羽が行き交っていた。
稲盛先生のお話を伺って11:50解散。
稲盛先生、萩原先生、ありがとうございました。
京急金沢八景駅からシーサイドラインで一駅、野島公園駅下で集合し、金沢漁港へ向かった。
「野島沖で遭難した漁民を供養するお祭りですが、現在では海の安全と大漁を祈願する伝統行事として、毎年9月1日に催されています。二百十日の台風を乗り切るためにもという一丸となった決意の表れでもあると思います。
船の上でお神楽を奉納し沖合に出て神舟を海に降ろし、その周りを各船が三周したところで、船の勢いをもって神舟を転覆させるというものです。船は刺身の盛り合わせの器を少し大きくした程度の模擬船です。
あくまで主体は漁師さんのお祭り(祈願)であって、神社へのこだわりは薄いように思います。明治時代に始まったとされていますが、はっきりとしたことは不明です。
午前中に野島の稲荷神社で大漁丸に船玉さま(御霊)を移し、午後にこの神舟の神事が行われるというわけです。」
という瀬川先生の説明を受け、乗船名簿に名前などを記入し見学船に乗せていただいた。
夏島沖まで真っ直ぐに進み、やがて説明通りのプロセスで神舟が降ろされ、その周りを三隻が大きく円を描いてぐるり…爽快な景色!
見学船は無料、ジュースのサービスがあり、説明も懇切丁寧。久しぶりの波しぶきに大感激、申し分のない見学ツアー。
瀬川先生、稲村先生、ありがとうございました。



《民俗編》
「民俗というものは伝承であります。たとえばお祭りですが、時代という縦の時間軸と地域という空間の融合により、変化していきます。地域単位のお祭りも個人に焦点を当て、その全体を把握していくという観点が望ましいと思われます。存続に関しても、時代の変化により大変な努力が払われていることが伺われます。
供物一つを考えても、かつては精進料理の範疇だったものが、驚くべきことに(鶏のから揚げ)だったりするのは、食に対する要望の変化と言えるかもしれません。また、金棒持ちの化粧が白塗りだったりもしますが、休憩をする時の二人の金棒が交錯し、×の形になるのは慣習によるものと思われます。」
「ちなみに九月一日には「金沢漁港の汐祭り」を見学に行く予定があります。それは神舟を海の沖合に流して、豊漁と漁の安全祈願をするお祭りです。」
「その前に船霊様のお話をいたしますが、神主さんに霊を入れていただき、船の安全祈願をするものです。
廃船にするという漁師さんからいただいてきた現物がありますのでお見せいたしますが、その方のお話では中には『男女の人形・小銭、十円でもなんでもいいのですが、できれば穴の開いた硬貨を十二枚・粟や稗または米/五穀・さいころ・女の人の髪の毛』などと聞きました。
ところが実際開けてみると、箱(18×23㌢くらい?)の中に納められる品物には少しばかり違和感がありました。
博物館の民俗コーナーに移動、古い民家…明治大正という感じ。そしてその座敷で船霊を披露。
中味は『女の子の人形・小銭は十円玉が八枚・穀物らしき小袋・その他』でした。船大工さん手作りの船霊様らしいのですが、船主の思いとは多少の差異があったようです。」(個人的には感動!秘密の小箱の中から可愛い女の子のお人形、船大工さん渾身の作です)
「八枚というのは如何なものでしょう」という問いに「末広がりでは」という聴講生の答え。
「八方除け」かもしれません。
瀬川先生、毎日のように各学校の生徒に昔の暮らしをお話ししている由。生徒たちの関心を一つにするために考えた逸話(上記の漫画)だと思いますが、瞬時信じてしまったわたしって!!
(民俗と言えば柳田國男。座敷童の話などもあり、異次元の空気は現今にも混在しているかもしれません)
語り伝えるということの難しさと大変さ・・・民俗って、遠くて近い、そうしてつながっているんですね。
瀬川先生ありがとうございました。
「今日のお話は横須賀の近代建築遺産ともいうべきものです。たとえば海軍航空隊とその研究施設郡といった具合です。ただ開戦前には国の規制があり、逆に国策としての建築物が建てられた時代でもありました。
主として横須賀製鉄所と旧海軍の中心施設群や観音崎の灯台と砲台、浦賀の造船施設などがあります。
明治15年には田浦長浦の土地買収が始まり、人工の掘割りは明治22年にできています。
横須賀製鉄所のドックは石造としては最古ですが佐賀県で木造のドックが最も古いものとして発見されています。
2号ドックは恒川柳作、3号ドックは杉浦栄治朗の設計です。
船を支える盤木など全体を指揮する人をドックマスターといい、大変な技量を必要とされる職です。
明治39年にはイギリスでドレットノートという巨船を完成させましたが、ドレッドというのは恐れを知らないという意味で、超ど級(ド迫力)などという時の『ど』はここから来ています。
大正時代には4号ドック・5号ドックができました。5号ドックまでは修理が主な仕事でしたが、6号ドックは軍艦信濃の起工に至っています。
耐震性を憂慮し、浮きドックの案も検討されましたが、その寿命などを考慮してドライドックに治まったということです。(石井コレクション/博物館所蔵)
建築物に関してはドイツのバウハウス流を取り入れ山口文象が設計しています。(バウハウス/表面に柱が出ない、装飾をつけないなど)・・・横須賀海軍工廠技術廠の近代建築。
ドイツ表現派(アーチ形の塀など)・・・前・横須賀郵便局
アメリカの設計者フランク・ロイド・ライトの設計/モダニズムを取り入れた建物・・・EMクラブ(三輪幸左衛門)・北部共済病院・共済病院看護婦宿舎(昭和8年RC造3階建て)
昭和14年・海軍病院・聖ヨセフ病院(石本喜久治設計)
(水道施設)走水水源地。走水は横須賀市営水道発祥の地でもあります。
神奈川県愛甲郡川村字半原に水源を求め53キロ離れた逸見浄水場までの通水工事(大正年~10年)の完成。
相模川を水源とする「横須賀軍港水道有馬系統」(昭和14年/1939)
水圧を下げないように直線の道が長い距離にわたって続くのが特徴で終着点の逸見浄水場の施設も歴史遺産であり、7棟の建物が国の登録有形文化財になっています。
上町に見られる看板建築、初めての商品陳列のショーケース、出桁造りの建築の現存など、街歩きで紹介された建築の説明等々。
横須賀育ちでありながら、すべてに疎いことを実感。何より客観的に街の歴史に触れることができたことは大いに意義があったと思います。
菊池先生ありがとうございました。
《上町から汐入周辺を歩く》
博物館(深田台)を出て、隣接の文化会館の外観を眺めた。(50年前としては新式とのこと)
(以前は本町に市民会館があって、子供のころ、美空ひばりのショーを観に行き、満席・立ち見の熱気を覚えている)
次に上町の看板建築、出桁造り(出桁建築群)などを観察。
上町教会(国登録有形文化財)の外観を眺めたりして、中央駅へ下り、三笠通りを通過(通り自体が縦に長い建物になっている)この通りもずいぶん変わってしまった。わたしが子供のころ・・・そう60年も経っているのだから当然か。
現ヨセフ病院(旧海仁会病院)の外観を見学。
「ここは、詩人の立原道造が作図し、設計は石本喜久治の事務所が任にあたったというモダニズム建築です」
どぶ板通り・・・小学校の頃、学校を挟んで住宅街と繁華街に分かれていて「向こうへは行ってはいけません」て、先生の忠告があった。向こうがどんな世界なのか知る由もなかったけれど、大江健三郎などが小学校の事情を詳しく書いていて、後年ビックリしたことがある。
国道を渡り、ダイエーの二階の裏手へ回り込んで、基地内を傍観。「全景を見渡すには対岸から見る必要があります」というか、やむをえずの観察。
「フランス村はあの辺り、長官官舎はあそこ、工廠の宿舎は向こう・・・」先生は事細かに指さして説明。
梅雨の晴れ間、小半日だったけれど、楽しいフィールドワークでした。
菊池先生、ありがとうございました。
「単品でなく、面的な広がりの中で歴史を位置づけて考えたい」という先生のご主旨、よく伝わりました。
《三浦半島の近代》
「いつから近代かということになりますと、やはりペリー来航以降であり、それ以前を近世と位置付けています。横須賀は近世の始まりの拠点です。ペリー来航は1805年ですから今年は150年目ですね。
あの富岡製糸所はヨコスカ刻印の煉瓦(フランドル積み)が富岡製糸所で発見されたことでもわかるように、横須賀製鉄所の技術を持って造られたといっても過言ではありません。フレンチトラス構造は横須賀と富岡を結ぶフランス発の力学でもありました。(フランス語のMetre/一尺が303㎜)
横須賀の歴史遺産としては上町の看板建築などがありますが、何といっても横須賀製鉄所の副首長官/旧ティボティエ官舎があります。2001年6月末に解体撤去の一報が入り、8月中に調査の実施とその成果報告が求めらたので、博物館関係者をはじめ研究者やボランティアの方々の協力、総力あげての調査になりました。なお、横浜開港館に堤家の古文書があり、その設計図なども残されていましたので照合し確認いたしました。
西洋のトラス構造で、骨組みを三角に組み上げると強固な建物になるという力学的手法です。細い柱で大空間ができ、富岡製糸所などもこの手法が用いられています。撤去の理由にはシロアリ被害がありましたが、その場所は戦後の増築部分でした。
木骨煉瓦造り/壁を削った結果、石積み煉瓦(木の柱の間に煉瓦を詰める)を確認いたしました。(タイルにはミカホの文字がありましたが氏名の由)
石積み技法はブラフ積み(長短と交互に組み合わされている)、横浜山手なども共通。
明治期の洋風建築の現存ということで、解体調査の後改修し、再構築され2001年保存の決定に至りました。
セメントの国産化を伊藤博文に見識し実現しています。(シマン・Cimert/セメント)
横須賀製鉄所内にはフランス街があり、コロニアルスタイル(ベランダがある)というアジア経由の西洋建築が並びました。
横須賀製鉄所は日本最大の工場技術研究の中枢でありました。船も回収・建造・灯台の建設・技術者の教育などを担いました。
官営工場として1865年(慶応元年)に起工、明治4年に完成しています、その竣工式では熱気球を飛ばしました。(ちなみに最初に進水した船は横須賀丸)
1号ドックはその耐震性への不安から半島を切り崩して建設されましたが、その際ナウマンゾウの化石が発見されています。(当初はゾウとしか認識されていませんでしたが、その後ナウマンゾウが発見されたことで確認に至りました)
そして、1号ドック、2号ドック、3号の川間ドックに至ります。
菊池先生、ありがとうございました。
近代編(海と共に生きる)
三浦半島は海路における江戸城への中継地でした。榎戸は停泊地であり、横須賀村泊りなどの記述を見ることもできます。元禄以前の三浦半島には初声はなく、元禄の地震で盛り上がって開発されたのが今の初声です。
森崎から前は海で、久里浜は大きな入江だったのです。(三崎、久里浜、浦賀などの入江)
番所は三崎と走水にあり、三崎は江戸から関西方面への荷物の検分、走水は江戸へ向かう御船の検査を行いました。(享保まで番所のない時代は続いています)
明治六年安針塚の風景キャメロード号/台の上に大砲を積んでいましたが数百メートルくらいしか飛ばず、相手が遠くにいても打つことはなく、単に脅威を与えるというに過ぎない物でした。(19世紀までこの程度の大砲でした)
1618.3.17裕福な長崎の中国人「肥後4官」が交趾へ。
同年5.4平戸の回航し、アダムスが下船しました。
400年前、イギリス人が見た浦賀湊(1613.9.21)→スライド画面。
予(ジョン・セーリス)は小舟で江戸から浦賀へ来ています。
その港を精査するためにスペインの持つ船体の買い入れについて(ウイリアム)アダムスと値段掛け合いをするためとかつ彼がスペインに代わって売るためにその他に持っていた数種の都産の商品などを見るためでした。
この間浦賀に滞在。
「浦賀は停泊にははなはだよい湊でそこへはロンドンの前のティムズ河におけるごとく船が完全に停泊することができる。平戸を棄てて浦賀を選ぶべし(ジョン・セーリス/日本渡航記)ちなみに、選ばれることはありませんでした。
浦賀が貿易港にならなかった理由は、いわゆる貿易制限、キリシタン禁止の時代へ入っていったことです。
しかし、反対に国内的には浦賀湊繁栄時代でありました。
高瀬舟、弁財船(荷船)の全盛期
大阪、紀州を回り、東でなく(遠州へはよらず)南へ向かい、途中、黒潮に乗り江戸へ向かう方が、早く荷を届けられた由。
浦賀湊の利点は奥深く、和船80~100艘収容が可能と言われました。
浦賀の船改番所の役人は無給でしたが船一隻当たりの手数料がありました。
押送船(おしょくりぶね)生魚のため素早い検問、他製品を積み、偽って直通した船もあったようです。
箱崎の石切り場から、品川お台場へどた石を運ぶ船があり、十三峠を越えるより早く行き来ができました。
江戸時代~明治十年代の水運図によると、大山参りのため野島と富津(千葉県)に航路がありました。
沿岸漁労の船(茶船等)
猟船・旅猟船(わかめ・かじめ・てんぐさ・さざえ・あわび・低魚全部)
小規模な藻打網漁(蛸壺漁)
鴨居の鯛を捕る船
釣縄船漁
イワシを捕る八田網漁
すべては江戸城へ。(天保年間の日本橋市場)海陸併用ルート/鮮魚のみではない。幾つかのルートがありましたが、海に因らず、陸路の行路(田越川~榎戸)もあり、明治時代には夏場使用の製氷の室もありました。
弘化三年アメリカのビッドル提督/蒸気船(石炭)
そのころ和製様式帆船完成「鳳凰丸」(部品を注文したところクリミア戦争の最中で断られたという話もあります)
万延元年の遣米使節団派遣から155年、ペリーと交わした日米和親条約(嘉永7年)日米修好通商条約(安政5年)
初めて近代的な外交使節/ネイビーヤードに滞留し候説は、自然と器械の工用を熟視し、帰国の上、大いに益あらんと思えばなり。(記録より)
フランス公使ロッシーとヴェルニー。
元治元年11.3 ロッシと勘定奉行小栗上野介忠順が会見し、翌日に製鉄所建設責任者にヴェルニーが適任と回答。
明治4年(1871)に完成。
安池先生、ありがとうございました。
※「西浦賀には、今の浦賀病院やかつての浦賀奉行所より先には住居はありませんでした」というお話。
燈明堂の傍に首切り場(処刑場)があり、居住地ではなかったのかもしれない。船着場があった由。