わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

スザンヌとやりたい

2011-02-11 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

Sheryl Crow 「All I Wanna Do」


本日はシェリル・クロウのおたんじょうびということであっぷしました。

いきさつから、

出生名シェリル・スザンヌ・クロウ、弁護士の父親、ピアノ講師の母親の間に誕生。5歳の頃からピアノなどを習い始め、大学在学中にはカシミールというバンドでキーボーディストとして活動していた。大学卒業後は小学校の教師として音楽を教えていたが、1986年に、自らの音楽への夢を追うため、カリフォルニアに移住する。翌1987年のマイケル・ジャクソンのコンサート・ツアー「バッド」(BAD)でのコーラスを務め、ツアーの一環で同年9月から10月にかけて来日もしている。その後、ロッド・スチュワートやドン・ヘンリーなどのレコーディングへの参加やエリック・クラプトンへの楽曲提供などを経て、A&Mレコードと1990年に契約する。

当初は、1991年にソロ・デビューするはずだったが、「大衆受けする要素に欠けている」という理由で、レコード会社から発売を無期延期される。1993年、ビル・ボットレルがプロデュースを手掛けたアルバム「チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ」(Tuesday Night Music Club)で、ようやくソロ・デビュー。このアルバムは、全世界で700万枚を超えるセールスを記録。同作収録曲の「オール・アイ・ワナ・ドゥ」(All I Wanna Do)は全米ビルボードチャートで最高2位まで上昇する大ヒットとなり、1994年の第37回グラミー賞ではレコード・オブ・ザ・イヤーおよびベスト・フィーメイル・ポップ・ボーカル・パフォーマンスを受賞し、クロウ自身も最優秀新人賞に輝いた。

次いで1996年に発表された、自身の名を冠したセカンド・アルバム「シェリル・クロウ」(Sheryl Crow)も大ヒットを記録し、1997年度のグラミー賞で二部門(女性ロック歌手賞、ロックアルバム賞)、英国のブリット・アワードでも一部門を受賞した。以降、クロウは同賞のノミネート常連として、現在までに9回受賞している。1995年に、ソロ初の来日公演を行い、以降プロモーションやシークレット・ライブを目的としたものを含め6回(うちツアーでは3回)来日している。

1997年、サラ・マクラクランが提唱した女性主導型のライヴイベントである「リリス・フェア」に参加(1998年、1999年にも参加。2010年の復活ツアーにも参加予定)。

1998年にサードアルバム 「グローブ・セッションズ」(The Globe Sessions)をリリースし、1999年度のグラミー賞で二部門受賞。

1999年、ニューヨーク・セントラルパークにてコンサートを行う。その模様は「ライヴ・フロム・セントラル・パーク」(Sheryl Crow and Friends: Live from Central Park)としてリリースされた。またこのコンサートは多彩なゲスト陣(盟友でもあるディクシー・チックス、サラ・マクラクラン、クリッシー・ハインド、スティーヴィー・ニックス、かつての交際相手エリック・クラプトン、そしてキース・リチャーズ)が話題となった。

2002年に4枚目となるアルバム 「カモン・カモン」(C'mon C'mon)をリリース。この作品は日本ではオリコンアルバムチャート最高位9位と大ヒット。日本公演を収めたライブ盤「Live at 武道館」も日本のみリリースされた。翌年のグラミー賞ではシングル 「スティーブ・マックイーン」(Steve McQueen)で女性ロック歌手賞を受賞。 またこの作品でも多彩なゲスト(ドン・ヘンリー、レニー・クラヴィッツ、エミルー・ハリス、スティーヴィー・ニックス、リズ・フェア、グウィネス・パルトロウなど)が話題に。

さらに、この頃、楽曲の良さよりもビジュアルの良さを重視するようになった音楽業界に嫌気が差して鬱病になり、引退を考えていたということも告白している。 このアルバム発売以降、シェリル自身もセクシーさを強調した服装でミュージック・ビデオや公の場に出ることが多くなる。

2003年,「ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ」(Very Best of Sheryl Crow)をリリース。シングルカットされた「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」(キャット・スティーヴンスの曲のカヴァー)はラジオでパワープレイされ、爆発的な人気を得た。彼女のラジオでの最大のヒット曲となり、米国のエアプレイチャートで1位を獲得。Billboard Hot 100に36週にわたってチャートインして、プラチナディスクに認定され、Billboard Hot 100では最高14位に達した。2003年、2004年のアメリカン・ミュージック・アワードにおいても最優秀女性ロックアーティスト賞、2005年ピープルズ・チョイス・アワードでも最優秀カヴァー賞を受賞。

2005年、5枚目のアルバム「ワイルドフラワー」(Wildflower)をリリース。

2008年(日本先行発売日は1月30日)に『ディトアーズ』(Detours) を発売した。
レッド・ツェッペリンの大ファンであり、日本武道館での公演でカバーしたこともある。 2010年3月、ジャクソン・ブラウンとのジョイント・ツアーで来日公演を行う(金沢公演はクロウのみ)。

私生活においてはエリック・クラプトン、オーウェン・ウィルソンなどとの交際を経て、自転車選手のランス・アームストロングと婚約していたが2006年2月に破局。同月には乳癌の手術を受けていたことも分かった。 2007年5月、生後2ヶ月の乳児を養子にした。

2010年ニューアルバムと来日公演をしている。

で、その中からデビューアルバム「Tuesday Night Music Club」からのファーストシングルとしてリリースしたナンバーをお届けします!

現在のところ、世界で4000万枚以上のセールス、9回グラミー賞を受賞している彼女も49歳になります。



あ・あ・あ 去年の人とまた比べている・・・

2011-02-10 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

TAK MATSUMOTO feat.倉木麻衣「イミテーション・ゴールド」

本日はTAK MATSUMOTOことB’z松本孝弘さんのおたんじょうびでなく、読みがまったく同じ松本隆博さんのおたんじょうびということでアップしました。

松本隆博さんは、母親が松本明子!?(本名は秋子)、弟がダウンタウンの松本人志でおなじみですが、

経歴として、

中学1年生の頃に、父に買ってもらった3千円の白いギターとの出会いをキッカケにギターに目覚める。南こうせつと長渕剛をこよなく愛する。また、歌手の徳永英明は、中学時代の友人である。同姓同名(同音異字)であるB'zの松本孝弘とは、同年齢である。

大学卒業後、豊中信用金庫(現:摂津水都信用金庫)に入社し、その後数回の転職を経て、2003年に、松下電器産業とヒューマンアカデミーの合弁会社ヒューマックスを設立し、取締役に就任。会社生活を経て学んだものは「謙虚と笑顔」だと、多くの雑誌インタビューで語っている。

システム開発事業を勧める傍ら、中学1年生の頃からの趣味であるフォークギターの教則DVDを発売した。長年ライブ活動を行っており、以前は路上で行うこともあったが、2007年頃から、ライブハウスで行っている。

なお、ヒューマックスは2009年1月1日、ヒューマンリソシアに吸収され、解散した。現在は、ヒューマックスが手がけていた部門はヒューマンリソシア株式会社の通信直販部となっている。

2009年4月、退社。現在は「妊娠したいを応援するサイトVEAUTY」の顧問アドバイザー。 世の中のオカンになりたい人を応援し、オカンをもっと日本に配する事が国を元気にする、と真剣に考える。

NPO法人チャイルド&ファミリー・フレンドリー理事を務め、ニート・フリーター対策の為の活動も積極的に行っており、”生きるとは?働くとは?勉強するとは?”といったテーマで、全国の高校へ月に平均4~5校も出張講演で周り、その学校を訪れた事をブログに更新し、その学校の生徒が講演の感想などを書けるようにしている。

シンガーソングライターとしての活動の目標は、紅白出場とのこと。

この曲は1977年の山口百恵の大ヒットナンバーのカバーで、2003年に倉木麻衣名義でシングルリリース、B'z松本さんのプロデュースでZARD坂井さんなど音楽アーティストをフィーチャーしたアルバム「THE HIT PARADE」に収録している。

そんなジミー大西と同じ潜在能力の彼女の2011.2.7ブログは、

東京♪立川!

立川市市民会館でのライブに来て下さった皆さん☆
本当に!本当に!
ありがとうございました~!感謝…
Thank you for everything(-^〇^-)☆


最近、空気が乾燥してますね…(≧≦)
たっぷりと塗った保湿クリームもすぐ乾いてしまうのでビックリ!
喉もカラカラ…。

歌う人にとっても過酷な季節でもあります。
いつもは、加湿器や飴で喉ケア&喉ケアハーブティーだけど…

今回は、スプーン一杯の甘~い!ハチミツをぐぃっと…
プラス喉のハーブティーを試してみました…
ハチミツ… (≧∇≦)☆
効いている気がする(笑)

更に持続しそうなのを教えて下さい!

やっぱりこまめに水分補給がベストなのかな?
では、乾燥!風邪に気をつけていきましょ~!!!

現在のところ34枚のシングル、9枚のオリジナルアルバム、2枚のベストアルバムをリリースしている。

一緒に青春あみーゴ

2011-02-09 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

鈴木亜美(リリース当時は鈴木あみ)「Be Together」

本日は、鈴木亜美氏のおたんじょうびということであっぷしました。

1998年、『ASAYAN』(テレビ東京)の『ボーカリストオーディション・ファイナル』の最終電話投票審査で80万票以上を集め1位となり、16歳で小室哲哉のプロデュースでの歌手デビュー。全国縦断デビューイベントには多くのファンが押し寄せ、福岡ではキャナルシティ博多の特設広場で2万ともいう人でいっぱいのなったとか・・・

で、この曲は、1987年小室哲哉が在籍していたTM NETWORKアルバム「humansystem」に収録されたナンバーのカバーで、1999年7月14日に自身7枚目のシングルとしてリリース。

自身初のオリコンシングルチャート1位を獲得し、自身最高の初動売上枚数を記録。オリコン集計での累計売り上げは80万枚を超え、自身最大のヒット曲である。

当時最大のライバルといわれていた浜崎あゆみのシングル「Boys & Girls」と同時発売になり話題に。オリコンシングルチャートでは、このシングルが初登場1位、浜崎のシングルは2位となった。しかし、翌週逆転し2位となった。

アルバム『infinity eighteen vol. 1』には小室哲哉によってアレンジし直された「BE TOGETHER(Shadow Dancing Mix)」が収録されている。

発売年のNHK紅白歌合戦(第50回)ではこの曲が披露された。

2007年にリリースシングル「FREE FREE/SUPER MUSIC MAKER」の後に中田ヤスタカがエレクトロサウンドで新アレンジバージョンを制作した。ライブでのみ披露しており、CD等には現在未収録。

現役高校生で歌手デビューし、瞬く間に国民的アイドルとなり、光射すきっかけとなった番組「ASAYAN」で、オーディション企画でつんく♂プロデュースでデビューし、同様に国民的アイドルとなったモーニング娘。、同期デビューした浜崎あゆみと比較されたり、多忙な日々を過ごし、青春を満喫することなく、デビュー当時の所属事務所とのトラブルで、すべて白紙になり、家族の支えでインディーズスタートをし、20歳を過ぎ立派な大人になったときに、エイベックスとメジャー契約をし再スタートし、今に至っている状態であるが、

そんな松中信彦と同じ潜在能力の彼女といえば、「アヒル口」、

アヒル口はタラコ唇やおちょぼ口のように人間の口の特徴を表す言葉のひとつで、近年では女性の魅力の一つとして認知されるようになっている。「アヒル口」という名称そのものは1998年にデビューした歌手・鈴木亜美に対して用いられたのが最初とされ、以降こうした口の形状が女性の「キュートさ」や「セクシーさ」を表す特徴のひとつとして、広く知られるようになった。2005年には『現代用語の基礎知識』に、2006年には『大辞林』に掲載され、一過性の流行語ではなく、一般用語として浸透していくこととなる。

アヒル口は先天性のあるものと、意図してそうした口の形状を作り上げるものに分類されるため、当然のことながらアヒル口という言葉が誕生する以前にも、酒井法子や岩井由紀子など、こうした口を持つものは存在したが、現代のような女性の魅力を体現する特徴の一つには数えられておらず、むしろコンプレックスのひとつとして捉えられていた。

2010年になり、Twitterで話題になり、そのように魅力的になった「アヒル口」、

2010年11月に行った「アヒル口がいい女性有名人ランキング」は、

1.松山千春と同じ潜在能力の板野友美(AKB48)、

2.矢沢永吉と同じ潜在能力の上戸彩、

3.ブルース・スプリングスティーンと同じ潜在能力の宮崎あおい、

4.稲垣潤一と同じ潜在能力の広末涼子、

5.チェ・ゲバラと同じ潜在能力の鈴木亜美、

6.桜井和寿(Mr.Children)と同じ潜在能力の吉高由里子、

7.高田純次と同じ潜在能力の田中美保

8.ジョン・ボン・ジョヴィと同じ潜在能力の優木まおみ、

9.中島浩二(「ドォーモ」よろしく!)と同じ潜在能力の水川あさみ、

10.梶原一騎と同じ潜在能力の佐藤江梨子となってます。

11位以下は説明に登場している酒井法子が入ってましたが、2009年に覚せい剤取締法違反で逮捕され、そのことで所属事務所を解雇されつつ残した功績は大きいものだと思います。


5位に入った彼女は、本日は渋谷リキッドルームで誕生日ライブを行い、今頃は打ち上げでもしているでしょう。。。

始まりの合図から中指立てる降るや~

2011-02-09 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

Dragon Ash「Fantasista」

本日はバンドのボーカル降谷建志のおたんじょうび、先月行ったサッカーAFCアジアカップでの日本代表の劇的な優勝もかねてアップしました。

1996年結成。オルタナティブ、メタル、ハードコアパンク、ヒップホップ、エレクトロニカやラテンなど、様々なジャンルの音楽を取り入れたミクスチャー・ロックを構築する。 ヒップホップMCZEEBRAとの共演で日本語ヒップホップをメジャーシーンに知らしめ、2000年以降のJ-POPシーンにおけるラップ・ミュージック、ヒップホップの人気に大きく影響したバンドである。

バンド名の「Dragon Ash」はKjが考えた造語であり、"drag on ash"(だらだらしていたら灰になる)という意味を込めているという説があるが、メンバーの馬場はファンクラブ会報でこれを否定している。

ROCK IN JAPAN FESTIVALの初年度から全て出演し続ける常連であり、過去11回の出演中、7回でトリ(さらにそのうち2回は大トリ)を務めている。

現在のメンバーは、

Kj(ケイジェイ・降谷建志 ふるや けんじ) - ボーカリスト、ギタリスト。作詞・作曲も担当。父親は、俳優の古谷一行。妻は、MEGUMI。

IKÜZÖNE(イクゾーン・馬場育三 ばば いくぞう) - ベーシスト。メンバー募集のオーディションにより加入。以前は、元ファントムギフトのピンキー青木が結成したピンキー&ザ・クレイジーラブマシンやVirusなどに所属。最年長メンバー。千聖のソロプロジェクト、Crack 6にも参加。前述の経歴から、生前のhideと親交があり、彼の死後はアンプヘッドにhide人形を飾っている。

MAKOTO SAKURAI(マコト サクライ・桜井誠 さくらい まこと) - ドラマー。Kj、BOTSとは同級生。HIROKIと共にendiveとしても活動している。PENICILLINの千聖によるソロ・プロジェクト、Crack 6にも参加。ライブではMCを担当することが多い。

BOTS(ボッツ・佐藤哲也 さとう てつや)- ターンテーブリスト。1999年加入。正規メンバーとなる前から、PVやライブに参加していた。近年では、パーカッションも担当している。

HIROKI(ヒロキ・杉山弘樹 すぎやま ひろき)- ギタリストを担当。2003年加入。Dt.やStroboでも活動している。

DRI-V(ドライブ 千葉雅紀 ちば よしのり)- ダンサー。2003年加入。RIP SLYMEの紹介で加入。

ATSUSHI(アツシ・高橋アツシ たかはし あつし)- ダンサー。2003年加入。為末大に、ヒップホップダンスを教えている。Dragon ashの曲の振り付けを担当。RIP SLYMEの紹介で加入。2009年、プロジェクト「POWER of Life」を発起

この曲は、2002年11枚目のシングルで、日本テレビ系列で放映された「2002FIFAワールドカップ」のテーマソング。ミュージック・ビデオも、サッカースタジアムでメンバーがジャージに身を包んで歌っているという作りになっている。本作はシングル盤のタイトルが「FANTASISTA」、収録曲名が「Fantasista」と微妙な表記の違いがある。アルバムの宣伝イベント以外では中盤で必ず演奏されるライブの定番曲である。

前作「Life goes on」に続き、2作連続通算3作目のオリコンシングルチャート1位を獲得。

この曲にちなみ、2002FIFAワールドカップを振り返ると、

21世紀に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、アジアで開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国(1996年の時点)での開催地決定であった(翌1997年のフランス大会で初出場を決めている)。

2002年5月31日から6月30日の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。ブラジルが5度目の優勝を遂げた。開催国である日本は決勝トーナメント進出(ベスト16)、韓国は4位の成績を残した。

大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった。これは、ヨーロッパや南米とは異なる日韓の気候、つまり梅雨を考慮したためと言われている。大会前は、フーリガンの暴動などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに赤字が懸念されたが、円安の影響などで大幅な黒字となった。また高円宮夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。

ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、アンリ、トレゼゲ、シセと3か国のリーグ得点王を擁しながらグループリーグで1得点もあげられずに敗退した。

開催国の日本は、初戦でベルギーと2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次のチュニジア戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初の決勝トーナメント(ベスト16)進出も決める。

当時の代表メンバーは、

1 川口能活 GK ポーツマス
2 秋田豊 DF 鹿島アントラーズ
3 松田直樹 DF 横浜F・マリノス  
4 森岡隆三 DF 清水エスパルス
5 稲本潤一 MF アーセナル  
6 服部年宏 MF ジュビロ磐田
7 中田英寿 MF パルマ  
8 森島寛晃 MF セレッソ大阪
9 西澤明訓 FW セレッソ大阪
10 中山雅史 FW ジュビロ磐田
11 鈴木隆行 FW 鹿島アントラーズ
12 楢崎正剛 GK 名古屋グランパスエイト
13 柳沢敦 FW 鹿島アントラーズ
14 アレックス MF 清水エスパルス
15 福西崇史 MF ジュビロ磐田
16 中田浩二 DF 鹿島アントラーズ
17 宮本恒靖 DF ガンバ大阪
18 小野伸二 MF フェイエノールト
19 小笠原満男 MF 鹿島アントラーズ
20 明神智和 MF 柏レイソル
21 戸田和幸 MF 清水エスパルス
22 市川大祐 MF 清水エスパルス
23 曽ヶ端準 GK 鹿島アントラーズ

監督
フィリップ・トルシエ


もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドとポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。フィーゴなどの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが第3戦の韓国戦で2名が退場となり敗れたことにより第1ラウンドで敗退するという波乱があった。


アルゼンチンvsイングランド
試合を決めたベッカムのPKアルゼンチン、ナイジェリア、スウェーデン、イングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。優勝候補と目されていたアルゼンチンが第1ラウンドで敗退するという波乱があった。

次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや新星FWクローゼの活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。

決勝トーナメントでは、日本は1回戦でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリア、スペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手のラフプレーに審判が笛を吹かないなどの審判の誤審が問題となった。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWのロナウド(8ゴール)。

今(2010年南アフリカFIFAワールドカップ終了以後)サッカー日本代表監督は竹内結子と同じ潜在能力のアルベルト・ザッケローニ。

2014年ブラジルワールドカップに向けて、華々しい成績に期待!!


そんなオードリー春日俊彰(おたんじょうびおめでとう)と同じ潜在能力のKjですが、

Dragon Ashとして成功する以前は、親の七光りに頼らず評価されたいとの理由から、父親が古谷‘万が一金田一’一行という事実は隠されていた。名字を一字変えて芸名としているのも、これが理由。アルバム『Viva La Revolution』のTVCF、また、古谷が主演・プロデュースを務めた映画「手紙」(2003年)で親子共演を果たしている。

かつてはZEEBRAを尊敬し、Dragon Ashではヒップホップとロックの融合を掲げた。降谷の希望により「Grateful Days」で共演となった。しかし、競演後作、「Summer Tribe」以降の降谷のラップのフロウ、ステージパフォーマンスがZEEBRAに似すぎていると、最終的にZEEBRA本人より厳しい批判を受ける。その後はヒップホップ関係の音楽からは離れ、ラテンミュージックへと興味を移していった。Dragon Ashメンバーの桜井誠は中学時代、BOTSは高校時代からの同級生。「アンダーグラウンドで活躍していたミュージシャン仲間にスポットを当てたい」という降谷の意向で、Sugar Soul、スケボーキング、wyolicaらと「〜Feat.Kenji」名義で共演した。また、当時の交際相手であった青山学院時代の同級生、MIHOの歌手デビューを後押しし、自らプロデューサーを務めた。

雑誌のインタビューなどは受けるが、放送メディア(特にテレビ)への出演をあまり好まない。ただし、音楽専門チャンネルなどにはたまに出演している。Dragon Ashとしては「速報!歌の大辞テン」にコメントVTRで数回出演した事もある。なお、最近で民放(有線・衛星放送以外)でテレビ出演したのは、2009年9月9日の「ジャイケルマクソン」へのVTR出演であり、これも民放では4年ぶりの登場であった。フットボールアワーの岩尾望と親交が深く、「のんちゃんのためなら」とVTRながら出演した。一方の岩尾も、降谷の才能をテレビで発言している。「明石家さんちゃんねる」で、「千原ジュニアの芸能人100人に直接聞きました! 現在生きている日本人の中で天才だと思う人物は誰ですか?」という企画に於いて、ジュニアが様々な有名人に「天才は?」と聞いていくのだが(上位は、ビートたけしや明石家さんま、松本人志、イチローなど)、岩尾は降谷を挙げ、理由は「日本の音楽を変えたと思いますし、あんなにちゃんと作り込んでいるのに、ちゃんとこう、売れているし」と発言している。

2008年7月7日、かねてから交際中とされていたタレントのMEGUMIと結婚する。所属事務所を通じてマスコミ向けに発信されたFAXにて「犬3匹と、生まれ来るであろう新たな家族と、手を取って、光ある家庭を築いていきたいと思います」とMEGUMIの妊娠(入籍時点で妊娠3か月)をきっかけに結婚に至った旨が綴られている。2009年2月6日、長男が誕生した。

洗礼は受けていないが、キリスト教の精神を心の糧として生きており、人生に於いて最も重要な書は『聖書』である。キリスト教の影響を受けていると思われる歌詞も多く書いている。これは、出身校がキリスト教系の青山学院であったことが理由と言われている。ライブの際、背景映像に聖母マリアの映像を流したり、「Grateful Days」のPVの中で十字を切りながら、両親・友人達に感謝の辞を述べてる姿などからもそれを感じとることが出来る。趣味はサッカーで、毎週日曜日になると必ず自らチームを組んで試合を行うほど。好きなクラブチームはインテル(2011年AFCで活躍した日本代表長友佑都が移籍し話題になった)、好きな選手はフアン・セバスティアン・ベロンである。

鷹のジーンズ

2011-02-08 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

Eagles「James Dean」

本日はジェームズ・ディーン生誕80年とイーグルス7年ぶりの来日ということでアップしました。

ブログ「A Day In The Life」より。

1974年にリリースされた3枚目のアルバム『オン・ザ・ボーダー』に収録されたロックンロール・ナンバーで、
それまでの2枚に比べ、このアルバムは、カントリー色が後退し、ロック色が全面に出て来たわけですが、その典型的な曲といえるのがこの「ジェームス・ディーン」です。

この曲、前アルバムの制作時には書き上げられていたとのことですが、アルバムのイメージにそぐわない事を理由に収録を見合され、ロック色を出そうとした3枚目の『オン・ザ・ボーダー』にいの一番に採用決定されたようです。

1977年アルバム「ホテルカルフォルニア」を引き下げてのツアーより。

如雲玲音その2(DJ1)

2011-02-08 22:00:00 | 沢尻エリカはお釈迦様!
「沢尻エリカはお釈迦様!」のジョン・レノン特別編として、本日生誕80年を迎えたジェームズ・ディーンについて。

1955年に交通事故で他界、芸能活動は4年という短い期間だったが、彼のスタイルは後々誕生する若者、ハリウッド界に大きな影響を受けたことは大きい。

彼は1931年2月8日、ロサンゼルスの退役軍人病院に勤める歯科技工士の父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとにインディアナ州マリオンで生まれる。ジェームズが9歳の時ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。

高校時代から演劇に興味をもち、UCLAの演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、 『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。

『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年に『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて、認められた。彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。但し同作のジェット役を演じることをジェームズは乗り気ではなかったようである。


事故現場近くのモニュメント『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550 スパイダーでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時59分にコレーム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突した。ラルフは車外に投げ出されて骨折、学生も軽傷で済んだが、ジェームズは複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった。事故現場に建てられたモニュメントには「James Dean 1931 Feb 8 - 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれている。次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』の主役はポール・ニューマンが演じることとなった。

事故を起こしたポルシェ550は、通常はレース場のみで使用されていたが、この日はこの車を運転する特別な事情があったとされている。また生前のジェームズは、「レースは危なくないですか?」と記者に問われた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語っていた。

遺体は故郷のフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのはジェームズを含めて5人しかおらず、また死後に2度ノミネートされたのは彼だけである。

イタリアの女優、ピア・アンジェリとの恋は有名であるが、ピアの母親から交際を反対されたこともあって結局2人は短期間で別れている。

ジェームズは特に『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者は彼をモデルにし、そしてその死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。スターダムにのし上がって半年足らずというあまりにも短いキャリアと突然の死、それに公開葬儀がジェームズを時代を超えた青春の象徴とした。

彼の潜在能力は「理性」、「信念」、「知性・責任」の持ち主で、ジョン・レノンと同じ潜在能力である。そのことについては2010.12.8にアップしたジョン・レノン(「如雲玲音その1」)についてある程度の潜在能力の説明をしてます。


ジェームズ・ディーンと同じ潜在能力の有名人(点火法数字516)


中町公祐(アビスパ福岡所属のMF;高校時代は無名であったが、中町のプレーを見た湘南ベルマーレのスカウトに「中田英寿を思わせる逸材」と言わしめ、2004年に湘南に入団。2006年シーズン当初は中町を中心としたチーム作りをしている節があったが、結果が出せず出場機会を失う。続く2007年シーズンもポジション争いに敗れ、負傷もありシーズン後半にはベンチ入りすらできなく、翌年湘南を退団。2008年からは、元より学生として籍をおいていた慶應義塾大学のサッカー部に入部。 7年ぶりの1部リーグ昇格に貢献し、自身は関東大学サッカーリーグ戦2部リーグのベスト11に選ばれた。2009年、アビスパ福岡への加入内定が発表され、2010年シーズンより再びJ2のクラブでプレー、チームJ1昇格で2011年は初J1でプレー。学生時代は茶髪だったが、プロになる為にと黒髪に戻した。)、青柳雅信(福島ユナイテッドFC所属のDF;高校時代は筑陽学園高校のディフェンスリーダーとして高校選手権初出場決勝進出に貢献し優秀選手に選ばれる。大会後に高校選抜に選出され、ベリンツォーナ国際ユースサッカー大会準優勝メンバーとなる。また、2003年国体福岡県選抜に選ばれた。2004年湘南ベルマーレに加入。2005年に戦力外となり、トライアウトを経て2006年SC鳥取(現ガイナーレ鳥取)に移籍。2008年から、福島ユナイテッドFCへ移籍。)、濱口華菜里(プレミアリーグ東レ・アローズ所属のバレーボール選手;小学校3年生からバレーボールを始める。九州文化学園高校では、主将として2003年インターハイ優勝、国体ベスト4を経験した。2004年、東レアローズに入団。安定したレシーブ力と当時のチーム事情から、内定選手だった2003年第10回Vリーグに開幕戦からスタメン出場し、レギュラーを獲得すると同時にチームのリーグ準優勝に貢献。2004年第53回黒鷲旗全日本選手権大会では若鷲賞;新人賞を受賞した。2008年、2007-08プレミアリーグにおいて東レのリーグ初優勝に貢献し、レシーブ賞を獲得。2009年4月、全日本女子代表メンバーに登録された。2010年11月、世界選手権のエントリーメンバー14名に選ばれ、大会に参加。銅メダルを獲得した。)、山本 幸平(自転車競技、マウンテンバイク(MTB)・クロスカントリー(XC)選手。北海道帯広農業高等学校出身。チームブリヂストン・アンカー所属;2008年、イタリアのヴァル・ディ・ソーレで開催されたMTB世界選手権・エリートクロスカントリーでは54位。同年北京オリンピック代表選考会レース、「J八幡浜インターナショナルクロスカントリー」で1位だったことを受け、北京オリンピック、MTBクロスカントリー代表に選出された。また田沢湖スキー場で行われた全日本マウンテンバイク選手権大会にて初優勝。北京オリンピック 3周遅れ打ち切り。2009年、富士見パノラマリゾートで行われた全日本マウンテンバイク選手権大会にて連覇達成。アジア選手権にて初優勝。2010年全日本マウンテンバイク選手権大会3連覇、 大韓民国・堤川(チェチョン)で行われたアジア選手権にて連覇達成。アジア競技大会 2位。)、後藤裕司(FC岐阜所属のMF;岐阜工業高校時代、高校選手権で活躍し、そのプレーは、セルジオ越後から「中村俊輔を彷彿とさせる」と絶賛される。 だが、横浜F・マリノス加入直後から、怪我に悩まされつづけた。2007シーズンより地元のFC岐阜へ入団。現在は同チームのBチームに所属。)、趙 博(中華人民共和国出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。右投左打;現在は四川ドラゴンズでプレーしている。2006年にワールドベースボールクラシック中国代表に選出され、韓国戦で登板を果たした。かつては投手として活躍していたが、2008年から外野手に転向している。)、ジミー・ブリアン(フランス・ヴァル=ド=マルヌ県ヴィトリー・シュル・セーヌ出身のサッカー選手。リーグ・アン・オリンピック・リヨン所属。ポジションはFW;2002年には17歳にしてプロとしてピッチに立ち、パリ・サンジェルマンFC戦で25分間プレーした。デビューの年にはカリム・ベンゼマ、ディミトリ・パイエらと共に新人賞候補に名を連ねた。飛躍のきっかけとなったのは2005-2006シーズンで、29試合に出場して3ゴールを挙げ、チームをヨーロッパカップ出場権を獲得できる7位にまで導いた。その後もコンスタントにゴールを決め続け、レンヌの主力として活躍した。2010-2011シーズンからオリンピック・リヨンへと移籍をしている。フランス代表としては、U-16代表から各世代で選出され、2002年のUEFA U-17欧州選手権で準優勝、2005年から2006年までU-21代表としてUEFA U-21欧州選手権でベスト4進出など、22試合9ゴールの実績を残している。2007年にはフランスB代表チームにも選出され、2試合に出場した。2008年10月11日、南アフリカW杯予選の対ルーマニア戦で初キャップを記録している。南アフリカW杯に向けた予備登録メンバー30名に選出されるも、24名に絞った合宿メンバーからは漏れた。)、畠山 健介(サントリーサンゴリアス所属のラグビー選手;ニックネームは「空飛ぶヨコヅナ(もしくは空飛ぶプロップ)」。小学2年時にラグビースクールでラグビーを始める。仙台育英学園高等学校時代には3年連続で花園に出場。高校日本代表、U17日本代表にも選ばれる。早稲田大学スポーツ科学部に進学し、1年時よりプロップとしてベンチメンバーに入り、2年時は右プロップのレギュラーを獲得。清宮克幸が監督のころの「FWの早稲田」を象徴する選手となる。全国大学選手権優勝などに貢献。卒業後は清宮が指揮を執るサントリーに加入。U-19、U-23日本代表、日本代表。プレースタイルはいわゆるプロップとしての大きな体を生かしたスクラム。 そしてゴール前では「ぶちかまし」で相手ディフェンスを次々となぎ倒しトライを挙げるスタイルも特徴がある。大学1年生時は先輩(当時4年生)で同じ右プロップの伊藤雄大より、常に的確なアドバイスをもらうなど、伊藤とは師弟関係にあった。関東学院大学ラグビー部監督の春口廣は「もし(他から)選手をもらえるなら畠山…」と彼を絶賛している。アンケートに「もし一度だけ魔法が使えたら…」と問われ、「五郎丸になりたい…。」と答えていた。中学時代はバスケ部に所属し、キャプテンをつとめていた。人なつっこい性格のため後輩からとても慕われていた。愛称は『ハタケ』)、張 芳赫(中華人民共和国の女子バレーボール選手。ニックネームはリン。VプレミアリーグのNECレッドロケッツ所属;友人の影響で、中学校2年生よりバレーボールを始める。高校は山口県の誠英高校にバレー留学で来日。同級生の井野亜季子らと共に春高バレー・インターハイ等に出場した。嘉悦女子短大時代、2006年全日本インカレで準優勝し、ブロック賞を獲得した。2007年、秋田国体の強化チームである、こまちレオニーノに入団。国体終了後、日立佐和リヴァーレに移籍。2008年9月、シダルカ・ヌネス入団に伴い、Vリーグ登録選手を外れる。同年11月、チャレンジリーグのKUROBEアクアフェアリーズに期間移籍し、2009年5月、日立佐和リヴァーレに復帰。さらに2010年6月、NECレッドロケッツに移籍した。)、千田 健太(ネクサス所属のフェンシング選手。父親である千田健一も元フェンシング選手で、1980年モスクワオリンピックフェンシング日本代表に選ばれたが、日本のオリンピックボイコットで大会に出場出来なかった選手であった。千田は小学校まではサッカーをやっていたが、中学に入ってから父にフェンシング選手になることを願い出た。その父による特訓によって右利きから左利きに変え、五輪を目指す日々が続く。宮城県気仙沼高等学校では、父が監督、自らが主将という立場になった。千田の種目はフルーレである。中央大学に進学してから、国際試合での実績を積み重ねた。大学3年時の2006年、フェンシングワールドカップシリーズ東京大会で3位入賞を果たし、その年のアジア競技大会にも出場。中央大学卒業後は地元宮城に帰郷し、クラブチーム(宮城クラブ)に所属しながらワールドカップシリーズを転戦。 2008年北京オリンピック日本代表に選出された。2009年4月㈱ネクサス(群馬県高崎市)に就職し、フェンシングに専念することが発表された。)、森川七月(GIZA studio所属のジャズ歌手;2006年2月、実姉である森田葉月と「森田葉月 & 森川七月」としてデビュー。その後、2008年3月にソロデビューし、2010年現在、関西を中心に精力的なライブ活動を行っている。)、エレナ・ゲオルゲ(ルーマニアの歌手;ユーロビジョン・ソング・コンテストの2009年大会にルーマニア代表として参加し、「The Balkan Girls」を歌った。ゲオルゲは2003年にデビューし、代表作は「Te Ador」等である。)、ベンヤミン・クライブリンク(ドイツのフェンシング選手。左利き;2007年のフェンシング世界選手権では団体決勝で15-13でイタリアのアンドレア・バルディーニに敗れ2位に終わった。また、同大会のフルーレ個人では同じドイツのピーター・ヨピッヒに準決勝で敗れ3位に終わっている。2008年の北京オリンピックではフェンシング男子フルーレ個人に出場、1回戦で日本の千田健太、2回戦、3回戦でも中国の選手を破り、決勝戦では日本の太田雄貴を15-9で破って金メダルを獲得した。)、片岡 信和(プロマージュ所属の俳優;趣味は野球、水泳、スノーボード。特技は遠投。大学3年生だった2006年に、将来の進路を芸能界に置きたいと志し、履歴書を現在の事務所「プロマージュ」に送付したのをきっかけに芸能界入りを果たし、2008年の『炎神戦隊ゴーオンジャー』で本格的に俳優デビューを果たす。また、チョイ役ではあるもののゴーオンジャーで共演した杉本有美主演の深夜ドラマ「BOYSエステ」にも出演している。一時期、ブログでほぼ毎回ゴーオンブルーの人形の写真を載せて記事を書いていた。名前の読みは「のぶかず」ではなく「しんわ」である。子供の頃に好きだった戦隊は『超力戦隊オーレンジャー』及び『激走戦隊カーレンジャー』。また46話ではレッドレーサー/陣内恭介役だった岸祐二との共演が実現した。)、ルカ・ラノッテ(イタリア出身の男性アイスダンス選手。パートナーはアンナ・カッペリーニ、カミラ・ピストレッロなど。2010年バンクーバーオリンピックイタリア代表。)、長田融季(りあるキッズのツッコミ;だんじり祭に対する思い入れが深く、自らも祭りに参加している。 レゲエが大好きで小学校の友達とREGGAE、SOUND、SUCCESS GROWを結成。毎週日曜日23時~から開催、東心斎橋CLUB、PUREでのREGGAE、EVENTDYNAMITE XX に出演中。趣味はゴルフとサーフィン、スノーボード。阪神タイガースの熱烈なファンでもある。 昔から芸人をやっていて、ほとんど学校に行っていないため一般常識が全くなく、よく周りにいじられている。子供の頃は長田の方が背が高かったが、段々と安田に追い抜かれて現在は縦ではなく横に伸びている。デビューのきっかけは1996年11月、『輝く日本の星! ダウンタウンを創る』という番組に、後に相方となる安田はダブル関西、長田はアップダウンという別々のコンビで出演し、相方の安田が未来の松本人志、長田が未来の浜田雅功として選ばれ、コンビ結成。その当時はまだ11歳だった。同番組内で、1988年12月放送の『4時ですよーだ』で当時3歳の長田が浜田雅功の顔そっくりさんとして出演していたことも明かしている。子供のときから芸人をやっているため年上の後輩芸人が多い。当時中学生でありながら、まだ結成間もない頃のキングコングにお年玉をあげた事もある。そのため後輩芸人は先輩なので敬語で話すが、彼らより売れている後輩(麒麟、南海キャンディーズ等)からは本来年上ということもありタメ口や呼び捨てされることも多い。大阪NSC15~16期生・東京NSC1期生とほぼ同期にあたり、それ以外では同期にロザン、すっちー(元ビッキーズ)などがいる。しかし、東京NSC1期生の品川庄司には後輩扱いされている。baseよしもとのメンバーから漏れ、先輩芸人を参考に漫才スタイルを模索していた低迷期にシンクタンクのタンクから「君ら子供やのに何で子供らしい漫才せえへんの?(要旨)」と助言を受け、現在まで続く漫才スタイルを確立した。 20歳になるまではお酒を飲むことが出来ず、年上の後輩たちを飲み屋に連れて行っても、本人たちはコーラしか飲めなかったと先輩・後輩たちに暴露されている。 2004年にエンタの神様でネタの収録を行ったが、放送されないまま番組は終了してしまった。関西ローカルの歳末特番「オールザッツ漫才」(毎日放送)には彼らが深夜の生放送出演に対応できる2004年からの出演で、トーナメント組からネタ組に昇格ではなく、いきなりネタ組から始めさせられた数少ないコンビである。また2007年の回で披露したネタでは安田がパンツ一丁に包丁を持った姿で「未来のダウンタウン言われてた頃に戻りたい!」と、過去の功績を活かしきれない自虐ネタを行った。現在でもアルバイトをしている。)、クリスタル・チョン(香港出身の女性歌手、HotChaのメンバー:2007年、ウィンキー・ライ、リージェン・チョンとともにHotChaを結成)、チェン・ウェイン(中日ドラゴンズ所属の投手;メジャーなどの8球団からオファーを受けていたが、中日のアジア地区担当スカウトであった大豊泰昭が交渉にあたり、入団にこぎつけた。来日後は公私に渡って親交を深め、初勝利時のヒーローインタビューで「(一番に)大豊さんに伝えたい」と答えた。同い年で同期入団でもある堂上剛裕、中川裕貴両選手と仲がよい。堂上照寮長曰く「あんなにすごいピッチングするけど、中川たちとゲームやっているときは普通の高卒の選手と一緒の顔するよな」とのこと。また吉見一起とは兄弟のように仲がよい(吉見が兄でチェンが弟)。元読売ジャイアンツの姜建銘とは同い年で台湾時代からのライバル。現在ではインタビューも日本語で受け答えできるほど日本語が上達している。良き相談相手の台湾出身で元中日の投手、郭源治のすすめもあり、来日当初から専属通訳が付かなかったので必死で日本語を覚えたとのこと。また、外国人扱いの選手にしては珍しく選手会に所属している。国立体育学院やアテネ五輪代表時に付けていた背番号「54」は、現地語の発音が「5」=「我」、「4」=「死」となるため「不吉な番号」として他選手はつけることを嫌っていたが、チェンはあえてこの番号を選んで付けていたという。プレースタイルとして、中日往年の左腕エース・今中慎二を彷彿とさせる腕の振りから、最速154km/hのストレートと速く小さい変化と大きな変化の2種類のスライダー、カーブ、フォークボール(本人はチェンジアップだと主張)を投げ分ける。特にストレートは球界トップクラスのキレを誇り、2009年には両リーグトップの被打率.183を記録し、コース別の被打率においても3割を越えたコースが無く、ど真ん中でさえ被打率2割中頃を誇る。)、ナターシャ・ポーリー(ロシアのファッションモデル;旅行で訪れたミラノでスカウトされたことが切っ掛けでモスクワのモデル・コンテストに出場し見事優勝を果たす。ドール系モデルが大流行していた2004年、モデルデビューすることとなる。2005年春夏、グッチの広告に登場し業界の注目を集める。グッチの主任デザイナーのお気に入りモデルであり、グッチの2007年秋冬、2008年リゾート、2008年春夏、2009年春夏キャンペーンに起用された。その他、ルイ・ヴィトン、ランバン、ソニア・リキエルなどトップメンゾンの広告に数多く登場し続けている。)ジャンルカ・クルチ(イタリアのサッカー選手で、セリエA、UCサンプドリア所属のGK;精神的にはまだまだ弱く、ミスの責任を抱え込む傾向にあるが技術的には既にトップレベルの域に達しており、ジャンルイジ・ブッフォンの後継者候補の一人である。本人の技術は素晴らしいが、ディフェンダーとの連携するコミュニケーション能力が課題である。)、橋爪ヨウコ(サンズエンターテイメントに所属していたお笑い芸人;大泉洋が大好きで、TV番組『水曜どうでしょう』のファンでもある。DVD全巻やグッズを持っていると自身のブログに公開している。兄の影響で6歳からサッカーを始める。サッカー歴は15年以上、全国レベルの実績がある。その他スケート、スノーボード、ウェイクボード、剣道などを幼少期からやっている。また同じく兄の影響で格闘技やプロレスを好み、頻繁に観戦している事をブログで公表していたが、22歳の誕生日でもあった2007年7月12日にプロレスリングSUNへの入団を発表していた。群馬県前橋市の「ローズクィーン」という前橋市のミス(観光特使)を務める。幼少期から母親の影響でさだまさしが好き。コンサートにも数えきれないほど、よく行くという。多趣味であり、その趣味の中に献血がある。献血が出来る年齢からずっと続けているらしく、1ヶ月に1度は行くという。毎日筋トレをし、よく器械体操やジョギング、マラソンなどをしている。特技は手をつかずに跳び箱を飛ぶこと、スイカの早食い、カキ氷の早食い。格闘家として2009年3月1日、『西口プロレス新人レスラーオーディション』に最終選考の5人の中に残り、この日行われた最終審査大会に出場、プリマ・リエと共に合格者に選ばれた。同年3月24日、北沢タウンホールで行われた『西口プロレス創立八周年記念興行 第2弾』にてデビュー戦を行い、アントニオ小猪木とタッグを組み、プリマ・リエ&神風健三郎と対戦し、勝利を収めた。以後、定期的に西口プロレスの試合に参戦している。キャッチコピーは「2代目デンジャラスクイーン」。北斗晶を崇拝している。試合時はヒール役の立ち回りが多く、竹刀を
持って登場することが多い。プロレスの得意技は、ヘッドシザース、デジャブ、シャイニングウィザードである。高い運動神経で観客を魅了する。GREE、アメバブログ更新中。)、・・・、
















犯人なのか?刑事なのか?黒幕なのか?原人のような現在人でミステリアスな60歳

2011-02-08 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

グループ魂「本田博太郎」

本日は本田博太郎さんのお誕生日ということであっぷしました。

本日還暦を迎え、20代の頃、売れない俳優ながら3人の子供を抱えていた彼ですが、

高校卒業後上京、文学座演劇研究所を経て劇団青俳に所属。その間様々な職業を務めた。

人生の転機は、

1979年の蜷川幸雄演出の舞台『近松心中物語』で、公演中突然腰を痛めたため降板した平幹二朗の代役を、当時無名の本田が次の日の公演から主役として見事やり遂げ、さらに29歳という当時の「帝国劇場」での最年少座長記録も同時につくり、一躍脚光を浴びる。また、蜷川演出の『ロミオとジュリエット』でゴールデン・アロー賞(演劇新人賞)を受賞した。

1980年には『ただいま放課後』の教師役愛称ドンガメの主演で、お茶の間の人気を揺るぎないものにした。このころまで多く存在した“新劇出身アイドル”的な位置におさまりかけるが、次第に悪役や喜劇的な役柄にシフトした。

1981年には工藤栄一に認められ、テレビ『必殺仕舞人』・『新・必殺仕舞人』に主演メンバーとして参加した。その後も映画・テレビ・舞台と幅広く活躍し、現在では日本映画界・テレビ界には欠かせない「名バイプレーヤ・脇役」になっている。

晩年の岡本喜八監督に気に入られて、利重剛と共に「喜八一家」最終メンバー的な存在となった(晩年の岸田森に喜八一家メンバー心得的なアドバイスも受けている)。監督の葬儀では、司会進行を担当した。

現在に至るまで金子修介監督とも付き合いが長い。またその渋い声によりナレーターを務めることもある。

オーソドックスな一般人の役から、キレ気味のヤクザ・犯罪者といった一・二癖もある役どころ、コメディや北京原人までをこなせる高い演技力を基にして独特の「怪演」を披露することも多い。奥山佳恵を見ながら涙ぐんで上半身裸になる男性を演じたアコム、オダギリジョーと共演したライフカード等のCMにも多く出演している(ライフカードのCMは俳優の名前を実名で呼ぶ伝統があるが、彼はこの伝統を破り役名をつけられた初の俳優でもある)。特に仮面ライダーカブトではその怪演ぶりに加えて、ミステリアスさを増していた。

『時をかける少女』(南野陽子主演版)、『君の手がささやいている』などいくつもの作品で父親役を演じているが、『エラいところに嫁いでしまった!』ではユニークな父親役で話題になった。

そんなグループ魂ですが、

1995年、松尾スズキが主宰する劇団大人計画の俳優が結成。

結成時のメンバーは暴動(宮藤官九郎)、破壊(阿部サダヲ)、バイト君(村杉蝉之介)の3名。当初はギターを使ってシャウトする漫談スタイルのコントグループとして活動しており、渋谷公園通り劇場、笑点などにも出演していた。1997年から、ギター、ベース、ドラムを加えたバンド編成になり、その後、幾度かのメンバーチェンジを経て、現在のメンバー編成に到る。2002年、アルバム『Run魂Run』でミディよりメジャーデビュー。

2005年、結成10周年目にしてキューンレコードへ移籍。この年の年末には第56回NHK紅白歌合戦に出場。

バンド名の由来は、ARBの「魂こがして」から。"グループ"は「自分たちのことを"グループ"と言う人はいない」という理由から。

なお、メンバーのほぼ全員が俳優、作家、飲食業などとの兼業ミュージシャンである。

メンバーは、

破壊(阿部サダヲ):ボーカル - コントグループ時代は主にツッコミ。現在も多用され、バンドのトレードマークにもなっているスリッパは元々ツッコミの道具であった。

暴動(宮藤官九郎):ギター、作詞、作曲 - コントグループ時代はギター兼ツッコミ。

バイト君(村杉蝉之介):大道具、ハーモニカ - コントグループ時代は主にボケ。

港カヲル(皆川猿時):MC、ボーカル、作詞、永遠の46歳

小園(小園竜一):ベース、作曲

石鹸(三宅弘城):ドラム、作詞、作曲

遅刻(富澤タク):ギター、作曲、編曲
(以下はMC、コントなどに出演頻度の高い準レギュラー。)

とびだせボーイズ:皆川猿時・村杉蝉之介・荒川良々(荒川は港カヲルの愛人と言う設定のナオミというキャラクターに扮する場合もある)

ローディ川島:スリッパ補充 (都会の山賊ツアーでの港カヲルの話によると、自衛隊に入隊したらしい)


そんな古瀬絵理(おたんじょうびおめでとう!)と同じ潜在能力の本田さんのエピソードとして、

1979年の蜷川幸雄演出の舞台『近松心中物語』で、公演中突然腰を痛めた為降板した平幹二朗の代役に大抜擢される前は全く芽が出ず、その時にはもう子供が3人いたのでこの舞台を最後に俳優を辞め、郷里に帰るつもりだったと、抜擢で注目されて取材の新聞記事で語っていた。

1993年9月20日に『笑っていいとも!』のテレホンショッキングにゲスト出演した際、本田の元に「電話帳にして4冊分」という大量の電報が届いた。原因はニッポン放送のラジオ番組『伊集院光のOh!デカナイト』の企画で伊集院光扮するキャラクター「マドモワゼル詐欺」が「9月20日の月曜日に、『笑っていいとも!』のテレホンショッキングの誰それ関係無くゲスト宛てに電報が激増する」という予言(という名目のリスナーへの煽り)を出したためである。本田の娘がこの番組のリスナーだったため事情が本人の耳に入り、直接本田が番組に電話をかけた。伊集院は非常に萎縮し謝罪するが、本田がとても洒落のわかる人だったので大問題にはならなかった。その後番組ディレクターの提案でゲストとして呼ばれ、本田を褒め称える放送が行われた。

普段の本田は愛妻家で、愛犬家。

1998年頃、壺や陶器の収集に熱中、本人曰く「製作者が壊したくなるような歪な作品が好きで、高価そうな作品や、スタイリッシュな物には興味が無い」と言っている

いうまでもなく彼は「役者」です!!

如雲玲音その3(DJ2)

2011-02-08 22:00:00 | 沢尻エリカはお釈迦様!
ジェームズディーンの続き、

彼の語録として、

「今日死ぬつもりで生きろ」


毎朝仕事に行く際に、やっていることがあります。

それは、妻や子どもたちとハグをすること。

「通勤中にバイクで事故に遭ったら、これが最後になるかもしれない」

ってな思いが、いつも一瞬脳裏をかすめるのです。

心配性だな~、と言われそうですが、

ま、「心配」というより、「覚悟」といったほうが正確かもしれません。

で、こんな思いがいつも杞憂で終わってくれればいいのですが、

世の中、急にこの世を去らなければいけなくなる人も

実際たくさんいるわけです。

そんなことがもし自分自身に起こらないとしても、

自分の大切な人の身に起こる可能性だってなくはない。

そんなときに後悔したくないのです。

ジェームズ・ディーンと同じ潜在能力の有名人(点火法数字516)

・・・伊阪達也(プロダクション尾木所属の俳優;GREEにてブログ更新中)、南圭介(トレンド所属の俳優;高校3年時の夏休みに渋谷で友達と歩いていたところを現マネージャーにスカウトされ、2004年10月、映画『少年と星と自転車』でデビューした。趣味はスポーツ、ドライブ。特技は、バスケットボール(ダンクシュート) あだ名は「圭ちゃん」。好きな色はピンクか白などの淡い色。好きな食べ物はオムライス。 自分を動物に例えるならアヒルらしい。 無人島に残されたときに持っていくものはシャベル。自分の鎖骨には自信があるという。 5歳下の妹がいる。PureBoysのメンバーからは「空気読みの神」と呼ばれている。 忘れ物が多く、特に傘をよく忘れるので「傘を忘れる神」でもある。 共演した人からは決まって鏡前が汚いと言われている。目標としている俳優は小栗旬。)、トム・デ・ステル(ベルギー出身のサッカー選手。RSCアンデルレヒト所属。ベルギー代表である。ポジションはFW;名前の頭文字をとってTDSという愛称で呼ばれる)、上田 常幸(JFL・ホンダロックサッカー部所属のDF)、小林賢司(オリックスバッファローズ所属の投手;中学時代は軟式野球部に所属し、投手兼外野手として活躍。地元の甲子園名門校・酒田南高校へ進学。1学年上の先輩には福岡ソフトバンクホークスの長谷川勇也がいる。2年の春・夏に甲子園出場するも、いずれも初戦敗退。青山学院大学では、3年次に春のリーグ戦で最優秀防御率を獲得。4年次には高市俊の抜けたあとのエースピッチャーとしてチームを牽引した。東都大学野球連盟のリーグ戦通算38試合登板し14勝9敗、防御率2.82、184奪三振。2007年の大学生・社会人ドラフトでは、大場翔太、篠田純平と2度の抽選に外れたオリックスから1位指名を受けた。11月29日、契約金8000万円、年俸1200万円(いずれも推定)で仮契約を交わした。 プロ入り後は、2008年は即戦力として期待されたが、この年は1軍登板がなく、ウエスタンでも1勝、防御率4点台後半と首脳陣の期待を裏切った形になってしまった。2009年8月14日、対ソフトバンク戦でプロ初登板。しかし、打者2人に対し2四球で1死も取れずに降板というほろ苦いデビューとなった。)、ソフォクリス・スコーツァニーティス(ギリシャのプロバスケットボール選手;イスラエル男子プロバスケットボールリーグ1部BSLの名門マッカビ・テルアビブ所属。カメルーン南西州チコ出身。ポジションはセンター。愛称の一つ「ベビー・シャック」は、イラクルスで同僚だったトニー・ファーマーが名付けたが、本人はあまり気に入っていない。)、伊志嶺忠(東北楽天イーグルス所属の捕手;強肩強打の捕手で、「阿部慎之助二世」の呼び声が高い。特に打撃は非凡で高校通算35本塁打、当時からドラフト候補に名前が挙がっていた。千葉県大学野球リーグでは、大学4年時に怪我でシーズンを棒に振りながらも同リーグ歴代最多の通算13本塁打の記録を持つ。また50メートル走を6秒2と脚力にも優れている。それら恵まれた潜在能力やパワーは野村克也監督にも高く評価されており、野村は2008年の秋季キャンプで打撃練習を行っていた伊志嶺を見て「やっぱりこいつは何か持っている。使いたいな。お前、他に行く気はないのか(コンバートする気はないのか)」と発言(イーグルスの正捕手争いは、ベテランの藤井彰人、若い嶋基宏や井野卓などによる激戦区であり、出場機会を憂慮しての発言であった)。それに対し伊志嶺自身は捕手でやっていきたい、という意志を改めて明確に監督に伝え、「嶋に勝つ気はあるのか」という問いに対し「あります」と答えた。出身地は北谷町とされているが、隣接する宜野湾市で生まれ、幼少時に北谷町に転居したという経緯がある。名前の「ただし」を変化させて、「ターシー」と呼ばれていた。楽天のチームメートである西村弥とは同じ沖縄県出身で、東京情報大学出身の先輩でもある。伊禮麻乃やORANGE RANGEのRYOとは沖縄県立北谷高等学校時代の同級生である。)、加藤ローサ(研音所属の俳優、デルモ;愛称は「ロッチン」、「ロックン」。出生は横浜、育ちは鹿児島だが、母親は日本人、父親はイタリア人。両親が知り合ったきっかけは、父が勤めていた横浜のイタリアンレストランに母が客として来たことだという。5歳までイタリアのナポリに住んでおり、イタリア語を話せていたそうだが、日本へ来てからは忘れてしまい、現在は一言も話せないという。性格はマイペースで、周りからはよく「猫みたい」と言われる。猫好きで、鹿児島の実家では猫を数匹飼っている。また、ご当地キティも集めていて、現地で手に入れることにこだわっている。靴を集めるのが趣味で、特にコンバースがお気に入りである。書道7段を持っている。「日本ジュエリーベストドレッサー賞」(第19回)受賞。
デビュー前の2002年4月、「ハウステンボス華の花嫁グランプリ」を受賞した時の映像が、いくつかのバラエティ番組で放送された。子供の頃の将来の夢は恐竜学者。中学校ではバレー部だったが、同学年の部員がいなかったのでほとんど行かなかった。本人が語ったところによると、初恋は10歳の時であった。生まれたときは、3kgくらいだったが、全身真っ黄色で難産だった。
インタビューにて、憧れの女優は竹内結子であると語ったことがある。早食い、早支度が自慢。例として、9時00分出発なら8時50分に起床して支度する。 黒木瞳に美貌の秘訣を「朝の洗顔をしないことかな」と聞いたため、朝の洗顔をしなくなった)、南知里(キャストコーポレーション所属のグラビアアイドル;父は小説家の姫野由宇。趣味はウォーキング、料理、ピアノ、ショッピング。 特技はスキー。3歳から始め、アルペン競技で群馬県代表として関東大会に出場した。1998年の冬季長野オリンピックにて、聖火ランナーを務める。 2009年11月まで、同事務所の若手5人組で結成されたユニットFu-Fuのリーダーとして、路上ライブなどの活動をしていた。GREE、アメバブログにて更新中。)、アルベルト・サパテル(スペイン・サラゴサ出身のサッカー選手。ポジションはMF。スポルティング・リスボン所属;レアル・サラゴサ時代には、カルロス・ディオゴが怪我するなどして選手層が手薄になったときに右サイドバックでプレーした経験がある。)、アナ・カロリナ・レストン(1990年代から2000年代に掛けて活動した、ブラジル出身のデルモ;13歳からデルモ活動を始めたが、2004年に周囲の人から自分が「とても太っている」という批判を感じ、過激なダイエットが始まり、さまざまな国で活躍しつつ、2006年10月25日、腎臓の疾患によりサンパウロ市内の病院(Servidor Publico Hospital)に入院。懸命の治療を続けていたが、感染症を併発して容体はさらに悪化し、2006年11月15日に21歳の若さで死去。神経性無食欲症(拒食症)による栄養失調が原因で172cmの身長に対し、死亡時の体重は40kg、肥満度を示すBMIの数値は僅か13.4しかなかった。死去後、西洋諸地域における『痩せ過ぎモデル』についての論争を過熱化させる結果となった。これを直接の原因として、スペインとイタリアの政府はBMIが18に満たないモデルのファッションショーへの出場を公式に禁止。 米国、フランスおよびイギリスにあっては、規制ではなく啓蒙という形でこの問題に取り組んでゆくとの発表が行われた。)、富貴晴美(株式会社インスパイア・ホールディングス所属の作曲家、ピアニスト:オーケストラを用いた派手な曲から、繊細な音で心情を表す等、弦楽器・管楽器・鍵盤楽器の音色を巧みに用いて、印象に残るメロディーなど、親しみやすい楽曲を作っている。 映画音楽、ドラマ、CM、アニメーション、などの音楽やアーティストへの楽曲提供、作曲や編曲を手がける。クラシックからロック、ジャズまでジャンルが幅広い。 ピアニストとしても多様な活動をしており、シンセサイザーや打ち込みの音作りから全て本人が行っているとインタビューで語られている。)、鈴木 拡樹(ジュネス企画所属の俳優;趣味:ランニング、インテリア、ファッション、映画鑑賞、特技:服のリメイク、料理、デザインアート、好きな色:黒、赤、青)、アンナ=レナ・グローネフェルド(ドイツ・ニーダーザクセン州ノルトハイム出身の女子プロテニス選手;現在のドイツ女子テニスを代表する選手として活動中である。2009年のウィンブルドン混合ダブルスで、マーク・ノールズ(バハマ)とペアを組んで優勝した。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス10勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス7位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。日本語のメディアでは「アンアレーナ・グローネフェルド」も多く見られる)、井上 俊輔(VプレミアリーグのJTサンダーズ所属のバレーボール選手でセッター;友人に誘われて、長崎市立西北小学4年よりバレーボールを始める。長崎市立長崎商業高等学校を卒業後、福岡大学へ進学。学生時代には2002年国体出場、2004年・2006年に全日本インカレに出場した。大学卒業後、JTサンダーズに入団。同期に石橋健。2008年に行われた2008V・サマーリーグでは新人ながら最優秀選手を受賞した。2009/10シーズンは前年までのレギュラーだった前田悟が引退したため、ゴードン・メイフォースの方針で菅直哉との併用で起用された。)、エヴァン・フランク・ライサチェク(アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身の男性フィギュアスケート選手;2010年バンクーバーオリンピック金メダリスト。2009年世界選手権優勝。スケート技術として長身と長い手足を活かしたダイナミックな演技と、情熱的な表現力を持ち味にする。スピンやステップにおいても高いレベルをとることができる。フランク・キャロルやタチアナ・タラソワは彼を「練習の虫」と評している。)、ルーカス・ポドルスキ(ポーランド・グリヴィツェ出身のドイツ代表、ドイツ・ブンデスリーガ・1.FCケルン所属のサッカー選手。ポジションはFW。サイドハーフでもプレーができる。愛称は「ポルディ」。ポーランド系ドイツ人である;ケルンでは、彼の記事が掲載される新聞はよく売れ、ケルン周辺での彼の人気は「小皇帝」ミヒャエル・バラックと肩を並べるほどである。また、ケルン復帰が騒がれていた頃、ケルンのサポーター達がバイエルン・ミュンヘンの練習場に押しかけ、「ポルディーを返せ」と書かれた横断幕を掲げ、デモまがいの行動を起こしたという。熱烈なサッカー愛好家としても知られるF1ドライバーのミハエル・シューマッハが、ポドルスキ獲得のためにケルンに875ユーロの資金援助をした。ドイツ国内では、彼を歌った「Lu-Lu-Lu-kasSong」という歌とともに人気を得た。国籍はドイツであるが、ポーランド人であることを非常に誇りに思っている。今でも家族と話すときはポーランド語で話し、ポーランド代表と試合をする際は非常に複雑な気分になるという。同じポーランドから帰化したミロスラフ・クローゼは殆どポーランド人であることをアピールしないため、ドイツメディアから批判される事は少ない。以前、ドイツの主将であるバラックにビンタを食らわしたことがある:その後、和解)、加藤 幹典(東京ヤクルトスワローズ所属の投手;慶応大学4年次には日米大学野球選手権日本代表に選出。語学にも優れる加藤は渡米の際に英語によるスピーチを行った。リーグ戦では最速150km/hのストレートと縦・横のスライダー、シュートを駆使した。リーグ通算64試合登板し30勝17敗、防御率2.14。21世紀初、20人目の30勝投手と慶應義塾野球部史上最多の371奪三振を記録。2007年の大学生・社会人ドラフトでは、大場翔太、長谷部康平と共に「大学生BIG3」と称され、前年の対六大学選抜戦での対戦経験もある東京ヤクルトスワローズから単独指名を受ける。指名当日には高田繁監督:当時が直接挨拶に訪れ、1週間後の仮契約では契約金1億円、年俸1500万円、出来高払い5000万円(いずれも推定)という好条件、更に石井一久の後継者として「16」の背番号を与えられ球団側の期待の高さを窺わせた。プレースタイルとして少し肘が下がって出てくるスリークォーターで、出所が遅いのが特徴。140km/h前後のストレート(MAX151km/h)に加え、変化球の持ち球にはスライダー(スラーブ)、パーム、チェンジアップ、シュート、フォークなどがある。課題はコースに投げ別ける制球力とピンチ時のメンタル強化。)、ピーター・ラモス(プエルトリコのプロバスケットボール選手;スペイン男子プロバスケットボールリーグ1部ACBのフエンラブラダに所属。ポジションはセンター。)、セバスティアン・ブルーノ・フェルナンデス・ミグリエリーナ(ウルグアイ・モンテビデオ出身のマラガCF所属、ウルグアイ代表のFW)、セク・シセ(コートジボワール出身のフェイエノールト所属、コートジボワール代表のFW)、村田 奈都美(プレミアリーグ・岡山シーガルズに所属のバレーボール選手;中学1年生からバレーボールをはじめる。この時、同県選抜で全国都道府県大会ベスト8。大阪国際滝井高等学校を経て、2004年シーガルズへ入団。 プレースタイルとして、2007 - 2008シーズンを通してレギュラーとして活躍。ファイナル進出に貢献。相手コート、ブロッカーに向けてスパイクを放ち続ける献身的なハードワーカー。2007 - 2008シーズンでのアタック総数、ブロック参加総数はリーグでトップクラス。自身ではストレートのブロックアウトを得意技に挙げている。エピソードとして、バレーボールをはじめたきっかけは長身を活かしたかったから、というもの。ニックネームのホクトは、北斗七星のように輝く選手になれ、という願いから。)、高橋 義希(ベガルタ仙台所属のMF;逸話として、2007年に東京ヴェルディ1969でプレーし、J2で対戦した名波浩は、ラジオで「日本代表に選ばれてもおかしくない、J2で注目の選手は?」と聞かれた時に、高橋の名前をあげた。)、セルゲイ・ハチャトゥリアン(アルメニアのエレバンで生まれたヴァイオリニストである;2000年、第8回シベリウス国際ヴァイオリン・コンクールにおいて、コンクール史上最年少で優勝。2001年3月にロンドンのフェアフィールドホールでイギリス室内オーケストラとナイジェル・ケネディの代役としてブルッフを演奏し、好評を得ている。N響と演奏したベートヴェンのヴァイオリン協奏曲で、『N響アワー』の2004年度ベスト・ソリスト二位となっている。2005年、エリザベート王妃国際音楽コンクールにおいても第1位を獲得した。使用楽器は、日本音楽財団から貸与された1702年製ストラディヴァリウス「ロード・ニューランズ」である。レコーディングは、Naïve Classiqueで行っている。2006年8月4日、エイヴリー・フィッシャー・ホールにおいて、オスモ・ヴァンスカ指揮により、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏し、ニューヨーク・デビューを果たした。フランス語、英語、アルメニア語、ロシア語、ドイツ語の5か国語を話す。)、大瀧 義史(静岡県出身のサッカー選手でポジションはMF。JFL・ソニー仙台FC所属。ソニー仙台の社員選手で、経理課に所属している;プレースタイルとして攻撃的なポジションならどこでも出来る。左足からのFKやクロスは正確である。また。ミドルレンジからのシュートも持っている。)、中川翔子(ワタナベエンターテイメント所属のタレント、歌手;レーベルはソニーミュージック。歌、司会、グラビア・漫画・声優・ブログなど多方面での活躍を見せていることから、単なるアイドルやタレントではなくマルチタレントと分類される。特に普段の生活を報告している自身のブログ『しょこたん☆ぶろぐ』は圧倒的な人気を誇り、書籍化もされている。人気の理由としてはテレビやラジオでの親しみやすいキャラクターなども起因している。オタク方面に関する知識が深く、特に昔の特撮、1980年代アイドルソング、及びレトロゲームなどに詳しい。特技は漫画とイラストで、父の中川勝彦が好きだった楳図かずおを崇拝し、本気で漫画家を目指していたほどで、本人は楳図風以外に鳥山明風の絵柄もあり、双方の使い分け・組み合わせによるギャップで笑いを取る、というテクニックも見せる。少年、青年、少女・・・と無類の漫画好きでまんだらけで100冊買うほど。ちなみに好きな漫画は「課長(現在は社長)島耕作」。好きな漫画家は水木しげる、CLAMP、種村有菜。またスーパー戦隊ヒーローシリーズ、メタルヒーローシリーズ、平成版仮面ライダーシリーズが好きで、特に仮面ライダー響鬼を演じた細川茂樹、初の女性仮面ライダーを演じた加藤夏希のファン。ブルース・リー、ジャッキー・チェンのファンであり、カンフー映画に関する造詣が深い。アイドル研究に熱心で1980年代から現在まで幅広く、松田聖子、岡田有希子、モーニング娘。カントリー娘。SOUL'd OUTのファンである。料理が下手である。好きな食べ物・飲み物は サーモン、ホルモン、スイカ、イクラ、ピルクル、オロナミンC 、ウェルチ、ファンタなど。自身のブログにおいて、Wikipediaに関する話題に触れ、Wikipedia巡りを楽しんでいることを明らかにし、特に声優、アイドル、漫画家などのオタク系の記事の充実ぶりを高く評価した。また、Wikipedia・Wikiと称されるシステムは、個々の文書が高度に連携した文書群を作成しやすいという特徴があるが、この点に対しても関連人物から飛ぶとキリがないと発言し一定の理解を示している。なお「自分の項を無茶苦茶にしたい」とも冗談めかして語っている。蝉の抜け殻の収集が趣味⇒集めた抜け殻は髪の毛にくっ付けて遊ぶという、であるとブログで公言したことから全国のファンより多くの蝉の抜け殻が送られてきたことがある。また、海洋生物に関心があることを明かしており、2009年の『飛び出せ!科学くん』でもその本領を発揮している。 上記した様に『飛び出せ!科学くん』では、芸能人では緒方拳に次いでしんかい6500に乗船し、深海5351mまで到達した事がある。その時の様子から深海生物についてもある程度詳しい事が明らかになる。2007年4月頃、ウニの仲間であるスカシカシパンに興味を持ち始めると、擬人化(スカシカシパンマン)したり、海に収集しに行ったりした。生きたままのスカシカシパンはめずらしいらしく手に入れたときは飼おうとしたが断念した。また、2008年1月29日にローソン全国8,000店舗で、スカシカシパンが菓子パン化されて発売された。2008年9月頃より、クリオネの頭部から出てくる6本の触手である「バッカルコーン」に興味を持ち始めている。その為か、現在個人では珍しいクリオネの飼育を行なうに至っている。漫画好きの延長で大のコスプレ好きとしても知られている。オークションを利用するなどして大量の服を買い込んでいる(主に『新世紀エヴァンゲリオン』・『ファイナルファンタジー』・『美少女戦士セーラームーン』など)。この趣味はグラビアアイドルとしての自身の活動にも役立っている。撮影中に見つけた捨て猫を拾ってしまう程の猫好き。2010年5月現在8匹の猫と暮らしている。深夜に趣味の時間をとることが多く、本人はこれを「貪欲タイム」と呼んでいる。以前は「寝るのがっもったいない」と言い、睡眠時間を削りがちだったが、水木しげるとの対談によって考えを改め、睡眠時間を「黄金タイム」と呼ぶようになり、趣味だけでなく睡眠時間も大切にしている。自身のブログにおいてはアメーバブログ芸能人部門では上地雄輔、辻希美と並び殿堂入りをしている。自身の持つ1日あたりブログ最多更新記録を2009年3月26日に100回、6月30日に231回へ伸ばしている。2010年7月19日放映の『徹子の部屋』(テレビ朝日)において、「窓際のトットちゃん」にも登場する黒柳徹子の小学生時代の親友で幼くして亡くなる山本やすあきちゃんが、中川翔子の祖母のいとこであることが紹介された。戸籍上の本名は中川しようこであり、小書きで「しょうこ」ではない。また物事に消極的に考える癖があったもの、番組で共演した美輪明宏から相当な説教を受け、以後携帯電話の待受け画面を美輪さんにし物事を積極的になったとのこと。座右の銘は「貪欲」。詳細はしょこたん☆ぶろぐにて。。。)、・・・つづく、

また、ディーンは作業着でしか見られず、はいて歩くことはブリーフで歩くのと同じ扱いだったジーンズをマーロン・ブランドとともに一般化した人物でもある。

ジェームズ・ディーンにおいては、『エデンの東』(1955)で初主演をし、この作品で認められスターとなりました。そして、つづく『理由なき反抗』(1955)では、大人や社会に対して反抗する若者を演じます。

この『理由なき反抗』の中で、ジェームズ・ディーンは、Leeの「101ライダース」を着用しました。リー「101ライダース」を穿いたジェームズ・ディーン演じるジムは、それまでの時代になかった“「若者」という存在”を世間に見せつけました。それまでの社会では「大人」と「子供」の二種類がいて、「子供」は「未熟な大人」であると認識されていたのです。

そしてこの映画はもう一つ、反抗児や不良が、必ずしもスラム街や貧しい家庭環境などから生まれるものではなく、ごく普通の一般家庭からも生まれるものであることを表しました。

ナイーブで傷つきやすい若者に、映画の鑑賞者である若者たちは共感し、また熱狂し、リーの「101ライダース」も、リーバイス「501」と同じく、若者たちの人気を得ることになったのです。

永遠の若者ジェームズ・ディーン、白いTシャツとジーンズ着こなす男が今生きていたならどういう人生を歩んでいたのだろうか・・・80歳のおじいさんが白Tシャツにジーンズなんてありえないことを80歳のディーンはしているだろう・・・


「インフルエンザ予防のため、うがいしましょう!」ガラガラ・・・ぺ。









ボギー

2011-02-07 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

沢田研二「カサブランカ・ダンディ」

この曲は1979年26枚目のシングルで、

作詞は阿久悠、作曲は大野克夫と「憎みきれないろくでなし」から同じコンビである。
「カサブランカ」は映画「カサブランカ」を指し、歌詞中の「ボギー」とは「カサブランカ」の主演俳優ハンフリー・ボガートの愛称である。

第21回日本レコード大賞・金賞を受賞した。

テレビ番組などで歌う際に洋酒を口に含んで霧を吹くパフォーマンスが話題となったが、後に子供が真似をするとの苦情がよせられたこと(「8時だよ!!全員集合」で、ジュリーと仲がいい志村けんがマネたこともあって、子供が給食時間に牛乳でそのようなパフォーマンスをしていた方も今は40過ぎ・・・このことを「カサブランカ・ダンディ事件」という。)で、そのパフォーマンスをやめた。

発売されて2週間でオリコンのベスト10に初登場した。5週後には5位まで上昇するなど、1979年の年間第26位にランクされた。

ノエビアのCM(コスメティック・ルネッサンスシリーズ)で、田村直美が1997年にカバーした(カサブランカ・ダンディ (田村直美の曲) を参照)。

アルバム「昭和の階段 Vol.1」で、工藤静香が2002年にカバーした。

本日は作詞を担当した阿久さんのお誕生日ということですが、2007年に70歳で他界しましたが、

彼の残した功績は今も繁栄し今の音楽界につながるものがある。

彼の音楽界の記録として、

シングル売上枚数
これまでに発売されたシングルの総売上枚数は6,821万枚で作詞家歴代1位。2位以下に大差をつけている。

1位 - 6,821万枚 阿久悠
2位 - 4,948万枚 松本隆
3位 - 4,218万枚 小室哲哉
4位 - 3,611万枚 秋元康
5位 - 3,600万枚 稲葉浩志
6位 - 3,463万枚 桑田佳祐
7位 - 3,349万枚 つんく♂
8位 - 2,767万枚 桜井和寿
9位 - 2,595万枚 なかにし礼
10位 - 2,472万枚 山上路夫
(2008年6月9日付現在、オリコン調べによる)

なお、阿久悠が作詞した曲のシングル売上枚数上位は、1位「UFO」、2位「サウスポー」、3位「北の宿から」である。

日本レコード大賞での大賞受賞曲は作詞家として最多の5曲(1976〜1978は3年連続受賞)。

1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
1978年「UFO」ピンク・レディー
1980年「雨の慕情」八代亜紀
(2008年現在)


日本レコード大賞の作詩賞受賞は7回で最多記録(2008年現在)。

1973年「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス。「じんじんさせて」山本リンダ
1975年「乳母車」菅原洋一
1985年「夏ざかりほの字組」Toshi & Naoko(田原俊彦・研ナオコ)
1986年「熱き心に」小林旭
1990年「花(ブーケ)束」八代亜紀
1994年「花のように鳥のように」桂銀淑
1996年「螢の提灯」坂本冬美

日本作詩大賞は8回受賞。日本レコード大賞作詩賞と同じく、最多記録となっている(2008年現在)。

1974年「さらば友よ」森進一
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
1981年「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行
1982年「契り」五木ひろし
1984年「北の螢」森進一
1988年「港の五番町」五木ひろし
2002年「傘ん中」五木ひろし

1977年6月20日付のオリコンシングルチャートで、阿久悠作詞の「勝手にしやがれ」(歌・沢田研二)が首位を獲得する。それ以降、12月5日付首位の「ウォンテッド」(歌・ピンク・レディー)まで、25週連続で阿久悠作品が首位を獲得。ほぼ半年にわたり首位を取り続けるという前人未到の記録を打ち立てた。

またこの年は他に、「北の宿から」(歌・都はるみ)、「青春時代」(歌・森田公一とトップギャラン)なども首位を獲得。阿久悠作品は年間39週(約9か月)首位を獲得した。

チャート独占

1977年12月5日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに16曲チャートインした。

1位 - ピンク・レディー「ウォンテッド (指名手配)」
4位 - 沢田研二「憎みきれないろくでなし」
9位 - 岩崎宏美「思秋期」
12位 - Char「気絶するほど悩ましい」
16位 - 石川さゆり「暖流」
19位 - 石川さゆり「津軽海峡・冬景色」
23位 - 森進一「東京物語」
26位 - 沢田研二「勝手にしやがれ」
33位 - 新井満「ワインカラーのときめき」
39位 - ピンク・レディー「渚のシンドバッド」
42位 - ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」
45位 - 西城秀樹「ボタンを外せ」
48位 - 石川さゆり「能登半島」
69位 - ギャル「薔薇とピストル」
70位 - 森田公一とトップギャラン「過ぎてしまえば」
95位 - 清水由貴子「ほたる坂」

で、アップしたのはピンクに染めてサングラスをかけるジュリー、今は定着してしまったビジュアル系の元祖は俺だとばかり親父パワーでパントマイムをこなし、口に飲み干した水を霧に吐き出し、汗をかく姿が印象的です。

つつつ

2011-02-06 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

福山雅治  「Peach!!」

本日は福山さんのお誕生日ということであっぷしました。

昨年は坂本龍馬になりきって活動してましたが、

龍馬の後は、ライブツアー「WE'RE BROS.TOUR 2011 THE LIVE BANG」という総動員数60万人の自身最多、男性ソロアーティストとしては2番目の動員のツアー(1番は73万人動員の小田和正;2011年ライブツアーにて)を行いますが、

スケジュールとして


2/24、26、27 大阪城ホール[SOLD OUT]

3/5、6 和歌山ビッグホエール[SOLD OUT]

3/10、12、13 広島グリーンアリーナ[SOLD OUT]

3/17、18、20、21 さいたまスーパーアリーナ

☆チケットは2/19より キョードー横浜045-671-9911


3/30、31、4/2、3 北海道立総合体育センター北海きたえーる[SOLD OUT]

4/9、10 宮城セキスイハイムスーパーアリーナ

☆チケットは2/19よりGIP022-222-9999 16:00 17:00


4/16、17 三重県営サンアリーナ

☆チケットは2/19よりサンデーフォークプロモーション052-320-9100


4/20、21、23、24 名古屋日本ガイシホール

☆チケットは2/19よりサンデーフォークプロモーション052-320-9100


4/30、5/1、3、4 マリンメッセ福岡[SOLD OUT]

5/14、15 朱鷺メッセ新潟コンベンションセンター

☆チケットは4/23より FOB新潟025-229-5000


5/21、22 長野エムウェーブ

☆チケットは4/23よりFOB新潟025-229-5000


5/25、26、28、29 横浜アリーナ

☆チケットは4/23より キョードー横浜045-671-9911


6/4、5 鹿児島アリーナ

☆チケットは5/21よりBEA092-712-4221


6/11、12 静岡エコパアリーナ

☆チケットは4/24サンデーフォークプロモーション静岡054-284-9999


6/18、19 青森県営スケート場

☆チケットは5/21より GIP022-222-9999


6/25、26 アスティとくしま

☆チケットは4/23より デューク高松087-822-2520


7/2、3 愛媛県武道館

☆チケットは4/23より デューク松山089-947-3535


7/27、28、30、31 大阪城ホール

☆チケットはキョードーインフォメーション(発売詳細)06-7732-8888


8/3、4、6、7 国立代々木競技場第一体育館

☆チケットはキョードー横浜(発売詳細)045-671-9911

8/27、28 沖縄西原マリンパーク(野外)

☆チケットはPM AGENCY(発売詳細)098-898-1331


※一般発売日は会場によって異なりますのでご注意ください。
料金:全席指定 ¥8,400(税込)


で、そんな倉科カナと同じ潜在能力で変態な福山さんですが、最近情報では「ドラえもん」に声優として登場するとのこと。

きっかけは昨年9月放送のアニメに登場していた福山雅秋役を自ら演じる。

自身をイメージした“雅秋”の存在を知った福山は「自分でアフレコをしたい」と熱望し、2月11日放送の『ドラえもん3時間SP』(テレビ朝日系)、3月5日公開の『映画ドラえもん新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ 天使たち~』で福山雅秋のカメオ出演が決定した。収録を終えた福山は「相当入念に役作りをしてきたんですけど、出番が短くてちょっと残念とのこと。


この曲は、1998年13枚目のシングルでリリース、Peach(桃)”とは、桃の形に似た女性のお尻からイメージして制作したものであるからだという。「Peach!!」「HEAVEN」「Gang★」から成る“依存症3部作”第1弾。現在“依存症3部作”はライブには欠かせないものとなっており、2009年の全国ツアーではこの曲にちなんだストラップが発売された。オリジナルアルバム未収録。カップリングは「Heart of Xmas」という曲で、TOKYO FMで放送している「SUZUKIトーキングFM」の企画でキーステーションとしているJFN系列38局を代表するアナウンサー38人がバックコーラスとして参加している。

2011年42歳になった福山さん、AKB48らと肩を並べ頑張っていますが、AKB48のひとり渡辺麻友(1994.3.26~)が生まれた頃のオリコンシングルチャート1位は彼の「It's only love」で、レス・ポール抱え歌う姿は17年前も今も色あせることなく世を貫き通している方だと思います!


今はどうですか・・・キレてないっすよ!!

2011-02-05 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは、

平沢進「長州力のテーマ:パワー・ホール」

本日はプロレスラー長州力のものまねをしている芸人長州小力のおたんじょうびということであっぷしました。


この曲を作った平沢さんですが、ミュージシャン、音楽プロデューサー。1979年にテクノポップバンド、P-MODELのメンバーとしてメジャーデビュー。バンドは幾度もの紆余曲折を経て「培養」に入り、現在はソロをメインとして、多彩な活動を行っている。まさに、アミューズ所属のテクノポップユニットPerfumeなどプロデュースしている中田ヤスタカのずっとずっと先を走っているテクノ職人としては大先輩な存在だろう。愛称は「師匠」。

彼の経歴として、

1965年頃、ザ・ベンチャーズに触発されエレキギターを手に取り音楽活動を始める。

1973年頃、「マンドレイク」結成。プログレッシブ・ロックに傾倒していくが、1978年頃解散。解散前には既にP-MODELへの模索が始まっており、マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共に「配線上のアリア」を製作。当時、ペプシコーラの倉庫や青果市場で荷物運びのアルバイトをしていた。

1978年頃から1983年頃までヤマハのシンセサイザー教室の講師としても働いていたことがある。この頃、週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストにおいて、平沢の作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞する。これは入賞作品を収録したアルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた。

1979年結成のP-MODELリーダー兼ボーカリストとしてメジャーデビュー。その活動と平行して、ペンネームでの楽曲制作を行う。

プロレスラー、長州力の入場テーマ曲であるオリジナル曲「パワー・ホール」を「異母犯抄」というペンネームで作曲した。 また、1986年に同じくプロレスラーのカルガリーハリケーンズのテーマ曲として「ハリケーンズ・バム」をペンネーム「福来良夫」名義で提供。 これらの曲はプロレス・テーマ曲のコンピレーションCDで聴くことができる。

1984年実験的サンプリングユニット「旬」を結成。

1988年12月、P-MODELが「凍結」と呼ぶ所の休止を宣言。

1989年9月、アルバム『時空の水』リリースにてソロデビュー。

1990年代からはソロ活動に平行して、ヤプーズ、島崎和歌子、宮村優子らに楽曲提供し、アニメ作品の音楽製作にも進出。『DETONATORオーガン』、『剣風伝奇ベルセルク』、2000年代には『妄想代理人』や映画『千年女優』、『パプリカ』の音楽を手掛ける。

1991年、P-MODELを「解凍」(活動再開)。1993年、P-MODELが「待機」として再度一時的な休止を宣言。

1994年、7月8日より翌年の1995年3月31日まで『平沢進のテクノ実験工房』がFM群馬にて放送される。同じくパーソナリティーを務めたのは、上野洋子(元ZABADAK)だった。この番組の内容は後にカセットテープで平沢の当時のファンクラブ(HIRASAWA BYPASS)より限定発売された。

またこの頃よりタイのサオプラペーッソン(saopraphetson:第二の女性/平沢の著書やHPでSP2とも表記されることがある)に深い関心を示し、繰り返し現地を訪れ、レコーディング時にコーラスとして協力を仰いだり、ライブアクトとして招聘などをしたことがある。これらの事から東南アジア方面の楽器や音楽の影響を大きく受け、作風にも大きな変化が表れている。その後2004年に平沢と親交が深かった9人のサオプラペーッソンを追悼するアルバム『SWITCHED-ON LOTUS』が製作される。サオプラペーッソンの存在そのものが、創作意欲に大きな影響を及ぼしていると本人は語っており、彼女たちに対して大きな尊敬を以て接していることがその言動から見て取れる。

P-MODELの「改訂」を終え活動再開。

1995年、平沢進個人HP「Ghost Web」開設。

1996年11月15日の東京・新宿リキッドルームにおいて、オールナイト・イヴェント“Unfix ♯3 コミュノ・ハイブリディア”が開催された。平沢を含むP-MODELのメンバー4人がそれぞれソロステージを行うというものだったが、平沢は欠席。理由は「風邪のため」と発表されたが、数日後平沢自身がGHOST WEB上において「私は風邪ごときで休むような人間ではない。休んだ本当の理由は言えないが」という発言がなされた。 翌1997年、平沢はそれまで所属していたアイスリープロモーションを離脱し、自ら新事務所ケイオス・ユニオンを設立した。それに伴い上領亘はP-MODELを脱退した。

1999年、プログレッシブ・ロック・バンド、Cluster(クラスター)のメンバーであるRoedelius(レデリウス)および小西健司(4-D・P-MODEL)と、ネット上でのやり取りだけでコラボレーションを行い、「Global Trotters」としてアルバム『Drive』をリリースする。自らが手がける楽曲では独特の裏声を駆使した歌唱法で歌い上げ、歌詞でも「君」を「キミ」と表記するなど特徴的なこだわりが見られる。

2000年、P-MODELが「培養」と呼ばれる所の活動休止を宣言。

2001年7月、「Hirasawa Energy Works」と名付けられたプロジェクトがスタート。これは必要な電気エネルギーの全てを太陽発電に委ねて音楽製作を試みるプロジェクトであった。この際にアルバム『SOLAR RAY』が製作される。その後太陽発電及び、このプロジェクトに賛同するファンの協力による自然からの蓄電(エナジーハンティング)のみを利用したライブ「SOLAR LIVE」を敢行する。

2003年、イラク戦争に際して、これに対する抗議の意思を表すべく「殺戮への抗議配信」と題し、自らの楽曲「高貴な城」「Love Song[2003年バージョン]」の無料配信を行った。これは2010年4月現在でも公式サイト内から無料でダウンロードが可能である。

2003年3月、ペンネーム「坂田四郎」名義としてゆいこのシングル「陸の人よ」(アサヒビール『穣三昧』CMソング)の制作を手掛けている(CM使用部分は平沢が作曲、残りはゆいこ作曲)。

NHK『おかあさんといっしょ』の2003年10月の歌「地球ネコ」を作詞作曲(歌唱は今井ゆうぞうとはいだしょうこ)。幼児向けの番組に提供された楽曲ではあるが、歌詞を多少シンプルにしているだけで平沢の楽曲スタイルは一貫して崩されていない。2006年12月に同番組内で再放送されている。

2008年6月、イタリアのデス・メタル系ヴォーカリストRiccardo Brett (InhVmaN)との共作でマキシ・シングル「Tetragrammaton (テトラグラマトン)」をリリース。

2009年2月、自身の11枚目のオリジナルソロアルバムとなる『点呼する惑星』をリリース。

そんな新山千春と同じ潜在能力の平沢さんのTwitter(twitter.com/hirasawa)の一番新しいつぶやきは、「ちなみにUターン通勤にリカンベントとアップライトを使うのは、使う筋肉がじゃっかん違うからなのであるのと、毎日ジロジロ見られるのも辛いからである。」です。

あまりTVで見かけないようですが、彼は所属団体(西口プロレス)の興行をこなしているようです。

一番新しい情報では(アメバブログ長州小力より)

西口プロレス創立10周年記念興行
2月19日(土) 17:30開場18:30試合開始(いつもより1時間早いです!)
会場:新宿FACE
前売:指定席2500円 自由席2000円(別途ドリンク代500円かかります)

(当日は+500円)



西口プロレス創立10周年記念パーティー
2月19日(土)21:30~23:30
会場:アントニオ猪木酒場新宿店
会費:3500円(お食事・飲み放題付)
※指定席(テーブル番号が指定となります)
お問い合わせ:西口プロレス事務局03-6416-0218



そんな宮村優子と同じ潜在能力の小力さんですが、彼は芸能界屈指のビリヤードが得意で有名です。


赤ん坊のように甘く指をなめる最後のエイプリルフールショー、「だいすき!」

2011-02-04 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

シュガーベイブ 「SHOW」

本日はバンドに在籍していた山下達郎さんのおたんじょうびということでアップしました。

その山下さんの音楽の原点はバンド「シュガーベイブ」で、

1973年、山下達郎を中心に結成された。

当時はまだ珍しかった、メジャー7thや分数コードなどのコード・プログレッションを多用するほか、コーラス・ワークに重点を置いた音作りで際立った存在として一部の音楽ファンから支持を得たものの、1970年代初頭のサブカルチャーのロック・シーンで同じようなスタイルのグループが他にいなかったため、的外れな評論やいわれなき中傷も数多く受けた。

バンドの構造的宿命もあって1976年に解散したが、中心メンバーの山下や大貫妙子らのその後の活動によって、その名はさらに存在感を増している。

山下さんはバンド解散後は、ソロとなり、時代の先端に立ち、当時の歌謡曲の路線に反し、量より質でレコーディングをロサンゼルスで行い、お金をドブに捨てる行為と非難されたアルバムを発表、非難に屈することなく、1980年代になって、シングル「Ride On Time」の大ヒットで多くの若者のハートを掴み、非難されていたアルバムも高い評価を得て、2011年色あせることなく、山下さんは年をとっても、ソロデビューして35年で積み上げた「山下スタイル」は衰えることなく廻り続けている。

この曲が入ったアルバム「SONGS」は1975年にリリースしたが、そのような中傷を受けていたため話題すらなかったが、当時このアルバムを売り込んだ営業マンが1990年代に入って、「モーニング娘。」を売り込み人気グループに押し上げたり、時は経つもので、1994年にCD化され、当時流行っていた渋谷系サウンドの元祖的存在として話題となり、リリースされてのオリコンアルバムチャートで3位を記録し、いつか彼らの音楽が高い評価を受ける結果となり、「努力は実る」質の高いアルバムである。

この曲は1990年代の深夜バラエティ番組「DAISUKI!」のテーマ曲としてなじみ深い人いるのでは・・・

アップしたのは1976年4月1日に行った荻窪ロフトでのバンド解散ライブから。解散ライブとは思えない質の高い演奏が印象的です。


南南東へ恵方巻き喰ったか~強いぞぉ~

2011-02-03 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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オリエンタル・マグニチュード・イエロー(O.M.Y.)「おにのパンツ」

今日は「節分」ということでアップしました。

オリエンタル・マグネチック・イエロー(Oriental Magnetic Yellow / OMY)は、ゲームサウンドクリエイター達で結成された、テクノと呼ばれる音楽を演奏する日本の音楽グループである。メンバーは細野江晴臣(細江慎治)、佐野本龍一(佐野信義)、相原隆幸宏(相原隆行)、佐々武秀樹(佐々木宏人)の4人。彼らの音楽はしばしば「YMOのパロディ、オマージュ」と呼ばれることもある。

当時ナムコに勤務していたメンバーが結成。1stアルバム(メジャーリリース時は2ndアルバム)である「SONIC SKATE SURVEYOR」はYMOをモチーフにしたオリジナル楽曲を収録していたが2ndアルバム(メジャーリリース時は1stアルバム)である「ORIENTAL MAGNETIC YELLOW」からはYMOのオリジナル楽曲のメロディやアレンジをパロディにした楽曲を収録している。

1996年にメジャーデビューし、すでに発売されていた自主レーベルからのアルバムが全国流通となった。また、ゲームサウンドクリエイターが参加したということで発売するごとに「マイコンBASICマガジン」のゲームミュージックコーナーでも紹介されていた。

2001年にアルバム「弱気なぼくら / NERVOUS」を発売して以降は主だった活動をしていない(「閑散」した)がメンバー自身がmixi内にコミュニティを作るなどしている。

この曲は、細野晴臣のソロアルバム『フィルハーモニー』収録の「フニクリ・フニクラ」を、演奏を完全コピー・メロディーもそのままで「おにのパンツ」と題し、日本で広く知られる替え歌が歌われている。O.M.Y. SOLO WORKSに収録。YMOメンバー(細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏)のソロ発表曲のパロディが中心。


「鬼」といえば、地上最強の生物でミスター・オーガ(鬼のこと)こと範馬勇次郎を思い浮かんだので、概要を。

彼は板垣恵介「グラップラー刃牙」、「バキ」、「範馬刃牙」のバキシリーズに登場する力だけでなく、頭脳もいい、息子刃牙、ジャック、中国拳法の天才烈海皇、素手コが一度は倒してみたい強すぎる漢であるが、

主人公範馬刃牙(母親が朱沢江珠)、ジャック・ハンマー(刃牙の兄で母親がカナダ人)の父親で、「地上最強の生物」「オーガ(鬼)」「巨凶」など数々の称号を持つ。巨大な北極熊を素手で屠り、軍隊の一つや二つを単身で壊滅する戦闘能力を持つ。

強者を屠り去ること、丹念に鍛え上げられた強さを蹂躙することを至上の喜びとしており、ほとんど趣味的に道場破りを行い、優秀なファイターを再起不能に追い込んでいる。何者をも超える絶対的な力を求める反面、力無き者の希望となる偉人を尊敬するなど様々な側面を見せている。

その戦闘能力は国家軍事力をも上回るとされており、その行動は24時間365日、米軍の偵察衛星によってビスケット・オリバ(刑務所を豪邸に過ごし自由自在に出入りが可能な囚人)、純・ゲバル(通称Mr.SECON。拳法を磨き、拳だけで一国を築き上げようとする発展途上の中南米指導者;モデルはチェ・ゲバラ)と共に監視されている。勇次郎が4km/h以上の速さで動くと衛星の緊急作動によって世界中のカーナビに送られてくる情報が70mずれるとまで言われている。詳細は「範馬刃牙」にて。

「地上最強」と銘打たれているものの、ストライダムによれば実際の彼は限りなく広大な宇宙が光の速さでさらに膨張を続けるように成長しており、未だそのピークに達してはいない。その強さは格闘家の間では「誰もがオーガに技をかけるのを夢見る」と言われるほど知られていたが、実際に勇次郎の戦う場面を見た事が無い観客には知名度は低かった(大擂台賽編での観客の台詞などから、なお息子の刃牙は大擂台賽編では初めから日本のチャンピオンとして知られていた)。

刃牙や天内悠などのように闘争に愛や絆を持ち込むことを「上等な料理にハチミツをブチ撒けるがごとき思想」と嫌っている(詳細は「グラップラー刃牙」にて)。郭海皇(海皇の中の海皇で齢140歳!!;詳細は「バキ」にて・・・)と友情が芽生えたのが唯一の例外。

合衆国ストライダム少佐が語るところによれば、勇次郎の圧倒的な強さの根源は彼が持つ強烈なエゴイズムにあるという。自分以上の強者の存在を断じて認めないという、傲岸不遜とさえいえる自己中心的思想の持ち主であり、また自身が地上最強の存在であるということに一切の疑念を持ち合わせていない。その意思の強固さは過去の指導者や英雄、宗教の教祖まで、歴史を動かしてきた人物にさえ匹敵するともストライダムは評している。幼年編で刃牙が勇次郎に挑もうとするとき発生した地震を、自らの拳で止めてみせたと信じる自分への強さの自負心も、このエゴイズムから生じるものである。ここは「絆」を主張する息子と大きく異なる。

一般人に対する殺人を最低2回(朱沢江珠とその婚約者)行ったことが明示されている。またこの他にも「今から内閣総理大臣をブッ殺しに行く」と電話で予告したうえ、それに応じ総理大臣官邸に配備された機動隊やSPの警備を丸腰で突破し総理大臣の職務室に悠然と上がり込んでいる。しかし地上最強の生物である彼を拘束できる権力は存在しないため、それら一切が無問責である。妻である朱沢江珠の弁によれば「人間一人が振るう暴力で国家が揺るぐ事実を公に出来るはずが無い」ため、彼に関しては至極当然の話であるとの事(「グラップラー刃牙」より)。

好物はめふん。

たとえ強すぎても溝がないほど鍛え続けている・・・


ときめきを運ぶよ放浪者

2011-02-02 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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EXILE「Choo Choo TRAIN」

今年、メジャーデビューをして10年を迎え、10年もの間に、アーティスチックに歌や踊りで多くのファンをつかむと同時に、子供からお年寄りまで存在のある国民的総合エンターテイメント集団となった。

メンバーは、

船木誠勝と同じ潜在能力のHIRO(リーダー兼芸能事務所LDH代表取締役社長)、

さかなクンと同じ潜在能力のMATSU、

劇団ひとりと同じ潜在能力のUSA、

名馬ディープ・インパクトと同じ潜在能力のMAKIDAI、

馬場園梓と同じ潜在能力のAKIRA、

はいだしょうこと同じ潜在能力のKENCHI、

水樹奈々と同じ潜在能力のKEIJI、

宇都宮まきと同じ潜在能力のTETSUYA、

東てる美と同じ潜在能力のNAOTO、

糸井重里と同じ潜在能力のNAOKI、

のパフォーマー、

坂本真綾と同じ潜在能力のATSUSHI、

初代タイガーマスクと同じ潜在能力のTAKAHIRO、

のメインボーカル、

中村啓子と同じ潜在能力のNESMITH、

藤山直美と同じ潜在能力のSHOKICHI、

のボーカルとパフォーマー

の14人で、ファンだけでなくアンチを巻き込み、好きな方も嫌いな方も純粋に楽しもうという彼らのメッセージで活躍中!

2011年は紅白歌合戦の白組の司会をするのではないかと予想している。


※彼らの音楽性として、

デビュー当初は、J Soul Brothers時代の路線を引き継ぐように、R&Bテイストのダンスナンバーを数多く取り入れていたが、プロデューサーのMax Matsuura(avex代表取締役)が離れた後は、ポップス路線に移行していく。

特に、「本気で1位を狙った」という2003年の「Together」のヒット以降この傾向は顕著となり、同作品の作曲を手がけた原一博による楽曲が量産されることとなった。この時期に、メンバー達の間でキャッチーなポップス曲のことを指す「エグキャッチー」という言葉が生まれている。音楽性の変化に合わせて、ボーカル2人(特にSHUN)による作詞の曲が占める割合が増していった。

ATSUSHIは、女性ファッション誌「vivi」のインタビューにて、「最初はR&Bっぽく歌おうと無理していた。けど、「Kiss you」あたりからいい意味で力が抜けてきて、無理にR&Bを抱えなくても、日本人として伝えなくちゃいけないことがたくさんあると気付いたんだ」と話している。 第二章開幕後は、「EXILE EVOLUTION」から始まり、ATSUSHIによる作詞が大幅に増えた。第一章最後のアルバム『ASIA』では3曲だったのに対し、第二章1stアルバムでは15曲中5曲、2thアルバム『EXILE LOVE』では12曲中半分を占めるようになった。

曲をレコーディングする際には、方向性をメンバー同士で打ち合わせをし、レコーディングスタジオにも全員が来る。レコーディングしている際に、ダンスの振り付けも考えるという。特にR&BやHIP HOP系の音をベースとした曲を作る際は、トラックメイカーにいくつかトラックを用意してもらい、メンバー内でしっくりと来るトラックを選ぶという。その上で歌詞を書いたり、ハモりを積んでいく。よほどのことがない限り、トラックから先に制作を始めるという。曲によっては、海外でレコーディングすることもある(主にGIANT SWING夫妻の拠点であるアトランタ)。なお、第二章以降ボーカルディレクション、TAKAHIROへの指導も主にATSUSHIによって行われている。パフォーマー達も歌うテーマに関しての意見は言うが、歌に関してはボーカル2人に全て委ねているという。

14人体勢になってからも基本はATSUSHIとTAKAHIROのツインヴォーカルだが、曲によってはNESMITHとSHOKICHIを加えた4人で歌うこともあり、コーラスとハモりの幅も広がった。


で、この曲は、

リーダーのHIROが在籍したダンスグループ「ZOO」が1991年暮れにリリースし、スキーキャンペーンCMソングとして話題を呼び、オリコンチャート最高2位を獲得し、このころのゲレンデでは大量BGMに流れるほど大ヒットしたナンバーを12年後の2003年に10枚目のシングルとしてリリースしたナンバーで、EXILEといえば、この曲のイントロで魅せる一列に並んだメンバーによる反時計回りによるウェーブを決定付けたナンバー。

バラエティ番組「めちゃイケ」の企画で、EXILEメンバーと「オカザイル」結成、パロディチックだが踊りがうまい番組の顔のひとりナインティナインの岡村隆史が一番好きな曲だという。

HIROは「この曲がこれからも歌い継がれていくことを願う」と話している。

バンダイナムコゲームス社の音楽ゲーム「太鼓の達人 ゴー! ゴー! 五代目」にも本曲が収録されている。

スクウェア・エニックスのRPG「ドラゴンクエストIX 星空の守り人」にも、イントロのダンスがある。

アップしたのは岡村さんとのユニット「オカザイル」のコピー踊りをしている画像で、2分45秒あたりで通りすがりのおじさんが一生懸命踊っている彼らを見ず素通りするところがあります。

「オカザイル」のことについては、よくわからないが、踊りを見て、しばらくうつとの闘いをしていた岡村さんの偉大さが伝わった気がします。

で、メンバーのひとりUSA氏(劇団ひとりも)おたんじょうびおめでとうございます!

揚げ豆腐食ってジャンプして始めよう!

2011-02-01 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

VAN HALEN「JUMP」

わしやま音楽祭vol.13、オープニングナンバーとしてこの曲を選びました。

2/1から3/31まで、ほぼ毎日夜10時私(やましたじゅんいち)が思いつきで曲紹介していきますのでよろしくです。

この曲は、1984年にリリースしたアルバム「1984」からのリードシングルで、彼らにとって初の全米1位を獲得し、世界的人気バンドを決定付け、1980年代を代表する洋楽ナンバーの一曲であり、1970年代に人気を博し、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなどに代表されるハードロックが1980年代に入りマイナーな状態で人気低迷になっていた時に、ハードロックで貫いていた彼らがこの曲のヒットで「ハードロック」を上向きにし、1970年代にハードロックで人気を確立しつつそのように低迷傾向にあったエアロスミス、KISSが活気を戻し、新生としてBON JOVI、モトリー・クルー、GUNS&ROSESなど登場し、またも1980年代の「ハードロック」ブームが起こることとなる・・・

ところで、VAN HALENはというと、

当時のメンバーは、

島本須美と同じ潜在能力のデイヴィッド・リー・ロス(Vo)、

所ジョージと同じ潜在能力のエドワード・ヴァン・ヘイレン(g)、

水沢アキと同じ潜在能力のマイケル・アンソニー(b)、

水樹奈々と同じ潜在能力のアレックス・ヴァン・ヘイレン(drs)で、

この曲のヒットで、

ボーカルのデイヴィッドが翌年にソロアルバムをリリースし大ヒットしたことで、フロントマンでギターヒーロー的存在のエドワードと対立し、デイヴィッドがバンド脱退し、バンド解散危機がささやかれる中、新たなボーカリストとして、サミー・ヘイガーが加入し、1980年代のハードロックブームの代表するバンドのひとつとなる・・・

その後は、レコーディングをめぐり、サミーが脱退したり、エドワードが酒の飲みすぎと過剰な喫煙で食道がんになりバンドの活動休止があったりもしたが、2007年にデイヴィッドがバンドに復帰、エドワードのがん克服で、今はバンド活動を再開しているが、現在はボーカル、ギター、ドラムスはそのままだが、ベースはエドワードの息子ヴォルフガングが担当していて、今のところは新作アルバム制作中とのことで、できてリリースなれば、デイヴィッドボーカルとしてはアルバム「1984」以来27年ぶりの新作となる。

で、マイケルは?というと2007年活動再開が決まった時、バンドから外されたとのことで、マイケルはバンドを脱退しソロで活躍しているサミー・ヘイガーのバックベーシストとして活動しているだろうとのこと。

で、ノリのいいこの曲は1996年バンドベスト盤リリースした時(サミーが脱退し、一時的であったがデイヴィッドが復帰)にTVバラエティ番組「これができたら100万円」のエンディングテーマ曲になったり、2009年木村拓哉主演のTVドラマ「MR.BRAIN」の主題歌になったりと支持の高い。

アップしたのはライブもいいが、やっぱりMTV全盛に流れたPVでしょう。

運動神経のいいデイヴィッドの動き、激アツなトラ柄のシャツを着て変人まがいなギタープレイ、シンセプレイを魅せるエドワードがたまらないもので、みんな顔が若い!ものである。